「……」

夏実は、ここのところ高木に元気がないのを気にしている。
それまでは美和子とコンビを組んでいたが、彼女が香港研修の間は夏実の前に美和子と組んでいた高木に預けられていた。
夏実は所轄署時代から、美和子に対して尊敬を通り越して崇拝に近い感情を持っていたので、彼女とバディと聞かされた時は天にも昇る気持ちだった。

実際、一緒に仕事をしてみると端で見ている以上に有能であり、細やかな気遣いが出来る人だと実感し、ますます好意の度合いが増していた。
女性の後輩ということもあって、美和子も夏実を妹のように可愛がっていた。
その美和子が長期研修で離日すると聞いた時は寂しくなったものだが、今度は高木と組むように言われ、気を取り直した。

美和子と高木が恋人関係であることは、それとなく察している。
一課内でも噂だったし、配属されてみると、もうほとんど公認に近い形になっていた。
美和子自身の口からも何となく聞かされたことがあった。
だが、少なくとも署内や捜査活動に於いては、まったくそのことを意識させられなかった。
先輩で年上である美和子は高木に対しても厳しく指導するし、なれ合うようなところはまるでない。
どちらかというと消極的な高木を、気の強い美和子が叱咤激励するというのがパターンらしい。

最初は、失礼ながら「こんな冴えない男のどこが気に入ったのか」と不思議に思っていたものだ。
行動が消極的であり受動的でもあるので、優柔不断と判断されることも多い。
しかし、高木と行動をともにしていくうちに、彼の優しさや気遣いに気づくようになった。
美和子は「女だてら」という差別的な表現を使いたくなるような気丈な性格だったから、それを優しく包み込むような男性がよかったのかも知れない。

それに、聞いたところによると、最初は高木の方からの一方的な片思いだったのだそうだ。
何でも美和子には以前、意識していた先輩刑事がいたようで、彼は殉職したらしい。
そのトラウマが強く、あれだけの美人にも関わらず、その後はずっとフリーだったようなのだ。
美人で仕事も出来て、一見隙がないから近寄りがたい、という面もあったかも知れない。
しかし美和子も人間だから、実は私生活が少々ずぼらであったり、ファッションにはほとんど興味を示さないとか、そういう面もある。
仕事で気が張っているから、プライベートでは一気に緩むようなのだ。
そんな彼女をサポートするには、確かに高木のようなタイプがいいのかも知れなかった。

夏実も美和子に似た面が多いのだが、好みの男性のタイプだけは違うようだ。
どちらかというと高木のような男はタイプではない。
夏実は性格的にも体力的にも「強い」のだが、それが彼女のコンプレックスになっている面もある。
きっと大抵の男からは「可愛げのない女」だと見られているに違いないと思っていた。
だからなのかも知れないが、夏実の好みは自分よりも強い男だったのである。

どう見たって高木は候補とは極北にいた。
ただ、「男」としてはともかく同僚として、あるいは美和子の恋人として好感は抱いている。
仕事については、不慣れな夏実に手取り足取り教えてくれるし、何かヘマをやらかした時にも庇ってくれる。
そういう意味では有り難い存在ではあった。
もともと高木は元気溌剌というタイプではなく、美和子によれば「尻を蹴飛ばされる」感じだったらしい。
でも職務に消極的なわけではなく、捜査も訊問でも気後れするようなところはない。
あくまで「美和子に比べれば」ということなのだろう。

それにしても、ここ最近の元気のなさは目に余る気がする。
最初は、恋人が遠くに離れているからなのかとも思ったが、刑事をやっている大の男がそこまでなよなよするというのもおかしな話だ。
第一、夏実自身、彼氏とは遠距離恋愛なのだ。
それに比べれば、美和子はあと一ヶ月もすれば帰ってくるのだし、多分、話だって電話で毎日していることだろう。
そもそも、高木が悄然としてきたのは、ここ数日のことなのである。
捜査で失敗したということもなかったし、理由としては美和子との間に何かあったと考えるのが妥当だと思う。
愛し合っているとしても男女の仲には色々あるだろう。
それは夏実だって同じである。
いちいち落ち込んだり怒ったりしていたらキリがないというものだ。

その高木は今日の事情聴取の結果を、携帯で上司に報告している。
暗い顔でやや猫背になっている高木を見ると、夏実はつい背筋を伸ばしてやりたくなる。

「高木さん! どうしたんですか、元気ないですよ!」

携帯を切ったのを確認すると、夏実はことさら明るく振る舞って、高木の背中をドンと叩いた。
高木はたたらを踏んで数歩よろよろと歩かされると、微苦笑を浮かべて元気の良い後輩へ振り返った。

「……痛いなあ、辻本さん」
「これくらい何ですか。まだ若いんですから、ほら元気出して下さい!」

先輩と言っても、夏実よりひとつかふたつ年上なだけだ。
若いと言えば若いだろう。
しかし高木は、この数日でガックリと老けたような気がしていた。
夏実は、少々頼りない先輩刑事の前へ回って言った。

