CROSS × FIRE

第16話 「おかあさん(1)」

「そなたは何者ですか」

厳しい口調で、声が尋ねた。

「いずれの眷属のものかは知りませんが、何用があってこの八尾比丘尼(やおびくに)を訪ねてまいったのです」

「私は――神奈の友達よ」

緊張しながら私は答えた。

「かん…な…?」

「ええ」

僅かに息を飲む気配に向かって、闇の中で私は頷いた。さらに続けて言う。

「時間が無いから簡単に説明するけど――今、帝の軍勢がすぐそこまで来ているわ。あなたの身柄を高野から奪うために。だからこれ以上ここにいるのは危険なの。すぐにここを出て私達と一緒に山を降りましょう」

しかし――私の言葉に、声はたちまち凄まじいばかりの怒気を迸らせた。

「そなたは――言うにこと欠いて娘子(むすめご)の名を持ち出し、またも妾(わらわ)を誑かそうとするかっ! 花山や藤氏と同じに娘子を、妾を意のままに操る道具にしようとするかっ!」

「ちょ、ちょっと待って! 話を聞いて!」

「そなたの穢らわしい偽りごとなどに貸す耳は持っておらぬ!」

怒声と一緒に、顔面に殺気がどっと吹きつけてきた。闇の奥で、大蛇がぞろりと鎌首をもたげるような、冷たく禍まがしい気配が膨れ上がっていく。

あれはまずい――『不可視の力』と共に新たに備わった本能が、私にそう教える。

「この上たわ言を申すとあらば、生きては御山を降りられぬと知りなさい!!」

苛烈に告げる声に込められているのは、もはや殺気というより明確な殺意だった。

くそっ、どうしてこうなるんだ――『不可視の力』の防壁を自分の周囲に張り巡らせながら、私は歯噛みした。それこそ命懸けの旅をして、ようやく神奈の母親のもとに辿り着いたというのに。それがどうしてこんなふうに、牙を向け合うことになるんだ。

高まる殺気に呼応して、私の周りで渦を巻く『不可視の力』もさらに増大してゆき、そして異形の力同士がぶつかろうとした時――

「お待ちください」

男の声が言った。

「柳也!? 来ちゃだめ!」

私は背後に向って叫んだ。外で待っていろと言ったのに、どうして入ってくるんだ!

しかし柳也は私の言葉に耳を貸す様子もなく、声の主の前まで進み出るとその場に膝をついた。

「おそれながら、神奈備命様の御母君と推察いたしますが――」

「そなたは何者ですか」

空気さえ凍てつくような声音で、声が訊いた。

「そなたは人の身のようですが、そこにいるものの仲間ですか」

「はい――私は、神奈備命様が随身、柳也と申すものです」

「同じく、裏葉と申します」

「裏葉!? あんたまで!」

まさかと思って気配を探ると、背後の闇の中にもう一つ、小さな人影が固く息を殺しているのを感じた。なんということだろう、神奈までもが中に入ってきてしまったのだ。

私は張り巡らせた防壁を解いた。小さなつむじ風を残して、『不可視の力』が霧散する。こうなってしまっては自分の身を護ることになど、何の意味もなかった。

「…して、そこにいるものは」

声がこちらを向いて言う。「者」ではなく「もの」と言っていることが、はっきりと判る口調だった。

「この者は、郁未と申します。御察しの通り、人ならぬ術(すべ)を操る者。天より舞い降りし者にございます」

「天より?」

声音に、明らかに不審そうなものが混じる。しかし、臆する様子もなく、柳也は続ける。

「この者の助けにより、私どもは幾度も難を逃れてまいりました。それに――」

そこで一旦言葉を切り、そして柳也は一片の迷いも含まれていない口調で言った。

「先ほどこの者が申したとおり、この者は神奈備命様の朋友(ほうゆう)にございます」

微かに息を飲む気配がしたあと、声はしばらくの間沈黙していたが、やがて、柳也に向って静かに尋ねた。

「柳也と申したか」

「はい」

「神奈の随身と申すそなたの言葉、なにゆえ妾が信じることのできましょう。何をもって身の証(あかし)としますか」

「私どもは神奈備命様をこちらにお連れしております」

「……!」

声が絶句した。

「神奈様、お召し物を」

冷静な声音で裏葉が言い、するすると衣の擦れる音がする。そして――

一面を、白い光が満たした。

月光に似て白く、陽射しに似て眩しい光。

穴倉の壁も床も、辺り一面が隈なく照らされ、まるでそれ自体がぼうっとした光を放っているかのようにさえ見える。

その光のおおもとが、私の目の前に立っていた。

身を偽るための粗末な衣を脱ぎ捨て、絹のような肌を惜しげもなく晒して。

そして、そのほっそりとした背中から伸びた、まるで地上に降る前の雪を編み上げたような白い翼が、眩ゆいばかりの光を放っていた。

美しい、などという陳腐な言葉では表現できない、神々しくさえある、これが翼人の――神奈の真の姿だった。

光に照らされた洞穴の奥に視線を向けると、太い鉄格子が一メートルほどの間を置いて二重に嵌められていた。その重なりの向こう側に、僅かにできた陰に身を潜めるようにして立つ人影があった。八尾比丘尼と呼ばれる、神奈の母親だった。

