「あの哀ちゃんて子、大丈夫かしら?」

聡子が心配そうに聞いた。

「うん、だいぶ良くなったみたいだから。少し休めば平気じゃないかな」

蘭は笑顔でそう答えた。
哀は公民館で休んでいるが、蘭たちは島巡りをしている。
案内役は聡子だった。
狭い波止場から上陸すると聡子が出迎えに来ており、宿泊することになる公民館へ
行って荷物を置き、一休みしてから観光に出た。
具合の悪そうだった哀は、布団を敷いてもらい、横になっている。

小さな村から山沿いに行くと、すぐ目の前に深い森がある。
聡子は先頭に立って中に進んでいく。
その後を蘭と並んで歩きながら和葉が言った。

「案外暑くないんやね。南の島なんやから、本州よりずっと暑いんかと思うてたわ」

暑さ対策というわけでもなかろうが、和葉はなかなか大胆なスタイルだった。
肩を剥き出しにした完全タンクトップである。
レモンイエローのバルーン・カットソーだ。
蘭より健康そうな肌の色が、明るいイエローのカットソーがよく似合っていた。
下はコットン地の裾が膨らんだバルーンキュロットだ。
ウェストがニットになっていてくびれがはっきりと出ており、ヒップが可愛らしく
見える。
チャームポイントのリボンは真っ赤で、頭の後ろで長い髪をひとまとめにしていた。
きつめの目元を和らげる可憐な演出だった。

一方、地味なTシャツとジーンズ姿の聡子が答える。

「そう思うと思うけど、実際はそんなことないの。そうだな、伊豆あたりと平均気温
は3度くらいしか違わないと思う。そりゃあ小笠原くらいまで行けば、あそこはもう
沖縄とそんなに緯度が変わらないから亜熱帯だけど、ここくらいじゃそこまでいか
ないわ」

ここ神巫子島は、東京から約200キロ南方に位置している。
周囲6キロほどの小さな島である。

「それにしても、すごい景色だよね。何て言うか「自然!」って感じで」

この島は巨木の島でもある。
椎の木の一種でスジダイという巨樹が森林を形成しているのだ。
神々しさすら漂う巨樹を見上げながら、蘭が感心したようにそう言った。

蘭のスタイルは、和葉に比べれば少しおとなしい。
とはいえ夏向きということは変わらず、健康的な素肌を惜しみなく陽光に晒していた。
上には、蘭らしく清潔感あふれるホワイトのコットンブラウス。
着心地が爽やかで風通りもよく、見た目も涼しそうだ。
といっても実用一点張りではなく、見た目も可愛らしい。
バスト周辺にはギャザーがあしらわれ、ふんわりとしたフォルムを形作っている。
ノースリーブに加え、大胆に首回りを開けていて、ショルダーに少し生地がかかって
いる程度だ。
スタイルの良い蘭が、一層女性らしいシルエットをアピールできるデザインだった。
少女らしい可憐さと爽やかな色気を演出している。

下は和葉と同じくショートパンツだ。
やはり島内を歩き回ることを前提として選んだのだろう。
サマーニット仕立てで、ウェストはサイズ調整用のポンポンリボンがついている。
むろん蘭は思い切り絞ってあった。
裾はひらひらしたフリルがついていて、彼女の細い足を一層スタイル良く見せていた。

聡子は、そんなふたりの都会的なファッションを羨ましそうに眺めながら説明した。

「すごい樹でしょ。ここは別名「森の島」とも呼ばれてるくらいだから。隆久と一
緒にここへ渡ってくる時わかったでしょうけど、島の巡りがぐるっと崖になってた
でしょ。そこに黒潮から運ばれた温かい空気が衝突して霧になって、それがこの大木
たちの森に捉えられて雨になるの」

平次がまぶしそうに帽子のつばに手をやりながらつぶやいた。

「ふーん。ほんなら、ここは雨も多いんやな。ま、そんな感じはするけど」
「そうよ。年間降水量はだいたい東京の二倍くらい。梅雨もあるけど、もうほとんど
雨期って感じがするもの。その雨のことを樹雨(きさめ)って呼んでるの」
「綺麗な言葉やな。あ、あれ何や?」

平次が、手を翳して陽光を避けながら聞いた。目線の先にあるのは、何やら金属製の
大きな筒のようである。
先端が尖っており、銀色をしている。
だいぶ古そうだが、そう錆は浮いていない。
けっこう大きく、直径で50センチ、長さは2メートルほどはあるだろう。
聡子はこともなげに答えた。

