CROSS × FIRE

第15話 「高野(4)」

やわらかい光が、部屋中をふうわりと満たしていた。

カーテン越しに窓から射しこむ、朝の光。

『おはよう、いくみ』

誰かが私に言う。

聞いたことのある声。

優しい声。

そう、これはお母さんの声だ。

私は驚いて、まじまじとお母さんを見る。

だけど、お母さんは窓を背にしているせいで、逆光になってどんな顔をしているかよくわからない。

でも、この声は、ふんわりとあったかくていい匂いは、まちがいなくお母さんだった。

『どうしたの?』

お母さんが、私に尋ねる。

――うん、あのね、えっと…

私は一生懸命説明しようとするが、なんだか思っていることをうまく言葉にできない。

どうしたというんだろう。とても簡単なことのはずなのに。

もどかしく思いながら、そしてふと自分の手を見ると、もみじみたいに小さな手だった。

ああ、そうか…

私はようやく理解する。

『さあ、おっきしようか』

――うん…でもね

『どうしたの?』

――きっとこれは夢なの

『どうして?』

――だっておかあさんはもう…


死んでるんだから。


突然、部屋いっぱいに、赤ぐろい色をした光が射した。

おかげで、お母さんの顔がはっきりと見えるようになる。

頭が柘榴(ざくろ)みたいに割れて、脳漿のはみ出した顔が。



「――――っ!!!」

声にならない悲鳴を上げて私は跳ね起きた。荒い息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭いながら辺りを見回す。

夕闇の気配に包まれようとしている木立の中だった。沈む日を惜しむように、蜩(ひぐらし)が鳴いている。

ここは一体どこなんだろう? どうして私はこんな所にいるんだ?

まったくわけが分からず、私が呆然としていると――

「どうした、郁未?」

男の声が言った。そちらに顔を向けると、狩衣姿の若い男が私の方を見ていた。――柳也だった。

「大丈夫か? ひどくうなされていたようだが」

「何でもないわ――」

答えて、私は竹筒の水を喉に流し込んだ。

…ああ、そうだった――胃袋に落ちるよりも早く、水が寝起きの体にしみわたっていくのを感じながら、ようやく私は思い出していた。

私達は今、神奈の母親を奪還するために高野山に来ていたのだ。そして、彼女が東の峰の祠(ほこら)に幽閉されていることを突き止め、これから夜陰に乗じて連れ出そうというところだった。

徹夜で動くことに備えて仮眠をとっていたのだが、戦いを前に神経が昂ぶっていたせいか、どうにもおかしな夢を見てしまったようだ。

「あんたの方こそ、傷は大丈夫なの?」

竹筒に残っていた水を飲み干して、口元を拭いながら私は柳也に尋ねた。

「…おかげさまでな」

少し恨めしそうに、柳也が答える。傷口がほとんど塞がりかかっていたため、昨日のように気絶こそしなかったものの、やはりあの薬は随分と堪えたようだ。

「本当なら、傷が完全に癒えるまで塗り続けたほうがよいのですが」

裏葉が口を挿み、柳也はぞっとしたように顔を歪めた。

それにしても――柳也達から視線を逸らすと、私はひそかに重く溜め息を吐いた。

どうして今になってまた、お母さんの夢を見てしまったんだろう。お母さんの幻を追いかけていた、あの頃のように。

実のところ、私にはその理由が判っていた。しかし、私はそれを認めるわけにはいかなかった。認めてしまったら、あの頃の自分から一歩も前へ進んでいないことをも認めることになってしまうのだから――

「で――」

私は鬱々とした気分を振り払うように言った。

「あちらさんのご様子はどんな塩梅(あんばい)なの?」

「うむ――合戦にこそなっていないが、どうにもきな臭い雰囲気が漂っている。今は互いの出方を窺っている、といったところだな」

「ふ〜ん… で?」

「閧(とき)の声が上がるのは、日が落ちた後――合図は一番星だろう」

「なんで一番星なの?」

妙にきっぱりと言い切る柳也に、それが戦(いくさ)の作法なのだろうか、などと思いつつ私は尋ねた。すると、

「きっかけになるものといえば、それくらいしかあるまい」

「なるほど…」

結構即物的な理由だったようだ。

「おれ達はそれよりも少しばかり早く動く――」柳也が続けて言う。

「合戦が始まるまでに峰の麓に辿り着いておきたい。戦いが始まってしまえば、戦場がどこにどう広がるか判らないから、動くのが難しくなる。だが一旦麓まで辿り着いてしまえば、あちらは目の前の敵に血まなこになっているだろうから、峰を登るおれ達には気がつきにくいはずだ」

何だか説得力があるような無いような作戦だったが、戦場を渡り歩いてきた柳也の言うことだから、一定の勝算はあると考えていいだろう。

そして私はもう一つ、誰でもごくあたりまえに抱くであろう疑問について、ごくあたりまえの質問をする。

「で、祠の回りを敵が固めていたら?」

「その時は他の場所へおびき出すか、おれとおまえで片付けるしかないだろう」

「それってひょっとして出たとこまかせって言わない?」

私は柳也を半眼で見やって言った。すると柳也はあっさり、

「ひょっとしなくてもそうだ。あちらの様子がわからない上にこっちはたった四人で、まともな策などあると思うか?」

前言撤回。うわこいつ何も考えてやがらねえ!

