CROSS × FIRE

第9話 旅路

私達が社殿を脱出してから五日が過ぎていた。

あの夜以来新たな追手が掛かる様子もなく、人目を避ける必要はあったものの、私達はそこそこに平穏と言える旅路を歩んでいた。

まあ、社殿にいた人間であの場から無事に逃げ遂せた者はおそらく私達の他にはいないだろうし、襲撃を仕掛けてきた連中にしても、親玉を含めて私がほとんど鏖(みなごろし)にしてしまったのだから、そもそも追いかけてくる人間そのものが当面存在しないのだが。

柳也によれば、襲撃を仕掛けてきた連中は、どうやら坂東(関東地方)の傭兵団だったようだ。野盗やごろつき、ならず者を力で纏め上げた精強な軍隊で、金さえ払えば汚れ仕事でも何でも平然と請け負う連中だということだった。普段はもっぱら荘園の開墾に精を出しているような社殿の衛士では、仮に不意をつかれていなかったとしても敵う相手ではなかっただろう。

私達は田舎貴族の一行を装っていたが、雨の中を泥だらけになりながら逃げ回ったりしたせいで、いまや、「田舎」の上に「貧乏」と「没落」という冠詞が追加されていた。こういう一行は今時さほど珍しいものではないらしく(頼りにする親類縁者がいない場合、乞食に身を落とすのはまだいいほうで、中にはそのまま野垂れ死にする者もいるそうだ)、お陰でさらに目立たなくなりはしたが、当然あまり嬉しい話ではなかった。

神奈の母親の居所は不明だったが、私達はまず南へ向かった。社殿にいた古株の衛士から、以前南の方の社に翼人の母子が幽閉されていたらしいという話を柳也が耳にしていたからだった。噂はあくまで噂にすぎないし、そもそも「南の方」というだけで何処の社とも分からなかったが、それでも何の見当も無いまま逃げ惑いながら訪ね歩くよりはまだましだった。

それより何より、さしあたって問題なのは…

「暑いな…」

雲一つ無い空を見上げて、柳也が忌々しそうに呟いた。山道を覆うように張り出した木々のお陰で、容赦無く照りつける陽射しに直接晒されることこそ無かったが、辺り一面をみっちりと覆う蒸し風呂のような熱気まではどうにもならなかった。それに加えて、耳鳴りのようにわんわんと重なり合う蝉の鳴き声がさらに暑苦しさに拍車をかける。

「少し休もう。このままでは暑気当たりでへばってしまいそうだ」

「そうね」

げんなりと言う柳也に私は頷いた。無論、元々は流れ者だった柳也がこの程度の暑さに音を上げる筈もない。慣れない旅路に憔悴している神奈を気遣って、わざと自分から声に出して言ったのだ。

「これしきの暑さで、存外にだらしのない従者であることよの」

気丈を装ってそんな憎まれ口を叩いたりはしているものの、神奈の顔色は悪く、先程から足元もふらついている。私の見た感じでは、熱射病一歩手前だ。

実際のところ、ほとんど社殿から出たことの無い神奈に、真夏に徒歩(かち)での旅路を強いること自体、無茶な話ではあるのだ。だが、あのまま社殿にとどまっていれば、最悪、命を失うことになっていてもおかしくはなかっただろう。意地だろうと強がりだろうと、今は何とか耐えて乗り切ってもらうしかなかった。

私は竹筒の水で手拭を湿らせると、木の根元に凭れてぐだっと座り込んだ神奈の額にのせてやった。それを裏葉が袖でぱたぱたと扇いでやる。

「あんた達、水は?」

「あとわずかばかり」

「おれもだ」

私の竹筒も先程手拭を湿らせた分で空っぽだった。

立ち止まって耳を澄ますと、木々の間からかすかに水が流れる音が聞こえてくる。

「この下に川があるみたいね。水を汲んでくるから竹筒を貸して」

「頼む」

「お願いいたします」

私は二人から竹筒を受け取ると、山道の脇の斜面を駆け下りた。雑木の生い茂る急な斜面を二十メートルばかり下ったところで急に視野が開けて、緑に深く囲まれた岩場を渓流が走っている。私はまず冷たく澄んだ流れで咽喉を潤した後、手と顔を洗ってから、竹筒に水を汲んで斜面を取って返した。

「はい、お待たせ」

竹筒を渡してやると、神奈はんくんくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「ぷはっ、生き返るの」

