東京地検の長である宇田川検事正が庁舎の自室に入ったのは、その日の午前9時半である。
デスクに腰を落ち着け、卓上のパソコンを立ち上げたところで、ノックの音も慌ただしく山嵜
次席検事が飛び込んできた。

「検事正!」
「どうしたね、山嵜くん」
「さきほど警視庁から連絡が入りました。例の事件、第四の脅迫状が……」
「またか」

宇田川は顔を顰めた。
よくもまあ、こう次から次へと犯行を重ねられるものだ。
確かに警察の捜査にも進展がない。
とはいえ、何度も同じ犯行を続ければそれだけ物証を残す可能性も増えるのだ。
彼らにはそうした懸念はないのだろうか。
やはり敵はテロリスト、あるいは一部で囁かれるような愉快犯なのかも知れない。
宇田川が聞いた。

「で、また誘拐された被害者の名前を載せているのかね」
「それなんですが……」

困惑するように山嵜が宇田川に近づき、そっと耳打ちして言った。
検事正は妙な顔をして部下を見つめた。

「……クジョウレイコだと?」
「はあ、そうらしいです……」
「まさかうちの九条くんだと言うのかね?」
「脅迫状は、例によってカタカナで『クジョウレイコ』と書いてあったそうです。私も同姓
同名の別人だろうとは思うのですが……」
「……」

今までの被害者たちも、脅迫状にはすべて名前がカタカナで書かれていた。
最初の一件目こそ悪戯として処理されていたが、二度三度と同じことが起こったため、捜査
せざるを得なかった。
とはいえ名前だけ、それもカタカナ表示では同じ読みの名前の人物すべてを洗うしかなく、
難航していたのだ。
結果として、被害者特定は遺体が出るまで出来なかった。

「それで、今日、九条くんは?」
「まだ登庁しておりません」
「それを先に言いたまえ!」

宇田川は慌てたように立ち上がった。

「今日の九条くんの予定は? 出張ではないのかね」
「いえ、今日は午後に高裁に出廷予定です。本人から遅刻の連絡はありません。通常なら、
彼女は始業の30分前には登庁しています」
「携帯は? 連絡は取れんのか!?」
「さきほどから九条くんの携帯や官舎へ電話していますが、まだ……」
「……」
「念のため、職員を官舎の方へ向かわせました」
「そうか……」

検事正はよろよろと腰を下ろした。
まさかとは思うが、九条検事が攫われたとしたら、どう対処すればいいのだろうか。
事件担当検事を拐かしたということは、計画的犯行かも知れない。

携帯の着信音が鳴り響き、宇田川は慌てて内ポケットに手を当てたが、どうやら鳴ったのは
次席検事の携帯だったようだ。
携帯を耳に当てていた山嵜が、暗い面持ちで「そうか」と言って電話を切った。

「九条くんの官舎に行った職員から連絡が入ったそうです」
「で?」
「やはり誰もいません。念のため管理人に事情を話して中に入ってみたそうですが、内部が
荒らされているような形跡はなかったそうです」
「そうか……」
「それと、一応、九条くんの実家の方へも連絡を入れてみましたが、やはり帰っていないそう
です……」

どうやら最悪の事態に陥ったようだ。
対応に苦慮する検事正を、デスクの電話が現実に引き戻した。

「はい、私です。はい……はい……。え……?」
「……」

電話のやりとりを緊張した表情で見守っていた山嵜は、宇田川が受話器を置くのと同時に口を
開いたが、それを押さえるように上司の方が言った。

「検事総長からだ」
「は……?」
「今回の件……。九条くんの件を含めて、情報はマスコミに全面解禁するそうだ」

─────────────────

その夜。晶たちは夕食のテーブルを囲んでいた。
配下の少年たちの顔色が今ひとつ冴えないのに気づくと、フォークでローストビーフを突き刺
しながら聞いてみた。

「どうしたの、あんたたち。随分シケた顔してんじゃないのよ。あの女をやったんでしょ?」
「はあ、まあ……」

保が頭を掻きながら答えた。

「やることはやったんすけどね……」
「つまんなかったの?」
「そうっすね……」

憲彦は缶ビールをグッと飲み干すと、音を立ててテーブルにアルミ缶を置いた。

「いい身体してたんですよ、見立て通りに。でもねえ、なんかこうイマイチ萌えないっちゅう
か……」
「全然抵抗してくれなかったんですよ、あの女」

食べ終えた修一がぼやくように言った。

「そりゃあ、あんまり暴れられても困るっちゃ困るけど、ああ無抵抗で声も上げないって姿勢は
まいりますわな」
「ああ、冷めちまうよな」
「ふうん」

なるほど、抵抗が無駄と知って玲子はそういう手段に出たのか。
晶は少し感心する。
今までの女とはひと味違うようである。
さすがに有能な検事だけのことはあるというものだ。

