CROSS × FIRE

第8話 脱出(3)

私達は道も無い雑木の生い茂る山の斜面を、闇とぬかるみに足を取られながら進んだ。

どう考えても、ろくに居所から外に出たことのないような貴人の娘を連れて逃げる道ではなかったが、追手もそう考えるだろうと判断して柳也が決めた脱出ルートだった。

柳也はやはりそれなりの修羅場をくぐってきたせいか、闇の中をあぶなげもなく下草を掻き分けて進み、殿(しんがり)を受け持つ裏葉も山育ちででもあるのか、さほど苦労する様子もなく斜面を歩いていく。

だが、さすがに神奈は二人のようなわけにはいかないので、私が手を引いて進むことになった。時折転びそうになるのを私が支えてやっては、なんとか遅れずに柳也の後をついていく。雨に冷えた小さな手の、握った部分だけがほんのりと温かかった。

「郁未…」

「もう少しだけがんばって。あとちょっとで道に出るはずだから」

「いや…そうではない」

闇の中で、首を静かに左右に振る気配があった。

「昔、裏葉から聞いた話に、さる姫君に懸想した男が、姫君を攫って夜霧に覆われた野を逃げる話があった。その姫君はどのような心持であったのであろうな」

「きっと今の神奈様と同じ心持でございましょう」

「なっ…」

何ごとか裏葉に言い返しかけて、神奈は言葉を飲み込み、かわりに私の手をぎゅっと握った。

疲労した神奈の気を引き立てるためか、先頭の柳也が軽口を挿んでくる。

「雨に濡れ泥にまみれて藪で切り傷を作りながら闇の中を進むのと同じ心持では、さぞやその男を恨んだことだろうな」

「…それは大層風雅な解釈でございますね」少し憮然とした調子で、裏葉。

「業平公の話くらいなら、おれでも知っている。風雅も何も、あれは結局…」

言いかけて、何故か急に柳也は口を噤んでしまった。裏葉もそれ以上何も言おうとしない。何となく微妙な雰囲気だ。

「よいのだ…気にせずとも」

神奈が、静かに笑って言った。

「その姫は結局、みちゆきの途中で鬼に食われてしまったのだそうだ」

「………」

「………」

「雅(みやび)な話はそれくらいにしておけ。じき道に出る」

断ち切るように柳也が言って、そこで話は終わった。

柳也の言葉の通り、程なく私達は山道に出た。ちゃんとした街道ではなく、山に棲む動物や樵(きこり)が通るうちに自然にできたけもの道のようだ。

「大丈夫なの、この道?」

「追手の心配ならどの道を選んでも同じことだ。こんな道は山の中にいくらでもある。社にいる人数では、全ての道に追手を差し向けることなどできぬだろう」

「問題は襲ってきた連中ね。何者だと思う?」

「わからん。それに、あいつら自身にも本当の目的など知らされていないだろう。金次第で殺しだろうと拐し(かどわかし)だろうと何でも請け負う連中はいくらでもいるからな」

「あれで終わりだと思う?」

「そう願いたいものだが」

それが希望的観測に過ぎないということは、おそらく柳也自身にもよく分かっているだろう。朝廷の庇護の下にある翼人の住処を襲撃してくる以上、そこには何らかの政治的な思惑が絡んでいると考えるのが妥当だ。一度や二度襲撃が失敗したからといって、それで終わる話だとはとても思えなかった。

「柳也様」

突然、裏葉が緊張した声で言った。私も気配を感じて耳を澄ます。雨音に混じって微かに、山の斜面をこちらに向かって下ってくる足音が聞こえた。数は五か、六といったところか。近づいてくるにつれ、かちゃかちゃと鎧の擦れる音が聞こえてくる。それなりの装備をした連中ということか。

「(やる?)」

「(いや…やり過ごそう)」

声を出さず視線でやりとりを交わして、私達は雑木の生い茂る闇の中に身を潜めた。

足音はぬかるんだ斜面を下り、少し離れた雑木の間を息を乱す様子も無く駆け足に近い早足で通り過ぎていく。星明かり一つ無い雨の山中でこれだけ動けるところからして、かなり訓練された兵士なのだろう。