「まことに、甘露にございます」

「ん? 郁未、お前なんだかえらくさっぱりした顔をしているな」と、私を見て柳也が言う。

「ついでに顔洗ってきたから。冷たくて気持ちよかったわよ」

「自分だけとはずるい奴よの」

ちょっとだけ復活した神奈が羨ましそうに言うと、裏葉が何ごとかを考える顔つきになる。

「郁未様、川のある場所は、どのようなところでございますか?」

「どのようなって、普通に山の岩場の小川だけど、そんなこと聞いてどうするの?」

「そこで水は浴びられましょうか?」

「…ああ、なるほどね。大丈夫だと思うよ」

「…いや、ちょっと待て」

裏葉の提案に、柳也は渋い顔をした。

「川の側に行くのはかまわんが、せめて顔と手足を洗うくらいにできないか。万が一にも人に見られるわけにはいかん」

私達はともかく、神奈のことを案じているのだろう。確かに背中の翼を誰かに見られればあっという間に噂が広がって、私達の居場所からどの方角へ向かっているかということまで、全て追手の連中の知るところとなってしまう。

「とは申しましても、この夏の盛り、五日の長きにわたり湯浴みもかなわずというのは、神奈様におかれましてはあまりにおいたわしい話…しくしく」

「…余ならかまわぬ。すておけ。浴びたければそちたちだけで浴びるがよかろう」

強がって見せる神奈だが、やはり体を洗いたいのだろう、少し切なそうな表情だ。私にしたところで、いい加減我慢の限界にきている。その限界を乗り越えれば十日でも一月でも平気で風呂無しでいられるようになるのだろうが、そんな限界に挑戦したくは無かった。当たり前だが。

「要は神奈様の羽が人目につかなければよいのでございますね」

少し考えた後、何か思いついたのか、急ににこにこと裏葉が言った。

「まあ、そういうことだが」

「ならば、木の間に綱を渡して換えの衣で囲いをしてはいかがでしょう」

「…ああ、なるほどね」

つまり即席のカーテンで周りを囲って、そこで水浴びをしようということだ。なんだかさらに目立つ気もしたが、少なくとも神奈の翼を人に見られる心配はなくなるだろう。

「それでいいんじゃないの?」

「…ふむ、まあいいだろう」

私が言うと、不承々々といった感じではあるが、柳也は頷いた。

「では参るぞ! ……ぬ?」

水浴びができると決まって神奈は元気よく立ち上がりかけたが、立眩みを起こしたらしくへたっと地べたに座り込んでしまった。

「…何をやってるんだ、お前は?」

「う、うるさいっ!」

怒鳴ってまた立ち上るが、今度は二、三歩ふらふら歩いて木の幹に頭をぶつける。

「ぬぐぐぐぐ…」

「仕方がないな…」

柳也は頭を押さえて唸っている神奈の前まで行くと、背中を向けてしゃがんだ。

「ほら、おぶされ。下まで連れて行ってやる」

「ばっ、馬鹿にするでない! 余は赤子ではない! ちゃんと自分の足で歩ける!」

「で、立木に頭をぶつけていては世話がないだろう」

「ぬぬぬ…」

悔しそうに唸る神奈。意地もあるのだろうが、何より男の背中に背負われるのが恥ずかしいのだろう。たぶん柳也は全然気づいちゃいない――と言うより、あくまでも保護者のつもりでいる柳也にしてみれば、神奈が自分に対してそんな感情を抱くこと自体、理解の範疇の外なのだろうが。

「ったく…」

私は溜め息をついて神奈に歩み寄ると、ひょいとお姫様抱っこに抱き上げた。私や柳也と同じくらい食べているにも拘わらず、その体はそれこそ羽根のように軽かった。

「わ、な、何をするかっ!」

「この子は私が面倒見るから柳也は荷物をお願い」

「――分かった」

少し呆れた表情で私達を見遣って柳也は頷いた。

「おろせっ! 余は一人でも――」

「ほら、暴れないで可愛くしててちょうだい……ね?」

「……」

神奈は最初じたばたしたが、私が軽く額を触れさせながらじっと目を見つめて言うと、何故か大人しくなって黙り込んでしまった。

「では姫様、しばしのご辛抱を」

「う…うむ」

口ごもりながら頷く神奈に、「お顔の色が熟れた南天の実のようでございます」と、裏葉がいらんことを言う。

「うっ、うるさい! 郁未、早よう川へ参れ!」

「はいはい」

神奈を抱っこしたまま、私は再び山の斜面を下りた。後に柳也と裏葉が続く。

渓流に着くと、私達は斜面の上からは木の繁みが張り出して見えない場所を選んで立木の間に細引を張り、そこに替えの衣を吊り下げて沐浴のための空間を確保した。ちなみに柳也には「覗いたら殺ス」と因果を含めた上で、離れた場所で勝手に一人で水浴びでも何でもしろと言っておいた。