「で? 目暮警部、何か言ってました?」
「あ、いや別に……。こっちは特に何もないから直帰してくれていいって……」

今日は警察病院へ赴き、加害者を訊問してきた。
事件自体は単純で、刃物で向かってきた路上強盗を、被害者が投げ飛ばして死なせてしまったのだ。
この時、強盗犯は被害者の腹部に刃物を刺しており、その上で反撃した挙げ句に殺してしまったわけで、一転して加害者扱いされてしまっている。
ただ状況を考えると過剰防衛とも言えず、まして凶器を使ってきた犯人に対して素手で対抗したのだから、公判でも恐らくは正当防衛となるはずだった。

しかし、その強盗犯というのが、かつて夏実と美幸にストーカー行為を働き、挙げ句、夏実を脅して暴行し、美幸までもその毒牙に掛けた男だったのだ。
特に夏実は徹底的に嬲られ、ほとんど性奴隷じみた扱いを受けていた。
そのこと自体はごく一部の者しか知らず、当然高木も知らされていない。

しかしその男を殺したのが陸上自衛隊関係者だと判明、事態は混迷の様相を見せてくる。
彼は自分の身分について決して口を割らず、持参していた鞄に何やら不審なものが潜んでいたらしい。
極秘に陸自筋から、彼を自衛隊病院へ移したいと要請があったようだが、事件の全容が判明するまではそうはいかないと警察側が突っぱねた。
供述を拒んでいては、それが覚束ないというわけだ。

それまで美和子が担当していたのだが、美和子がいない間は夏実が引き継いで高木とともに捜査している。
連日のように病院へ通い、被疑者の供述を求めているのだが結果は芳しくなかった。

「そうですか」

高木の言葉を受け、夏実は腕時計で時間を確認した。
夕方の7時半になるところだった。
そういえば周囲も仄暗くなってきている。

「高木さん、どうされます? 一応、本庁へ顔を出しますか? それとも……」
「ん……、ああ、そうだね……。何もないって言うから、今日はもう帰ろうか。辻本さんはどうします? 刑事部屋に戻る用事、ありますか?」
「いいえ、特には……」
「そう。なら、今日はここまでにしようか。じゃあ、明日、また……」

そう言って踵を返そうとした高木を後輩の女刑事が止めた。

「あ、高木さん。今日、何かご予定ありますか? どこかへ行くとか」
「え? いや別に。このまま家に帰ろうと思ったんだけど」
「時間あるんですね? じゃあ、たまにはいかがですか?」

と言って、夏実は笑いながらクイッと飲む仕草を見せた。
高木は少しびっくりする。
男同士はともかく、女性から誘いを受けたのは美和子以外なかったからだ。

「え、ぼ、僕とかい?」
「当たり前ですよ。いやですか?」
「あ、いや、そんなことはないけど……、でも辻本さんは、いいの?」
「いいに決まってます、あたしが誘ってるんですから。あたし、元気ない人見ると励ましたくなっちゃうんですよ」

明るくそう言うと、夏実は高木の腕に腕を絡め、寄り添うように店へ向かった。

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連れて行かれたのは普通の居酒屋である。
繁盛しているらしく、多くの酔客で立て込んでいた。
どちらかというと若い客が多いようだ。
墨東署管轄内では、いくつか行きつけの店があった夏実だが、さすがに桜田門や虎ノ門周辺にはそんなものはない。
美和子を始め、本庁での新しい友人に誘われて、覚えた店がここらしい。

高木は、目の前でぶりの刺身を口に運ぶ夏実を見ている。
捜査員同士で事件の打ち上げの際に飲みに行くことはあったが、その時でも高木はさほど夏実を意識することはなかった。
見た目はすっきりとした体型なのに、実に良く食べるのだ。
高木がメニューを見ながらあれこれ迷っているうちに、次々と料理を注文してしまう。
あっという間にテーブルは大小の皿で埋め尽くされ、たちまち平らげていく様は圧巻だった。

健啖家だとは聞いていたが、話以上の食欲だ。
これだけ気持ち良く食べてくれるなら、一緒に行く男は満足だろうなと思う。
せっかく食事に行っても小食だったり、飲みに行ったのに飲めないとか、そういう女の子だと、誘った男はがっかりするものである。
夏実は酒はあまり強くないものの飲めないわけではなく、その分たくさん食べる。
なるほど、夏実が男性刑事たちに人気なのもわかる気がした。
見た目が美人というだけでなく「誘い甲斐」がある子なのだ。

それにしても少し意外だったのは、注文する料理が和食中心だったことだ。
入った店も和風料理をウリにしているようだ。
モツ煮や鶏の唐揚げ、サラダといった定番も頼んでいるが、他は刺身やほっけの干物、イワシの蒲焼き、冷や奴などがテーブルに並んでいた。
偏見なのだろうが、見た目は和食よりも洋風なものを好むような気がしていていたから意外に思えたのだろう。
そう言えば「時代劇が好き」だとも言っていたように思う。
案外、古風なところがあるのかも知れなかった。