「あ、あれは戦闘機の燃料タンク」
「は? 戦闘機?」

和葉がきょとんとして言った。
聡子は遠くを見るようにして説明する。

「あのね、この島って在日米軍の戦闘機……だか爆撃機だか知らないけど、とにかく
飛行コースに入ってるらしいのね。飛んでる時、空になったタンクをよくこの島周辺
に落っことしていくわけ」

軍用航空機などがよく着けている増加燃料の容器──つまり増槽のことらしい。
その飛行機の航続距離を超える地点に飛行したい場合、機体内燃料の他に、外部燃料
タンクを着けて長距離を飛ぶのである。
横田基地からでも来ているのだろう。

「ひどい話やな。人がおるのに」
「まあね。でも、昔はけっこう役に立ったらしいわ。ほら、あそこに蛇口があるの
わかる?」

よく見ると、確かに中央部の下側に小さな蛇口がついている。

「あれにね、雨水を溜めておいて、それを飲んでたりしたのね」
「え、でも、ここって水が綺麗だって言ってなかった? たくさんあるんでしょう?」
「雨は多いわ。でも川や池はないの。雨水を溜めるのにドラム缶とか、こういうのを
使って生活に使ってたわけね」
「ふうん……」
「上水道が通ったのはいつだったかな、30年くらい前じゃないかな」
「大変やったんやな。綺麗な島で居心地は良さそうやけど、それだけじゃ暮らせへん
もんな。あ、あれは?」

平次が指さした先には、森の中から突き出た塔があった。
聡子が手で日を翳してそっちを眺める。

「あ、あれは遠見台」
「灯台?」
「灯台じゃなくて遠見台。大昔はあそこの上で火を焚いて灯台代わりにしたらしい
けど、今はそんなことしてないわ」
「あそこへ登って見下ろしたら島の全景が見られそうやな」
「そう思うけど、やめといた方がいいわ。もういい加減古いし、手入れもしてないの。
木製だから腐ってるかも知れないし、登ったはいいけど崩れ落ちるかも知れないわ」

これだけ多雨の島だから、それもそうだろう。
後ろで平次と並んで歩いていたコナンが聞いた。

「ね、聡子お姉ちゃん。ここへ来る時、気になったんだけど、ここってほとんど断崖
絶壁みたいな島だよね? これじゃ漁業とかって難しいんじゃない?」

コナンがそう聞くと、聡子は微笑んで振り返った。

「よくわかるわね、小学生なのに。賢いのね」

聡子がそう言って褒めると、平次は必死に笑いを堪え、コナンは「やれやれ」という
顔をしている。
それには気づかずに聡子は解説した。

「その通り。ここはあんまり漁業はやってないわ。自分で食べるのを採るくらい。
だからここの産業は主に水なの」
「水?」
「そう、ミネラルウォーターね。近くの御蔵島なんかもそうだけど、この島は雨が
多い上に森がたっぷりと水を溜め込んでくれているから、本当に水が豊富なのよ。
綺麗でミネラルたっぷりの水がね。それをボトルに詰めて「樹雨の水」って名前で
売ってるわけ。それが主な収入源だと思う」
「ふうん。でも、それだけで大丈夫なの?」

この島では大きな工場も作れまいし、実際、そうした建物は見えない。
大手のように大量生産も出来ないだろうし、販売経路も限られるだろう。
コナンがそう言うと、聡子はその顔をじっと見ながら言った。

「全然平気。どうしてかっていうと、島じゃお金なんか全然使わないから」
「お金を使わない?」
「というより「使うところがない」という方が正しいかな。正直、物価は高いのよ。
本土から持ってこなきゃならないから、その輸送料もあるしね。電気が通ってから、
まだ20年も経ってないし。ガスもなし。でも薪で煮炊きするだけだし、食料は
ほとんど自給自足だしね。正直言って、着るものにもあまりこだわってないもの」

そう言った聡子の表情は少し寂しげではあった。
やはり年頃の女の子だから、ファッションには少なからず興味はあるだろう。

「読みたい雑誌がすぐ読めないとか、島にない買いたいものを本土に頼むと、時間
と費用がかかるとか、そういうことはあるけど」
「……」
「本当に何もない島なのよ。変な話だけど、誰か亡くなっても、火葬場すらないの。
そうなったら遺体を他の島へ運んで焼かなきゃならない。昔はね、風葬って言って、
埋めもしないで、そのまま自然に晒してお骨にしたんだそうよ」
「……」