「あれじゃあ味わう余裕もこっちにはないっすよ。やっと出したと思って顔を見たら、シレッ
としたツラでこっち見てるしね」
「何言ってんのよ。一筋縄じゃいかない女だってことくらい、あんたたちだってわかってたで
しょうが」
「そうなんですがね」

憲彦はぼやいた。
自分たちには手が余ると言いたげだ。

「もういいから、さっさと脅迫状出しておしまいにしますか?」
「で、次も女にするの?」
「当たり前ですよ、あれじゃあ……」
「ちょっと待って」

晶は何事か考え込むようにして言った。

「脅迫状は……そうね、出していいわよ。『二段階目』の方で」
「は? もうそっちにしますか?」
「うん。資金繰りしておきましょ」
「わかりました。じゃあ、あの女は始末しますか?」
「もったいないこと言わないでよ。せっかくの獲物じゃないの。しかもあれだけの美人で、
あんたたちの言葉を信じるなら身体も極上なんでしょ?」
「そりゃまあ……」
「おまけにハイソ……あ、違うセレブ……あん、これも違うか。何でもいいわ、とにかく一般
人じゃない女なのよ。何しろ検事さんだもの」
「そうですけどね」

ぼやき続ける少年たちをクスクス笑いながら見て、晶が言った。

「だからね、そういうお高い女を堕とすのが醍醐味なんじゃないの、男としては?」
「その通りですけどね、そんな簡単には落ちませんぜ、あれは」
「そりゃ正攻法で攻めるだけならね」
「……じゃどうするんです?」

晶はその必要がないのに声を潜め、顔を寄せてきた少年たちに策を授けた。

─────────────────

翌朝。
昨日、一通り輪姦し終わって、少年たちにも余裕が出てきたようだ。
今日からは晶も加わってくる。
玲子の反応が今ひとつなのが気に入らないが、これは何度も犯すことによって変化してくる
だろうと踏んでいる。
女の生理を知らぬ、無知な少年たちの妄想である。

一方の玲子は、年端も行かぬ少年たちからの凌辱を受け、その屈辱の涙を堪えていたが、自分の
反抗的な態度が思ったより効果があったことで次第に落ち着きを取り戻していた。
彼らのやったことに対するおとなとしての理性的な憤りと、女性としての感情的な怒りを感じ
ている。
犯されたことによって、その反抗心が萎えるどころか、さらに燃え上がった。

(これ以上、この子供たちの好きにはさせない……!)

表向きは、少年たちに屈服したポーズを示していた。
言うまでもなく彼らを油断させるためである。
玲子は落ち着いて周囲を観察した。
いるのは少年たち三人だけで晶はいない。
女を犯すところを見ても面白くないだろうから別室にいるのだろう。
この時点では、彼女は今日からの凌辱劇に晶が入ってくることは知らない。

「じゃおねえさん、始めようか」

まずは保が玲子を引き起こした。
縛られているせいか、よろよろしている。
ベッドから降ろして絨毯の上に跪かせた。
美女の、昨日にはないしおらしい態度を見て、少年は昂奮してきた。
美しい顔の前に、己の分身を掲げる。

早くも青臭い性臭を発しているペニスを突きつけられ、玲子は僅かに顔を逸らせた。
保が何をさせたいのかわかっている。
フェラチオさせたいのだろう。
妙齢の美女が、少年である自分の性器を舌を這わせ、唇で愛撫する。
彼らにとってはたまらない征服感だろう。

「ほら」

保が肉棒を玲子の口に押しつける。
顔を逸らせていた玲子だったが、諦めたように少し口を開け、それをくわえようとした。
それを見ている憲彦と修一の性器も屹立してきた。
憲彦など、気の早いことにもう自分で逸物をしごき出している。
それを見て保が苦笑した。

