CROSS × FIRE

第12話 「高野(1)」

何かがおかしい――

私達が日暮れを待って、高野の領域に入ってからおおよそ一刻(二時間)。

空を明々と照らす月と、ねっとりとした質量感さえ伴うような濃密な森の闇の中で、私は拭いがたい違和感にとらわれていた。

どれだけ歩いても、ただ緩やかな山道が、どこかで分岐するでもなく、時には上り、時には下りを繰り返すばかりで、一向にどこにも辿り着く気配がないのだ。

「退屈だの。先ほどから景色が全然変わらぬ。まるで同じところをぐるぐる回っているようだ」

神奈が素朴な――おそらく私たちの誰もが感じているであろう疑問を口にする。

「柳也…」

「ああ…どうも妙だな。見ろ」

声を潜めて囁く私に、柳也は山道にせり出すように根を張る松の巨木を指さした。

「四半刻ばかり前、あれと同じような木に、目印がわりに傷をつけておいたのだが――」

近寄ってみると、幹の表面に、つけられて間もない生なましい傷跡が走っていた。

「なるほどね…」

「迷った…ということでしょうか?」

裏葉が眉を顰める。

「迷わされた、というべきでしょうね」

答えながら、私は背負っていた葛篭を下ろすと、細引きの束を取り出した。

結び目を解いて、一方の端を、ナイフがわりに使っている直刃の小柄(こづか)の柄にしっかりと結わえつける。

「そんなものでどうしようというのだ?」

「こうするのよ」

私は先端に小柄を結わえた細引きを鎖鎌の分銅のように振り回すと、充分に勢いがついたところで山道の前方に向かって思い切り投げ放った。

暗闇の中を銀色の尾を曳いて小柄が飛翔した後、一拍の間を置いて、遠くでかつん、と刃が木に食い込む音がする。

私は細引きを、ぴんと張るまで手元に手繰り寄せて言った。

「見なさいよ」

「これは…!」

目の前の光景に、柳也と裏葉は絶句して目を瞠った。

立木に突き立った小柄から私の手元までを、一直線に結ぶはずの細引きが、目に見えない円柱をなぞるように空中で緩やかに弧を描いて左に曲がり、真っ直ぐに伸びた道を逸れて路傍の木立の中へと消えていた。

下に弛むのならともかく、きつく張りつめた紐が、風が吹いているわけでもないのに空中で左右に湾曲するなんて物理的にありえない話だ。

「ほう、相変わらず郁未は器用な真似をするの。あとで余にもやり方を教えてもらえぬか」

手品か何かとでも思っているのか、神奈がそんな呑気なことを言う。

だが、神奈の言葉はある意味、ことの本質を言い当てていた。

「これは一体どういうことだ!?」

目を瞬く柳也に、わたしはこともなげに言った。

「簡単よ――曲がってるのは紐じゃなくて、私たちの目の方だってこと」

きつく張った紐が、外部から何一つ物理的な力を加えられていないのに、空中で左右に曲がることはありえない――

ならば答えは一つ。曲がっているのは逆に、一見、真っ直ぐに見える道の方であり、つまりそう見えている私達の目がおかしいのだ。

具体的な方法までは判らないが、おそらく騙し絵や遊園地のマジックハウスと同じような原理で巧妙に視覚を欺き、曲がったものが真っ直ぐに、真っ直ぐなものが曲がっているかのように見える錯覚を与えているのだろう。視覚や方向感覚がそんな状態のまま夜の山道を歩けば、堂々巡りに陥っても不思議ではない。

空間の歪み、ということもありえなくもなかったが、現実問題として、人為的に空間の歪みを作り出すのと、人間の感覚を狂わせるのと、どちらが簡単かは考えるまでもないだろう。