「神奈様、ではお召し物を」

やたらと表情を輝かせながら、裏葉が両手をわきわきさせる。

「よい。衣を脱ぐくらい余一人でもできる」

「ではお体を洗うお手伝いを♪」

「それもいらぬ」

「なっ、何故でございますか!?」

冷たく言い放つ神奈に、親が急死したレベルの激しい動揺を顔に浮かべて言い募る裏葉。

「これまで同様、誠心誠意心を込めて手伝わせていただきますのに!」

「誠心誠意も何も、おぬしに体を洗わせたら胸と尻と下腹ばかりやたらとしつこく洗うではないかっ!」

「大切なところでございますゆえ、そこはやはり丹念に洗いませんと」

うわこいつ神奈まで毒牙にかけてやがる。

「丹念の範疇を過ぎておるわっ!」

言い捨てて、帯を解こうとしかけたところで神奈の動きがぴたっと止まった。何故かもじもじしながらこちらを向く。

「何?」

「…その…郁未もそこにおるのか…?」

「? …そうね、向うに行ってるよ」

おそらく背中の翼を見られたくないのだろう。私はその場を離れようとした。

と…

「ま、待て!」

「? 何なの?」

「そ、その…なんと言うか…男の装束を纏った郁未がそこにおると、殿方に見られているようで恥ずかしいのだ」

だからあっちに行くと言ってるのに何を言っているんだろうこのムスメは。

「だが、余は郁未を柳也どのと同じようには扱いたくはない。柳也どのは男だが、郁未はおなごだからな。だから……」

言いよどんで、顔を赤くして俯く神奈。何となく恣意的かつ強引なイベントの予感がする。やがて、意を決したように神奈は顔を上げて言った。

「郁未も一緒に水を浴びてくれれば、余は恥ずかしく思わなくとも済むのだ」

あ、やっぱり。

「だ、駄目であろうか…?」

「…いいよ、別に」

上目遣いにおずおずとこちらを見る神奈に、どこでおかしなフラグが立ったんだろうと思いつつ、無碍に断る理由もないので私は頷いた。帯を解きながらふと隣りを見ると裏葉が、どういう意味だかよく分からないが『百合きゅん秘帳』と表紙に書かれた帳面に一心不乱に何かを書きとめているが渾身の力で無視する。

私と神奈は衣を脱いで冷たく澄んだ渓流に足を浸した。石鹸もシャンプーもなかったが、やはり何日か分の汗と垢と埃を洗い流すのは気持ちがいい。私達は髪と体の汚れを丹念に洗い落とすと、岸に上がって乾いた布で水滴を拭った。

「ふう、気持ちよかった」

「郁未の言うとおり、まことに心地がよいな」

「それだけでございますかっ!」

突然の血を吐くような叫びに振り返ると、無念の形相凄まじい裏葉が仁王立ちでこちらを睨みつけていた。手に持った『百合きゅん秘帳』(嫌なタイトルだ…)が怒りにぶるぶる震えている。

「もっとこう、『郁未の胸おっきー、さわっちゃえ』『きゃんっ、えっちぃ!えいっ、おかえしっ』『あ〜ん、そこは反則ぅ〜』といったような正しいやりとりはないのですかっ!

柳也様も柳也様でございますっ! このような時は故意か偶然か、結果的に沐浴を覗き見ることとなって、それを見つかって頭から水をかけられた上に股間を蹴られあえなく悶絶、その後当分の間は変態の誹りを受けるのが世の理だと申しますのにっ!」