「おい憲彦、そんなことしなくても一発目はすぐ終わらせるから待ってろよ」
「わかってるけどさ。こんなの見せつけられたらたまんないよ」
「……」

玲子は注意深く少年たちの様子を窺っている。
見ているふたりは、保よりも昂奮しているように見える。
保の方は、もうすっかり玲子に対するご主人さま気取りのようだ。

「あ……あむ……」

玲子は保のものを口に含もうとするのだが、両手を後ろ手縛りにされているので手が使えず、
思うように出来ないようだ。
ブラブラするペニスを追い掛けるようにして、顔を左右に振っている。
それが面白いのか、保はゲラゲラ笑いながら、腰を振って玲子を弄ぶのだった。
焦れてきた修一が言った。

「いい加減にしろよ、保っ。一発目はさっさとやるって言ってたろ?」
「わかった、わかった。じゃあ解いてやるか?」
「え? 検事さんの縄をかい?」

憲彦は少し驚いたように言った。
確かに昨日とは打って変わった態度だが、昨夜のことを思えば、まだ完全に屈服したとは思え
ない。

「もう大丈夫だろう、こうして自分からくわえようとしてるしな。それにおまえらも見てるし、
晶さんだって……」
「そうだな……」

憲彦が考え考え答えた。
少し心配性の修一が不安げに言った。

「で、でもさ、抵抗して暴れたらどうすんだよ? 保のチンポを咬みきるくらいのことはする
かも知れないぜ、このおねえさん」
「そんなことしてみろ。オレたちが今までやってきたことを思えば、生きてここから出られな
いってことくらい、検事さんだってご承知だろうよ」

玲子誘拐以前にも、三人を拉致していずれも冷酷無惨に殺してきた少年たちである。
それくらいのことは当然予想できるだろう。
もっとも、玲子はまだ彼らが連続誘拐犯だということは知らない。

「だな。よし、いいだろ」
「じゃ修一、解いてやってくれ」
「ホントにいいのかな……」
「大丈夫だよ。それに、口だけじゃなくって、検事さんの柔らかそうな手でもしごいてもらい
たいしな」
「それもそうだ」

納得したように憲彦が玲子のロープを解き出した。
保に言われ、脚も解いた。
逃げるつもりなどないと安心しきっている。
それでも最初は注意深く玲子を見ていた。
玲子は解かれた手首と足首を痛そうにさすっていたが、保に命令されると、再び少年に向き
直った。
跪いたままである。
ここでいきなり立ち上ったり、あるいは走り出すようなことでもあれば彼らも警戒したろう
が、玲子はおとなしく従っていた。
保たちは内心ホッとして、女体を触ってきた。

「それじゃ頼むよ、おねえさん。口でもやってもらうけど、まずはその綺麗なお手々でさすっ
てもらおうかな」
「……」

玲子は膝をやや立たせ中腰の姿勢で、君臨する少年の前に位置した。
顔を少し逸らし、目を固く閉じたまま、恐る恐るという感じで少年のペニスに手を伸ばした。
その仕草だけでも、見ている憲彦たちは思わず射精してしまいそうな光景だ。

玲子は右手でそっと保のペニスを握ると、左手で袋の方を柔らかく包むように持った。
閉じていた目を薄く開け、慎重に周囲を窺う。
見ている子たちはふたりとも自慰をしている。
保は両手を腰に当て、玲子に突き出すような姿勢のままだ。

玄関に繋がる廊下のドアは開けっ放しである。
窓は閉まっている。
二階への階段もあるが、上へ上がっては逃げられまい。
修一と憲彦がオナニーで射精し、保は玲子がフェラして射精させた瞬間にでも逃げればそれが
いちばん確実だろうが、そうゆっくりも出来ない。
時間が経てば経つほどにチャンスがなくなる。

自慰の手の動きが激しくなってきている。
保は美女にフェラさせることで恍惚とした表情になっていた。
玲子がくわえ込んだらイマラチオでもさせようと思っているかも知れなかった。

(……今だ!)