ふたりの会話は、最初は少しぎこちなかった。
夏実にしても、高木とふたりっきりで飲みに行くなど初めてのことだった。
どうしても話題は仕事のことなど、当たり障りのないことになりがちで、話が途切れてしまうと、ふたりとも沈黙してしまうこともあった。
それでも、高木はもちろん夏実もあまりアルコールが強い方ではなかったこともあり、時間が経つにつれ、そして杯が進むにつれて酔いが回り、口も軽くなっていく。
ふたりとも、飲むと明るくなるタイプだ。
夏実がここで高木に斬り込んだ。

「……最近どーしたんですか、高木先輩!」
「え? どうしたと言われても……」

夏実はほんのりと頬を染め、少し呂律も怪しくなってきている。
何となく目も座ってきた感じだ。
高木は少し意外に思った。
普段の夏実を見ていると、かなりの酒豪ではないかと思っていたのだ。
それが、生ビールの中ジョッキをひとつ空け、グレープフルーツサワーを大きめのグラスに半分ほど飲んだくらいで、もうかなり酔っているように見える。
そう言えば、夏実の歓迎会の時も、彼女は早々に潰れてしまった憶えがある。
主役の彼女に、若手刑事たちが面白がって次々と酌をしたせいもあるだろうが、案外と強くないのだなと思ったものだった。

もっとも、そう言う高木にしたところでさほど強くはなく、恋人の美和子に比べれば「弱い」方だろう。
高木も中ジョッキ2杯とウーロンハイをひとつ空けただけだ。
今は、さっき注文したレモンサワーを飲んでいるところだ。

夏実は「氷くださいね」と言って、高木のグラスから箸を器用に使って氷を摘み、すっかり氷が溶けていた自分のグラスのふたつほど落とした。
そんな夏実を見ながら「ああ、酔ってるな」と高木は苦笑した。
その夏実が、サワーを舐めるように飲みながら言った。

「だっておかしいじゃないですか、最近。元気ないですよ、先輩!」
「あ、そうかなあ……。僕はいつもこんなもんだと……」
「違いますよ。そりゃあ高木さんは普段もおとなしい人ですけど、ここしばらく覇気がないですもん」
「……」
「ほら、そこで何で黙っちゃうんですか。言い返せばいいのに」
「辻本さんはいつも元気だから。それと比べれば僕はさ……」
「違いますって。高木さん、おとなしくて人が良いけど、やる時はやる人だったじゃないですか。まあ……、最初はちょっとだけ頼りないなあ、なんて思ったこともあったですけど……、あ、すいません、失礼なこと言って」

言い過ぎたと思ったのか、夏実はぺこりを頭を下げた。
高木は「気にしてない」とばかりに、苦笑して顔を振っている。
夏実はグラスを置き、両肘をテーブルに突いて頬杖して彼の顔を覗き込んでいた。

「でも……、高木さんと一緒にお仕事してみて、この人は頼りないんじゃなくて本当に気配りする人なんだってわかったんです。あたし、そういう人、嫌いじゃないですよ」

夏実にそう言われると高木は少し驚いたようだったが、やがて少し顔を赤くして微笑んだ。

「きっと佐藤さんも、高木さんのそういうところが好きになったんだと思います。だから……、色々言う人もいるけど、あたしは佐藤さんと高木さんてお似合いだと思ってます」
「いや、いいんだよ。僕だって自分でも分不相応だなって思ってるから」
「そんなことないですよ! もっと自信を持てばいいのに……。きっと佐藤さんもそう思ってますよ!」

夏実はそう言うと、グッとサワーを煽った。
もうすっかり酔っているせいか、あまりアルコールが効いている気がしない。
サワーのお代わりを注文してから、ぼそっと小さく言った。

「……やっぱり佐藤さん、ですか」
「……何が?」
「だから……、高木さん、元気がない原因ですよ」
「……」

夏実は空になったグラスを弄びながら言った。

「……恋人と遠く離れてるんですから寂しいとは思いますけど……」
「……」
「でも……、最初はそんなことなかったじゃないですか。何か高木さん見てると、最近、急に元気がなくなった気がするんですよ……。何か……、あったんですか?」
「ん……」

夏実はふと高木から視線を外し、少し寂しそうに言った。

「……すいません。あたしなんかには話せないですよね、そういうことって……」
「あ……、そ、そうじゃないんだけどね」
「ね、高木さん」

再び夏実は高木を見据える。
高木も夏実を見つめ、少し息を飲んだ。
けっこうな美人ではあるのだ。
普段の元気っぷりや美和子に負けぬ気丈さを持ち合わせていることもあって、高木は彼女の美貌をあまり意識したことはなかった。
そう言えば、最初に挨拶した時も美人だと思ったし、同僚の千葉たちも夏実の評価は高かったことを思い出す。

