CROSS × FIRE

第11話 「金剛」

朝。

近くの川で水を汲むついでに顔を洗って戻ってみると、柳也と裏葉が出発の準備をする様子もなく、何やら熱心な様子で書物に目を通していた。

「何それ?」

尋ねる私に、柳也は書物から顔を上げた。

「ああ、社殿から持ち出してきた、翼人の伝承に関する書物だ。何か手がかりになるようなことが書かれていないかと思ってな」

「ふ〜ん…」

生返事をしながら、私は辺りを見回した。

「ところで神奈の姿が見えないようだけど」

「あいつなら、おれ達が書をひらいたとたんに跳んで逃げた。多分その辺で散歩でもしているだろう」

「は?」

わけがわからずぽかんと口を開ける私に、柳也は苦笑しながら説明した。

「あいつ、社殿にいる頃に、書のたぐいに関してはかなり裏葉にいじめられたらしくてな。長ったらしい書を見ると、その時のことが頭によみがえるらしい」

「ああ、なるほど」

納得して私は頷いた。

神奈お付の女官ということは、おそらく家庭教師のような役割もこなしていたのだろう。教わる相手が性格も性癖もねじくれまくって動脈硬化を起こしている変態セクハラ女官では、トラウマになるのも無理はない。

「あの子もかわいそうに…」

「まったくもって痛ましいことだ」

私と柳也が、少女の心に刻まれた癒えることのない傷に、深く同情の念を寄せていると、

「いじめてなどおりませんっ!」

裏葉が恨みがましい目つきでこちらを睨んでいた。

私はそちらに顔を向けて「ああ、」と頷くように声を漏らし、

「聞こえてたの」

「盗み聞きとは人が悪いな」柳也が続く。

「聞こえてあたりまえでございますっ!」

たまらず叫んで、裏葉は憤懣とやり切れなさが入り混じったような表情をうかべ、

「わたくしはただ、神奈様のお心が豊かになるようにと、それだけを念じてひたすらに心を砕いてまいりましたのに」

「で、心を砕いていたらあの子の心も砕けちゃった、と」

「う゛」

「おまえ、全部で四千五百首はあろうかという歌集を、一日百首ずつ覚えさせようとしたそうじゃないか。それでは書を読むが嫌いになっても仕方あるまい」

「う゛う゛っ…」

「あの子がこの先も字が読めないままだったら、あんたのせいよね〜」

「う゛う゛う゛う゛う゛〜〜〜っ! 柳也様も郁未様も意地悪でございますぅ〜〜〜っ!」

袖で顔を覆ってよよよと泣き崩れる裏葉。ただし涙は一滴もこぼれちゃいないだろうが。

泣き真似をする裏葉をしらっとした目つきで見やった後、柳也は私に向き直った。

「…まあ、あいつのことはともかくとして、お前はどうなんだ?」

「私?」

「ああ。おまえは色々と頭が回るから、あいつの母親の行方のことを一緒に考えてもらえれば心強いんだが」

「う〜ん、とりあえず見てみないことにはなんとも」

言いながら、柳也の手元の書物に目を落とす。

「………」

書物には黒々とした漢字がこれでもかといわんばかりにぎっしりと並んでいた。意味以前に字面を見ているだけで呪われそうだ。

漢文。しかも返り点も何もない凶悪なしろものだった。

「すいませんわかりませんごめんなさいゆるしてくださいばかなんです」

「そうか…」

句読点もないひらがなの羅列で謝る私に、柳也は残念そうに溜め息を吐いた。

と、泣き真似をしていた裏葉が、きらーんと目を光らせて顔を上げる。

「宜しければぜひわたくしがお教え…」

「心が砕けたくないから嫌です」

1ミリ秒の間も置かずに即答する。再び轟沈する裏葉。

「それよか、柳也は読めるんだ」

再び口で「しくしく」と言いながら泣き真似をする裏葉を無視して、私は柳也に尋ねた。

「上からの書状やら何やら、仕事に差し障りが出ない程度にはな」

さらっと言われるとなんとなく悔しかった。柳也のくせに生意気な。

「で、何か手掛かりは見つかりそうなの?」

「残念だがさっぱりだ」

柳也は首を左右に振った。

「意味ありげなことは書かれていても、具体的な手掛かりとなるとまるでわからん――裏葉、そちらはどうだ?」

「こちらも同じでございます」

溜め息まじりに答える裏葉の前には、柳也の手元にある分の、優に五倍はあろうかという量の書物が積まれていた。性格に難はあるものの、一応貴人である神奈の直属の女官に選ばれるだけあって、それなりに教養があるのだろう。と言うか、泣き真似のほうはどうしたんだ?