「つまりおれ達は高野の坊主どもに化かされたということか」

私の説明に、顔を顰めて柳也が言った。

「ここまでくると、もはや狐狸妖怪のたぐいと変わらんな」

「裏葉の同族のような連中が大勢おるのか!? なんとおそろしいところだ!」

今さらながらに恐怖の色を浮かべて言わんでいいことを言う神奈の背後から、恐ろしいまでに穏やかな笑みを顔に貼り付けた裏葉が、音もなくつ―っと忍び寄る。

「か・ん・な・さ・ま――」

「ひゃぐぅっ!?」

裏葉は神奈の口の両端に小指を入れて左右にむにょ〜んと引っぱった。

「人のことを狐狸妖怪の眷属などと、妄言をのたもうのはこの口でございますか?」

「ひゃっ、ひゃめんひゃふりゃひゃ!」

「や、やめんか裏葉」

何を言っているのかよくわからないので、とりあえず同時通訳する私。

「あまつさえ尾が九本生えているだの、夜更けに灯明の油を舐めるだの、月のい夜に野山を跳ね廻るだのと謂れもなき戯言をのたもうのはこの口でございますか?」

「ひょにょようひゃひょほひゃひょうしひぇひょらん!」

「そのようなことは申しておらん」

「そのように人を悪し様に言うより能のない口ならば、ええい、いっそ縫い付けてしまいましょうか」

「いっ、いひゅひ〜、ひゃひゅひぇひぇひゃほひぇ〜!」

「い、郁未、助けてたもれ…って、裏葉、いい加減にしなさいよ。伸びて戻らなくなるわよ。つか、それ一応あんたのご主人様なんだけど」

自分への呼びかけまで通訳するのもさすがに馬鹿ばかしくなったので、私は何かにとり憑かれたように神奈の口を広げ続ける裏葉を制止した。

「はっ、わたくしといたしましたことが!」

裏葉は我に返ると、神奈の口から小指を抜いてずざざと後退った。

「申し訳ございません。あまりに面白いのでつい」

「ひょほひひょひゅひゃひょひゃいわ!」

面白くなどないわ、と言っているのだろう。まだ言葉が元に戻らないようだ。

両手でうにゅうにゅと口の端を揉む神奈を見やって、やれやれ、と思いつつ、私は柳也に言った。

「にしてもしょっぱなからこれとはね。中々楽しませてくれるじゃない」

「さすがは真言の霊山と言うべきか。で、どうする?」

「とりあえずは『まっすぐ』行きましょ」

言って、私は細引きを引いて見せた。

「なるほど、目があてにならぬなら、そちらをあてにするしかないか」

そうして私達は前方に小柄を投げては、繋いだ細引きをたどっていくというやりかたで、深い森の中を進み始めた。

まあ、確実に真っ直ぐには進めるのだが、やたら手間がかかる上に、前に向かって歩いているはずなのに目に映る風景は斜めや横に流れていくという感覚のずれに、始終頭をかき回され通しでひどく気持ちが悪い。

「い、郁未、なにやら目が回るような心地がするぞ」

「あまり周りを見ないで、足元だけを見るようにして」

そう神奈に注意を促すものの、私自身にしたところで、よほど気をつけていなければ足元がおぼつかなくなりかねないありさまだった。

いっそ目を瞑ってしまえば狂った視覚に惑わされることもなくなるかもしれなかったが、鬱蒼とした木々と下草が深く生い茂る森の中では、三歩と行かないうちにつまずいて転ぶか木の幹に頭をぶつけるのが関の山だろう。

「くそ、こんなところを敵に見つかったらひとたまりもないぞ」

「これが話に聞く高野の霊山の結界というものなのでしょうか」

「裏葉、結界とはなんだ?」

おぼつかない足取りで細引きを伝い歩きながら神奈が尋ねる。

「悪鬼や怨霊を中に入れぬようにしたり、逆に外に出さぬよう閉じ込めたりするための仕切りでございます」

「なんでもかまわぬが仕切りを作るのなら板塀か石垣にしてもらいたいものだ。これでは身が持たぬ」

「どうせ用事が済んだらこんなとこ二度と――」

言いかけて私ははっと口を閉ざした。

「どうしたのだ郁未?」

「しっ! 静かに!」

問いかけようとする神奈を制して耳を澄ますと、森を隔てた向こうから、刀や甲冑がぶつかり合う音や、獣の雄叫びのような声が聞こえてくる。夜霞に混じって微かに、松明の燃える匂いと、そして血の臭いが漂ってくる。

