「柳也…」
呆然と立ちすくむ私の目の前で、地面にうつ伏せに寝かされた柳也が、土気色をした額に玉のような汗を浮かべていた。その背中の、右肩から左の脇腹にかけて無残な傷が走り、あふれ出る血で背中全体がぐっしょりと濡れている。
傷口に布を当てて必死の形相で押さえる裏葉の隣りでは、神奈が地面に座り込んだまま顔を青ざめさせていた。
「郁…未か」
気配を感じたのか、柳也がうす目を開けて私を見た。苦しげな息の下から言う。
「奴らは…」
「…屠したわ」
声が震えて嗚咽になってしまいそうになるのを堪えて、ようやく私はそう答えた。
「そうか…」
苦痛にあぶら汗を流しながら口の端に笑みをうかべると、柳也はそのまま気を失った。私の身を案じて今まで必死に意識を繋ぎとめていたのだろう。
「ごめん…ごめんなさい」
私はくずおれるようにその場に座り込んだ。俯けた顔から、ぽたぽたと地面に涙が零れ落ちる。
全ては私のせいだった。よりにもよって命のやり取りの最中に、私が変にためらったりしなければ、柳也が傷つくこともなかったのだ。
いっそあの時、あのまま『不可視の力』を使っていればよかった。
社殿を出奔した夜と同じように、敵を捻り潰して血まみれの肉塊に変えてしまえばよかった。
だが、私はそうしなかった。
『おまえもう、あの力を使うのはよせ』
あの日柳也はそう言った。誰のためでもない、他ならぬ私のために。その言葉の優しさに、ぎりぎりのところで私は縋りついてしまったのだ。
『おまえは、ただの十七の娘であればいい』
幾多の命をこの手にかけながら、そうあることを望んでしまった私の卑しさ。その結果が、目の前の柳也の無残に傷ついた姿だった。
「ごめんなさい…柳也…ごめんなさい」
赦されるようなことではないと判っていても、私はただ、そう繰り返すしかなかった。
「郁未――」
ふいに、神奈が固く張りつめた顔をこちらに向けて言った。
「柳也を…助けてはくれぬか…」
「え…」
一瞬言葉を失う私に、
「助けよと申しておるのだっ!!」
突然、神奈の言葉が炸裂した。さらに縋るように言いつのる。
「余と違い、おぬしは人ならぬものの術(すべ)がつかえるのであろ!? このような傷を癒すなどたやすいことであろ!? そうであろ!? そうであると申せっ!!」
「神奈様…」
裏葉が痛ましげな視線を神奈に向ける。
「頼む!! 余の、神奈備命の命であるっ!! 郁未っ、この者を助けよっ!!」
悲鳴のように叫んでから、神奈はぎゅっと俯き、
「余には…何の力もないのだ…」
と、地面を向いて絞り出すように言った。
神奈の悲痛な叫びに、しかし私は何一つ答えることができなかった。私には、何もできない。柳也の傷を癒すことも、ただ痛みを和らげることさえも。
そう、『不可視の力』は、破壊することしか知らない力なのだ。そんなものの、一体どこが『全ての望みが叶う万能の力』だというのだろう。
自分のあまりの無力さに、私はただ俯いて唇を噛んだ。
「――郁未様、柳也様を見ていていただけますか」
突然、裏葉がぞっとするような冷静な声で言った。
「何をするつもり?」
尋ねる私に、裏葉はこともなげに、
「武者の骸(むくろ)をさがしてまいります。戦(いくさ)をしに来たのであれば、血止めくらいは持ち歩いておりましょう」
その言葉の意味を反芻したあと、私の顔から血の気が引いた。
「だめよ! 危険すぎる! それなら私が行くわ!」
「郁未様に、どれが血止めかお判りになりますか?」
冷ややかにさえ聞こえる口調で裏葉が言う。夜目にも白く映るその顔には、既に非常の決意が漲っていた。
「けど…」
「どうかご案じ召されませぬよう。この裏葉、身を隠す術(すべ)には長けておりますゆえ」
「…………………わかった」
しばらく思案に暮れたあと、私は重く溜め息をついて言った。
「でもお願い、絶対無事で帰ってきて。あんたまで何かあったら私――」
「和泉の狐は母狐――」
立ち上がりながら、唱うように、裏葉は言った。
「いとしきわが仔の待つもとへ、なにゆえもどらぬことのございましょう」
遠くなっていく声と共に、裏葉の姿は闇の中に溶け込んでいった。
裏葉が闇に消えた後、私はただずっと柳也の傷口に当てた布を押さえ続けていた。
幸い脊髄までは傷ついていないようだったが、深手であることには変わりない。既に何枚もの布が、血を吸いすぎて使い物にならなくなっている。
必ず助ける――そう思いながらも、
もしこのまま血が止まらなかったら――
もし裏葉が帰ってこなかったら――