「無視されたまま泣き真似をしておりますと本当に泣きたくなりますので」

…勝手に人の心を読まないでほしいのだが。

「ねえ、それって一体どんなことが書いてあるの?」

考えてみれば、翼人に関しては神奈から聞いた程度のことしか知らなかったので、私は柳也に尋ねてみた。

「まあ、大筋はお前も知っている通りだ。『天よりの言葉を人の世に伝える不老不死の存在』 『天命をその翼に刻むもの』 『その翼に込められた力で飢餓や難病を救い、時には野を埋め尽くす戦人の群れを打ち払う』――」

「よくそれだけ美麗辞句が並べられたものね」

どれ一つとして神奈にはかすりもしない言葉ばかりだった。

「ああ。だが、そうではないことが書かれているものもある――」

言って、柳也は少し表情を暗くした。

「なんて書いてあるの?」

尋ねる私に、柳也は積み上げられた書物の中から一冊の冊子を拾い上げた。私は何の気なしにその表紙に目をやり、

「!!!」

『翼伐記』

渋いろをした表紙には、黒ぐろとした文字で、そう記されていた。

「『羽の者、禍を招く』――」

息を呑む私に、柳也は淡々とした口調で『翼伐記』の一節を読み上げた。

「『禍津日の神、天雲の向伏す極みまで果つ』――つまり翼人は災厄をもたらす荒神で、地上を消し去るという意味だ。幾人もの翼人を討伐し、封じ込めた時の様子がこの書には記されている」

「ちょっと待って! それってさっきまでの話とまるで逆じゃない!」

「ああ、そうだな」

「そうだな、って…」

私は絶句して、思わず裏葉のほうに視線を向けた。しかし裏葉は、何の表情も読み取れない目で、じっとこちらを見つめ返すだけだった。

「それに、おれは社殿を出奔する間際に、気になる話を聞いた」柳也が続けて言う。

「南の社に翼人の母子が幽閉されていたことをおれに教えた衛士は、ひどく怯えた様子でこうも言っていた――『翼人の母子の母親は、人心と交わり悪鬼と成り果てた』と。翼人を礼賛するきれいごとばかりの書よりも、この『翼伐記』に書かれていることに近い話だとは思わないか?」

「………」

口を開いたが最後、なにか取り返しのつかないことを口にしてしまいそうな気がしてわたしは黙り込んだ。

天よりの言葉を人の世に伝える不老不死の存在。

地上に災厄と滅びをもたらす禍つ神。

利益と禍、その両方をもたらすといわれる神は少なくないが、あまりにも両極端過ぎはしないだろうか。

この二面性は一体何を意味するのだろう。

それに、衛士の男が柳也に漏らしたとかいう言葉――『母親は、人心と交わり悪鬼と成り果てた』。

悪鬼。ただ猛り狂う心のままに凶暴な力を振るう、人の手には負えないもの。

その悪鬼に『成り果てる』ということは、以前はそうではなかったということだ。

安全に管理できる状態から、制御不能な危険な状態へ、神奈の母親は変貌を遂げたということだろうか。だがそれではまるで――


まるでロスト体ではないか!!


(そんなばかな…)

頭の芯が痺れたようになって何も考えられないまま、私はふらふらと立ち上がった。そのまま歩き出す。

「どうした、郁未?」

「郁未様?」

訝しそうに声をかける柳也達に、「…すこし頭を冷やしてくる」と背中越しに言い残して、私はその場を後にした。



少し歩いたところで、ふと見ると、神奈が道の傍に座り込んでお手玉に興じていた。

市で裏葉が買い与えたのだろうか、まだはじめたばかりらしく、中々うまくいかない。二つ目を投げるまではいいものの、落ちてきた一つ目を受け止めることに神経が行って、うまく三つ目を真上に投げることができないでいるようだ。

熱が入るあまり私がいることにも気付いていない様子で、三つ目を取りこぼすたびに、「なぜおまえは上手く舞わぬのだ」とお手玉に向って説教している。

「これでは母上にお逢いした時に手並みを披露できぬではないか!」

この子は私と同じだ――

一心にお手玉を操る神奈を見ながら私は思った。

かつての私と同じように、離れ離れになった母親を想う気持ちゆえに、過酷な旅路を歩まざるを得ないでいる。

私が柳也達を手助けする気になったのも、この世界では彼らを除けば寄る辺の無い身であるという理由ももちろんだが、それとは別に、心のどこかで神奈と自分を重ね合わせていたのだろう。

だが――と私はふと胸に暗い影が射すのを感じた。

もし、ことの結末までもが、私と同じだったら?