蘭たちが黙ってしまったので、聡子は明るい顔で言った。

「こんな話、つまらないね。じゃ、今度は綺麗なところへ行きましょう」

しばらく歩くと森が切れてきた。
森の中へは入らなかった。
歩きにくいのだろうし、そもそもちゃんとした道がなさそうだ。
聡子の話によると、舗装路は道路の半分ほどで、残りは伐採して均しただけの砂利道
だそうである。
その道ですら、島の周囲をぐるっと回っているだけで、森を突っ切るようなものは
ない。
村や港、小さな田畑など、人の行きそうなところはその道路周辺らしい。
確かに森の中で農業もないだろうし、森を神聖視している島民にとって、鳥獣を狩る
ことなどしないだろう。

森が終わると湿原が見えてきた。
湿原と言っても、そう水が溜まっているわけではない。
ただスニーカーでは歩けないだろう。
幻想的な風景で、見たことのない草花が美しかったが、それを採ることはルール違反
なのだろう。
うっとりと湿原を見ていた和葉が目を輝かせた。

「あ、あの花きれいやな」
「あ、待って!」

聡子が止める間もなく、和葉は踏み込んでいく。
水たまりを避けながらそこにたどり着くと、小さく清楚な白い花が咲き乱れていた。
よく見ると、薄いブルーや淡い赤い花もある。
草丈はけっこう高く、1メートル前後はあるだろうか。和葉は少し屈んでその花を
手に取った。



「和葉ちゃん、採っちゃだめよ」
「わかってるって。見るだけや」

蘭がたしなめると、和葉は「わかった」という風に手を振った。
そして追いかけてきた蘭にもその花を見せている。

「わ、ホントだ。可愛い花ね」
「そやろ。な、聡子ちゃん。これ何て花?」

どういうわけか、聡子は少し困ったような表情になった。
だが、すぐに打ち消してふたりに近づく。

「これ……、ポピーよ」
「ポピー? そらまた可愛い名前やな。この花にぴったりや」
「靴が濡れるよ。もう戻りましょう。平次君とコナン君も待ってるわ」

平次とコナンはここまで来なかったらしい。
道の外れでこっちを見ている。

「早よ、帰って来いって。聡子ちゃん困ってるやろ」
「わかったわよ」

湿原の脇を抜けると、ゆるい下り道となった。
そこを歩いて行くと、今度は平地だ。
畑らしく、明日葉などが栽培されている。
高温多湿だから植物にとって理想的な環境のようで、シダやコケも豊富だ。
どこが畑でどれが雑草なのだか、区別がつきにくい。
そこを少し進むと道は平坦となり、対岸にさっき港でも見えた別の島が見えてきた。
下島だ。

「あれがさっき見えてた下島ね」
「あ、ほんまや。手を伸ばせば届きそうなくらい近いんやね」
「そんな感じでしょ。実際、渡れることもあるのよ」

なんでも、何年かに一度だけ、干潮の時に上島から下島まで渡って行けることがある
らしい。
潮が引いて、海から道が──というか、地が浮いてくるのである。
そこを行けば、歩いて下島へ行けるのだそうだ。
そんな説明をしていると電子音がして、聡子は腰に下げた無線機を取った。

「はい。……うん……うん。わかった」

聡子は、蘭たちを済まなそうに見て言った。

「ごめん。何か夕食の用意を手伝えって言ってるんで、あたしは戻ります」
「あ、そんならうちらも手伝うで。なあ、蘭ちゃん」
「うん。一緒にやりましょ」
「あ、いいの。いいの」

なぜか聡子は慌てたように言った。

「今日は蘭ちゃんたちがお客さんだもの、そんなことさせられないわ。いいから、
このまま観光しててくれる?」
「そやかて……」
「大丈夫よ。島に道ってこの一本しかないんだから。ぐるっと島を一周してるだけ。
だから、道なりに進んでいけばいやでも港や里に出るから」
「でも……」
「見るだけ見て、飽きたら戻ってきて。見切れなかったら、明日また案内するわ。
じゃあ、これ」