チャンスと見た玲子は、口でくわえるとみせかけて、両手を袋に持っていき、そこをギュッと
握り込んだ。

「うぎゃあああ!」

ここを握りつぶされてはたまらない。
保は情けない絶叫を上げて、そこに踞ってしまった。
憲彦たちが、思わぬ展開に仰天しているうち、玲子は脱兎の如く駆けだした。
全裸のままである。
着衣に拘っている余裕などなかった。
そうでなくとも、どうせスーツも下着もハサミを入れられていて、着られる状態にはないのだ。
玲子が廊下に走り出るのを呆気にとられて見ていた修一たちに、保が怒鳴った。

「何してんだよ! 獲物が逃げたんだぞ、さっさと追え!」

そう言う保は、まだ股間を押さえて呻いていたが、ふたりの少年は大慌てで女を追った。

走る玲子は、そのまま玄関まで逃げ出て、蹴破るようにドアを開け放った。
施錠してないのが幸いして、そのまま外へと脱出した。
ソックスも靴も履いていないが、構っていられない。
小石を踏み込む足の裏の痛みさえ感じなかった。
庭を抜けるとすぐに雑木林になった。
その小道を走りに走る。
こんなに真剣に駆けたのは、検事になって以来、初めてのことではなかろうか。
クルマのエンジン音が聞こえてきた。
そう言えば、ここへ来るのにクルマに乗せられたのだ。
キーを奪うか、捨てるかしてくれば良かったと思うのだが、後の祭りだ。

玲子は後ろを振り返らずに走った。
10分も走ると林を抜けた。
その前に広がる風景に、玲子は絶望した。
湖だったのである。
周囲一面、湖だ。
つまりここは、湖の真ん中にある小島のようなものなのだろう。

そこで気づいた。
ここに来る時にモーターボートらしきものに乗せられたはずだ。
慌てて見回すと、すぐそこに小さな桟橋があり、そこにモーターボートが繋留されているでは
ないか。
玲子は弾む息を押さえて、喜色を湛えてボートに滑り込む。

だめだった。
これにもキーが必要なのだ。
もちろんキーは刺さっていない。
向こう岸を見たが、概ね200〜300メートルくらいはありそうだ。
そんなには泳げない。
オールなどないが、こいつに乗って手でも何でも使って漕いでいくしかないのだ。

ブレーキの音がして、続いてドアを激しく開閉する音が響いた。
思わず玲子がそっちを見やると、四人の少年少女たちがこっちに向かって走り出してくるところ
だった。
玲子は繋留ロープを四苦八苦して解くと、手で桟橋を押してボートを湖に出した。

「逃がすかよ!」

上半身裸のままの保が真っ先に駆け込んできた。
まだ桟橋からいくらも離れていないモーターボートに、黒く日焼けした少年が飛び込んでくる。

「きゃあ!」

大柄な少年がドンと飛び込んできたので、ボートは大きく揺れた。
そのショックで玲子も運転席から放り出された。
投げ出された玲子の髪を掴むと、保は思いきりビンタした。

「このアマ!!」

脳震盪を起こすかと思えるような強烈な一撃だったが、玲子は辛うじて悲鳴を出すことを堪えた。
それが気に入らないのか、保は続けて二発、三発と玲子の頬を打った。
そこに残りの少年ふたりと晶が追いついてきた。

「そこまでよ。おやめなさい」
「この野郎!」

なおも殴り続ける保に、晶がきつく命令した。

「保、聞こえないの!? やめなさい!!」
「……」

ようやく我に返った保は、憎々しげに玲子を睨むと、左手で掴んだ髪を叩きつけるようにして
放した。

「……ちくしょう、ふざけたマネしやがって……」
「もういいでしょ」
「よくありませんよ、晶さん。くそ、まだ痛ぇんだから」

そう言って股間を押さえた保を見て、晶が面白そうに笑う。

「災難だったわね。でも、油断して拘束を解いたあんたたちも悪いのよ」
「……」
「おまけにドアは開けっ放し、玄関も鍵掛けてなかったし。これでクルマやボートのキーを奪わ
れてたらどうにもならなかったわよ」
「……すいません」
「まあいいわ、少しは懲りたでしょ。いいこと、これからはこのおねえさんをどうするかはあたし
が決めるわ。拘束をいつ解くのか、どう責めるのかもね」
「はあ……」
「いいわね」
「わかりました」