幾度となく胸に浮かんでくる、腰から下の感覚が冷たく失せてしまいそうな不安と、私は必死で戦い続けた。
「郁未――」
じっと黙って俯いていた神奈がぽつりと口を開いた。
「先ほどは取り乱してすまぬ…護られるよりほか、何もできぬわが身をさしおいて、おぬしのことを責めるなど、あやめの通らぬことであった」
「ううん…」
私は首を左右に振った。
「あんたは何も悪くない。何も間違ってない。私が――」
しかしそれ以上を、私は口にすることはできなかった。
そしてまたしばらくの間沈黙が続いた。
時おり、風に乗って微かに、木立の向こうから刃がぶつかり合う音や獣が雄叫びを上げるのに似た声が聞こえてくるだけだった。
今こうしている時も、裏葉はあの修羅場の中に身を置き、必死に薬を探しているのだろう。
そう思うと、このおだやかでさえある時間の中に自分が身を置いていることが、ただ後ろめたかった。
「もし――」
神奈がまた、ぽつりと言う。
「余が母上に逢いたいなどと、詮なきことを申しておらねば、このようなことにはならなかったのであろうか。帝なり籐氏なりの下に余が出向いておればあるいは――」
「―――っ! ばかなこと言わないで!」
息を飲んだあと、私は思わず大声を出していた。
「そんなことしたって私達みんな殺されていただけよ! それともあんたを置いて私達だけ逃げろっていうの!? 大事な友達を見捨てるような真似をしておいて、その後私達にどうやって生きてけっていうのよ!」
「だがもう余には耐えられぬのだ! 余のためにおぬしたちが傷つくところなど、もう見とうはない!」
「だからって!」
私は自分の口が耳まで裂けたように思った。
「今までみんなで旅してきたことが、全部間違いだったって言うの!? 何の意味もなかったっていうの!? そんなこと、あんたにだって言わせない!」
「だが…っ!」
神奈は何ごとかを言い返そうとして言葉を失い、そして俯くと背中を小さく震わせはじめた。
「帰りたい…あの日へ…みなで氷を口にして笑いあった日へ…」
「神奈…」
嗚咽する神奈に、私は何ひとつかける言葉を見つけることができなかった。
と…
「また笑えるさ。今度はおまえの母も一緒に」
「柳也っ!!!」
聞きなれた、少しぶっきらぼうな口調の声に、神奈はぱっと顔を上げた。大きく瞠った目が涙を湛えて、水晶玉のようにきらきら光っている。
「おまえ達が大声で怒鳴りあうから目が醒めてしまったではないか」
うつぶせになった顔の下から、少しくぐもって聞こえる声で柳也が言った。
「す、すまぬ」 「ごめんなさい」
二人して謝る私と神奈を横目で見て、柳也が僅かに笑いを含んだ口調で言う。
「二人とも、なんて顔をしている。若い娘を泣かせるなど、おれの柄ではない」
「な、泣いてなどおらぬ! 泣いているのは郁未だけではないかっ!」
神奈は慌てて衣の袖でごしごしと顔を拭った。言われて指先を触れてみると、確かに私の頬も涙に濡れている。
思いがけない自分の脆さに心のどこかで驚きながら、私は俯いて柳也に言った。
「柳也…ごめんなさい…」
「何をあやまる?」
問い返す柳也の言葉に、私はびくんと肩を震わせた。わかっているはずなのに。なぜあの時、私がためらいを覚えたかということまで。
だから私は、決意して顔を上げるともう一度言った。
「ごめんなさい。この傷は私が負うはずだったのに。あの時私が――」
「よせ。おまえのせいではない。おれがしくじっただけのことだ」
しかし私を遮って、こともなげに柳也は言った。
「それに元もとは戦から戦を渡り歩く流れ者の身だ。傷を負うのは初めてのことではない」
「けど…!」
「だからもう泣くな」
柳也の言葉に私は一瞬絶句し、そしてようやく小さな声で言った。
「…泣くわよ。十七の娘だもの」
柳也はかすれた声で笑って、「子がいてもおかしくない歳だぞ」と言った。そして、辺りに視線を巡らせてから私に尋ねる。
「ところで、裏葉はどこだ?」
「裏葉は…」
言いかけて私は思わず言葉を濁した。
薬を手に入れるために戦の場に出向いているなどと知れば、柳也のことだから起き上がって後を追いかねないだろう。一体どう答えたものか――
「わたくしがどうかいたしましたか?」
唐突に、背後から女の声が言った。
いつもなら心臓が止まりそうになっているところだが、今日はただ深い安堵を覚えただけだった。
「おかえり」
言って、振り返る。闇の中で、白い顔がにこにこと、いつもの謎めいた微笑をうかべていた。
母さん狐の帰還だった。