大暑(7月23日頃)も近いある日。私は連日の猛暑にへばって寝所の日陰でぐたっと寝そべっていた。身に着けているものといえば、素肌の上に薄衣が一枚。一日中これだった。
柳也にはもう少し露出を控えろというようなことは言われたが、この暑さにごてごてした装束なんて着ていられるわけがなかった。
「一日中日陰で寝そべっているとは、おぬしはまるで猫のようだな」
寝所に顔を出した神奈が、私を見て呆れたように言う。だが、巫女装束をきっちり着込んだ白い額には、やっぱり汗が浮かんでいる。
「しょうがないでしょ暑いんだから。あんたもそんなごてごてしたもん着てないで、涼しい格好になれば?」
「ばかを申せ! 翼人である余が、そのような恥知らずななりをするわけにいくか!」
まあ確かに、神の使いであるはずの翼人が、袂を開いて袴の裾をぱたぱたやっていたのでは、有難味も何もないだろう。それにしても…
「あ゛〜づ〜い゛〜」
板の間の上を転がって私はうめいた。クーラーの効いたコンビニとか喫茶店が懐かしい。ここにはクーラーどころか扇風機すらないのだ。
「行儀の悪い猫だな。そのように暑い暑いと口にしていては、もっと暑くなるであろうに」
「心頭を滅却したって、暑いもんは暑いのよ。 …あ゛〜、だれか氷持ってきて〜」
「氷でしたらこちらに」
ぴとっ。
「ひゃうあっ!」
言葉と一緒にとんでもなく冷たい何かを背中に当てられて、私は文字通り跳ね起きた。
「ううう裏葉っ!」
削った氷を盛った高杯(たかつき――お寺の本堂なんかによくある、お供え物を載せる足つきの鉢というか皿というか、まあそういうものだ。嫌な名前だ…)を捧げ持った裏葉が、やっぱりにこにこ笑いながら、私のすぐ後ろに座っていた。ちなみに、女官の装束をきっちりと身に纏っているというのに、こいつは汗一つ浮かべていない。
「神奈様、お待たせいたしました」
「うむ、大儀である」
えらそうに頷く神奈。ということは、この氷は神奈が命じて用意させたものらしい。しかし、冷蔵庫なんて存在しないこの時代に、どうやって氷なんか手に入れたのだろう。
「柳也はどうした?早くしないとせっかくの氷が溶けてしまう」
神奈がこぼしたそのすぐ後に、柳也が寝所に入ってきて、氷の盛られた高杯に目を剥く。
「お前、これどうしたんだ?氷室開きはまだ先だぞ」
「このような暑い日に開かんでいつ開くと言うのだ、このうつけ」
どうやら持ってきてはいけない時に持ってきてはいけない所から持ってきたようだ。私としては氷が食べられるのならなんだってかまわないが。この場合主犯は神奈だし。
「はーやーくーたーべーさーせーてー」
「お前な、いくら暑いとはいえ若い女がそのなりはもう少し何とかならないのか。
あと、その姿で夜昼構わず社殿をうろつくのをやめろ。警護のものが前をふくらませていてはいざという時動きがとれん」
「? 前をふくらませるとはどういうことなのだ?」
「それはでございますね神奈様…」
「説明しなくていい」
「たーべーさーせーてー」
「ああもう五月蝿い! 裏葉、毒見代わりにこの猫に食わせてやれ」
というわけで、私は氷にありついた。本当は顔を突っ込んでざくざくかっ込みたいところだが、さすがにそこまで意地汚くないので、頭数で割った妥当と思われる量を手ですくって一口に頬張る。
き―――――――――――ん。
こめかみを貫く痛みと共に、一瞬だが夏が遠のいた。
「く〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、これよね〜〜〜〜」
「余韻にひたっておらんで早くこっちにも廻さんか。氷が溶けてしまうではないか」
「あー、はいはい」
まず毒見に裏葉が一口。そして高杯が神奈に廻る。
「おお、冷たいな」
裏葉は氷を口にする神奈の様子を見ながらしみじみと、
「こうして一緒に氷を口に含んでおりますとまるで…」「ほら神奈、そんな雀みたいにちまちま食べてないで私みたいに一気にがーっといきなさいよ」
「こ、こうか………
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ! なんだこの痛みは! 頭を針で貫かれたようだ。だがそれが心地いいぞ!」
「でっしょー、そこがまたいいのよ。やっぱ夏は氷よね〜〜〜〜〜」
「郁未は色んなことを知っておるのだな」
「………」
「どしたの裏葉? あんたも頭痛いの?」
「………なんでもございません」
なんとなく恨めしそうな顔の裏葉をよそに、盛り上がる私と神奈。柳也は少し呆れた顔で、「おい、俺の分も残しておけよ」なんて言っている。
夏休みの部室の、練習の後のひと時みたいな、そんな昼下がりだった。
その夜。
「…郁未様」
「どしたの裏葉? あれ、また氷持って来てくれたんだ。気がきくわね〜〜〜
…って、ちょっと何、その縄は!?」
「うふふふふふふふふ…」
「ちょっ…ちょっと待………ちょっと! なんで私を縛るのよっ! ってかその無気味な笑いは何なのよ!?」
「うふふふふふふふふ…郁未様は大層氷がお好きなご様子。ですからこの氷でお体の火照りを鎮めてさし上げようかと」
「あんたはどこぞのソフトSM映画かっ…って、ひゃうっ! やっ、やめ…ひっ…」
「うふ、うふふ、うふふふふふふふふふふふふふふ…」
…一体私が何をしたというのだろうか。そんな思いが胸に去来する、爛れた真夏の月の夜だった。
翌日。私が目を覚ますと、社殿の様子がなんだかおかしかった。衛士の連中があわただしく動き回り、庭の中央に書物や書状の類をかき集めて積み重ねている。
だが、忙しそうにしている割に、男達には緊張感がなかった。むしろ、何かから開放されたかのような和やかささえ漂っている。一体どういうことなのだろう。
首を捻りながら朝餉の席に向かったが、そこには神奈も裏葉も姿がなく、私の分の食事だけが用意されていた。
とりあえず食事を終えて、柳也なら何か知っているだろうかと社殿の中を捜していると、渡殿のところで裏葉に出会った。裏葉は私の顔を見るなり、ひどく思い詰めた表情で口を開いた。
「郁未様。神奈様が北の社に御身を移されるそうです」
「え…」
頭が真っ白になった。
移される? あの子が? 何処へ? 北の社って?
