あたり前だがどんな夜にも夜明けは訪れる。たとえそれが一晩中腰骨でサーフィンをやっているような夜であってもだ。
というより、もう日はとっくに高く上っており、午(ひる)も近いようだった。私は生まれたての子馬みたいな足取りで庇(ひさし――要するに本殿をぐるりと廻る縁側のことだ)をよたよた歩きながら、太陽の黄色さに顔をしかめた。と…
つーっ…
「ひゃうっ!」
薄衣越しに、指先で背すじをお尻の辺りまでなぞられて、私は思わず跳ね上がった。
「ううううう裏葉っ!」
腰が抜けそうになるのを柱に縋りついて耐えながら振り向くと、やはりというか何というか、変態人外女官が相変わらずのにこにこ笑いを浮かべていた。この暑さに女官の装束をきっちりと着込んでいて、寝付いたのは確実に私の後のはずなのに、眠そうな様子は微塵も無い。
「よくわたくしだとお分かりになりましたね。郁未様は背中にも目をつけておいでなのですか」
「…んなことすんの、あんたぐらいしかいないでしょうが」
怒鳴りたかったが、足腰同様、声にも力が入らなかった。裏葉はわざとらしく驚いた様子で、
「あらあら何やらお疲れのご様子。よくお寝みになれなかったのですか」
「…誰のせいだと思ってるのよ」
怨嗟を込めてうめくように言う私に、裏葉の笑みが、すっと淫らなものに裏返る。
「郁未様があまりにかわいらしい声でお咽きになるからでございます」
「う゛〜〜〜〜っ…」
…結局、昨夜は夜明け前まで眠らせてもらえなかった。途中でほとんど失神していたのだが、それでも裏葉は容赦せず、意識が朦朧としたまま、体だけが電流を流したカエルみたいにびくんびくんと反応し続ける状態が延々夜通し続いたのだ。それで疲れを感じないのは覚醒剤中毒者くらいなものだろう。
真っ赤になって睨みつける私に、また元通りの笑顔にもどった裏葉がしれっとした口調で言う。
「朝餉(あさげ)の支度が整っておりますが、お召しになりますか?」
「…食べるわよ」
朝ごはんでも食べなければやっていられなかった。
食べ終わったら絶対に二度寝してやろうと心に固く誓いながら、私は生まれたての子馬から徹夜明けのゾンビにクラスチェンジした足取りで、裏葉の後について歩き始めた。
「遅かったではないか」
案内された部屋に着くと、食事の載った膳を前に、待ちくたびれた様子の神奈が不平そうな声で言った。
「腹と背中の皮がくっつくかと思ったぞ」
「…あんた、まさか朝からずっと待ってたの?」
裏葉は確か昼の食事ではなく、「朝餉の用意」と言ったはずだ。貴人というのはよっぽど辛抱強いかそれとも死ぬほど暇なのだろうか。
「そのようなわけがあるかっ!」
「じゃ、朝は食べなかったの?」
「大工や舎人ではあるまいし、なぜ起きぬけから食(け)などとらねばならぬのだ」
怒る、というより呆れた様子で神奈は言った。どうやら貴人は朝食抜きが常識らしい。でも一日二食で逆に太ったりしないのだろうか。生活習慣病になりそうだと思いながら、私は膳の前に座った。
見ると、牢の中で出されたのと同じ、もち米みたいなご飯が茶碗にてんこ盛りになっていた。あれはどうやら貴人向けのご飯だったようだ。見張りの男が言っていた、「神奈備命様のお心遣い」というのは、そういう意味だったのだ。さすがにご飯だけではなく、それに何品か、裂いた干物やら何やらのおかずがついている。同じく昨日出されたやたらしょっぱい漬物みたいなのもついていた。えらく質素な気もするが、これがこの時代の貴人の食事というやつなのだろう。
だが、ふと気付くと神奈の膳の他は私の分しか見当たらない。裏葉は食べないのだろうか。
「あんたの分は?」
「わたくしは神奈様にお仕えする女官でございますゆえ、食の席を同じゅうするなど畏れ多きことにございます。それに――」
裏葉はまた、三日月みたいにすうっと目を細めた。
「昨夜、天上の蜜を存分に堪能いたしましたゆえ」
「なっ…」
「ん?何の話だ」
真っ赤になって絶句する私に、神奈が訝しそうな顔をする。すると裏葉は真顔で、
「いえ、ですから昨夜郁未様のしとどに濡…」
「だぁぁぁぁぁっ!説明するなぁぁぁぁぁっ!」
絶叫して、私は裏葉がいらんことを言おうとするのを阻止した。こんなコドモに何を聞かせようというんだ!
