それからしばらくは、表向きは何ごともなく見える、雌伏の日々とも言える毎日が続いた。柳也は説得のために神奈の元へ日参する傍ら、密かに脱出の手筈を整え、機を伺っていた。裏葉は自分と、神奈と私の分の旅支度を整えている。
私はといえば、表立って動くと目立ちすぎるので、逆にそれを利用して、「神奈がいなくなったら私はどうなるのだ」とか、「このままここにいさせろ」などとことさらに騒ぎ立てて見せて、衛士達の目が柳也達に向けられないように陽動を行っていた。もちろん、騒ぎに辟易した連中が、中央に使者を立てたりしない範囲で、ではあるが。
神奈は通達のあった日以来、自分の部屋に篭りきりで、何度柳也が訪ねても会おうとはしなかった。
私達は折を見ては警護の人間や女官達の目を盗んで、対屋(たいのや――母屋に向かい合って建てられた別棟)の影や塗籠(ぬりごめ――周囲を完全に土壁で囲まれた部屋)に集まって今後のことを話し合った。話し合う内容が、今年十五になる貴人の娘をうまく言いくるめて連れ出す相談なのがアレだが。
「これでは埒があかん。あいつにも困ったものだ」
「…あんたが頭に血が上ったまま押しかけたりするからでしょうが」
ため息を吐く柳也に、私は冷たい視線を向けながら言った。追い討ちをかけるように、続けて裏葉が言う。
「柳也様にはもうすこしおなごの心というものを学んでいただかねばなりません」
「おなごって、あいつがか?いいところがせいぜい女童(めのわらわ)ではないか」
「童であってもおなごはおなご、にございますれば」
「くそ、面倒な」
すました口調で言う裏葉に、柳也が頭を抱えて毒づく。
「そこが柳也様の悪いところでございます。そもそもおなごの心というものは…」
「…あんたらそんな呑気な話してる場合?」
果てしなく話が脱線していきそうな雰囲気に危惧を覚えて、私はとりあえずツッコミを入れた。と、突然二人は口を揃えて、
「郁未様の気が短いだけでございます」
「うむ、急いては事を仕損じる、とも言うしな」
「あのねえ…」
そんなとこだけ意見を一致させてどうするんだよ…
「だがこのままではどうしようもない。おれが訪ねていっても門前払いだ。無理に押し入ろうとすれば騒ぎになってしまう。裏葉の方はどうだ?」
「お顔を見せてはいただけますが、言葉を聞いてはいただけません」
二人の顔がそろってこっちを見る。私に何とかしろ、ということか。私は、はあ、とため息を吐いた。
「わかったわよ。一応会うだけ会ってみる。説得する自信はないけど」
「だが、部屋まで行ったとしてもあいつが会ってくれるだろうか」
「別れの挨拶、って言えばいくらなんでも話くらいはしてくれるでしょ」
「なるほど、その手があったか」
「さすがは郁未様でございます」
と言うか、これくらい思いつけよ、あんたら。
「ではよろしくお願いいたします」
「って、今すぐ!?」
「はい、あまり時がございません。早いほうがよろしいかと」
「そうは言うけど、一体なんて言ってあの子を説得しろって言うのよ!?」
「郁未様のお心のままをお伝えするのが一番かと」
「心のままって…それじゃ柳也と同じじゃない! よけいあの子がへそを曲げたらどうするのよ!?」
「それは違います」
裏葉は、真正面から私を見て言った。
「柳也様やわたくしは、いくら心易い仲とはいえ神奈様をお護りする随身でございます。籠の外に出ることへの怯えや諦めもさることながら、何よりご自分の心根をわたくしどもに悟られるのを恥じておられるのでしょう。神奈様は気位の高いお方ですから」
「で、『お前達などいなくても余は寂しくなどない』と」
「左様でございます。