聡子はそう言って、トランシーバーを平次に渡した。
一応、年長の男性だったからだろう。
それをコナンが訝しげに眺めている。

「……ねえ、聡子お姉ちゃん。どうしてトランシーバーなんか使ってるの? 確か
東京で、蘭ねえちゃんたちとケータイの番号交換してたよね?」
「あ、それは……」

聡子はちょっと困ったような顔で答えた。

「あのね、ここって携帯電話が使えないのよ」
「え?」
「なんで?」

蘭も和葉もきょとんとして聡子を見た。

「自分のケータイ見てくれればわかると思うんだけど、ここって圏外なの」
「……あ、ホントだ」
「ほんま? ……あ、ほんまや。平次、あんたのは?」
「おまえが圏外なら俺だって圏外だよ。同じauやろが」
「そか。コナン君は……」
「僕も」
「ドコモもよ。あたし、ドコモだから」

そう言って聡子が自分の携帯電話を見せてくれた。
やはり「圏外」となっている。

「ここねえ、人が少ないから携帯電話の会社も、基地局やアンテナ作ってくれない
のよ。まあ当然でしょうけどね、人がほとんどいないんだから。だから電話は公民館
にある固定電話が一台っきり。あとはトランシーバーで連絡を取るしかないの」

何だかすごいところに来てしまったようである。
本土では、よほどの山奥や高山でもない限り、携帯電話が通じないところはほとんど
ないだろう。

「だから、何かあったらこれ使って。隆久が出るから」

聡子はそう言うと、済まなそうに謝りながら来た道を小走りに戻っていった。

────────────────

顔を見合わせていた蘭たちだったが、仕方なく島巡りを続けることにした。
聡子はともかく、隆久と和弘に妙な雰囲気はあるが、この時点ではどうしようもない。
平次がぽつりと言った。

「……何やおかしいな」
「何が?」
「どうも御蔵島の役場で聞いたんと話が違うやろ。くど……、やない、コナン、
おまえどう思う?」
「確かにね」

コナンは指を顎に当てて考えている。
蘭がその様子を見ながら聞いた。

「何かおかしい?」
「うん。平次お兄ちゃんの言う通り、役場で言ってたのと違うよ。だって、ここには
住民がいるって言ってたでしょ? 多分、あそこでこの島の役場も代行してるんだろ
うから、住民登録もそこにあると思うんだよね。わざわざそれに背いてここに住まず、
御蔵島に住む理由なんてある? どうせ御蔵島に住むんなら、最初っからそっちで
住民登録すればいいのに」
「そらそうやけど、そんなんどうでもええんちゃう?」

和葉は、どうってことないじゃない、という顔だ。

「まだあるよ。聡子お姉ちゃんだけじゃなくって、あの隆久お兄ちゃんだってケータイ
持ってたよね。さっき見たけど、和弘って人も持ってたよ。この島ってケータイ通じ
ないんでしょ?」
「だから、この島には住んでないからやろ。御蔵島は通じるんやろし」
「でもさ、役場の人ははっきりと「ケータイがあれば大丈夫」って言ってたじゃない。
ということは、ここはケータイが使えるってことでしょ」
「ああ、そうか……」

蘭も思い出したのか、ポケットから自分の携帯電話を取り出した。

「でも、やっぱり圏外になってるわよ」
「……そこがおかしいんやな」

平次も何か考えているような顔をして、辺りを見回した。

「胡散臭いのは確かやな。そう言われてみれば、島へ誘うのも何や強引だったような
気もするしな」
「あほ、考え過ぎやて。聡子ちゃん、ええ子やんか」

疑ってかかっている平次を、和葉が注意する。
彼女も蘭も、聡子と仲が良いだけに、何か裏があるとは考えられない──という
より、考えたくないようだ。
コナンと平次は目配せしあって、頷き合った。

「ま、ええわ。どうせメシの時間までぶらぶらしてなあかんのやろ。あっちこっち
行ってみよかい。なんぞわかるかも知れへんしな。よっと」
「あ、どっち行くねん」

平次がアスファルト道を外れて奥へと入っていったので、和葉が慌てて止めた。
コナンもついていくので、蘭も驚いて後を追う。

「ちょ、待ちい。道なりに行けって言われてたやろが」
「だからそれ以外を行くんやろ」
「そうだよ、和葉お姉ちゃん。その道を行けってことは、他に行っちゃダメってこと
かも知れないでしょ。何か見られたくないものがあるのかも知れないよ」
「そんな、秘密を暴くようなことって良くないわよ」
「それが犯罪に無関係ならね」
「コナン君、あなたもこの島に何かあると思うの?」
「それを調べるって言ってるんや」