何一つ理解できないまま、いくつもの疑問符だけが思考を停止した頭に浮かんで消える。
「移されるって、何でよ!?」
「勅命だそうでございます。今朝方書状が届きました」
「勅命って…」
「北の社で、五穀豊穣の願を唱えよ、とのことです」
勅命。つまり、神奈をここに閉じ込めている連中からの命令と言うことだ。逆らえるはずもないことぐらいは私にも判った。しかし、その五穀豊穣の願とやらは、わざわざ翼人である神奈を移送させてまで行わなければならないものなのだろうか?
「で、あんたや柳也は?」
「私どもは随身の任を解かれ、社にとどまれ、とのことです。後は追って沙汰をすると…」
「そんな…」
つまりあの子は、心易く言葉を交わしてきた裏葉や柳也と別れ、ただ一人、知る者とていない土地に赴くことになるのだ。私とも別れることになるのは言うまでもない。
「それであの子は何て?」
「仕方がない、と…」
「………」
私は無言で唇を噛んだ。神奈は全てを諦め、受け容れようとしているのだ。裏葉や柳也や、そして短いけれど私と過ごした、おだやかな笑いに満ちた日々を失うことも。
「籠の鳥は所詮籠の鳥、か」
「…何と仰いましたか」
私の言葉に、裏葉の柳眉が吊り上った。
「籠の鳥、って言ったのよ――ねえ、憶えてる? いつかあんたが私に言ったこと」
「え…」
「籠の鳥が外の世界で生きられないとは限らないって」
「…そのとおりでございます」
短刀のような視線を突きつけながら裏葉が答える。その顔に向かって、私はにんまりと笑って見せた。
「それで、よ。鳥を籠から籠に移す時、飛んで逃げちゃうってのはよくある話だと思わない? ってか、籠の鳥が逃げれるのって、そういう時くらいなもんでしょ?」
「あ」
驚いたように裏葉が目を丸くした。逆に考えれば、これはまたとない機会でもあるのだ。
しかし…
「まあ、鳥本人に逃げるつもりがないんじゃどうしようもないけどね」
私は肩をすくめてみせた。本人に逃げる意思が無いのに脱出を強行すれば、それは単なる誘拐だ。素行不良の衛士と変態女官、それに空から降ってきた正体不明の女を加えた三人組が、主である十五歳の少女を誘拐。何というかフォローのしようが無いくらい人聞きが悪すぎる。
少し考えたあと、裏葉は探るように私を見ながら口を開いた。
「…では、その鳥が自由になることを望むのなら、その手助けをしていただける、ということなのでしょうか」
「まあね」
裏葉の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。
「郁未様はやはりわたくしが見込んだ通りの方でございます」
「…その私に、あんた昨夜なにやった?」
半眼でじとっと見る私に、裏葉はしれっとした口調で答える。
「愛しさが嵩じてついいじめたくなるというのはよくあることでございましょう」
「あのね……
けど、神奈本人にその気がないんじゃどうしようもないじゃない。言ったわよね、決めるのはあんたでも私でもない、あの子自身だって」
「神奈様が籠の外に出ることをお望みになっていない筈はありません。ただ、今は少しばかり意固地になっておられまして…」
「意固地?」
「神奈様お一人を北の社に移す話を聞かれた柳也様が大層ご立腹なさいまして。上役の方に直談判なされましたが埒があかず、頭に血が上られたまま神奈様の元に押しかけてしまったのです。
情の強(こわ)さ、ということでは負けず劣らずのお二人でございますから、どちらも譲らないまま結局ものわかれに終わってしまったとのことです」
「…あの馬鹿!」
一番動揺しているのは神奈の筈なのに、冷静であるべき大人の柳也までが感情の赴くままに行動してどうするというのだろう。
「で、柳也はどうするつもりだって?」
「柳也様は神奈様を御母上のところに連れて行かれるおつもりです。ただ、肝心の神奈様がへそをお曲げになられたままでは…」
「! …あの子、母親がいたの」
「はい。今は神奈様同様、いずこかへ囚われているとのことです」
「……会いたいでしょうね」
「無論でございます。ただ、今の神奈様にそれを申し上げてもお聞き入れになってはいただけないでしょう」
「このままあきらめるつもりなの?」
「めっそうもございません。今は意地になっておられますが、神奈様が御母上にお会いになりたくないわけなどございません」
「けど本人が首を縦に振らないんじゃねぇ…」
「そのことですが、一度郁未様から神奈様にお話になってはいただけないでしょうか」
「あんたや柳也が言ってもだめなのに?」
訝しく問う私に、裏葉はにっこりと微笑んだ。
「はい。郁未様は、神奈様のご友人でいらっしゃいますから」
この時、私は頭の片隅で微かな違和感を感じていた。だが、それが一体何に起因するものなのか、私にはまだわからなかった。