ですが郁未様は違います。郁未様は天から降って来たお方。この国の身分とも、政(まつりごと)とも、争いとも、神奈様が翼人として畏れ崇められていることとも、何の拘わりもございません。郁未様は、そのような柵(しがらみ)を越えて神奈様とお話することができる、この世でただ一人のお方なのです。わたくしどもでは届かない言葉も、郁未様ならば神奈様のお心に届くことでしょう」
「…そういうもんかしらねー」
「そうでございますとも」
にっこりと頷く裏葉。まあ、親とか兄弟には言えないことでも、友達だったら話せるってのはよくあることではあるが。
「そこまで言うんなら一応やってみるけど、うまくいかなくても恨まないでよ」
「…その時は末代までもお恨み申し上げます」
嫌なプレッシャーのかけ方だった。こいつならやりかねないし。全身に総毛立つものを感じながら、私は神奈の部屋へ向かった。
神奈の寝所の前まで来たところで女官に止められたが、別れの挨拶に来たのだと言うと、中から「よい、通せ」と声がした。一応、「入るわよ」と声をかけてから、私は御簾を上げて中に足を踏み入れた。
神奈は、この暑さだというのに、寝床の中で頭からすっぽりと夜具をかぶっていた。そのまわりに、気晴らしに目を通そうとして結局気晴らしにならず投げ出されたのか、何冊かの書物が散らばっている。
私は寝床に近づいていくと、おもむろに褥(しとね)に手をかけて思い切り上に引っ張った。
「何をするかっ!」
床の上に転がり出た神奈が、がばっと身を起こしてわめく。髪にはろくに櫛もとおっておらず寝乱れてぼさぼさ、顔はむくみきってひどい有り様だった。
「…どうした、余に別れを言いに来たのであろう」
不機嫌な様子で、早く済ませろと言わんばかりの神奈に、
「あー、あれ嘘だから♪」
「なっ…」
さすがに絶句した。
「だっ、だったら何だというのだっ! おぬしも柳也と同じに、余が寂しがっているとでも言うつもりかっ!」
「だってそうでしょ。でなきゃ一体何なのそのざまは」
「うるさいっ! 余は一人でも生きて――」
「子供みたいに駄々こねないでよ」
強がりを口にしようとする神奈に向かって、私は冷たく言い放った。
「一人でも生きていけるですって? 寂しくないですって? 寝言言うのもいい加減にしなさいよ。ずっとあんたの側にいてくれた人達と離れ離れになるってのに、よくそんなことが言えるわね」
「お前たちと一緒にするなっ! 余は――」
「ただの拗ねたがきんちょでしょ。それとも何?今度行く北の社でもすぐにオトモダチができるから寂しくありませんって? あんたそんなに友達作るの上手かったっけ? へぇ〜、知らなかったわ〜」
「うるさいっ! うるさいうるさいうるさいっ!」
「聞きなさいよ」
耳を塞いでわめく神奈の両手を耳から外して、私は正面から神奈を見据えた。
「柳也も裏葉も、今、あんたのために何ができるか、どうしたらいいか考えてる。それこそ必死でね」
「いらぬ世話だっ!」
「余計なお世話? …ふ〜ん、だったらあんたにとってあの二人は、いてもいなくてもどうでもいい、何の値打ちもない虫けら以下だって言うわけね」
「――っ! だまれっ!」
「何を考えていようがどうでもいい、鬱陶しければぶちっと踏み潰してしまってもかまわない、ただの虫けら」
「だまれだまれっ!」
「この社殿で柳也や裏葉や私と過ごした時間も、一緒に氷を食べて笑ったあの日のことも、忘れてしまっても痛くも痒くもない、どうでもいいただの暇つぶし」
「だまれだまれだまれっ!」
「遊ぶだけ遊んで、飽きたら放り出すおもちゃ」
「ちがうっ! ちがうちがうちがうっ!」
「だからあんたはいつまでも一人ぼっち。北の社も背中の羽も関係ない。あんたを閉じ込めてるのはあんた自身。あんたが自分の気持ちを認めない限り、あんたは永遠に自分自身から復讐されつづけるのよ」