絶望感に苛まれながら、玲子はそんなやりとりを聞いていた。

─────────────────

新橋のガード下の居酒屋に、男がふたり酒を酌み交わしていた。
知らない人が見れば、ただのうらぶれた中年男だが、時折見せる鋭い目つきがタダモノとは思え
なかった。

「……それで、結局どういうことなの?」

そう聞いたのは後藤警部補である。
相手をしているのは、盟友とも言える捜査一課の松井刑事であった。

「最初はさ、悪戯だと思ったんだとさ」
「悪戯?」
「何しろ、脅迫状には誘拐した被害者の名前とその身代金、振込先、そして期限しか書かれて
なかったんだそうだ。ええと確か……」

松井は宙を見つめながら思い出して言った。

「『マエダユウジ ヲ 誘拐シタ。身代金3億4千万円用意シロ。一週間以内ニ下記口座ニ
送金サレヌ場合、人質ノ生命ハ保証シナイ』だったかな。しかも封筒の宛名には『内閣総理
大臣サマ』と書かれてあったそうだ。こんなもの、普通は悪戯だと思うだろう」
「そりゃそうだ」

名前はあるにしてもカタカナでは誰のことだかわからない。
身代金も高額だし、被害者家族などに宛てたものでもない。
総理に脅迫状を出してどうなるものではないだろう。

「こんな宛名でも、ちゃんと首相のとこに届くんだな」

松井は苦笑しながら後藤にビールを注いでやった。

「最初に開封したのは総理の秘書官だそうだが、当然こんなものは相手しない。捨てはしな
かったが、首相に知らせることもしなかったそうだ」
「当たり前だな」
「まあな。だが、その一週間後、たまたま読んだ新聞記事で、第一の被害者である前田祐司の
殺人事件を知ったんだな。どこかで聞いた名前だと気づいて、その時の脅迫状のことを思い
出したんだそうだ」

後藤は、ホッケの開きを箸でせせりながら、黙って松井の話を聞いている。

「だが、その時は偶然だと思ったらしい。ところが……」
「そこに第二の脅迫状か」
「そうだ。文面はまったく同じで被害者の名前と身代金額だけが違っていた。身代金は6億
2千万になってたって話だ」
「すごいね」

小太りの刑事は、グッとビールを飲み干すと、手酌で注ごうとして瓶が空なのに気づいた。
店員に追加のビールを注文しながら、なおも話を続ける。

「さすがに秘書官も悪い予感がしたんだろうな。ここに至って、まず官房長官に相談したんだ
そうだ」
「まだ総理まで行かんか」
「これだけじゃな。長官も判断しかねたらしく、国家公安委員長をこっそり呼んで相談して
いたんだな。そうこうしているうちに時間が過ぎて……」
「第二の被害者も殺された」
「ああ。前のことがあったから、新聞記事を念入りに読んでいた秘書官がまた見つけたんだな。
やはり被害者の名前の読みが同じ男が殺されていた」
「なるほど」
「これはまずいってんで、ようやく首相まで話が届いた。首相も最初は半信半疑だったようだ
がね、秘書官や官房長官が真剣だったから、どうもただごとではなさそうだと思ったんだろう。
官房長官と国家公安委員長、それに警察庁長官と警視総監を呼びだして事態を説明し、善後策
を協議した」

ビールを待つ間、松井は空いたグラスを指で弄んだ。

「ここで出た話が、犯人はテロリストではないか、という説だ」
「テロリスト……? もしかして外国人の?」
「そうだ。よくわかったな」

松井は「ほう」と感心したような表情で後藤を見た。

「昨今の情勢を見てるとね。アメリカの属国化している日本に対して、はっきりと敵意を示す
反米国はあるし、あからさまに日本をターゲットにしていることを表明しているテロ組織も
ある。その線かな、と思うのがいても不思議はないよ」
「その通りだ。まず、身代金が一般個人に対する金額とは思えない。3人目までの被害者の家族、
親族が普通の家庭ばかりだからな。しかも脅迫する相手は家族じゃなく首相だ。というより日本
という国家に対してだろうな」
「そうだな。だからこれは資金目当てということもあるだろうが、それ以上に日本へのテロ攻撃
だと判断したわけだ」
「そうなら、これは難しい問題になる。何しろ被害者同士に関連性がない。無差別だろうからな。
つまり、誰が被害者になるかわからんのだ。これでは日本国民全員を人質にとっているのと同じ
ことだ」
「……」
「三通目の脅迫状が届くに至って、ようやく捜査指令が出た。だが、事が事だけに、迂闊に
情報を洩らせない」
「けど……」
「そう。第一線の捜査陣に、そういった情報を降ろさないんじゃ支障が出るのは当たり前だ。
過去二件の情報は無論出した。その上で、この三件目も同一の事件だから、そのつもりで捜査
せよ、と」
「それだけじゃあ何のことだかわからんだろうな」