神奈の母親が、身も心も人ならぬ力に乗っ取られていたとしたら?

『母親は、人心と交わり悪鬼と成り果てた』

もしこの言葉通りの状態に神奈の母親が陥っていたとしたら、果たして神奈を引き合わせていいものだろうか。

そんな不吉な、鬱々とした想いに私が囚われていると、もう何度目になるのか、また神奈が三つ目のお手玉を取りこぼした。悪態を吐きながら拾おうとして、やっとこちらに気づく。

「い、いつからそこにおったのだ!」

神奈は慌ててお手玉を懐に仕舞い込んだ。

「ついさっきからだけど、別にやめちゃうことないじゃない。もっと続けなさいよ」

しかし神奈はぶんぶんと首を左右に振った。

「手習いをしているところなど人に見せるものではないであろう。見せるなら、もっと上手く舞うようになってからだ」

大道芸人を目指しているわけじゃないんだから別にいいだろうに、と思いながら、私は神奈の隣りに腰を下ろした。

「…なぜ余のとなりにすわるのだ?」

「別に…。嫌なら向こうに行くけど」

私が腰を浮かせかけると、

「別に嫌だとはもうしておらぬではないか。おりたければここにおればよかろう」

結局一緒にいて欲しいのか欲しくないのかどっちなんだろう、と思いつつ、私は再び腰を下ろした。

「………」神奈はそれ以上、何も言わなかった。

「………」私も特に話すこともないので黙り込む。

「………」

「………」

「…なぜ、黙ったままでおるのだ」

しばらく沈黙が続いた後、神奈が口を開いた。

「特に話すこともないからだけど」

「ならばなぜ、余の隣りにおるのだ?」

「話すことがないと、隣りにいちゃだめなの?」

「そうではないが…黙ったままでいられると、なにやら妙な心持になってくるではないか」

つまりは気まずいということなのか、神奈は少し顔を赤くしていた。

「だったらあんたが話しなさいよ。ちゃんと聞いててあげるから」

「余に何を話せというのだ?」

神奈が眉間に皺を寄せる。

「そうね…」私は少し考えてから口を開いた。

「たとえば小さい頃の話なんてのはどう?」

「と言われてもの」神奈は口をへの字に曲げた。

「物心がつく頃には、すでに年ごとに社から社へ移る暮らしであった。夏の盛りに乗りたくもない牛車に詰められて、それは辛い思いをしたぞ」

「歩くよりかはましでしょうに」

「牛車の中は地獄のように蒸し暑いのだ」

その時のことを思い出したのか、神奈はげんなりと顔を顰めた。

「簾を上げて風を入れることも、物見から顔をのぞかせることも許されぬ。そのままでは暑さのあまり身罷って(みまかって)しまいそうだったので、せめて衣を脱いで涼んでおったら、見つかって大騒ぎになった」

「そりゃ騒ぎにもなるでしょうに」

さすがに私は呆れて言った。仰々しく飾り立てられた牛車の中身がすっぽんぽんのロリでは、まるきりいかれぽんちなチャイルドポルノだ。あと、なんぼなんでも自分に対して「身罷って」はないだろ。

「で、随身の男がまた礼儀知らずのおおうつけでの」

私の反応を気にした様子もなく、神奈は話を続ける。

「言いつけに逆らうと、『おまえも金剛に封ずるぞ』などと余を脅しおった」

「金剛に封じるって?」

「聞きわけのない翼人は、そうするのが慣しだそうだ。余もまだ幼かったゆえ、どういうことかはわからなかったが、それはそれは怯えたものぞ」

「で、結局それってどういうことなの?」

「わからぬ。あるいはただの脅し文句であったのやもしれぬ」

「ふぅ〜ん…」

神奈の言うとおり、単に小さな子供に言うことを聞かせるための常套句――『いい子にしていないと怖い鬼が来る』 『早く帰らないと悪いおじさんに連れて行かれる』 そう言った類いの言葉と同じなのかもしれない。

