セーラー服を着た百人の裏葉と高槻が、私を囲んでマイムマイムを踊っている悪夢にうなされて目を覚ますと、神奈がじっと私の顔を覗き込んでいた。頬に鼻息がすーす―あたってこそばゆい。
「…何よ」
眠い目をこすりながら尋ねる私に、
「いや、こうして見るとただの人だな。とても天から降ってきたとも、柳也が言うようなもののけあやかしの類とも思えぬ」
「悪かったわね」
「別に悪くはなかろう。ただの人であることは、それだけで幸せなことではないか」
「さすが尊い血筋の方の仰ることは違うわね」
「そういう意味ではないのだ…おぬしになら判ると思ったのだが…」
そう言われても何が言いたいのかさっぱりわからない。私は欠伸をしながら寝床の上で体を起こした。
「なあ…郁未の目に余はどのように映る?」
「どうって、そりゃただのちびっこでしょ」
「そうか…」
また怒るかと思ったが、神奈は目を伏せて寂しそうな笑みを浮かべた。
「…これを見てくれ。おぬしになら見せてもいいと思う」
神奈は立ち上がると、袴の帯を解いて、表着を肩から落とした。私の目の前に、まだ幼さを多分に残した可憐な肢体が露わになった。神奈が私に背中を向けて問う。
「これをどう思う?」
「小ぶりだけど、形は悪くないと思うわよ。そのうち大きくなると思うし、あまり気にしなくても大丈夫だから」
「何の話をしておるっ!羽を見よと申しておるのだっ!」
少女の背中から、光を帯びて見える白い翼がふわりと広がっていた。付け根も見たが、どうやら作り物ではないようだ。翼を形作る羽根は、やはり私が堤防で触れたものに似ている。
「余は、見ての通り人ではない。翼人と呼ばれるものなのだ」
「翼人?」
「ああ…余にはよくは判らぬが、この羽には、神より授けられし力が込められているということだ。時には飢餓や難病を救い、時には野を埋め尽くす戦人の群れを打ち払うほどだという」
「そらまたおありがたい話ね」
「話だけだ。本当にそのような力があるのかは余は知らぬ。
だが、たとえ話だけであろうとそのような力を欲しがる者はいくらでもいる。余をここに住まわせているのも、そういった者の一人だ」
神奈は御簾の向こう側に透けて見える社殿の風景を眺めながら言った。
「ここは、余を閉じ込めておくための牢なのだ。たとえどのように立派な社殿が建てられていようと、何人もの女官や衛士が仕えていようと。
余と郁未では、囚われ人ということでは何一つ違わぬのだ」
「ふ〜ん…」
どう答えたらいいのか判らず、私は生返事を返した。神奈を閉じ込めている牢獄。それはこの広大な社殿ではなく、実は彼女の背中の翼そのものなのかもしれなかった。まあ、同じ囚人でも力の象徴として奉り上げられている神奈と、得体の知れないばけもの扱いされている私とでは、随分違うと思うが。
考えてみれば、私が、それこそ糞壷の中に逆さ釣りにされないで済んでいるのも、この少女が私を本殿に住まわせると言い出したお陰だった。空から降ってきた私と、人ではない身の自分を、どこかで重ね合わせているのだろうか。
「柳也どのも言っていたが、郁未にも人ならぬものの力があるのであろ?」
「まあね。見たい?」
「…やめておこう。また庭に大穴を開けられてはかなわぬ」
「なんなら大穴を開けるのは庭じゃなくて社殿の塀でもいいんだけどね」
「!!!」
神奈ははっとしたように私を見たが、やがて俯くと、無言のままいやいやをするように首を振った。少し酷なことを言ってしまったかもしれない。たとえ社殿を抜け出すことができたとしても、この少女には行くあても、生きていくすべもないのだ。
「…もうよい。昼寝の邪魔をした」
神奈は表着を羽織り、袴を穿いた。不器用な手つきで帯を締めていく。すると…
どどどどどどど
床板を蹴破るようなけたたましい足音が社殿の庇をすさまじい勢いで近づいてきた。そして寝所の前で止まったかと思うと、御簾を掻き分け几帳を蹴倒し衝立障子を突き破りそうな勢いで、血相をかえた裏葉が駆け込んでくる。一体何ごとだろうか。
裏葉の血走った目が、ほとんど巫女装束を着終わった神奈に向けられ――その顔を、たちまち深い悲しみと絶望の色が覆う。