「あたしも……、つき合ってる人、いるんです」
「あ……、そうなんだ」
「ふふ、がっかりしました?」

それを聞いて、高木は一瞬きょとんとしたが、すぐに軽く吹き出した。

「何を言ってるんだい」
「あはは、冗談ですよ。でも、彼氏はいます。今の高木さんたちと同じ境遇ですよ」
「え?」
「……同じ警官なんですけど、あたしより年下なんです。この辺も同じですよね」
「へえ……」
「でも、彼は……、今、富山なんです」
「富山……? 富山県警の人?」
「そうなんです。山岳警備隊にいまして、特別救助訓練の講師で本庁へ来たこともあるんです。そこで知り合ったんですが……」
「そうなんだ……。あ、そうか、遠距離恋愛なんだ……」
「はい……」

東海林のことを思い出し、少ししんみりしてしまった夏実だったが、すぐにまた持ち前の明るさで笑顔を作った。

「もう、ずーっとなんですから。こう言っては何ですけど、高木さんと佐藤さんのところよりも長期間離ればなれなんですよ」
「そうだね……。じゃ、あまり会えないの?」
「ですね……。非番を合わせることも難しいんです。彼の方は仕事柄、冬場はいつ招集がかかるかわかりませんから。季候の良い時でも、やっぱり登山する人が多いですし、山岳警備隊の隊員は少ないわけですしね」
「あれも大変だよねぇ。僕なんかはテレビとかで見るだけなんだけど、とても出来そうにないよ」
「私もです。山好きだけじゃなく、体力もないと無理ですね」
「そうか……。もう長いこと会ってないの?」
「ええ……」

そう言えば、最後に会ってからどれくらい経つのだろうか。
牛尾に襲われてから会ってない気がする。
脅迫されてのレイプだから一方的な被害者だし、恥じることはないのだが、やはり気後れはするのだ。

何しろあの男に徹底的に凌辱され、調教されてしまい、しまいには強姦だか和姦だか自分でもわからないほどになってしまったのだから。
いやいや犯されているのに、最後には気をやらされ、何度も何度も絶頂してしまっていた。
自分から牛尾にしがみつき、膣内射精までねだったほどだった。
あの醜悪な男とディープキスまで交わし、そのペニスまで口で愛撫した。
牛尾の精液を口や膣、肛門でも受け止め、身体の中はあの男の精液で染められてしまったような気がした。
挙げ句、牛尾による二度目の事件で凌辱された時には、もう二度と東海林に抱いてもらえない身体にされてしまったのである。

そう考えると、もう何ヶ月も電話だけで直接は会っていない。
当然、抱かれてもいなかった。
あの男に身体中開発され尽くし、意志に関わらず「欲しくなって」しまうこともたびたびあったくらいだ。
何とか自慰で誤魔化していたが、日々、欲求は強くなる気がする。
やはり、一度男に抱いてもらって存分に気をやらせてもらわないと溜まる一方なのだろう。
この手のことは「我慢してどうにかなるものではない」と聞いたこともあった。

しかし、もう他人に見られてはならない身体にされてしまったのだ。
どうにもならなかった。
もっとも、そうでなくとも夏実は誰にでも身を任せるような女ではなかったから、同じことだったかも知れない。

「ん……」

夏実は軽く首を振って、頭の中のものを振り払った。
そのことを考えていると牛尾にされたことまで思い出してしまって、身体が熱く火照り、股間が疼いてしまう。
自分の部屋ならともかく、今そうなってしまっては困る。
そんな記憶は酒で流してしまおうと、グラスに残ったサワーを飲み干した。

「それより!」
「え?」
「高木さん、本当に佐藤さんと離ればなれだから落ち込んでるんですか?」

夏実は下から覗き込むようにして高木の顔を見た。
核心を突かれた気がして、高木は少しドキリとする。

「ど、どういうこと?」
「また惚けて。高木さん、ウソへたなんですね。佐藤さんの言った通りだわ」
「……」

店員が空のグラスを下げると、すかさず「同じものお願いします」と注文する。
ちょっと飲み過ぎかなと夏実自身思うのだが、もう歯止めが利かない。
こういう時、今までなら美幸が止めてくれたし、美和子も注意してくれた。
今の高木は自分のことでいっぱいいっぱいらしく、そこまで気が回らないようである。
夏実がぽつりと言った。

「……でも佐藤さんのことですよね、きっと」
「……」

少し俯いて黙り込んでしまった高木に、夏実が申し訳なさそうに言う。

「……ごめんなさい。いやな女ですよね、あたし。そんな立ち入ったことにまで顔を突っ込んで……」
「あ、いいんだ。謝ることはないよ」

高木はそう言って弱々しく微笑んだ。
きっと今の自分は、夏実の目には情けなく映っているだろうなと思ってしまう。
しかし、夏実が心配してくれているのは確かなようだ。
そんな彼女の好意は嬉しかったし、今の悩みを自分の中だけに収めておくのが少し苦しくなっていたことも事実だった。

女性に、しかも渦中の恋人の後輩にそんなことを相談するのも気が引けるが、思い切って話してみることにした。
高木も酔っていたのである。
もしかしたら自分を軽蔑してくるかも知れないが、それはそれで仕方ないと思っていた。