足音が遠くに去って聞こえなくなってから、私達はようやくほっと息をついた。

「厄介そうな連中だったわね」

「ああ…かなり闘い慣れした手練れだろう」

「社殿からの追手でしょうか?」

「それはないな。来る方向が逆だ。それにおれの部下では、あの動きは無理だ」

「襲ってきた連中のお仲間ってことね。ってことは…」

胸に苦いものが広がるのを感じながら、私は社殿のある方角を振り返った。つられて振り返った神奈が息を呑む。

「郁未、あれは…」

繁った木々の合間を通して、社があると思しき辺りから火の手が上がっているのが見えた。燃え上がる炎に明々と照らされた夜空を、降りしきる雨をついて黒い煙が立ち昇っていく。

「焼き討ちとは、念の入った真似をしてくれるじゃない。

………柳也、あんたこうなるって分かってたんじゃないの?」

「薄々とはな。だがまさかここまでやるとは…」

「どういうことなのです?」

面持ちを険しくして問う裏葉に、私は柳也に代わって説明した。

「つまりね、これは謀略の一環だってことよ。

神奈をあそこに閉じ込めてたやんごとなきお方から権力を奪うとか、失脚させるとかしようと企んでる連中がいて、そいつらが神奈に関する命令系統を横から乗っ取って警備を手薄にさせた上で、今夜の襲撃を実行させた――そんなところなんじゃないの」

単に中央での神奈の扱いに関する方針が変更されたというだけなら、それこそ生かすも殺すも勅命一つで事足りる。警備を手薄にさせた上で夜襲をかけるなどという回りくどい方法を取る必要は無い筈だ。

私の説明に、裏葉は声に嫌悪の色を滲ませる。

「…朝廷の中の諍いごとと神奈様に、何の関わりがあるというのですか」

「それは裏葉にだって解ってることじゃないの?」

「………」

その力が本物であるにせよ、あるいはただの伝説に過ぎないにせよ、翼人はその存在自体が一種の権力の象徴となっている。それに拠って立っている者から翼人を奪うということの政治的な意味合いは言わずもがなだ。

「その者達は、神奈様を捕らえてどうするつもりなのでしょう」

「さあね」と私は肩を竦めた。

「翼人の力を横取りしたいのか、あるいは逆に存在そのものが邪魔なのか、そのあたりのことまでは判らないけど、とにかくやんごとなき方と神奈を切り離したかったんでしょうね」

と、柳也が感心したように、

「なるほどな…そういうことだったのか」

「…って、あんた解ってなかったの!?」

「いや…おれは単に何か上の方のごたごたが絡んでいるという程度にしか考えていなかったんだが」

「…まあ、煎じ詰めればそういうことではあるんだけどね」

「……その者たちは、そこまで余が邪魔であったのか?」

ずっと押し黙っていた神奈が、固い声で言った。

「ならば余一人だけを殺せばよいではないかっ! なぜ社を焼き、みなを殺さねばならんのだっ!」

「証拠や証人を残さないためよ。社を焼き討ちにしたのはどこの誰とも知れない夜盗山賊の仕業。謀反を企んだ当の本人達は、知らぬ存ぜぬまことに恐ろしいことであるぞよ――たぶんそういう筋書きなんでしょうね」

どれだけ実質的な権力を握っていたとしても、「やんごとなき方」の庇護下にある神奈に表立って手を出せば、朝敵の汚名を免れることはできない。政治的な実権を維持するためには、あくまで名目上の正当性を失うわけにはいかないのだ。だから全ては闇から闇へ――神奈を北の社に移送する命令を伝えた勅使も、おそらく今頃生きてはいないだろう。