しかし私は、『封じる』という言葉に引っかかるものを感じた。

確かさっき柳也は、『翼伐記』には翼人を征伐してそれを『封じ込めた』時の様子が書かれていると言わなかっただろうか。

随身の男の言葉が『翼伐記』を読んだ上でのものであり、『金剛に封ずる』というのが、『聞きわけのない翼人』――つまり手におえない状態になった翼人に対する措置であるとすれば、神奈の母親もまた『金剛に封じられる』という運命を辿ったのではないか。

では、『金剛』とは何か。

この時代の言葉はおおまかな意味はわかっても、細かい単語となるとさっぱりだったが、なんとなく聞き憶えのある言葉のように思えた。

どのみち私の教養なんかたかが知れているし、自分から進んでものを調べたことなんかろくになかったから、聞いたことがあるとすれば、せいぜい学校の授業の中くらいだろう。では一体何の授業だったか。

そう言えば――

私は、美術の時間に、仏像マニアの教師がとある仏像について熱弁をふるった時のことを思い出した。

門の左右に立って、悪鬼悪霊の類いが中に入らないように番をする、やたらマッチョな一対の仏像。

その美術教師はその仏像とダビデ像を例にあげて、「西洋美術と東洋美術における写実的な肉体の表現の違い」とやらについてほぼ時間いっぱいを熱く語り通し、私達生徒を大いにうんざりさせた。

なのでよく憶えている。

『金剛力士像』

そう、確かあれはそういう名前だったはずだ。

そしてそいつは足元に、惨めに体を丸めた小さな『悪鬼』を踏み敷いてはいなかったか。

だがまさか、木を彫っただけの仏像が実際に動いて、何かを踏みつけるなどということはありえないだろう。それに、それでは『封じる』とは表現しないはずだ。

だったらもしかして、『金剛に封じる』というのは…

「………」

「郁未?」

怪訝そうに私を見る神奈に構わず、私は無言のまま立ち上がると、柳也達のところに戻った。



「いくらなんでもそれはないんじゃないか」

私の話を聞き終えるなり、開口一番、柳也はそう言った。

「仮にも貴重な翼人だぞ。仏像の中などに封じ込めて死なせてしまってはもとも子もないではないか」

「けど、そういうこともありえるんじゃないの?」

私の考えはこうだった。

悪鬼と呼ばれるまでに手におえない状態になり、もはや自分達にとって災厄をもたらすだけの存在に成り果てた翼人は、始末するよりほかに手がない。

だが、下手に殺してしまっては、後に大きな祟りがあるかもしれない。何しろ相手は、『天よりの言葉を伝える』とまで謳われる存在なのだ。

だから、その魂も人ならぬ力も肉体ごとまとめて仏像の中に封じ込め、後に禍根を残さないよう法力で封印してしまう――『金剛に封じる』とはそういう意味なのではないかと、私は考えたのだ。

だが、柳也は私の考えを真っ向から否定した。

「あのな…仏の像の中に人を封じるなど、人柱でもあるまいに、一体どこの邪宗の話だ? そんな罰当たりな呪法を操る坊主の話など、生まれてこのかた聞いたこともないぞ。

それに、それではあいつの母親は既に死んでしまっていることになるではないか。おまえ、そんなにあいつの母親を死なせたいのか?」

「そうじゃないけど…」

思わず口ごもる私に、さらに続けて柳也が言う。

「第一、翼人の母子が幽閉されていたというのは、南の『社』だぞ。なんで神を奉る社に、仏像があるんだ?」

「あ」

そう言えばそうだった。

お盆のお墓参りはお寺、初詣と合格祈願は神社、ついでに十二月にはクリスマスという、曖昧――もしくは無節操――この上ない宗教観の社会に生まれ育った私にとっては、神道も仏教も、まあ和風の宗教っぽいものという感じでごちゃ混ぜになってしまっていたのだ。