「お察しの通り、美和子さ……佐藤さんのことなんだけど……。あ、その前に聞きたいんだけど、辻本さん、彼氏いるって言ったよね」
「はい」
「遠距離恋愛だと寂しいよね」
「はい……。でも電話とかで連絡は取ってますから……」
「長い間……とも言えないけど、しばらく会えなかったりすると、そういう気分になったりするものなのかな……」
「そういう気分て?」
「あ、うーーん、その、何て言えばいいかなあ……」

あからさまには言いにくく、どう表現すべきか高木は考えている。
頭の回転が良いのか、あるいは洞察力が鋭いのか、夏実はさりげなく、しかしズバリと見抜いてきた。

「浮気、ですか?」
「え……、あ、ああ……」
「佐藤さんが浮気してるって言うんですか?」

抑え気味であるが、夏実の声に少し怒気が籠もっている。
尊敬し、憧れている先輩に対する侮辱だと思ったらしい。
高木は少し焦って言い訳した。

「あ、いやそんな……、つ、辻本さんはそんな気になることあるかなあって……」
「あるわけありません!」

気の強い女刑事は厳しい口調で答えた。

「男と女の関係って、そんなものじゃないですよ。それに、あたしはともかく……、いや、あたしだって佐藤さんだってそんな女じゃないです。いくら寂しくても他の男性に靡くなんて……あり得ないですよ! そんなの、高木さんがいちばん良く知っているはずじゃないですか」
「……」

そう言われるとその通りで、高木としてはまったく形無しである。
美和子はもちろん夏実だって、独り寝が寂しくて男漁りをするタイプではないのだ。
成り行きでアバンチュールを愉しむような女でもない。
そんなことは普段の言動を見ていれば誰にだってわかるだろう。
況して夏実は裏表のない女だから、その手の隠し事をしていればすぐにわかると思う。

夏実はハッとして我に返った。
酒の勢いもあってか、敬愛する美和子が中傷されたと思い、激情に駆られてしまった。
高木とて悪気があってのことではないだろうに、これではまるで夏実が叱り飛ばしているように見える。
バツが悪くなり、夏実も俯いて頭を下げた。

「すみません……、あたし、また生意気なことを……」
「……」

黙っている高木が気になり、後輩の女刑事は恐る恐る尋ねてみる。

「でも……、高木さん。何かその……、佐藤さんのそういう徴候……って言ったらおかしいんですけど、思い当たるようなことが……あったんですか?」

あるはずがない、と思いつつも聞かずにはいられなかった。
高木はしばらく考え込むように俯いていたが、やがて意を決したようにグラスを空けた。

「じゃあ……、聞いてもらおうかな。でも、このことは……」
「わかってます。他言無用ですね」
「うん……。それとこれは、あくまで僕がそう思ったというだけのことで事実というわけじゃない。その上で聞いて欲しいし、判断して欲しいんだ」
「……わかりました」

何だかわからないが責任重大そうな感じである。
夏実はグラスをテーブルに置き、神妙な表情になった。

「僕は……、佐藤さんが香港へ研修に行ってからずっと、毎日スカイプで話をしてたんだ」
「スカイプって……、パソコンとかでやるテレビ電話みたいなのでしたっけ。無料なんですよね」
「そう。ソフトをダウンロードして登録すれば誰でも使える。まあ携帯電話でもいいと思ったんだけどね、画像が送れると知ってスカイプにすることにしたんだ」

ただ声を聞いて話をするだけでなく、映像で相手を見られるのならそうしたいと思うだろう。
恋人同士なら自然な感情だろう。

それにしても毎日電話しているとは思わなかった。
普段は凛とした美和子も、ああ見えてけっこうロマンチストらしいと思うと夏実は小さく笑った。
先輩たちに対して不敬だとも思うが、何だか微笑ましくなる。

「毎朝、こっちの時間で午前5時……」
「朝の5時ですか!? また、やけに早いですね」

と、びっくりしたように夏実が言った。

朝が弱い彼女には、まだ「夜中」という認識しかない。
高木も小さく笑って答えた。

「そうなんだけどね、時差の関係であっちは一時間あと、つまり午前6時なんだよ。まあそれでも随分と早いけども、お互い朝から仕事があるわけだし、時間が不規則だから帰宅してからと言っても何時になるかわからない。だからふたりとも家にいる時間に、ということで相談して、この時間になったんだ。まあ徹夜するような事件でも起これば仕方ないけど、そうでなければ……」

早起きさえすれば毎朝相手の顔を見、声を聞ける、ということだ。
そこで高木の顔が暗くなる。

「……最初は普通だったんだけどね。だんだんと……何て言うか、こう……よそよそしくなってきたというか……」
「よそよそしい? 佐藤さんが、ですか?」

信じられなかった。
クールな感じではあるが、冷酷さとは無縁だったし、ユーモアも解する。
それが夏実の美和子評だったのだ。
まして恋人の高木に対して素っ気なくするなどというのは、夏実が知る美和子像からかけ離れている。
ベタベタしてくる美和子というのも想像がつかないが、愛する人に冷たく接するというのも考えにくい。