苦々しく言う私の言葉に、神奈はぎゅっと両手を握り締めて唇を噛んだ。

朝廷内の政治的な思惑、権力争い、陰謀、そういったものが神奈の小さな肩の上にずっしりとのし掛かっていた。

『羽があることを除けば、おれには普通の娘にしか見えんのだが』

いつか柳也はそう言った。その普通の娘が、政治の泥沼のただ中に引きずり込まれている。神奈の背中の翼は、権力に取り憑かれた者達の妄執という泥をたっぷりと吸い込んだ、重い枷以外の何物でもなかった。

「山に明かりが見えます」

裏葉の言葉に目を転じると、対面に黒々とそびえる山の中腹に、いくつもの松明の光が動いていた。数は、三十か四十、あるいはそれ以上だろうか。

「山狩りか。じきこちらにも手が伸びるな」

「…余はよほどあの者達に好かれておるようだな」

舌打ちをする柳也に、神奈がかすれた笑いを漏らす。

「火など放たずとも、社に参ずれば祝詞の一つも上げてやったものを」

「奴らがお前の氏子だとしても、拝謁を許すつもりはないからな」

頑とした口調で言って、柳也は裏葉に声を掛けた。

「どうなさるのですか?」

「おれに考えが――」「裏葉、神奈の錦の唐衣を持ってきてるわね。出しなさい」

柳也の言葉を遮って、松明の光を見つめたまま私は言った。

「い、いえ、あれは…」

「おい――」

「隠しても駄目。葛篭に入れるのを見たから」

「お前、一体何をするつもりだ?」

「何をする、って?」

括っていた髪をほどきながら、私はゆっくりと振り返った。柳也と裏葉、それに神奈が息を呑む。

「むかついてるのよ、私は」

闇の中で、私の双眸が金色の鬼火のような光を放っていた。

闇の中を、私は奔(はし)った。頭から被った衣を翻しながら、生い茂る木立の間を駆け抜け、谷を跳び、峰から峰へと。行き先に迷うということはなかった。ただ、山腹に蠢く松明の光から光へと動き回っていればそれでよかった。

夜目にも鮮やかな色使いの衣は、兵士達の目を惹くには充分だった。私を捕らえようと駆け寄ってくる兵士達の頭上を、衣を翻してふわりと跳び越え、闇の中へ走り去る。

「見ろ、翔んだぞ!」

「翼人だ! 捕らえろ!」

わざと目立つように走り回る私に、呼子の笛が鳴り、灯明に惹き寄せられる羽虫のように、松明を持った兵士達が群がってくる。

捕まらないように、だが振り切ってしまわないように――私を追う兵士達の松明は徐々に数を増し、やがてその列は炎の鱗を纏った大蛇となって、山肌を縦横に這った。

そして――

(ここがいいかしらね)

私は渓流を下った河原で足を止めた。

流れに足を浸して立つと、押し寄せる松明の群れと真正面から向き合う。

居並ぶ兵士たちの中から、逞しい躯(からだ)に使い込まれた鎧を纏った男が進み出てきた。無精髭に覆われた頬に山狗(やまいぬ)を思わせる笑みを浮かべながら私に向かって言う。

「もはや逃れられぬと観念したか、神奈備命よ。それではおれと共に来てもらうとしよう」

「その前におぬしに尋ねておきたいことがある――」

私は男に向かって、神奈の言葉遣いを真似て言った。

「おぬしがこの者たちを率いておる首魁か?」

「その通りだ」

もはや獲物をとり逃すこともなく、隠す意味もないと判断したのか、男はあっさり首肯した。

「ならばもう一つ尋ねたい」

「何だ」

「おぬしの手勢は、ここにおる者で全てか?」

「…なんだと?」

訝しげに問い返す男に、

「お前らこれで全員か――そう言ったのよ!」

ごう、と山を鳴らして渓谷を風が吹き抜け、被っていた衣を夜空に攫っていった。

「き、貴様っ!」

金色の光を宿した私の瞳が、男を見据えていた。川の水面が私を中心にして渦を巻き始め、河原中の石がかたかたと音を立てて震え出す。兵士達の間に、狼狽のざわめきが広がる。