「どこの魔界の理よそれはっ!」

「裏葉は時々わけのわからぬことを言うな」

しょっちゅうだと思うが。

「かくなる上は、せめてよすがに神奈様の着付けなりとも…」

「あ、もう済んだけど」

「うむ、郁未が手伝ってくれた。これくらいなら、慣れれば余一人でもできそうだ」

「な、なんとっ!」

裏葉の顔を、黒々とした絶望の色が覆った。よろよろと二、三歩歩いて木の幹に縋りつくと、袖を口元に当ててよよよ、と泣き崩れる。

「それでは…それではわたくしは、この先何を心の支えに生きてゆけばよいというのですか…っ!」

死んでしまへ。

魂の腐った恨み節に頭痛を覚えつつその場を離れ、ふと川の上流に視線を向けると、

「ん? 水浴びはもう終わったのか?」

柳也が褌を洗っていやがった。

…アノ、カワノミズッテ、ジョウリュウカラカリュウニムカッテナガレルノデスガ…

一瞬呆然とした後、私は無言で柳也の顔面に拳をめり込ませた。

深夜。

小太刀に砥石をあてながら見張りをしていると、もそもそと起き上がる気配がして、神奈が目をこすりながらこちらに歩いてきた。

「どうかした?」

「…郁未は寝ないのか?」

「あと少ししたら柳也が替わってくれるから、そしたらね」

「そうか……」

「あんたは起きてないで眠れるだけ寝ておきなさい。どうせ明日も一日歩くことになるんだから」

「うむ…」

神奈は頷いたが、すぐには立ち去らず、しばらくそのままじっと黙っていた。やがて再び口を開く。

「郁未……どうしておぬしはそんなに強いのだ?」

「強くなんかないよ、私は」

「だがおぬしや柳也は余を護るために闘ってくれた。それに今も余のことを護ってくれている………余は護られるだけだ…」

俯く神奈に、私は「馬鹿ね」と言って指先でつん、と頭を小突いた。

「単に力の強い弱いってことなら、そんなの全然意味ないよ。あんただって社にいた時は私を牢から助けてくれたじゃない。それとこれとどう違うって言うの?」

「だがそれは余が…」

「うん。あの時あんたは偶々私を牢から出す権限を持ってて、私を自由にしてくれた。そんなことしても別に何の得にもならないのにね」

「……」

「それと同じよ。私は偶々特別な力を持ってて、今の自分にできることを、単にやりたいからやってるだけ。それは柳也も裏葉も同じだと思うよ。あんたも、自分にできることっていうか、やるべきだって思うことをやってればいいんじゃないの?」

「……………そうか。……すまぬ、邪魔をしたな」

嘆息するように言って、神奈は踵を返した。

途中、ふと思いついたように足を止めると、ぽつりと口を開く。

「いつか――郁未が生まれた国に行ってみたいものだ」

「考えとくよ。このごたごたが全部片付いて、あんたがお母さんに会えたらね」

「…そうであるな……」

神奈の小さな背中が闇の中を去っていくのを見送ってから、私は顔を前に向け…

「全く駄目なお方でございますね、郁未様は」

「どわあっ!!!」

暗闇の中のすぐ目と鼻の先に、裏葉の白い顔が浮かんでいた。

「ああああああんたいつからそこにいたのよっ!」

「よろしいですか、郁未様。神奈様は寂しがっていらっしゃるのです――」

こちらの質問を完全に無視して、謡うように裏葉が言う。

「夏の夜の静けさの中、星の降る空を見上げて、ふと胸を締めつける寂しさ切なさに震える乙女の心。それをあのような口先だけのおためごかしの言葉でお帰しになられるとは言語道断、愚の骨頂、もはや鬼畜の所業――」

「あ、あのね…」

一方的な非難というか、意味不明な難癖に口をぱくぱくさせる私に、裏葉はびしいっと人差し指を突きつける。

「郁未様のなすべきであったことはただ一つ!優しく肩に手を回してじっと瞳を見つめ、頬を染める神奈様に『かわいいよ』とささやき、やがて重なる唇と唇」

…まだひっぱるか、そのネタを。

「小鳥のように唇を幾度か啄ばみ合った後、ちろちろと唇を舐める郁未様の舌に、我慢しきれなくなって吸い付く神奈様。見るものとてない夜陰の中、少女と少女の舌がくちゅくちゅと絡み合う可憐な音だけが微かに聞こえてくる」

「…………」

頭痛を堪えつつよく見ると、裏葉は『百合きゅん秘帳』(だから頼むからそのタイトルをなんとかしてくれ)と思しき帳面を一心不乱に朗読していた。この暗闇の中でどうやったら字なんて見えるのか謎だが。

「表衣の上からゆっくりと愛撫を繰り返していた郁未様の指先が、やがて襟の袂から差し入れられる。神奈様が身をよじったのは愛撫から逃れるためでなく、袂のより奥深くまで郁未様の指を受け入れるためで…」

「…ええかげんにさらせや」

私は小太刀を抜き打ちざまに『百合きゅん秘帳』を両断した。次の瞬間、ごう、と音を立てて突風が吹き、綴じが切れてばらばらになった頁を夜空高く舞い上げていく。宙を舞う紙に混じって、裏葉の白い顔が声も出さずにげたげたと笑いながら、闇の中を夜空へと消えていった。

そして風が止んだ時、私の前には元通りの、夏の宵の暗闇と静けさが漂っているばかりだった。

「………なんぼなんでもそれはないだろ」

しばらく呆然とした後、私はやっとそれだけ呟いた。

一万歩譲って変態侍女でもいい。ただ、旅の道連れには、せめてヒトの範疇であってほしい。強く、ただ切にそれだけを願った。