平次はそうまとめると、ずんずんと先へと進んでいく。
しばらく行くと、シダの葉に隠されるようにひっそりと立っている木製のものがある。

「鳥居?」
「……らしいな。しっかし、こりゃ宮大工なんかも仕事とちゃうで。やっつけ仕事って
感じやないけど、素人の造りやな」
「島の人が作ったんちゃう?」

蘭と平次、和葉がそう言っていると、コナンが鳥居を指さして言った。

「珍しいね。神社の名前が入ってないよ」
「名前?」
「うん。普通はさ、こういった鳥居には神社名の入った看板とかが掲げられてるで
しょ。それがないよ」

蘭とコナンが話していると、平次と和葉は先に進んでいく。
そこで和葉が素っ頓狂な声を上げた。

「な、なんや、これ」
「どしたの和葉ちゃん。あ……」

見上げた蘭の目に映ったのは、原始的で奇異な階段もどきだった。
石段は普通、切り出した直方体の石が段差を形作っているものだが、ここではまったく
違った。
石なのは確かだが、丸のままの河原の石みたいなものが、ごろごろと無造作に積み上げ
られているだけなのだ。
人の頭ほどもある丸石だ。
それを坂道に埋め込んでいったような感じである。
その上にはびっしりと苔が茂っていた。
見上げてみると、普通の石段換算で200段や300段はありそうだ。

「石段……やろな、これ」
「そう……思うけど」
「でも、歩いた後が全然ないな。誰かがこの上を歩けば、苔を踏んだ足跡が残りそうな
もんやけど」

もしかすると、そのための石段なのかも知れないとコナンは思った。
つまり、よそ者が勝手に登っていったことがすぐにわかるような、一種の警報機の
意味である。
ということは、どこかに他の登り口があるはずだ。
そう思って見回していると、平次がもう石段を登って行っている。

「あのバカ……」

コナンはぼやきつつ、その後を追った。
それを見て、仕方なくという風情で蘭と和葉も続いた。

「うわ、滑る! 苔がつるつるに滑りよるで、蘭ちゃん気ぃつけや」
「ありがと。わ、本当に滑るわ、これ」

普段はローファーの蘭だが、島で観光するということで、今日はスニーカーで来て
いた。
それが当たった。
この石段を革靴で登るのは、さすがに無理だったろう。
そのスニーカーですら滑って危なかった。
石が丸いから、しっかり踏みしめないとバランスがとれないのだが、ぐっと力を入れて
踏み込むと苔が潰れてつるっと滑る。
あっという間にスニーカーの溝には苔が詰まってきた。
とてもまともには歩けず、手をつきながら、ほとんど四つん這いの格好で何とか登って
いく。

蘭たちが何とか登っていくと、上にはすでに平次とコナンが到着していた。
平次が差し出す手を掴んで、女性陣もようやく登り終えた。
ここからが境内らしい。

「いやー、なんちゅうとこや。しんどかったわ。うわー、手が苔で汚れてひどいわ」
「眺めはいいけどね。あ、あれ見て。遠見台だっけ、あれが見えるよ」
「あ、ほんまや」

コナンは見えなかったようで、盛んに背伸びしている。
周辺の木々が邪魔して、コナンの目線では見えないのだ。
見越した平次が、コナンの両手で掴んで掲げ上げた。

「どや、見えたか?」
「見えた。あれ、何だかわかるか?」
「どれや。……あー、あの台の上に突き出てるもんか?」

そう言われてみると何かある。
遠見台は、木製の櫓の上に、人が乗るらしい台座がある。
昔はあそこで松明を燃やして灯台にしたのだと聡子が言っていたのを思い出す。
その台座の脇から、何やら黒い棒が立っているのだ。
短いが、はっきりと見える。
三本あるようだった。

「あれってさ、携帯電話のアンテナ局に見えない?」
「え? ああ……、そうも見えるけど、ただの枝じゃないの?」

蘭はコナンの見解に否定的だ。
そう見えないこともないが、この距離でははっきりとわからないのだ。
彼女は聡子を信じたかったので、余計にそうは見えなかったのかも知れない。
第一、携帯電話は圏外になっているのだ。
その時、平次が何か見つけたらしい。

「あ、これ見てみ!」
「なに?」

蘭とコナンが走っていくと、平次が和葉と並んで立っている。
見ると、彼らの前に社殿らしきものがある。
「らしい」というのは、蘭たちの常識ではそれはとても社殿には見えなかったからだ。

