CROSS × FIRE

第7話 脱出(2)

深夜。庭の地面を叩いて、雨が降っていた。私は妙に気分が昂ぶるのを感じながら、寝所の床の上に座って雨音を聞いていた。

すぐ横に設えた寝床には、念のために古い装束や几帳の布を人間の形に似せて丸めたものを置いて、夜具がかぶせてある。

なんとなく、おかしい。そんな予感めいたものが、私の胸の底でざわざわと蠢いていた。

難航するかに思われた神奈の説得だったが、結局裏葉の言った通りあっさりと片が付いた。日参するも門前払い続きだった柳也の拝謁が急に許可され、寝所に通された柳也が「おれに命を下してくれ」と言い終わらない内に、逆に神奈の方から、自分を母親の下に連れて行くことを柳也に命じたのだ。 …まあ、ことが上手く運ぶに越したことは無いのだが、私も柳也も神奈も、三人が三人とも裏葉の掌の上で踊らされているような気がして、私は何となく釈然としないものを感じた。

とにかくそんなわけで後は脱出するだけとなり、私達は決行の時期を窺っていたが、日々手薄になっていく警備といい、書状が寄越されたきり迎えの使者の一人も現れないことといい、神奈を北の社に移動させるという表向きの事情とは別の、何か得体の知れない思惑が動いていることを感じざるをえなかった。

そんなあれこれに考えを巡らせながらじっと雨音に耳を澄ましていると、板張りの床を足音を忍ばせて近づく気配がして、寝所の前で止まった。

「柳也?」

「ああ、おれだ」

短いやり取りの後、装束を整えて太刀を腰に帯びた柳也が部屋に入ってきた。

「今から?」

「夜明け前のつもりだったが、どうも雲行きが怪しい。どうやら否応なしになりそうだ」

「みたいね」

私達は屏風の向こう側の闇に目を遣った。正門の前に宿直(とのい)の男が一人、軒下で雨を避けて欠伸をもらしている。

この頃になるともう、社殿の警護は手抜きもいいところになっていた。以前は正門と裏門に二人ずつ、それに衛士や下働きの者が出入りする木戸にまで見張りが立っていたのだが、今は正門以外の出入り口には板が打ち付けられ、見張りが立つのも正門に一人だけだ。

「裏葉は?」

「仕度を整えている」

「じゃ、行きましょ」

「行こう」

私と柳也は、足音を忍ばせて寝所を後にした。

途中、息遣いと気配を感じて振り向くと、衝立障子の影に女官の打掛けの裾が見えた。一人ではなく、おそらくは二人。こんな夜中に私と柳也が連れ立っていくのを目にして、不審に思ったのだろう。夜這いなら、どちらか一人が相手の部屋を訪ねていく筈だからだ。

私は柳也にしなだれかかると、わざと聞こえる程度の声で甘えるように言った。

「ふふ…それでは今宵は裏葉様も御一緒に」

「? …あ、う、うむ。まことに楽しみなことであるな」

多少ぎこちないがまあよしとしよう。

衝立の影の気配が、「おおおおっ!」って感じでなんだかものすごく盛り上がっている。私も興が乗ってきたのでさらに続ける。

「今宵は柳也様に、女の業の深さおそろしさを、骨の髄まで味わっていただくといたしましょう。お覚悟なされませ」

「それはまたこわいな。はっはっは」

棒読み口調で言った後、柳也は私の耳元に口を寄せて、「こら、いいかげんにしろ。あいつらが覗きに来たらどうする」と小声で言った。

まさか、と思っていたら本当に後を尾けてきたので、とっつかまえて目を金色に光らせながら「見たら殺ス」と脅した。女官達はものも言わずに逃げ去っていった。

裏葉の寝所に着くと、裏葉はもう仕度を終えていて、三人分の背負い葛篭が用意されていた。一人分少ないのは、もちろん、神奈に荷物を背負わせるわけにはいかないからだ。

「郁未様はこれを」

仕立て直した狩衣を差し出されて、私は薄衣を脱ぎ捨てた。柳也が慌てて顔をそむける。

「こ、こら、お前は恥らうということを知らないのか!」

「恥らうも何も、あんた前に全部見たでしょうが。つか出てけ!」

柳也の頭に枕の角(木の部分だ当然)をめり込ませて追い出してから、私は袿(うちぎ)を身に付け、指貫(さしぬき)と狩衣を纏った。陸上部でやっていたように髪を後ろで括り、腰の後ろに刃渡り五十センチ余りの小太刀を帯びる。何か私にも使いやすい武器がないか、柳也に頼んで手配してもらったものだった。普通の小太刀よりも肉厚で刀身の幅も広く、重さはほとんど太刀に近い。なんでも以前ここに押し入ろうとした山賊が携えていたものだそうで、狭い屋内や木立の中でも取り回しが利いてなおかつ殺傷力の高い、純然たる殺人用の凶器だった。