「きっと大丈夫でございます」

例によってにっこりと裏葉。

「なんで大丈夫だなんていえるのよ」

睨んで言う私に、裏葉はしれっと、

「勘でございます」

「あのね…」

…まあ、いざとなれば『不可視の力』があるし、なりゆきまかせの出たとこ勝負は毎度のことだ。これまでだってなんとかなってきたんだから、今度もなるようになるだろう――

いささか退嬰的――あからさまに言えば思考停止――ではあるが、そうとでも思わなければやっていられなかった。

「で、神奈は?」

そう言えば、さっきから一番騒がしいはずの人間の声が聞こえない。

「神奈様でしたらあちらに――」

裏葉が掌で指す方に視線を向けると、

「…もう食えぬと申しておるに…むにゃ…」

木の根元に寝転がって夢の中だった。

「これから修羅場をくぐろうって時に、大した度胸だわ」

「おまえ人のことが言えるのか?」

横目でこちらを見やって、柳也。

「だって昨夜はほとんど眠ってなかったんだもの。

それに、食べられる時に食べて、眠れる時に眠っておく――私はこれまでずっとそうしてきたし、生き残ってこれたのもそのおかげだから」

「…おまえ、傭兵でもやって生きてきたのか?」

「私には私なりの戦いってやつがあってね」

私は肩をすくめてみせ、そしてふと、この戦いが神奈の戦いであるのなら、本質的な部分でその目的に関わっていない私は、あるいは傭兵のようなものなのかもしれない、と思った。



空が藍色に染まり、一番星が光る頃――

峰に辿り着いた私達の背後で、柳也の言った通り閧の声が上がった。

ほどなく、昨夜と同じに、刃と刃がぶつかり合う音が風に乗って聞こえてくる。

神奈がふと、足を止めて背後の風景を見やり、呟くように言う。

「あの者達はみな、余や母上をめぐって争うておるのか――」

私もそちらに視線を向ける。

見下ろす山肌には、無数の松明の光が鬼火のように蠢いていた。あの光が一つ消えるそのつど、いくつかの命もまた失われていくのだろう。

「理由なんてどうでもいいのよ――」

遠い戦場を見つめながら私は言った。

「人間なんてどうせ、いつだってお互いに争うための理由を探してるようなものなんだから」

「なぜそのような愚かなことをせねばならぬのだ」

「それは人間が人間だからでしょ」

私の答えに、神奈は僅かに黙り込んだあと、小さな声で「…余にはわからぬ」と言った。

「――急げ」

柳也が短く断ち切るように言い、私達はまた山道を登り始めた。



薄く雲に遮られ、紗がかかったような月光に照らされる中、私達は峰を伝う山道を進んだ。

私が先頭を、そして神奈と裏葉を挟んで柳也が殿(しんがり)を歩いている。

柳也は太刀を杖代わりに地面についていた。表情にこそ出さないものの、背中の傷がかなり痛むようだ。一応傷口は塞がりはしたものの、本来なら動き回っていいような状態ではない。

私が肩を貸そうとしたのだが、いざという時に私が咄嗟に動けないという理由で断られた。

「この意地っ張り」私が言うと、

「男が意地を張らなくなったらおしまいだ」と、柳也は笑って言った。

何度か道の先を僧兵の集団が横切っていき、木立に身を隠さなければならないことがあったものの、私達はどうにか峰の頂きに辿り着くことができた。

そして――

「あれか? 祠というのは――」

困惑したように柳也が言った。

山頂の、杉の木立の中に、石の小山が鎮座していた。高さは優に四メートルほどはあるだろうか、苔むした石がドーム状に積み上げられている。

おそらくは高野山の僧侶達の手によるものだったが、何かを奉るにしてはその造りはひどく武骨に見えた。人ひとりの手ではとても持ち上げられないであろう大きさの石が、執拗なまでに厳重に、幾重にも積み重ねられている。

――そう、奉るというより、まるで恐怖の対象を、決して外に出てくることのないように、誇りも尊厳もかなぐり捨てて大慌てで封印したかのように…

「郁未様、あれを――」

裏葉の指差す方を見ると、石の山の正面に、ちょうど人ひとりが通れるほどの四角い穴が口を開いていた。まずまちがいなく、内部に出入りするためのものだろう。そして、その傍らに立つ杉の木には、何かの呪法なのか、丸い鏡が括りつけられている。

「…どうやらここで間違いないみたいね」

「ですね」

緊張した笑みをうかべて言う私に、裏葉が頷く。

と…

「あの中に母上が――」

「待って!」

ふらふらと入り口に歩み寄ろうとする神奈を、私は襟首を掴んで引き止めた。

「なぜ止めるかっ!」

「落ち着きなさいよ――もしあの中に何か罠でも仕掛けてあったらどうするの? まず私が入って安全かどうか確かめるから、あんたはその後で柳也達と一緒に入ってきなさい」

広大な森に仕組まれた巧妙な迷路仕掛けのことを考えれば、翼人を奪取しようとする者に備えて罠が仕掛けられている可能性は十分にある。それに、この中に封じられているのは、もしかしたら理性を失った『悪鬼』かもしれないのだ。