まずコンクリート造りというのが珍しい。
普通は伝統的な木造建築だろう。
だが、これは雨や霧が多く湿気がひどいということで、木材ではすぐに傷むからコンク
リートにした、ということかも知れない。
しかしそれ以上に異様だったのは、窓がひとつもないからだ。
辛うじて出入り口らしい扉があるが、それは分厚い板製のようだ。
これも普通は障子戸か何かになっているものだろうが、ここにあるのは無愛想な一枚
板の扉だった。

「じゃ、行くで」
「あ、待って平次君、入っちゃうの?」
「当たり前や。ここで帰ったら何のためにあの登りにくい坂を登ったんかわからん
やろ」
「せやけど平次、うちはようわからんけど、勝手にこういうとこに上がり込んだら
あかんのとちゃうやろか」
「あたしもそう思う。お参りだけして戻ろうよ」

薄気味の悪い雰囲気に何かを感じているのか、蘭も和葉も珍しく気弱なことを言って
いた。
平次は視線をコナンに移すと、少年探偵は小さく頷いた。

「でもさ、蘭ねえちゃん。お参りするのはいいけど、どこで手を合わせるの?」
「どこって……」
「普通はさ、神社ってお賽銭箱とか大きな鈴とかがあるのに、ここにはないよ」

そう言えばそうだ。
このおかしな建物が拝殿だとしても、社務所はもちろん社殿もない。
手水場もなかった。

「だから、これは島の人たちが建てたから、そういう専門的なものじゃないのかも
知れないじゃない」
「あるのは鳥居だけ。なんかさ、純粋な日本の神社とは思えないんだよね」
「でも……」
「ああ、もうめんどくさ。中を見ればわかるやろ。ご神体ちゅうのか知らんが、それ
を見れば……」
「あ、こら平次、やめときって!」

和葉が止める間もなく、平次は扉を観音開きに開けた。
重いのか、それとも立て付けが悪いのか、平次は軋む扉を少しずつ開けていく。
陽光が入って中が照らされた。
そこにコナンと平次が入り込む。

「……何もないな」
「いや、あれ見てみい」

内部は板張りだ。
埃が積もり、蜘蛛の巣があり、足の踏み場もないほどにゴミがだらけだ。
落ち葉や枯れた小枝、小さな虫の死骸もある。
よく見ると、奥の天井付近に小さな明かり取りらしい窓があった。
ガラスなど嵌っておらず、外に通じている。
蜘蛛や小虫はそこから入ったのだろう。
恐らく外で履き物を脱ぐのだろうが、とてもじゃないが、中は裸足で歩ける雰囲気
ではない。

平次が指さした先に、何やら黒いオブジェがある。
壁に飾られているというか、埋め込まれているようだ。
近づいて見てみると、それは一見、十字架に見えた。
二等辺三角形を逆さにして上下左右に配置したような形だ。

「十字架……かな?」
「それにしちゃおかしいやろ。黒い十字架なんて聞いたことあれへん」
「しかもあんな形のは見たことないな……。ドイツ軍のマーク? そんなわけない
な……」

平次が触れてみると、冷たい感触がある。
木でも石でもなく、金属製だった。
だが、よほど古いのか、あるいは保存状態が悪いのか、どこもざらざらな手触りで、
小さなクレーターが無数に空いている。
錆びてはいないが、角が落ちて丸くなっていた。
よく見てみると形がいびつで、どうも機械で作ったものではないようだ。

「コナン君! もう戻ってらっしゃいよ」
「平次もや。神さんの中に入るなんてあかんて。罰当たるで」

少女たちの声を背中に聞きながら、東西の少年探偵はじっとそれを見つめていた。

────────────────

「わーー……」

蘭と和葉が目を大きく開けてテーブルを眺めている。
圧倒されそうなほどの海鮮料理だったのだ。
そんなふたりを見て、聡子が照れくさそうに、少し誇らしげに言った。

「全部、この島の近海で獲れた魚なの。何もないところだけど、海だけはあるから。
まあ、取り敢えず食べてみて」
「いっただきまーーすっ!」

哀がおとなしく箸をとった時が、もう残りの四人は喜々として料理に箸をつけていた。

「がっつくなや、平次。欠食児童みたいやで」
「古い言葉使うなよ、和葉。がっついてるのはおまえも一緒やろ」

蘭もコナンも微笑んで舌鼓を打っていた。
都内ではあまり目にしないような魚もある。

「すごいねー。ね、これってもしかしてみんな聡子ちゃんたちが作ったの?」
「一応。でも大したことないの、手を掛けたお料理なんか出せないから」
「んなことないやろ。な、平次?」
「まったくや」