「よくお似合いでございます。まるで若武者のような凛々しいお姿。」

「そうか、そらよかったな」

何となく言ってみたかったのでそう言った。

「神奈は?」

「先ほどお目覚めになりました。着付けはご自分でなさるとのことでしたので、今頃仕度を終えて寝所でお待ちのはずです」

「では行こう」

私達がそれぞれの荷物を手に、神奈の寝所に行くと、神奈は、

「く〜〜〜〜〜〜」

着替えの途中で座りこんで寝こけていた。頬をぺちぺち叩くが目を覚ます気配がない。さて、どうしたものか。

「郁未様、これを」

血の垂れそうなにこにこ笑いを浮かべた裏葉が、どういうわけだか削った氷をてんこ盛りにした高杯を私に差し出した。この非常時に、いつどうやってそんなもん手に入れたんだ!?

「このようなこともあるかと思いまして♪」

いろんな意味で疑問を感じたが、急ぐことだしまあいいか、と思いつつ、私は神奈の襟の後ろをひっぱると、開いた隙間から氷を一気に流し込んだ。同時に、大声を出さないようにぴったりと掌で口をふさぐ。

「…? …??? …………」

神奈の寝顔に一瞬訝しげな表情が浮かんだかと思うと――

「――――――――!!!! ○×△□#“$%&〜〜〜〜〜〜〜!!!!」

キーボードの上段をでたらめに叩いたような声にならない悲鳴を上げて、神奈は死にかけのゴキブリみたいに手足をじたばたさせた。

「あああああ何と愛らしい…」

身を捩って悶絶する神奈を、目に星さえきらめかせつつ感極まった表情で見つめる裏葉。病んでる。私は神奈がおとなしくなるまで待ってから、口をふさいでいた手を離した。

「ぷはっ…ななななななにをするかぁっ、この痴れものっ!」

「いやだって起きないから」

「だからといって余の背中に…」

言いかけて、神奈はぽかんとした表情で私を見た。何故かたちまち、その頬が赤く染まる。何なんだ、一体? 私が頭上の空間に?マークを浮かべていると、裏葉がにこにこと、

「郁未様のお姿があまりに凛々しいので見とれておいでなのですよ」

「ばっ、馬鹿を申せ! 郁未はおなごではないか! 何故余がおなごに見とれなければならんのだっ!」

怒鳴りながらも、耳まで真っ赤だ。ぐあ…男装キャラ確定っスか!? 葉子さんの可愛い仔猫を目指して血のにじむような(どこにだ?)努力を積み重ねてきたというのに!

「まあ、これまでがあまりと言えばあまりにひどすぎたからな」

「…やかましい」

どうでもよさそうにツッコミを入れる柳也を横目で睨んでから、私は裏葉に神奈の着替えを急がせた。当然、柳也は問答無用で部屋の外に追い出した。

神奈を着替えさせながら、面持ちを僅かに緊張させて裏葉が私に言う。

「…あまり穏やかではないものが近づいているようでございますね」

「あんたも感じる?」

「はい。かすかに、ではございますが、雨に混じって」

「どうしたというのだ裏葉?」

不安そうに神奈が裏葉を見上げる。

「大丈夫でございますよ、神奈様。柳也様も郁未様も、とてもお強いですから」

「…そうであったな」

FARGOの実験施設に残されていた資料によれば、『不可視の力』の完全なコントロール体は、陸上自衛隊の歩兵一個中隊を軽く凌駕し、力の行使に伴う体力の消耗という欠点さえ克服できれば、機甲師団すら殲滅可能とされていた。まあ、研究機関の自画自賛(と言うかハッタリもいいところのデタラメだ)ということを差し引いたとしても、一個人の所有する戦闘力としてはけた外れのしろものであることには違いない。

「大丈夫。護るから」

私は神奈に向かって不敵に笑って見せた。すると、神奈の頬がまた赤く染まって、ぷい、と横を向く。頼むからそのリアクションはやめてもらいたいのだが。そっち方面に話が進むと果てしなくややこしいことになるし。

「まだか、急げ!」

衝立の向こうから、柳也の押し殺した声が飛んだ。

「何かあったの?」

「どうにもよくない。気配がどんどん近くなっている。しかも数が多い」

「裏葉!」

「御仕度は只今調いました」

「よし。それじゃ行くわよ」

灯明の火を吹き消すと、私達は寝所を後にした。そのまま庭に出る。

と…

(ちっ!)

音を立てずに柳也が舌打ちをした。

絡みつくような禍々しい気配と共に、澱んだ闇がもぞり、と蠢く。

夜に溶け込むような黒い装束を纏った男達が、塀を乗り越えて庭に降り立とうとしていた。正門の前で見張りに立っていた宿直の男がぼろきれのように地面に倒れている。普通ならば気付いたかもしれないが、雨で気配が遮られていたのだ。

最初に地面に降り立った男が、そのまま抜刀しながら真っ直ぐにこちらに襲い掛かってきた。刀身を煤で燻してあるのか、刃の部分だけが闇に光って見える。

「ちいっ!」

柳也が進み出て男を迎え撃つ。抜く手も見せない太刀筋が男の胴を両断したかのように見えた刹那、

ぢゃぎっ!