「柳也――」

「ああ…戦(いくさ)だなこれは――」

「この高野で、でございますか!?」

柳也の言葉に裏葉が目を丸くする。

「どうやらおれたち以外にも、高野に喧嘩を売ろうなどという酔狂な連中がいたようだ」

「何処の馬鹿よ、よりにもよってこんな時に。っていうか、そいつらはこのド陰険な迷路仕掛けを突破したっていうの?」

「いや、おそらく正面の参道から仕掛けたんだろう。しかもかなりの大軍でな。なにしろここには一筋縄ではいかない――」

柳也が説明しかけたところで、唐突に木立の向こうから、羆かと思うような大柄な人影が三つ、ぬっと現れた。鼻先にふうっと、血腥い臭いが漂ってくる。

「神奈、裏葉、隠れろ!」

押し殺した声で柳也が短く命じ、二人は木立の繁みに身を潜めた。

「なんだ、貴様らはっ!」

荒々しい声で誰何(すいか)しながら、男達はのしのしとこちらに近づいてきた。

いわゆる僧兵というやつだろうか、いずれも優に六尺――百八十センチ以上はあろうかという肉の厚い巨躯に灰色の僧衣と白い頭巾を纏い、腰には黒鞘の太刀を佩びている。そして何より、男達が漂わせる暴力的な雰囲気がその体をさらに大きく見せていた。

今の今まで合戦の場に身を置いていたのか、先頭の男は抜き身の太刀を手に提げ、後ろの二人は薙刀を携えていたが、どの刃もねっとりとした血のりに塗れている。

先頭の男は血走ってぎらぎらした目で私を睨みつけると、顔中を口にして怒鳴った。

「女ぁっ! 高野は女人禁制ぞっ! どうやってもぐりこんだっ!」

「そんなに喚かないどくれよ――」

私は僧兵に向かって、にんまりとはすっぱな笑みを浮かべてみせた。

「あたしはただ、こっちの旦那を相手に酒手を稼がせてもらおうと思って、破れ寺でもないか探してたら迷い込んじまっただけなんだから――なに、すぐに済むからちょっとの間だけ目を瞑ってておくれよ。今生今宵一夜の契りに野暮な目くじら立てないのも、功徳ってもんじゃないのかい――」

この時代の遊女の言葉遣いなんて知らないからたぶん滅茶苦茶もいいところだったが、少なくとも相手を怒らせることだけは成功したようだった。

「たっ、高野の御山を何と心得るかぁっ、この不浄者がっ!!! そっ首叩き落してくれるわっ!!!」

激昂するあまりどす黒く見えるほど顔を紅潮させて、僧兵は太刀で斬りかかってきた。

小太刀の柄に手をかけて身がまえながら、私は柳也に素早くささやいた。

「私はこいつと右をやる。あんたは左を片付けて」

「心得た」

柳也が答えるのと同時に、私は斬りかかってくる相手の懐に飛び込みざま、小太刀を抜き打ちに、右の脇腹から左肩にかけて逆袈裟に斬りつけた。

「ぐがっ…!」

相手はそれでも私に向かって太刀を振り下ろそうとしたが、その目から蝋燭の炎が消えるように生気が失われたかと思うと、斜めに断ち斬られた上半身が、断面を滑るように地面に落下した。残った下半身が倒れるのを待たず、私はそのまま薙刀を持った僧兵の一人に向かって、木立を縫って疾走する。

「お、おのれっ!」

仲間が一瞬の内に、文字通り両断されるのを見た僧兵は、半ば恐慌状態に陥りながらも、手馴れた動きで薙刀を手元に引きつけるように低く構えた。

樹木が密生する木立の中ではその長さが仇となり、大きく振り回すことはできないため、まず相手の脛の辺りを狙って鋭く引っかけるように刃を繰り出すのが薙刀の定石だ。通常の太刀の構えでは足元は禦げないし、刀身を地面に突き立てて禦いだとしてもその後が隙だらけになる。跳び上がって避けても同じことだ。