「具体的には?」

何だか聞き込みか訊問のようだなと思いつつ、夏実は先輩刑事に聞いた。

「何て言うかなあ……、ちょっと以前と雰囲気が変わったというか……微妙なんだけどね。口数も減ったし、話題もね……」

抽象的ではあるが、恋人である高木が察したのだから信憑性はあるだろう。
恐らく、夏実あたりでは気づかぬ変化を敏感に感じ取っていたに違いない。

「それだけですか?」

納得がいかなかった。
なるほど美和子の雰囲気なり、態度なりに若干の変化はあったかも知れない。
だが、それがなぜ浮気に直結するのだろう。
単に毎日忙しくて疲れていたとか、向こうで何かイヤなことがあったとか、あるいは生理だった可能性もある。
生理不順で体調不良、それで気分が優れないのであれば、電話するのも億劫だろうし、ぞんざいになるのもうなづける。

「でも、それだけなら別に浮気とかそういうわけじゃ……」
「それだけ、ならね」
「……まだあるんですか」

またちょっと考えるような表情になったが、高木は小さくため息をついて話し始めた。

「この前のことなんだけどね、朝、いつもようにスカイプしたんだよ。いつもより少し早かったかな、こっちで4時半くらいだったから向こうは5時半かな」
「……」
「早いかなと思ったけど、佐藤さん、いつも5時には起きるようにしてるって言ってたから、まあいいかと思ってね」
「……でも、出なかった、とか」
「いや、出たんだよ。少し待たされたけどね。その時の佐藤さんがね……」
「? 何です? どうしたんですか?」
「ん……。どうも、その……何というか、は、裸……だったような……」
「裸?」

それがどうしたというのだろうか。
まだ早朝である。
早起きしていたのだから、シャワーを浴びたばかり、あるいは浴びようとしたところだったかも知れない。
それに、もしかしたら寝る時には着衣をつけない可能性だってある。
高木の弁によると、さすがに裸で寝る習慣はないようだが、ひとりでホテル暮らししているのである。
見ている者はいない。
高木と一緒の時とは違うのだから、もしかしたら開放的になっているだけかも知れないではないか。

それらを指摘すると、高木はいちいち「うん、うん」と納得はしたのだが表情は晴れなかった。
そして驚愕の事実をその口から告げた。

「……その時にね、どうも他に誰かいたようなんだ」
「誰かって? だって佐藤さん、ホテルの独り住まいしてるんでしょ? 誰もいるわけな……」

そこまで言って夏実は固まった。
美和子以外「誰もいないはずの部屋」に他の人間がいたのであれば、確かに高木が疑惑を抱いても無理はない。
夏実は心で「落ち着け、落ち着け」と言いながら尋ねた。

「……いたのは確かなんですか」
「よくわからないんだ。僕は、パソコンに向かって話している佐藤さんの後ろに、ちらっとそれらしい人影を見ただけだから……」
「じゃあ、誰かいたとしても男の人かどうかは……」
「わからない。ただ、僕にはそう見えたというだけだから」
「……」

ならば、誰か知人が泊まりに来ていたのかも知れない。
美和子のことだから、現地の人ともうまくやっているだろう。
部屋に遊びに来るような友人が出来ても不思議ではない。
夏実の疑問を見透かすかのように高木が言った。

「僕も「あれ?」と思ったから、そこに誰かいるのか聞いたんだよ、佐藤さんに。そうしたら……」
「誰もいない、と……?」
「ああ……」

確かに不自然である。
女友達であれば、別に隠す必要もないだろう。
何か犯罪じみたことでもしていれば隠したくもなるだろうが、こと美和子に限ってそんなことは浮気以上にあり得なかった。

そこで夏実は気がついた。
高木は、その時美和子は裸だったと言っていたではないか。
つまり、高木の観察が正しければ、美和子は自分の部屋で男と裸で一緒にいた、ということになるのだ。
浮気を疑うには充分な材料だろう。

「あの、もう一度確認しますけど……。佐藤さん、本当に裸だったんですか?」
「そう思ったんだけどね。全身を見たわけじゃないよ、映ったのは首から上だけ、だから。でも普段はね、肩とか胸の辺りまでは映るんだよ。でもあの時は……何だか意識して姿勢を低くしている感じだったんだ。まるで首から下を見られたくない、みたいな……」
「じゃ、本当に裸かどうかは……」
「確証はないよ。でも、ちらっとだけどね、その、肩口から胸の……上の方の膨らみというか、そういうのは見えたんだ……」
「……」

大きく胸の開いたドレスならそういうこともあるだろう。
しかし夏実の知る限り、美和子はそういうファッションではない。
綺麗な人だしスタイルも良いから、ドレスを着ればさぞかし見映えがするだろうが、ドレス姿の美和子など、ホンモノはもちろん写真でも見たことはなかった。