後藤が顔を顰めた。

「連続した事件だと言われたって、被害者同士の関連性はないし、殺害方法も犯行現場もバラ
バラ。何で連続殺人なんだってことになる」
「ああ。だから本庁の一課も所轄の連中も訳が分からなかったろうな。そのくせ検察の担当
検事には事情を話したらしいし、公安の奴らにも捜査を指示してる。こうした動きはオレたち
刑事には何も知らされなかったから、余計に混乱したわけだ」

担当検事は独自捜査のためだろうし、テロリストの犯行が疑われるなら、公安が出張るのも
当然だろう。
恐らく警視庁や警察庁の外事課だって陰で動いているに違いないのだ。

「……でもまあ、上も苦渋の判断なんだろうな。ヘタに明かすとパニックになりかねない」
「そういうことだ。刑事たちに洩らした情報が、いつマスコミに漏れるか知れたもんじゃない。
そうなれば大騒ぎだ」
「事実、今そうなってるしな」

今朝方、この事件についての記者会見があった。
異例だったのは、会見に立ったのは警察関係者ではなく、内閣官房長官だったということだ。
政府としては、それだけ本腰を入れて対策に当たっていると言いたかったのだろうし、だから
パニックを起こさず冷静に行動して欲しいと国民に訴えかけたかったのだろう。

しかし、あまりにも衝撃的過ぎた。
誰が標的になるかわからない。
身代金は法外だ。
しかも、それは政府に対して要求されている。
現在発生しているのは四件目ということは、過去三件については、政府はカネを支払わなかった
ということだ。
もし自分が、あるいは自分の身内が攫われても、国は何もしてくれないのではないか、という
恐怖に囚われたのである。

「まあ、パニックになるのはわかるよ。まさか国民ひとりひとりに警官つけて警備するわけには
いかんから」
「それなんだけどさ、なんで公表するつもりになったんだろうな」
「ああ、それか」

松井はなぜか顔を顰めた。

「……実はな、第四の脅迫状ってのは投函されてきたわけじゃないんだよ」
「電話か何かかい?」
「じゃなくてな、インターネット経由なんだよ」

メールで届いたのかと聞いた後藤に、松井は首を振った。

「後藤さん、「2ちゃんねる」って知ってるかい」
「2ちゃんねる? ……ああ、あの匿名の巨大掲示板だっけ?」
「そうだ。あそこにな、脅迫状が書き込まれてたんだよ」
「……」
「それを見たユーザーから本庁に通報があったんだそうだ。で、ハイテク犯罪対策総合センター
の対策第二班だったかな、そこが確認すると確かにある。だけど、その時点ではまだ彼らは
今回の犯罪については知らないからね。ただの悪戯だと思ったんだな」
「……」
「で、まあ、悪質な悪戯としてホストへ連絡して削除要請をしただけだった。ところが、今度は
捜査一課から同じ内容の連絡が来て「すぐに削除させろ」となったわけだ」
「ふうん」

追加のビールが届くと、後藤が松井に注いでやる。
コップでそれを受けながら、捜査課の刑事は話を続けた。

「再度ホストへ連絡して至急削除させたわけだが、これが遅かった。ホスト側の記録によると、
書き込みがされたのが午前3時すぎ。対して通報があったのが6時。最初の削除要請メールを
打ったのが9時半で、慌てて電話連絡して最終的に消させたのが11時近かったんだそうだ」
「……つまり8時間近くその書き込みは残ってたわけだな」
「そうなるな。まあ俺にはあそこの掲示板にどれくらいユーザーがいて、どれくらいの人間が
その書き込みを見たのか想像もつかんが、100人や200人てことはないんだろう」