平次も感心したように言った。

「和葉じゃ、そもそも魚をさばくことすらでけへんやろに」
「余計なお世話や!」
「でも蘭ちゃんは出来るんやぜ。そやろ?」
「え、あ、まあね……」

蘭は父親とコナンのために、毎日キッチンに立っている。
和食方面が得意なようだから、魚をおろすくらい何でもないだろう。

「それでもすごいね、聡子お姉ちゃん。見たことない魚ばっかりだ」
「そうか? 俺、わかるで。これ栄螺やろ?」

そう言って平次が指さしたのは栄螺の壺焼きである。

「あほやな、それくらいうちかてコナン君かてわかっとるわ」
「うるせえよ。あ、これだってわかるわい。ホタテやろ?」

平次が箸でつまんだ貝の刺身に、聡子は笑って首を振った。

「残念、違うのよ、平次君。これ、イタヤ貝って言うの」
「聞いたことないな」
「まあ見た目も味もホタテに似てるけどね」
「ん、ほんまや。甘いわ〜、新鮮やな」

新鮮そうな刺身が大皿いっぱいに綺麗に並んでいる。
刺身はほとんど白身だったことに気づいたコナンが聞いた。

「ねえ、お姉ちゃん。白身ばっかりなんだね」
「そう。マグロとか食べたかった?」
「ううん、そんなことないよ。だってマグロとか鰹なんて、それこそ東京でいくらでも
食べられるもの」
「そうね、コナン君。せっかくこういうところに来たんだから、地魚を食べなくちゃ」

蘭も刺身を頬張りながら言う。
聡子は、いちいち刺身ついて解説してくれた。

「これはシイラ。おっきいお魚よ、2メートルくらいになるのもいる。これは1メー
トルくらいの若い魚だったけどね。外国でも生で食べるのよ、レモンとかライムを
つけて」
「へえ」

コナンたちが聡子の話を聞いている間にも、和葉と平次は旺盛な食欲を満たすべく、
箸と口を交互に動かしている。
刺身の他にも、メジナの煮付けや明日葉と山菜の天ぷら、漁師丼もある。
漁師丼というのは、この辺りの漁師たちが獲れた魚を船の上で醤油に漬けておいて、
港についてからそれを温かい飯に乗せて食べたものがきっかけだそうだ。
要するにヅケの丼である。
これをお茶漬けにすると、また良いらしい。
他に大きな椀に入った、小魚がいくつも入った味噌汁まであった。

頃合いを見計らって、隆久と和弘が入ってきた。
隆久は手にはグラスを持っている。

「どお、みんな。やるだろ?」
「何……? え、お酒!?」

和弘が持っていたのは一升瓶だったのである。
メーカーラベルが剥がされているところを見ると、どうやら地酒らしい。
それも自家製なのだろう。
コナンは隣の蘭を見上げた。

(まさかこいつ、飲むつもりじゃないだろうな……)

コナンの心配には及ばず、さすがに蘭は断った。

「いやあの、お酒はちょっと……」
「いいじゃない、蘭ちゃん。もう高校生なんだし、一回くらい飲んだことあるんで
しょ?」
「え、ないわよ、そんな……」

勧める隆久に、蘭は困ったような笑顔を浮かべて断っている。
和弘の方は平次と和葉に勧めていた。
気の早いことに、平次はもうグラスを持っている。

「お、さすがに大阪人だ、気っ風がいいや」
「気っ風がいいのは戸っ子やろが」

グラスに酒を受けている平次を和葉が窘める。
平次の保護者、姉貴気取りの和葉だから当然だろう。

「あほ、やめとき、平次。いくら何でも酒はまずいって」
「かまへん、一杯だけやって」
「そうだよ、和葉ちゃん」

和弘が和葉にも勧めながら言った。

「お酒って言ってもそんなに度数は強くないよ。島で栽培した蕎麦から作った蕎麦焼酎だから。何ならウーロン茶か何かで薄めればいい」
「そんなこと言ってもやな……」
「ほら和葉ちゃんも」

和弘が強引に和葉にコップを持たせ、そこに焼酎を注いだ。
さらにウーロン茶を入れて割った。

「これだけ薄めれば問題ないよ。ちょっとぴりぴりするかなってくらいさ」
「でもなあ」
「おまえも飲んでみいって。いっぺんも飲んだことなかったか?」
「当たり前やろ。うちの親父のこと考えたら飲めへんわ」
「一杯だけでもさ」
「しゃーないな」