「うるさいっ! 出て行けっ! 出て行け―――――――――っ!」
私は神奈から手を離すと、立ち上がって部屋を後にした。御簾の向こう側で、わっと泣き伏せる声が聞こえた。
「…というわけでね」
「お前な…泣かせてどうするんだ。余計に事態が悪化しただけではないか」
対屋の裏手でことのなりゆきを説明する私に、柳也は頭を抱えてうめいた。
「思ったように言えって言ったのはあんたらでしょ」
「だからといっていじめてどうする!? 説得するならもう少し言葉を選べ」
「言葉を選んで説得するって、聞こえはいいけど、結局あの子を騙して言いくるめるのと同じことじゃない。あの子を翼人として奉り上げてる連中と、どこが違うっていうの。
とにかくあの子が自分の本当の気持ちと向き合わない限り、何を言っても無意味だと思うよ」
「そうでございますね」
「どわっ!」「う、裏葉っ!」
やっぱり音も気配もなくいつのまにかそこにいる裏葉。毎度のことではあるが、状況が状況だけに、ひときわ心臓に悪い。
「郁未様…神奈様は泣いておられましたか」
「うん」
私が頷くと、裏葉の顔にほっとしたような笑顔が浮かんだ。
「それはようございました」
「何がいいというのだ。それではおれの時よりなお悪いではないか」
「神奈様がお泣きになられたのは、郁美様の言葉がお心に届いたあかし。それに、位や立場をはなれたところで同じ年頃の方と心をぶつけ合うことは、神奈様には必要なことでございます」
「そういうものなのか」
「そういうものでございます」
にっこりかつきっぱり頷く裏葉に、柳也はぼりぼり頭を掻いてため息をつく。
「おれには事態が悪化したようにしか思えんのだが…それでこれからどうするというのだ」
「頃合いを見て、今度は柳也様が、神奈様にお心のままをお伝えするのがよろしいかと存じます。きっと神奈様は柳也様のお言葉を聞き入れて下さることでしょう」
「だといいんだがな…まあ、神奈と郁未の不和は社殿で噂になっていることだろうから、おれも動きやすいと言えば動きやすいが」
柳也は首をひねりながら、脱出の手筈を整える続きをするために去っていった。
その後、私は裏葉の部屋で、脱出用に準備された荷物や装束を点検した。裏葉と神奈はごくありふれた、田舎貴族の娘といった風情の旅装束、私は使い古しの狩衣を体に合わせて仕立て直してもらっていた。
私も二人と同じ旅装束がいいのではないかと言われたのだが、わざと酔狂で男の装束を身に付けている女もさほど珍しくはなかったし、女の装束ではいざという時立ち回りがきかない。それに、私が貴族の娘だの侍女だののふりをするのは、立居振舞いや言葉遣いに無理がある。酔狂な格好をしていれば多少振舞いがおかしくても却ってあやしまれないだろう。口の悪い柳也からは「お前、それではまるで都落ちした白拍子だぞ」などと言われたが。
ちなみに、最初裏葉は十二単の唐衣だのなんだの、優に軽トラック一台分になろうかという荷物を持っていこうとしていたが、それは渾身の力で却下した(まとめて裏葉に背負わせてやった。さすがに潰れはしなかったが、体で納得したようだ。ザマミロ)。
一見のんびりした開放感が漂っているかのようにさえ思える社殿だったが、柳也によると、何か不穏な空気が流れているらしかった。上役の命で警護に廻される衛士の数が、目に見えて少なくなってきているというのだ。神奈の出立が近いとはいえ、翼人の警護がどんどん手抜きになっているのはおかしな話だった。まあ、脱出するこちらとしては警護が手薄になるならそれに越したことはないのだが。
そして、北の社への出立を明日に控えた雨の夜、私達は脱出を決行した。