そもそも、そんな早朝にそんな格好をする理由もないだろう。
そういうネグリジェでも着て寝ていたというのだろうか。
息を飲む夏実に、高木はなおも言った。

「……あと、どうも佐藤さんが僕以外の誰か……部屋にいる誰かだね、その人と小声で何かを話していたような感じだったんだよ。話していたというか、ちょっと黙ってて、っていうか、そんな感じで注意してたみたいな。僕と話している時も、何だか後ろばかり意識してちらちら見ていたしね」
「……。その時の佐藤さん、慌てたような様子とかは……」
「……あったね。いかにも「今はまずい」みたいな感じだったな……」
「……」

高木の話を聞いている限り、美和子に何か疚しいところがあるのは確からしい。
しかし、これは高木の一方的な見解であり、美和子の証言がなければ断定は出来ない。
直接確認するしかないだろう。
だが、それをするべきは高木であり、夏実ではないはずだ。
すっきりはしないが、この程度の情報だけで憶測を並べ立ててもあまり意味はない。

夏実は深くため息をついた。
なるほど、そういうことであれば高木が落ち込んでいるのもわかる。
いい大人が少し会えないくらいでだらしないと思っていたのだが、どうやら事態は予想したものより悪いらしい。
ここで美和子を非難するのは無責任な気がするし、高木と一緒に落ち込んで見せるというのも建設的でないと思う。
ことの次第がはっきりするまでこの問題は棚上げしておくべきだ。

そして、少なくとも自分と一緒にいる間くらい、高木を重い気持ちにしないようしてあげたいと夏実は思った。
遠距離恋愛者同士、愚痴り合ったり、惚気あったりするのもいいだろう。
自分らしく、明るくいこう。
取り敢えずこの話題は打ち切って、話を切り替えよう。
夏実はそう決意すると、新たにサワーを注文する。

「あ……、辻本さん、大丈夫?」
「へ? だいじょーぶですよ」

心配する高木に夏実はそう言って、トンと胸を叩いた。
そして、店員が運んできたサワーをすぐに口にした。

「あーー、なんかひさしぶりだから、おいしっ! どんどん飲めちゃいそうな気がする−」
「飲み過ぎじゃないの? 辻本さん、あんまり強くないって佐藤さんが……」
「へーきですったら、へーきですっ。それに何か灼けちゃう−」
「え?」
「だって、ここにはあたししかいないのに、さっきから高木さんたら「佐藤さん、佐藤さん」って」
「あ、いや、だって、それは……」
「今はいいじゃないですか! あたしも彼のことは忘れますから、高木さんも今だけは佐藤さんを忘れて、ふたりで楽しく飲みましょーよ」

夏実の目が座っている。
これはだいぶ回ってきたようである。
さすがに高木もタジタジになっていた。

「あ……、もうそろそろ……」
「まだ早いですよ!」

夏実がギロッとした目で睨んだ。

「それともあたしの酒が飲めないってんですか!」
「……」

完全な酔っぱらいである。
こんな時はあまり逆らわず受け流し、良い気分にさせておいて、寝落ちしそうになったら連れ帰る方がいいだろう。
婦警用独身者待機寮の場所は高木も知っているし、タクシーで一緒に行って寮長に話を通せば叱られることはないと思う。
それにしても、そろそろ待機寮の門限が近い。
高木がまた帰宅を促そうとすると、先んじて夏実が大声で言った。

「ほらあ、高木先輩っ。飲みが足りませんよ、さっきからあたしばっか飲んでるっ」
「そんなことないって。それより辻本さん、飲み過ぎだよ。ね、そろそろ帰ろう」
「まだですっ。そんなことより高木さん、全然減ってないっ。ほら飲んでくださいよ」
「い、いや僕もそんなには強くなくて……。佐藤さんの方が強いくらいだから」
「あ、また「佐藤さん」って言った−。いいなー、ラブラブで」
「……からかわないでよ、辻本さん。じゃあ帰ろう」
「んーーー……、じゃあ、これ最後の一杯っ」

──────────────────────

店を出た時には、夏実だけでなく高木もかなりアルコールが回っていた。
精算して店を後にし、夏実に肩を貸して歩き出したのは憶えている。
道すがらタクシーを拾おうと思ったのだが、どうにも間が悪かったらしく、思うように捕まらない。
金曜の夜ということもあって、空車はなかなか走ってこなかった。

仕方なく高木は、夏実を引き摺るようにして駅まで行こうと思った。
電車を使うのではなく、駅前のターミナルへ行けば客待ちのタクシーくらいいるだろうと思ったのだ。
10分も歩けば着く距離ではあったものの、酔っている上に夏実に肩を貸して歩いている。
酔って正体をなくしている人間は重く感じるものだ。
もちろん体重が変わるわけではないが、本人に歩く意志がなく、脱力した状態だからそう感じるのも無理はなかった。

加えて、高木だって酔っているのである。
大柄な美人を引き摺って歩いていれば、周囲から奇異の目で見られるのは当然だ。
中には、酔い潰れた夏実へ露骨な色目を使ってくる男どもまでいた。
夏実を運んでいる高木もいい加減酔っている状態だから、人気のないところで高木をぶちのめして夏実を何とかしてやろうと思う不埒な連中だっているだろう。
高木は盛り場や人通りの多いところを避けるようにして駅を目指していた。