これまで多くの敵を屠ってきたであろうその必殺の戦法は、しかし、私に対しては何の意味も持たなかった。

私は薙刀の間合いぎりぎりまで駆け寄ると、その勢いのまま木の幹を蹴って相手の頭上高く跳躍した。

薙刀を構え直すこともできないまま、僧兵が一瞬ぽかんとした表情でこちらを見上げる。

そして落下の速度を加えた斬撃が、相手の頭蓋を顎骨まで一気に断ち割っていた。

「お゛…あ゛…」

切断面の根元に露出した咽喉の孔から、声ともいえない声を漏らして、僧兵は絶命した。

血飛沫を撒いて倒れかかる体から跳び退きながら柳也の方に目をやると、折りしも柳也の放った一撃が、相手の体を薙刀の柄ごと袈裟懸けに斬り倒したところだった。

「さすがね」

「お前が言うか」

柳也が苦笑しかけた時――

『…く…くくく…やるな、おぬしら』

「誰だ!?」

どこからともなく木立に響く、くぐもったしわがれ声に、柳也は太刀を構え直した。油断なく辺りを見回す。

『ただのおなごづれのいなかざむらいかとおもうたら、ちにあらぶるこうやのむしゃほうしどもをこうもたやすうほうむるとはな――

とりわけそちらのおなごは、まことにひとか? あしゅらかおにのけんぞくではあるまいな。くくく…』

「さあね。出てきて確かめてみれば?」

『…おう、なんともおそろしいことよ…くくくくく…』

「り、柳也どの…」

隠れ続ける不安と恐怖に耐え切れなくなった神奈が繁みから顔を覗かせる。

「馬鹿っ、顔を出すな!」

『ぬっ…そのめのこは……そなたもしや――』

こちらを嗤うようだった声の調子が、急に緊張感をおびたものに変わった。

『もしやそなたやおびくにのもとにゆくつもりか――』

「八尾比丘尼だと?」

「そのような者は知らぬ! 余は母上に会いたいだけだ!」

――ばらしてどうするのよ、ばか!――

歯噛みしながら、私は必死で声の主の気配を探った。しかし、生い茂る木立と夜霞、それに完全に狂わされた方向感覚が邪魔をして、声がどこから聞こえてくるのかまるで掴めない。

『あわせまいぞ、あわせまいぞ、あなおそろしやおそろしや――』

突然、背後から襲い掛かる殺気に、私は反射的に地面に身を投げた。間一髪、私のいた空間を銀色の斬撃が切り裂いていく。

「くっ!」

下草の生えた地面を転がりながら振り向く私の視界の隅に、木立の陰から陰へ、幻のように動く人影が映った。

そちらに向かって駆け出そうとした瞬間、今度は真横から殺気を孕んだ何かが空気を切り裂いて飛来する。

のけぞるように逸らした顔の、文字通り目と鼻の先の木の幹に、ガガガッと音をたてて、鋭く尖った黒く太い鉄の針が続けざまに突き立った――棒手裏剣というやつか。

続いてまたさっきの斬撃が正反対の方向から襲い掛かってくるのを、再び身を伏せて躱す。そしてまた棒手裏剣。

敵の数はおそらく二人。この迷路仕掛けの森の中でどう動けばいいのかを熟知している。このまま戦うのはこちらに不利だ。

ならば――

私は念を凝らして『不可視の力』を発動しようとし、


――お前もう、あの力を使うのはよせ――


一瞬動きが止まる私に、斬撃が襲い掛かってきた。

「郁未っ!」

柳也が私の体を突き飛ばす。

その背中で、ざしゅっ、と刃が肉を斬り裂く音がした。

温かい滴が私の顔に降りかかり、柳也はその場にくずおれた。



「きさまらぁぁぁぁぁっ!!!」

一瞬の空白の後、私は思い切り咆哮していた。

どす黒い怒りに衝き動かされるままに、瘴気のように漂う殺気のただ中に向かって走り出す。

そして真正面にそびえ立つ天を衝く杉の大木を、私はそのまま頂上近くまで一気に駆け上った。

『なんと――』

敵の気配に一瞬の動揺が走る。

そのほんの僅かの揺らぎを、しかし私は決して見逃さなかった。

(そこか――!)

眼下に見下ろす森の木立、木々が螺旋を描くように奇怪にうねり絡み合う迷路仕掛けの中から、僧衣姿の人影が驚愕に目を瞠ってこちらを見上げていた。

そいつに向かってまっしぐらに、私は杉の木を駆け下りた。

僧衣の男が私に向けて棒手裏剣を放つが、攻撃がいつどこから来るか判りさえすればものの数ではなく、全て小太刀で弾き返す。

そして、杉の木の半ばあたりまで駆け下りたところで、私は幹を蹴り男に向かって跳躍した。駆け下りてきたスピードに落下のスピードを加えた、弾丸の疾さで斬りかかる。

男は私の斬撃を辛うじて後方に跳んで躱すと、そのまま再び迷路仕掛けの木立の中にその身を融け込ませようとする。

(――逃がすか!)