だがそんな私でも、神社に仏像があったり、お寺に鳥居が立っていたりするのがおかしな話だということくらいはさすがに理解できる。

「考えすぎて暑気に当てられたのかも知れんが、頼むからしっかりしてくれ」

柳也に言われて、私はうな垂れるしかなかった。

が…

「郁未様のお話は、案外、正鵠を射ているのかもしれません」

ずっと黙って話を聞いていた裏葉が、不意に口を開いて言った。

「裏葉…おまえまで、あいつの母親が仏像に封じられているなどとたわごとを言うつもりか?」

うんざりと言う柳也に、しかし裏葉は答えず、私に向かって尋ねる。

「郁未様。神奈様は確かに『金剛に封じる』と仰られたのですね?」

「そうだけど…」

私が頷くと、裏葉はにっこりと、勝手に名探偵の孫を名乗るパチモノ少年探偵みたいな会心の笑みを浮かべて言った。

「これで、謎が全て解けました」

「どういうこと?」 「どういうことだ?」

わけがわからず二人して尋ねる私と柳也に、

「仏――つまり寺でございます」

「寺?」

ますますもってわけがわからない。

「裏葉…もう少しおれにもわかるように説明してくれないか」

「おわかりになりませんか?」

「わからぬから訊いている。もったいぶらずに早く言え」

「これはわたくしといたしましたことがまことに申し訳ございません」

すまなそうな様子の欠片もなく言う。柳也の言うとおり、わざともったいぶって、遠まわしに謎をかけるような物言いをしているのだろう。まあ毎度のことではあるが。

裏葉は一旦居住まいを正すと、おもむろに口を開いた。

「神奈様の母君が封じられておりますのは、おそらく社ではなく、寺でございましょう」

「だから…」げんなりと、疲れきったように柳也。

「『翼人の母子が南の社に囚われていた』――そう聞いたと、さっきから言っているではないか」

しかし、裏葉は動じる様子もなく、柳也に向って静かな口調で言った。

「柳也様、もしあなた様が奥方様にかくれて他のおなごのもとに通うとしたら――」

「おれは独り身だぞ」

「もし仮に、でございます」

「もう少しましな喩えはないのか」

「一番わかりやすい喩えにございますれば」

嫌な顔をする柳也に、裏葉は平然と――むしろ楽しげに話を続ける。たぶん嫌がらせも兼ねているのだろう。

「お出かけになる前に、柳也様は奥方様に、今からよそのおなごのもとに行く、と正直に仰いますでしょうか?」

「…まあ、知り合いの家で酒を飲むとでも言い繕うだろうな」

しぶしぶ答える柳也の言葉に、裏葉はわざとらしく目を丸くして、

「なんと、柳也様はそのような不実なことをなさるお方だったのですか!?」

「おまえが言えと言ったんだろうがぁぁぁぁっ!」

お約束で、高槻ばりのシャウトを決めた後、柳也はぜいぜいと肩で息を吐いた。

裏葉はそれをいかにも嬉しそうに見やりつつ、

「――まあ、柳也様の二心(ふたごころ)はさておきまして」

「さておくなら最初から言わせるなっ!」

「こたびのことは、柳也様が奥方様に仰ったことと同じにございます」

「だから何が同じなのだ」

「言霊を用いての、方違え(かたたがえ)にございます――おなごの家は知り合いの家へ。田は畑へ。川は海へ――」

そこで一旦言葉を切ると、裏葉は真っ直ぐに柳也を見つめて言った。

「――そして、寺は社へ」

裏葉の言葉に、柳也は「あっ」と声を上げた。絶句する柳也に、続けて裏葉が言う。

「行方を偽るには最もたやすい術かと」

「ちょっと待って」

そこで私は口を挿んだ。

「もし何かを社と言い換えてるんだとして、それがどうして寺っていうことになるの? 神と仏で繋がりはあるかもしれないけど、そんなの何の確証も無いじゃない」

「いえ、おそらく寺で間違いないでしょう」

しかしきっぱりと裏葉は言った。

「どうしてよ?」

「『金剛』ゆえにございます」

「金剛――寺――そうか!」

「その通りでございます」

柳也が興奮した声を上げ、裏葉は満足そうに頷いた。

私はといえば、何がなんだかさっぱりわからない上に、ハブにされてるみたいで大変気分が悪い。

「ねえ、どういうことかさっぱりわからないんだけど」

「金剛とは真言の霊峰――高野山、金剛峰寺のことにございます」

尋ねる私に、厳かに託宣を告げるように裏葉が言った。続けて柳也が言う。

「寺と言うより、見渡す限りの山々の連なりすべてが、一つの霊場になっているところだ。真言の、信仰そのものだといってもいい」

「…とんでもないところね」私は呟いた。

広大な山群そのものが、霊力の磁場のような状態を形成しているのなら、あるいはその力なら、『悪鬼』と呼ばれるほどに手におえない状態になった翼人を封じ込めることも可能かもしれない。逆に言うなら、翼人を封印できるだけの霊力を擁する場所といえば、自ずと限られてくるのだろう。