刃が金属を噛む音がして、男は地面に打ち倒された。斬撃に悶絶はしているが、血を流している様子はない。

「くそ、厄介な…」

刃毀れのした太刀を見て、柳也が歯噛みするように呟く。黒装束の下に軽装の鎧でも着込んでいるようだ。おそらく闇に紛れての暗殺や誘拐を生業とする連中なのだろう。

その間にも次々に塀の上から降り立った男達が、こちらを包囲しながらじりじりと近づいてくる。柳也は太刀を逆刃に持ちかえた。刃が通らない以上峰で打ち倒すしかない、と判断したのだろう。

「待って。数が多すぎる」

「だがこのままでは逃げ切れん。屠(たお)すしかない」

「私がやる。あんたは手筈通り動いて」

「だが…」

「あの子を護るのがあんたの役目でしょうが!」

言って私は男達の前に進み出た。腰の小太刀を抜き放つ。

「行って!」

「――判った。だが死ぬな」

背後に柳也達の水溜りを踏む足音を聞きながら、私は構えた小太刀の刃越しに黒装束の男達を見据えた。ぶわりと顔に吹き付けてくる男達の殺気に呼応するように、飢えにも似た欲望が腑(はらわた)の底から込み上げてくる。自然と、私の唇は獣じみた笑みを浮かべていた。

ここでこいつらを始末する。一人残らず、この私が、こいつらを――

殺す。

ひゅいっ、と合図の口笛が鳴って、端の一人が柳也達の後を追って動いた。だが、

びゅんっ!

一陣の風が降りしきる雨を真横に切り裂いたかと思うと、そいつの首は胴から離れ、頭を失った体が二、三歩走って水溜りに倒れた。一呼吸置いて切り落とされた首が地面に転がる。

「遅いわね、あんたたち」

刃の血糊を雨の水滴ごと振るい落としながら、私は唇を歪めて嗤った。

男達の間に、一瞬だが動揺と迷いが走る。このまま全員でかかって私を屠すか、柳也達を追う者と、とりあえず私を足止めする者に別れるか。

目の前の雨粒が地面に落ちる合間にも満たないほんの一刹那の逡巡は、しかし私にとっては十分すぎる程の時間だった。

私は速い。柳也よりもこいつらよりも、今この場で動いている何よりも―――

「死ね」

短く呟いて、ほとんど空中で静止しているかのように見える雨の水滴の中を私は奔った。

一瞬の内に駈け寄りざま、地面近く構えた小太刀の刃先を跳ね上げて先頭の男の咽喉から鼻梁までを一気に断ち割り、返す刀で隣りの男の顔面を横あいから斬り落とす。骨ごと削ぎ落とされた顔面が、紐が切れた仮面が外れるようにゆっくりと空中を離れていく。

残りの男達が驚愕に目を見開く隙も与えず、男達の間を縫って奔りながら私は刃を揮った。

闇に鋭く銀色の閃光が走る都度、ある者は下顎を斬り落とされ、ある者は西瓜のように頭蓋を断ち割られ、ある者は首を刎ねられ――断末魔の声を上げる暇さえ与えず、死という名の一陣の疾風が血と肉片を撒きながら吹き抜けていく。

そして、私が男達の背後まで駆け抜けて足を止めた一瞬の後、男達の体は、溜まった雨水のせいだけではない、びちゃっという粘り気のある水音を立てて地面に倒れた。

倒れた男の装束で小太刀の血糊を拭い落としてから鞘に収めると、私は柳也達の後を追った。



「お待たせ。済んだよ」

「おわっ!」

約束の場所に行くと、柳也はまだ、神奈と裏葉を逃がした板塀の抜け穴の羽目板を元通りに嵌め込んでいるところだった。

「お前…まさかあいつら全員屠してきたのか!?」

「うん。あまり派手に『力』を使うと疲れるし、大きな音を立てるわけにはいかなかったからちょっと手間取ったけど。これ、けっこう使いやすかったよ。頭の骨とか斬っても折れたりしなかったし。ありがと」

「…そうか、そらよかったな」

小太刀の鞘を叩いてみせる私に、柳也はなんとなく疲れたような、しみじみとした口調で言った。それ、さっき私が裏葉の部屋で言った台詞なんだが。

「郁未っ、無事なのか!?」

板塀の向こう側から問う神奈の声に、私は「あたりまえでしょ」と答えた。

「じゃ、行きましょうか」

「ああ、行くか」

私と柳也は板塀の側の木に登ると、闇の中に身を躍らせた。