「これが余の羽だ」

鉄格子の向こうの人影に向って、神奈は言った。

「飛ぶことはおろか、はばたくことさえできぬ羽であるが――もし同じ羽を持っておられるのなら…」

ひたむきに問う神奈に、しかし母親は何も答えようとしなかった。ただじっと、食い入るような視線を神奈の翼に向けている。

「…ちょっと、何とか言いなさいよ」

母親の沈黙に苛立ちを覚えて私は言った。

「あんたの娘が、わざわざ親子の名乗りを上げてるんでしょうが!」

「よいのだ、郁未…」

神奈が言い、その背に裏葉が衣を着せ掛ける。再び、辺りは闇に閉ざされた。

それからしばらくの間、誰も、何も言わなかった。

神奈が想いの全てを込めた親子の名乗り。それ以上に語るべき言葉など、誰にもあろうはずがなかった。

闇の中で、沈黙がただ続いた。

やがて――

「…因果なものですね」

長い吐息をついて、声が言った。先ほどまで声に含まれていた険は、今は無い。

「『神など無し』と名づけた我が子と、再び会う日が来ようとは」

「はは…うえ?」

「神奈…大きくなりましたね」

「母上――――!!!」

神奈が弾かれたように声に向って駆け寄り、そして鉄格子に勢いよく体をぶつけて「ぐっ」と呻き声を漏らした。それでも、その場にしゃがみ込んでしまったりはせず、鉄格子に体を押し付けて懸命にその向こう側に手を伸ばす。しかしその指先が母親に届くことはなかった。二重の鉄格子の間に開けられた広い間隔は、鉄格子の外からも内からも、決してその向こう側にいる者に手を触れられないようにするためのものだったのだ。

しかも、この牢獄に出入り口は存在しない。一たび入れられたが最後、永久に他人と触れ合うことを許されない、ある意味死以上に残酷な、これは孤独の処刑台だった。

その残酷な意図を打ち破る方法が、実は一つだけあった。鉄格子の内と外、双方から手を伸ばせば、互いに手を触れ合うことはできるのだ。

しかし、神奈の母親はそれをしようとしない。鉄格子の奥に身を潜めて、自分に向って懸命に手を伸ばす我が子を、ただじっと見つめているだけだった。

「…どきなさい、神奈」

眼に再び、金色の光を宿して私は言った。風のあるはずもない洞穴の中で、私の髪がざわざわと靡き始める。

「まずはこの邪魔くさい鉄格子をこじ開けるから」

「わ、わかった」

神奈が慌てて身を引く気配がした。それと身を入れ替えるように、私は鉄格子に向き直った。手を触れて、その位置を確認する。

「おろかなことを…」

嘆息するように母親の声が言った。

「それよりも神奈を連れ、すぐに山を降りなさい。花山や藤氏の手の届かぬ辺境の地に身を寄せて、そこで人として暮らすのです」

「ふざけないでよおばさん」

唸るように私は言った。

「私達が――いいえ、この子が、何のために命懸けの旅をして、ここまで来たと思ってるの。ろくに外を歩いたことさえないこの子が、足を豆だらけにして、時には死ぬ思いまでして、それでも弱音ひとつ吐かずに。それを山を降りろですって!? 辺境の地へ行けですって!? ふざけないでよ!! それと死にたくなかったら、後ろに下がってなさい!!」

言い捨てざま、私は『力』を発動させた。二重の鉄格子のちょうど中間のあたりで、空間が歪みながら膨れ上がり、ぎしぎしと歯の浮くような音を立てて鉄格子を押し広げていく。

やがて、頭上で石が崩れる音がしたので、私は念を込めるのを止めた。おそらく、鉄格子が完全に外れてしまうと天井が崩れ落ちる仕組みになっているのだろう。手で触れてみると、ありえない力を加えられて歪み、熱を帯びた鉄格子は、体を横にすれば十分に通れるくらいに隙間を広げていた。