恐らくその何十倍、ヘタをすれば何百倍の人間が見ているのだろう。

「警察に問い合わせの電話が入り始めたのが午前8時すぎくらいだそうだ。多分、その書き込み
を読んだ人からだろうな」
「……」
「悪いことに、書き込みには過去3件の誘拐事件の犯人は自分たちだと名乗っていたらしいな。
こうなると脅迫状といういうより犯行声明文だ。それで書き込み読んだ人にも、ただのいたずら
じゃないかも知れないと思うのが出てきたんだろう」

松井はコップを半分空けると、息をついて続けた。

「電話は警視庁だけでなく所轄の方にも入り始めた。事情を知らない所轄署は「どうなってる
んだ」と本庁をせっつくようになる」
「こうなると隠しておけなくなる」

そこで警察首脳と政府が相談して公表を決めたらしい。
隠し続けていては不信感を抱かれるし、次からの脅迫状がまたネットで公開されることにでも
なれば、いよいよ「悪戯」では誤魔化せなくなる。
犯人の目処はついてないし、いつどこで誰が被害者になるのか、まったくわからない。
そうであれば、国民に事実を打ち明けて、出来るだけ自分の身を自分で守ってもらうしかなく
なる。

「そうは言ってもなあ」
「ああ無理さ。カネのあるやつは個人用のガードマンを雇うのが急増しているし、学校や幼稚園
なんかでも急遽スクールバスを使うようになったり、集団登下校を厳命している。それにもガー
ドマンをつけてるみたいだな。だが、それにしたって限界があるだろう。ガードマンの数にだっ
て限りはあるし、かといって出かけないわけにはいかないしな。まさか主婦が買い物するのに、
いちいち警備員を雇ってガードさせるわけにもいかん」
「となると、いろんな影響が出てくるな。送迎用運送車両関係や警備会社の株は上がるだろうが、
怖がって外出を避けるようになるから経済活動自体が大ダメージを受けるな。まあ、だからこそ
テロ説が出たんだろうが」
「警察に怒鳴り込んでくるやつも出るしな」

そこで中年の警官たちは顔を見合わせて苦笑した。
後藤が宙を見ながら言った。

「そんで、犯人の目星は全然なの? 俺、あんまり詳しくないんだけど、インターネットで
そういう書き込みをすればあれこれ情報が残るんでしょ?」
「俺も詳しくないんだがね、なんでもIPアドレスだか何だか、よくわからんがそういうのが
残るんだそうだ。それを調べると、どこからアクセスしたのかってのが大まかにわかるらしい」
「個人特定は出来ないの?」
「わからんらしいね。自宅で自前のパソコンからアクセスしたんならともかく、外部からだっ
たらわからんだろう」
「今回はどうだったの?」
「調べたら、池袋にあるネットカフェからだったことがわかったらしい。どのパソコンからアク
セスしたのかもわかったようだが……」

どこの誰が使ったのか、まではわからないということだ。
利用にあたって、いちいち個人情報を書かせるネット喫茶などないし、書かせたところで本名を
書くとは限らないのだ。
指紋を採ろうにも、不特定多数が使うマシンでは意味がない。

「結局、わからないわけね」
「仕方がないよ。犯人もそういうつもりでネットカフェを使ったんだろうしね」
「そうか……。でも身代金は銀行口座に振り込めってんでしょ? どこ、それ」
「それがな……、ケイマン諸島なんだよ」
「なんだい、そりゃ」

西インド諸島にあるケイマン諸島は、イギリス領である。
有名なタックスフリーの地で、世界中の企業がペーパーカンパニーを立ち上げて、本国からの
課税逃れに使っている。
何しろかの地では、所得税はもちろんのこと贈与税から相続税までない。

「おまけに、人口4万程度の小さな島なんだが、銀行が600近くあるそうだ」
「600!?」
「ローカル銀行もあるが、各国の大銀行も支店を出してきてる。中にはスイスの銀行のように、
顧客情報は一切明かさないってところも珍しくない」
「……」
「しかも、ケイマンの会社でマネーロンダリングすることも多いんだそうだ。つまり……」
「あちこちの犯罪組織が跳梁跋扈してるわけね」
「じゃあ、口座から探るのも難しいわけか……」
「やってはいるみたいだが、時間がかかるだろうね」

後藤が首を鳴らしながらつぶやいた。

「……手も足も出ないってとこか……」




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