「こ、これが翼人の――」

動揺の色を浮かべてそう言いかける男に、私は目を細めてくくっ、と嗤った。

「―――――! 貴様っ、神奈備命ではないなっ!」

愕然としながらも男は部下に命令を下そうとしたが、既に手遅れだった。

何十トンもある大岩が地面に落下したような、ずん、と腑(はらわた)を揺るがす地響きがして、男達の立っている辺りの地面がクレーターのように大きく陥没した。

そして男達の体が宙に浮いたかと思うと、目に見えない巨大な手にまとめて掴まれたように一つになってぐしゃりと潰れ、真っ赤ないろをした肉塊と化した一瞬の後――

ぼぢゅばぁぁぁっ!!!

重く湿った破裂音と共に、膨大な量の血と肉片と臓物が、河原一面を埋め尽くして分厚く撒き散らされた。

松明の炎が消え、辺りは再び濃い闇に覆われた。

東の空が白み始める頃になって、私は柳也と合流した。というより、神奈が戻ってこない私を案じて、柳也に命じて私を捜しに来させたのだ。

『不可視の力』を使ったせいで体力を消耗し尽くした私に柳也が肩を貸して、私達は山道を歩いた。夜明けと共に雨は霧に変わり、遠くから山鳥が鳴く声が聞こえてくる。

「…そっちは無事だったの?」

「ああ…何人か雑兵に出くわしはしたが、どうにか片づけた。神奈も裏葉も無事だ」

「そう…」

「それも全てお前が追手のほとんどを引き付けてくれたおかげだ。ただ、神奈の奴が、『郁未が殺されてしまう』と騒いで大変だったがな」

「…あの子らしいわね」

「まったく手のかかる姫君だ」

ふっと笑みを浮かべる私に、柳也が同じように笑って言った。

その後しばらく無言で歩いたあと、柳也がぽつりと口を開いた。

「なあ…」

「…何?」

「お前を捜す途中で、おれは河原にも下りてみた」

「………」

「地獄だな、あれは」

「………」

「あれは、おまえがやったのか?」

視線を合わせず、私は無言のまま頷いた。

「そうか……」

その後またしばらくの間、沈黙が続いた。

「なあ…」

再び、柳也がぽつりと言う。

「お前もう、あの力を使うのはよせ」

「………」

「前にも言ったが、おれはお前のことも、普通の娘だと思っている」

「…普通の?」

私の唇が自然と皮肉な笑みに歪んだ。だが、柳也は気にする様子もなく淡々と言葉を続ける。

「そうだ。おれとお前と、神奈と裏葉。四人で一緒に氷を食べて笑い合った日のことを憶えているか? おれは、あの日のお前の笑顔がかりそめのものだったとは思いたくはない。あの日のお前が本当のお前だったのだと信じたいのだ」

「………」

「昨夜のような鬼の貌(かお)を、もう神奈には見せないでやってくれ」

「………」

「お前は、ただの十七の娘であればいい」

「……無理よ」

かすれた声でようやく搾り出すように答える私の頬に、涙が零れ落ちた。

「いまさら普通の娘なんて、そんなの無理に決まってる。お母さんが殺されて、あいつも殺されて、社が焼かれて、人がいっぱい死んで、FARGOの奴らも殺して、これからだって殺らなきゃ殺られるっていうのに、一体どうしろって言うのよ!? 私も神奈も、あんたたちみたいな普通の人間じゃないのよ!」

「笑えばいい。あの時のように」

感情の迸るまま支離滅裂な怨嗟の言葉を吐く私に、柳也は恬淡として答えた。

「あの日のお前達の笑顔が戻るなら、おれは命を賭してもいいと思っている」

「……馬鹿でしょ、あんた」

「自分でもそう思う。最近特にな」

山道の遥か遠くに、神奈と裏葉が待ち侘びる姿が朝霧に霞んで見えた。