私は男が身を隠した木の幹に向かって、裂帛の気合を込めた斬撃を放った。

一拍の間をおいて、辺りの木々の枝をへし折りながら、地面を揺るがして木が横ざまに倒れる。

地面に残った切り株の向こう側に、右手の五指の間に棒手裏剣を挟んで構える男の姿があった。僧衣の腹の部分が、横真一文字に切り裂かれて僅かに血が滲んでいる。

『恐ろしい腕だが、浅かったな』

薄く嗤って男は私に棒手裏剣を放とうとし、だが突然、その顔が苦痛に歪んだ。

僧衣の腹を横切った傷が内側から盛り上がるように広がったかと思うと、腹圧から開放された腸が膨れながら体の外にはみ出してくる。

『ぐぬっ!』

零れ落ちようとする腸を掌で押さえながら、なおも棒手裏剣を放とうとする男を、私は真っ向から唐竹割りに斬り倒した。額から胸元までを深く縦に斬り裂かれ、男は絶命した。

まずは一人――

『おのればけものめが――』

呪詛に満ちた声と共に、木立の合間の暗闇から、またあの斬撃が私に襲い掛かってきた。

ある時は正面から、ある時は右手から、またある時は背後から、声が聞こえた方角とは関係なく、まるで複数の敵に取り囲まれているかのように、ありとあらゆる角度と方向から刃が襲い掛かってくる。

(これは――!?)

そして何度目かの攻撃を小太刀で叩き落した時、私は相手の武器の異様な形に目を瞠った。

地面に突き立った鉤爪のような形をした刃には、柄と呼べる部分が存在せず、かわりに根元近くに開けられた穴に、鋼線を編んだと思しき鈍く黒光りのする紐が繋がっていた。

紐がぐん、と引かれたかと思うと、刃は地面から抜けて木立の中へと飛び去っていった。

なるほど、一種の遠隔操作兵器とでも言うべきか、紐に繋いだ刃を離れた場所から巧みに操ることで、自在にあらゆる角度からの攻撃を可能としているのだろう。

ならば――

いちかばちか、私は敵の声が聞こえたと思しき方向に向かって真っ直ぐに駆け出した。

遠近感も平衡感覚も狂った迷路仕掛けの中で、疾走する私の視界は歪みながら回転し、時に地面が垂直にそそり立つ壁に、立ち並ぶ木立が大地となり、またある時は地面が空に、空中に張り出した木の枝が大地となる。

さらに四方八方から、紐で操られる斬撃が襲い掛かってくるが、私の走るスピードに追いつけず、刃は虚しく地面や木の幹を抉るだけだった。

そして私の目は、渦巻きながら視界に流れ込んでくる風景の彼方に、僧衣姿の男の姿を捉えていた。

男は木の幹に背中をあずけるようにして立ち、異様に長く見える腕の、右の上腕から掌にかけて黒い紐が幾重にも巻き付けられていて、そこから伸びる一条が虚空の闇へと消えている。

疾走してきた勢いのまま、私が男に斬りかかろうとした瞬間――

『死ね』

男の右手が閃いたかと思うと、私の頭上から、刃がギロチンのように垂直に襲い掛かってきた。

同時に男の左手が、帯に差した山刀の柄を逆手に握る。落下してくる刃を打ち払うにしろ躱すにしろ、そこに生じる一瞬の隙をついて抜き打ちに私を屠るつもりか。異様な腕の長さの分、間合いの深さはあちらが上だ。

そして――

がぎぃんっ!!

刃と刃がぶつかり合う音が木立に響いた。

山刀を鞘の半ばまで抜きかけたところで、男は凍りついたようにその動きを止めていた。

頭上から襲い掛かる刃を小太刀で打ち払いざま、私の投げ放った棒手裏剣が、男の喉ぶえに深ぶかと突き立っていた。先程の男が放ったものを一本拾って、手元に隠し持っていたのだ。

『か…はっ!』

「あんたのお仲間の落とし物だからね。あんたから返しておいてあげてちょうだい」

血の泡と一緒に声にならない声を、唇の間から漏らす男に向かって、私は嘲笑を浮かべて言った。

そして、こう付け加える。

「あの世でね」

言い終えるのと同時に、びゅん、と音をたてて小太刀が奔り、男の首が宙に飛んだ。

小太刀を鞘に収め、踵を返す。

歩き出す私の背後で、男の体がどさりと地面に倒れる音がした。