もう、どれくらい歩いたろうか、かれこれ20分くらいは経っている気がする。
辺りはあまり記憶にない風景だ。
飲んだ場所も夏実の行き着けの店だったし、高木はこの辺の地理は不案内だ。
酔いが回り、ひどく疲れた感じがした。
高木は路地へ入り、夏実を壁に寄りかからせた。
が、完全に潰れている夏実はひとりで立っていることが出来ず、そのままずるずると背中で壁を擦りながら道路に座り込んでしまった。
それを見た高木は、夏実を立たせようとその手を握った。

「……」

ひさしぶりに触れた女の肌の感触に、高木はゴクリと生唾を飲んだ。
少し屈むと、夏実の髪から甘ったるい女の匂いがふわっと漂って、高木の鼻腔を擽る。

服の上からでもはっきりとわかるくらいに夏実の胸は大きい。
Vネックの下のブラウスから盛り上がっているバストは雄大なほどだ。
下はスカートではなくパンツだった。
この状況で短いスカートだったら大変だったが、ロングのパンツも目の毒だ。
ぴったりとしたストレートだから、脚の形が綺麗に浮き出ている。
長く、肉づきの良い腿が布地を通してその美脚ぶりを主張していた。

高木は「まずい」と思って夏実の手を離し、壁に頭を押しつけた。
欲情してしまっている。
美和子と離ればなれになってから、一度だけ帰国した美和子を抱いた。
それっきりセックスとはご無沙汰である。
高木は女遊びするタイプではないし、美和子や夏実と同じく、行きずりで関係するような人間ではない。
しかし性欲は当たり前のようにあるのだ。

そんな時、レスリーと「偶然」出くわし、話を聞いてもらって薬まで受け取った。
それを服用したのだが、どうもあまり効果がなかった。
こうしたものは体質によっても効く効かないはあるだろうから仕方ないだろう。
しかし、気のせいか、薬を飲む以前よりもさらに欲望が強くなってしまった感じがする。飲む前までは、美和子が恋しくなった時などはオナニーで済ませていたし、それで何とか治まってはいたのだ。
しかし服用後は自慰だけではすっきりしなくなっている。
自慰をすれば一応は解消されるのだが、インターバルが短くなり、しかもだんだんと欲望が強くなってきている気がするのだ。
もしかすると、何か副作用があったのかも知れない。
今度レスリーに会ったら伝えた方がいいだろうな、と思っているうちに、いよいよ抑えきれなくなってきた。

目の前にスタイル抜群の気立ての良い美人がいて、しかも彼女は自分の好意を抱いてくれている。
もちろん恋愛感情ではないが、好感は持っているようだ。
その美人は意識を失い、まったくの無防備、無抵抗状態なのだ。

そんなことは考えるなと強く思うのだが、それに反して高木の男性器は勝手に反応してしまう。
しどけなく眠りこける夏実を見ていると、徐々にペニスに芯が入ってくる。
女体から匂ってくる、アルコールの混じった甘い体臭を嗅ぐとますます勃起してしまう。
TPOが許せばオナニーしたいくらいである。

さすがにそうも行かないが、どこかで「発散」させないと困ったことになりそうだ。
自分はともかく、夏実に何かよからぬことをしてしまうかも知れない。
それに、いつまでもここでこのままいるわけにもいかないだろう。
とにかく、どこかで一息入れるのだ。
しかし今の高木は普通ではなかった。
喫茶店でもあれば……という正常な思考は働いていない。
どこかで夏実を休ませればいいのだと思いながら周囲を眺めていると、けばけばしいネオンサインが目に入った。
そう遠くなさそうだ。

「……」

そんなところに連れ込むなど警官として……、いや、ひとりの人間として常識がなさ過ぎる。
そうも思いながら、高木はまた夏実を立ち上がらせ、肩を貸した。
夏実の左腕が高木の首に回り、彼女の腋窩からほんのりと汗とアルコールの匂いがしてくる。
高木のペニスがスラックスをグッと盛り上げた。

高木は頭を振ってふしだらな欲望を追い払おうとした。
とにかく、あそこで一服するのだ。
しかし、夏実が起きて怒ったらどうしようか。
いやらしい、見損なったと非難されるだろうか。
「いや、そうではない。自分はそんなことをしようとしているのではなく、夏実を休ませるだけだ」と言い訳をしながら、高木はよろよろと夏実を引っ張って歩き出した。
この時、高木の頭から美和子の存在は消えていた。

「ん……」

引き摺られているうちに夏実が目を覚ましたようだ。
薄く目を開けて、ぼんやりと高木を見ている。
高木は息を飲んで言った。

「あ……、つ、辻本さん……、その……す、少し、どこかで休みませんか?」
「や……すむ……?」
「は、はい……。僕も辻本さんも、このままじゃ帰れそうにないですし……。……いいですか?」
「ふぁい……」

夏実はこっくりと頷いて承諾すると、またがくりと頭を垂れた。
何も疑ってないというよりも、そこまで頭が回っていない。
高木は夏実を起こさないよう慎重に、目指すホテルへと脚を進めていった。


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