私の言葉に、しかし神奈は納得せず食い下がった。

「だがそれで郁未にもしものことがあったらどうするのだっ! そうなったら余は――」

「だったら尚更よ。そもそもここに来たのはあんたを母親に逢わせるためでしょうが。それであんたに何かあったら、それこそどうするのよ。私達がここに来たこと自体、無意味になっちゃうじゃない」

「だが…っ!」

「私なら大丈夫。自分の身を守るだけならどうとでもなる。私には『不可視の力』があるから」

「ふかし…のちから?」

突然出てきた聞いたこともない言葉に、神奈は一瞬きょとんとした。

「あの力のことをそう呼ぶの。あれを使えば、自分だけのことならどうとでもなる。たとえ雲の上から落ちたってね」

「………」

初めて出会った時のことを唐突に持ち出されて、それが事実なだけに咄嗟に言葉を返せないでいる神奈に、私はさらに畳み掛けた。

「だから私に任せて。危なそうだったら、すぐに外に出るから。やばい橋ならこれまで結構渡ってきたし、こういうことには鼻が利くの」

「……本当か?」

まだ少し疑わしそうにこちらを見る神奈に向って、私は「私を誰だと思ってるの」と、こともなげな風を装って笑った。

そして、私が入り口の穴に近づこうとすると――

「いやちょっと待て」

唐突に柳也が口を開いた。

「何よ。まさかあんたまで、危ないから止せって言うつもりじゃないでしょうね」

横目で睨む私に、柳也は何やら言いにくそうに、

「いや、それもあるが――やはりここはおれが行った方がよくはないか? 何というかこう、お前が行くと何かとんでもない誤解を招くことになりそうな気がして仕方ないんだが」

「あのね…」

何だかえらく失礼な言いぐさだった。

「私がどんな誤解を招くって言うのよ!」

「おそれながら――」

そこに裏葉が――無意味に真摯な表情をうかべて――加わる。

「柳也様は、郁未様が神奈様の御母上の目の前で珍妙な舞いでも披露したりはしないかと案じておられるのでは?」

「んなことするわけないでしょうがっ!」

たまらず怒鳴り返す私に、なぜか柳也は怖ごわと、

「………本当に、舞ったりしないんだな?」

「舞うかっ! …って言うか、あんたも本気で心配するなっ!」

「いや、舞わぬのならばよいのだが…」

…なぜ語尾をにごす。

と、裏葉がぽんっと体の前で手を打ち合わせ、

「では、郁未様のお心に悔いが残らぬよう、中に入る前にここで存分に舞っておいていただくというのはいかがでございましょう」

「だからなんで舞うことが前提になってるのよっ!!」

髪に指を喰い込ませて怒鳴ってから、私はぜいぜいと肩で息を吐いた。深呼吸して自分を落ち着かせる。

「…とにかく私が最初に入るから。安全が確認できたら呼ぶから、あんた達はここで待ってて」

一方的に言うだけ言って、私は再び石の山の入り口に向きなおった。

顔を近づけてみると、中の暗闇から漂い出てくる冷気がひんやりと頬を撫でる。もしかして中に地下に通じる竪穴でも開いているのだろうか。

私は小石を拾い集めると、一握りにして中に放り込んだ。石の床の上で小石がばらばらと散らばる音がしただけだった。少なくとも、床に大穴が口を開けているというわけではなさそうだ。

これ以上は中に入ってみないことには何も分かりそうもない。私は身をかがめて入り口をくぐった。

そのとたん――

ぞくんっ

背すじに鳥肌が立った。

何かひどく異質なものが、同じ空間に存在する感覚。

FARGOの教団施設で、ロスト体に遭遇した時に感じたのと、似た感覚だった。

人間ではない何者かが、闇の奥で気配を殺してじっとこちらを窺っているのだ。

思わず足が竦んでしまいそうになる自分を叱咤して、コールタールを満たしたような濃密な闇の中を、私は慎重に歩き始めた。

松明か何か、灯りになるものを持ち込めばよかったのかもしれなかったが、通常の光ではこの闇を、それこそ一寸先さえ照らすことができないのではないか――そんな気がした。

そして、闇の中を数メートルばかり私が進んだ時――

「止まりなさい」

女の声が言った。

「それ以上近づいてはなりません」

静かな、しかし何物をもってしても変えることのできない、強い意思を感じさせる声だった。

物理的な圧迫感さえ感じて立ち竦む私に、さらに声が言う。

「そなた、人ではありませんね」

その言葉が、私の胸に鋭く突き刺さった。

「………そうかもね」

ようやく私はそう答え、そして抑えていた力を解放した。

闇の中に、金色の光を湛えた私の双眸が、鬼火のように浮かび上がった。