「ああああああ神奈様の美しいお姿をわたくしも見とうございましたのにぃ〜〜〜〜〜」
…それかい。
次いで、怨嗟と嫉妬のこもった眼差しが私に向けられる。こ、怖い…
「…郁未様」
「はっ、はいなんでございましょう?」
妙に静かな裏葉の口調に、思わず声が裏返って敬語になる。正しいのかどうかは知らんが。
「郁未様はご覧になられたのですか?」
「あっ、いや、その、何と言うか…」
「で、どのようなご様子だったのですか!?この裏葉に包み隠さずまめにつぶさに生々しく細部に至るまであたかも目の前で見るようにお教え下さい!」
「そう言われても、私ペドの趣味はないから」
「『ぺど』?『ぺど』とはどのような趣味でございますか?」
「う〜ん、何て言うか、もっぱら神奈みたいな女の子を愛でる趣味のことなんだけど」
「それはまた風雅な趣味でございますねぇ。わたくしも『ぺど』を極めとうございます」
やめろ。絶対。
「…余は部屋にもどる。後はよきにはからえ」
アホすぎる会話に呆れ果てたのか、袴の帯を締め終わると、神奈は寝所を出て行った。その後姿を見送ってから、裏葉は不意に真顔になって私に尋ねた。
「それで、神奈様とはどのようなお話をされたのですか?」
「どんなって…」
神奈が私に羽を見せたことは先刻承知だろう。おそらくそんなことを訊きたいわけではない筈だ。
「まあ、ありていに言うと、籠の鳥は籠の外では生きられない、ってことかな。籠の扉を開けてあげようかって水を向けたんだけど、あの子にはちょっと酷だったみたい」
「何故そう決め付けるのですか?」
「は?」
「籠の外で生きられないと、決まったわけではないではありませんかっ!」
急に、裏葉は聞いたこともないような激しい口調で言った。私が気圧されて黙りこむと、口調を静かに改めてさらに続ける。
「郁未様…もしも神奈様が籠の外で生きることをお望みになったら、その時は籠の扉を開ける手伝いをしていただけますか?」
つまり、ここから神奈を逃がす手伝いをしろ、ということだ。
それ自体は容易いことではあるのだが、少なくとも出会ってまだ日も浅い、正体もわからない人間にする話ではない。私は少し考えてから答えた。
「…まあ、いいけどね。あの子には借りもあるし。でも、それを決めるのはあんたでも私でもなくて、あの子自身なんじゃないの?」
「………そうでございますね」
裏葉は嘆息するように言った。そして、
「それはそうといたしまして…」
裏葉の顔にいつもの得体の知れないにこにこ笑いが戻っていた。
「郁未様が神奈様の美しいお姿を一人占めになされたことには相違ございません。咎はやはり咎。ここは一つ、くすぐり責めが妥当かと」
「へっ!?ちょっ、あんた、ちょっと待…」
「ささ、お楽になさってくださいまし。うふ、うふふ、うふふふふふふ…」
真昼間の本殿に私のあられもない声が響き渡った。
「お前は一体何をやっているのだ」
「…うるへー」
着崩れた薄衣で本殿の庇をよろよろと柱から柱へ伝い歩く私を見て、呆れたように言う柳也に、私はかろうじて憎まれ口を返した。
「門にいた俺のところまで聞こえたぞ。多分、社殿に仕えている者全員の耳に入っているはずだ」
ぐあ…。
そう言えば、そこら辺をうろついている下っ端の衛士も、女官も、ばけものを見るというより、なんとなく卑猥な視線を私に向けている気がする。中には、あからさまにくすくす笑う奴までいる。
「おれの同僚が言っていた。天から来たあやかしの女は、和泉の白狐の手管に篭絡されたと」
白狐か、裏葉にぴったりの二つ名だ。何の気配も感じさせずに瞬間移動するところとか。
しかし、「和泉の」ということは、あの女はそこの出身なのだろうか。どこかで聞いたことのある話のような気もするが。そもそも和泉ってどこだっけ?いやそんなことより…
「あのね…ごちゃごちゃ言うんだったら、あんたが裏葉を何とかしなさいよ。こんなことが続いたら正直身がもたないわよ!」
「無理だな」
柳也はあっさり切って捨てた。この無責任益体なしのインポ野郎が!