「行き先が、決まったな」

言って、柳也が立ち上がる。

「郁未、神奈を呼んで来てくれ」

「わかった」

頷いて、私は神奈のもとに向かった。

夜。

私はなんだか心がざわついて、中々寝付けずにいた。

神奈の母親の居所が掴めたことに興奮していたというのも、もちろんある。

だが、『母親は人心と交わって悪鬼と成り果てた』という言葉が、未だに私の心に暗い影を落としていた。

『人心と交わる』

この言葉は一体何を意味するのだろう。

もしかして、翼人とは本来、人が触れるべきではない存在だったのではないか。

私が知る、もう一つの人ならぬもの。FARGOが引き起こした一連の悲劇が、『悪魔』が人間に捕獲されたことから始まったように…

そしてふと、私は微かに気配のようなものを感じて寝返りを打った。

十センチと離れていないすぐ目の前で、裏葉の白い顔が、穏かに微笑みをうかべていた。

「…あまり、驚かれないのですね」

濡れたようないろをした裏葉の朱唇が、吐息のように言葉をつむぎだす。

「慣れたわよ、いい加減」

私の言葉に、裏葉は僅かに眉を曇らせた。

「それはそれで寂しゅうございます――郁未様がびっくりした顔をなさるのを、いつも楽しみにしておりますのに」

「…あんた、もうちょっとましな趣味を見つけた方がいいんじゃないの?」

「神奈様や、郁未様や、柳也様。みなさまがおどろかれたりお笑いになったりするお姿を、すぐ傍で拝見いたしますこと――これにまさる喜びがございましょうか」

「まあ、いいんだけどね…」

ほうっと私が溜め息を吐き、裏葉がまた微笑む。

空には月が明々と輝き、あたり一面を白く霞がかったような光が濃密に包んでいる。

そのただ中で、私と裏葉の二人きりだった。

「郁未様――」

さっきよりもさらに近くで、裏葉の声が言った。

「昼間は、ありがとうございました」

「何のこと?」

「郁未様のおかげで、神奈様の母君の行方を知ることができました」

「突き止めたのはあんたでしょうに」

「いいえ――」

ふっと笑う裏葉の吐息が、私の唇をくすぐる。…どうでもいいが近すぎはしないだろうか。

「仏像の中に封じ込めるなどと珍妙奇天烈なことを郁未様が仰っていなければ、わたくしも言霊を用いた方違えに気づくこともございませんでした」

「………………あっそ」

憮然とする私に、あくまでもにこにこと――超至近距離で――裏葉が続ける。

「神を奉る社に、こともあろうに仏像があって、しかもその中に翼人を封じてあるなどと、文目あるものには思いおよびもつかぬこと。まことに天晴れ。郁未様なればこそのお考えでございます」

「…ひょっとしてあんた」と、私は半眼で裏葉を見やって言った。

「今朝のこと、根に持ってるの?」

「もちろんでございます」

間髪入れず、やっぱりにっこりと裏葉は答えた。

「柳也様と郁未様、お二人によってたかっていじめられて、裏葉の心は大層傷つきました。それに今日は神奈様の母君の行方が知れためでたき日にもございます。ですので――」

裏葉の懐から、革の手枷やら荒縄やら猿轡(さるぐつわ)やら、それに何に使うつもりなのか、大小さまざまな刷毛や羽箒といった、いかがわしくもおぞましい品々がぞろりと引きずり出される。

「今宵は久方ぶりに、明烏(あけがらす)の声を聞くまで存分に可愛がってさしあげるといたしましょう」

目の前の裏葉の笑顔が、邪悪な――もしくは淫蕩なものに裏返った。



…まあ、気持ちよかったことは否定しない。社殿を出奔してからこっち、自分で慰めることもできず、ずいぶんご無沙汰だったからだ。

それにしても――と、繰り返し押し寄せる快感の波に翻弄されながら私はふと思った。

柳也はずっと女三人に囲まれて、こっち方面はどうやって処理しているのだろう?

ほとんど常に三人の内の誰かが傍にいるといっても過言ではないから、自分で処理することもできないだろう。

あるいはもしかして本当に益体なしになってしまっているのだろうか。

だとしたら、あの年齢で憐れというほか無い話だった。