そう言って和葉も口をつけた。
コナンが睨むようにして平次にささやく。

「おい、いい加減にしとけよ」
「わかってるがな。ほどほどや、酔っぱらうほど飲まへんて。それより工藤、おまえ
も飲まへんか?」
「バカ」

工藤新一状態ならともかく、コナンの格好で飲めるわけがない。
いや、新一に戻っていたとしても、酒なんか飲もうものなら蘭に張り倒されかねない。
酒が入り、平次と和葉がいっそうに盛り上がったこともあって、宴は盛況となって
いく。

──────────────────

蘭たちが夕食を摂っている時、聡子は隆久をそっと表へ連れ出した。
隆久は口をとがらせて聡子に言った。

「何だよ、こんな時に」
「……」
「まだ抜け出していいタイミングじゃねえぞ。和弘だけに相手させるわけにもいかね
え……」
「ねえ」
「だから何だよ」

隆久はいらついたように公民館の中を覗いた。
和弘が太鼓持ちよろしく、蘭たちを接待しているが、あまりにヘコヘコしていたの
では、かえって怪しまれてしまう。
覗き見た限り、まだ連中は気づいた様子はない。
大声で談笑している。
勧めた焼酎も効いているのだろう。
とはいえ、あまりに席を外していると訝しがられてしまう。

「……もう、こんなことやめようよ」
「なに?」

俯いていた聡子が、思い詰めたように恋人の顔を見て言う。
それを聞いて隆久は呆れたように肩をすくめた。

「……おいおい、今さら何だよ。もうここまで来たら引き返せねえよ。それに、あの
ふたり、大した極上ものだぜ」
「……」
「何だよ、その目は。勘違いすんなよ、あくまで祖神祭の……」
「わかってるわよ」

聡子は幾分沈んだ口調で言った。

「でもさ、でも、やっぱよくないよ、こんなの」
「……」
「蘭ちゃんや和葉ちゃん、何か悪いことしたの? してないじゃない。むしろ、あんな
に親切にしてもらったのに」
「本当に「今更」だよな」

隆久はため息をついた。

「今さら何を言ってんだよ。俺たちが東京へ出たのは……」
「わかってる」
「で、やつらに目をつけたのも……」
「わかってるって」
「わかってないじゃんかよ!」

隆久は声を潜めて怒鳴った。

「あのふたりはどうしても必要なんだよ、この島のために」
「……でも、あのふたりじゃなくても……」
「だから「今さら」なんだよ。そうなら都内にいる時にそう言えよ」
「……」

隆久は、両手を聡子の肩の上に置いて、諭すように言った。

「な、わかってくれよ。島のためだ。島の存続のためなんだ。この前は4年前だった。
今回逃せば、次はいつになるかわからない。だろ?」
「……」
「よしんば、あのふたりを諦めて送り返そうとしたって、そんなこと長老たちが許す
わけないだろうが。俺たち自身、島にいられなくなるぜ」
「だったら……」
「島を出る、か?」
「……」
「あのな聡子」

隆久は聡子の顔をのぞき込んでいった。

「俺たちは結婚しても、子供は作れない。それはわかってるよな」
「……!」
「そのせいで、この島は一度滅びかかったんだ。俺たちの島、俺たちの親父やご先祖
さまの島をなくしてしまっていいのか?」
「……」
「それに、あいつらだって所詮、本土の連中だよ。本土のやつらが、江戸のやつらが
俺たちの先祖にどんな酷いことをしてきたのか、おまえだって知ってるだろうが」
「でも!」

聡子はキッと顔を上げて言い返した。
目には涙が浮かんでいる。

「でもそれは蘭ちゃんたちのせいじゃない。蘭ちゃんたちがやったわけじゃないわ。
なのに……」

説得は無理とわかったのか、隆久は聡子からすっと視線を外した。
今は本番が迫ってきて緊張しているのだろうが、終われば憑き物が落ちるだろう。
聡子だって島の女だ。わかっているはずなのだ。

「もういい。これ以上は平行線だ。その話はまた落ち着いてからゆっくりやろう」
「……」
「愛してるよ、聡子」

肩を抱いて口づけようとした隆久を、聡子は突き放した。
隆久は「ふん」と鼻息をついて、また公民館の中へと戻っていった。



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