「やかましい奴よの…もうよい。余は腹がすいた。食べるぞ」
さいわい裏葉の話への興味よりも食欲が勝ったようで、神奈は私が聞いてもめちゃくちゃとしか思えない言葉遣いで言ってから食事を始めた。いただきますに該当する言葉がわからなかったので、黙ったまま私も食べ始める。
が…
(あ、味が無い…)
化学調味料とジャンクフードに慣らされた舌には、”うまみ”というものが全然感じられなかった。
たぶん庶民に比べればそれなりに上等なものを食べているのだろうが、この時代にいる限り、良くてこれなのだろうか。私はなんだかFARGOの教団施設の食事が恋しくなった。カレーとかオムライスとかハンバーグとかスパゲティとか…
「ところで…」
固いご飯をものともせず、もりもり食べながら神奈が裏葉に尋ねる(言うまでもなくお行儀が悪い)。
「昨夜といえば、どうであったのだ?なにやら寝しなにあれこれ尋ねるとか言っていたではないか」
「はい。残念ながらいずこのお生まれかなどといったことはお聞かせいただけませんでしたが…」
いや、訊かれてないし。ひたすら「こちらですか?」「それともここをこのように…」「あらあらもうこんなに…」とかしか言ってなかったし。
じとっと横目で見る私をよそに、涼しい顔で裏葉が続ける。
「ですが、一つ、わかったことがございます」
「ん?申してみよ」
「郁未様は玻璃(はり――ガラスのことだ)の杯のような方にございます」
「???どういうことだ?」
「指で弾きますと、妙なる音色を奏でます」
「あ、あのね…」
あんたはどこぞのヒヒじじいか。
神奈は神奈で、神妙な面持ちで頷きながら、
「ふ〜む、叩くと面白い音を出すのか」
私はお腹を押すと愉快な声を出すおもちゃかっ!
抗議しようかと思ったが、大して違わない扱いを受けているような気がして、私はなんだか悲しくなってきた。
「どこへ行くのだ?」
食事の後、寝所に戻ろうとする私を、神奈が呼び止めた。
疲れていたので「寝る」と二文字で答える。
「またか?牛ではあるまいに、あまり寝てばかりいると頭に空(うろ)ができてしまうぞ」
呆れたように言う神奈に、私はだるさと眠さに不機嫌を混ぜた口調で言った。
「あのね…裏葉が一緒で昨夜眠れたと思う?」
「まあそうであろうな」
神奈はあっさり肯定した。そして、道場で剣術談義をする武芸者みたいな表情で続ける。
「あやつのくすぐりはきついからの。まいったも言わせてもらえぬ」
ああそうか、と私は思った。考えてみれば神奈は、長い間裏葉の攻撃に耐え抜いてきた、いわば古兵(ふるつわもの)だった。それだけに言葉に重みがある。私はなんとなく初陣を済ませたばかりの新兵のような気分で、過ぎ去った災厄の日々を悼むような表情の神奈を見やった。
…って…
「それがわかっててあいつと同じ部屋に泊まらせたんかいっ!」
要はくすぐり責めの身代わりにされただけだった。
「まあ、そう怒るな。おぬしを牢ではなく本殿に住まわせることができるようになったのも、裏葉が助け舟を出してくれたお陰なのだからな。頑固者の柳也も、裏葉には逆らえぬ」
まあ、そういえば確かにそうではあるのだが、どう考えても新しいおもちゃというか、変態女官のいけにえとして連れてこられただけのような気がする。
これから先、私の処遇がどうなるかはわからないが、神奈でも柳也でもなく、あの裏葉のさじ加減一つなのだと思うと、私は死にたくなるような厭世感に襲われた。
もう寝よう。眠っている間は、過酷な現実を見ないで済むのだから――
唯一の安息の場所――眠りの世界へと旅立つべく、私はふらふらと寝所に向かった。
「おかえりなさいませ♪」
寝所に、裏葉が、いた…