「…来てはなりません」

声を無視して、私は鉄格子の間に体を滑り込ませた。そして、牢獄の隅に身をひそめる気配に向って手を伸ばす。

「さあ、私達と一緒に来てもらうわよ」

「妾に触れてはなりませんっ!!」

「あんたの意見なんざ訊いちゃいないのよ」

伸ばした私の指先が、身を躱そうとする神奈の母親の体を掠め、その刹那――

「―――――っ!?」


『天命をその翼に刻むもの』

伝承に謳われたその言葉の意味を、私は身をもって知っていた。


それは、かつて私がFARGO教団施設で葉子さんと戦った時に垣間見た、彼女の過去の記憶に似ていて、そして圧倒的な情報量という点でまるで異なっていた。

人間がその長い歴史の中で繰り返してきた、ありとあらゆる愚行と悲劇。その全てが、私の目の前にあった。数百年数千年、文明が発展する以前から、飽くことなく繰り返されてきた戦いの積み重ね。異なる民族同士、あるいは同じ民族同士、時には親子同士、兄弟同士、憎しみ合い、殺しあう、憎悪の歴史だった。しかし同時に、それは私にとってひどく身近なものでもあった。なぜならそれは、人間が人間である理由そのものだったのだから――


「はぁっ、はぁっ…」

私は床に膝をついて、荒い息を吐いていた。額に滲んだ汗がぽたぽたと床に滴り落ちる。脳髄の神経が灼き切れたように、頭全体がじんじんと痺れてまともにものが考えられない。今のは一体――

「…そなたも見たのですね」

憐憫を込めた声が言った。

「人ならぬ術を操るものならば、もしや、と思いましたが…」

「…何なのよ、あれは」

歯を食いしばって問い返す。質問、というよりもはや、何でもいいからとにかく言葉を返さないではいられないという意地でしかなかった。

「そなたにはもはや全て分かっているはず――あれが、翼人の母から子へ、代々受け継がれていくものなのです。妾がそなたたちと共に行けぬそのわけも、これで分かったことでしょう。妾はあれとともに、この身をここで朽ちさせるつもりです」

そう語る声には、限りない悲哀が込められていた。

代々伝えられていく、忌まわしい記憶。それを自分の代で途絶えさせてしまえば、娘である神奈はその呪われた運命から自由になれる――きっとそういうつもりなのだろう。

だが――

「…っく、冗談じゃないわよ」

ふらつく体を鉄格子につかまって支えながら、私はどうにか立ち上がった。前方の暗闇にいるはずの、神奈の母親を睨みつける。

「代々受け継がれていくもの? この身をここで朽ちさせる? ふざけないで! そんなもの、あの子が望んでることに比べたら、どれだけのものだっていうのよ!? たとえ指一本触れられなくたって、一緒に生きることはできるでしょうが! あんたがあの子にしてやれることなんていくらでもあるでしょうが! それとも何? あんた近親レズ相姦でもやらかすつもり!? 何とか言いなさいよこの石頭! 放置親! 独りよがりの馬鹿っ母!!」


………

なにもいらなかった。

きれいな服も、広いお家も。おこづかいだってなくたってよかった。

ただ、おかあさんと一緒にいられればそれでよかった。

おかあさんのやさしい笑顔がそばにあれば、私のことを見ていてくれれば、それだけで私はしあわせだったのだ。


「いいこと!? あんたには私達と一緒に来てもらうからね! 嫌だって言っても力ずくでも連れてくからね! 辛くたってしんどくたって、あんたには母親をやってもらわなきゃならないの! あんたにはそうする義務があるの! この先ずっと永遠に、神奈の母親だけをやってもらわなけりゃならないのよっ!!」

理屈にも何にもなっていない、滾るような感情を、ただ叩きつけただけだった。しかし私は自分の言ったことを、何一つ否定するつもりはなかった。それを否定することはすなわち、神奈の想いと、そして十七年間生きてきた私の全てを否定するのも同然だった。

「…郁未といいましたか」

間をおいて、声が言った。

「何よ」

「そなたはあまり利口者ではありませんね」

「えらい人に頭を撫でてもらう趣味はなくてね」

拙いへらず口を返す私に、闇の向こう側で、ふっとやわらかく微笑む気配がした。

「…神奈はよい友を得たようですね」

そしてまた、口調を真剣なものに戻す。

「それで、どうやって妾をここから連れ出すつもりですか? ここを出ることを拒む妾を、手を触れずどうやって外に出すのです」

「待つわ」

母親の問いに、私は平然と答えた。

「待つ?」

声音に、僅かに困惑するようなものが混じった。

「そう。あんたがここを出る気になるまでね」

「帝の率いる軍勢が、ここに攻め入ってもですか?」

「それで諦めて逃げるくらいなら、そもそも高野くんだりまで来やしないわよ」

私がそう言うと、牢の外で他の三人が同時に頷く気配がした。全員の想いは同じだった。

「…わかりました」

ほっと溜め息を吐くように、神奈の母親は言った。

そして続けて言う。

「ですがこれだけはゆめゆめ忘れぬよう心に刻みなさい。何人たりとも罪に穢れた妾の体に、決して触れてはならぬということを――」