「ところで、神奈のことだが、あいつの様子はどうだ?」
「どうって言われても…」
寝所での経緯を話していいものかどうかわからなかったので、私はよく知らない風を装って口を濁した。こいつの任務は神奈備命の護衛。つまり、気易く接しているように見えても、神奈を閉じ込めている側の人間なのだ。
「お前はもう、あいつが翼人だということは知っているのだろう」
「まあね」
「羽があることを除けば、おれには普通の娘にしか見えんのだが」
「ただのがきんちょってことね」
「…立場上、そこまでは言えんがな」
口に出して言っているのも同じことだった。仮にも主人である神奈を「お前」呼ばわりすることといい、粗暴さの見え隠れする立居振舞いといい、礼儀を弁えたいい家柄の出のおぼっちゃん、というわけではなさそうだ。まあ、正八位なんとかなんてご大層な官位がついていても、衛士など結局はただの用心棒なのだから、そんなものなのかもしれないが。
そんなことを考える私の隣で、庭に目を遣りながら、柳也が口を開く。
「これはおれが言ったことは伏せておいて欲しいのだが…」
「何?」
「お前、あいつの話し相手をしてやってくれないか。
ここには、おれや裏葉以外、あいつの相手をするものはいない。みな、身分の違いもあるし、翼人ということであいつをおそれて近寄るものはいない。羽がある以外、普通の娘なのに、あいつには同じ年頃の遊び相手もいないのだ」
とても用心棒の台詞とは思えない、兄か何かのような物言いに、私は思わずまじまじと柳也の顔を見た。
「あの子のお守りをしろってこと?」
「あいつの友になってやってくれと言っているのだ。あいつ同様、お前も普通の者とは違う。歳も近いし、おれや裏葉よりもあいつの気持ちがわかるだろう」
「いいの?天から降ってきた得体の知れないもののけに、大事な翼人の相手をさせて」
ばけものはばけもの同士ということか、と、少し皮肉な気分で言う私に、柳也は微かに笑った。
「おれにはお前も、ごくあたりまえの娘にしか見えない」
「…そう見えるんなら、あんた護衛としちゃ最低ね」
「そうかもな」
また笑って言う。私は呆れてため息を吐いた。
「あとどうでもいいけど、歳が近いって、私もう十七なんだけど」
「あいつはあれで十五だ」
「げ」
てっきり十二か三かと思っていたが、由衣といい勝負の発育不良だった。胸に行く栄養が全部翼に吸い取られてしまったのだろうか。不憫な…
「…まあなんだってかまわないんだけどね。
それより、話し相手って言っても、いつまでもってわけにはいかないでしょ。どうせ私のことは、神奈をここに閉じ込めてるお偉いさんに報告したんだろうし」
上層部に私のことが知れれば、ただでは済まない筈だ。いずれどこか別の場所に、神奈同様幽閉されるかもしれないし、最悪の場合もののけ妖怪の類いとして退治、ということもありえる。まあ、その時は『不可視の力』の威力をこの時代の連中に思い知らせてやるだけだが。
しかし柳也はとぼけた口調で、
「さあて、それだがな。確かに中央に報告する義務はあるが、報告の書状を書くのはおれの役目だ。だが困ったことにおれは書状を書くのがあまり得意ではない。出来上がるのはいつのことになるかわからん。
ついでに言えば、ここにいる連中はおれの上役も含めて、全員やる気がない。ただ何ごともなく任期が過ぎて、翼人の警護から開放されるのを望んでいる。お前のことも、大ごとになって喜ぶやつなど誰もいない。うやむやになってしまった方がむしろ都合がいい、ということだ」
…ひでえ。
他の連中のサボタージュはともかく、柳也のは明らかに上に対する反抗だった。比喩的な表現じゃなく、こいつ近いうちに首が飛ぶことになるんじゃないだろうか。
まあそういうことだから気楽にやってくれ、と言い残して柳也は渡殿(わたどの――本殿とその他の建物を結ぶ渡り廊下)を去っていった。
神奈を社殿から逃がす手伝いを頼む裏葉と、中央への報告を握り潰す柳也。どちらもまともな従者とは言えなかった。だが、そうしたくなる気持ちは、何となく私にもわかる気がした。