「そうなんですか……」
高木はいかにも残念だという口調で言った。
結果的に騙すことになる美和子はいたたまれなくなる。
「本当にごめんなさい……。最初から言っておけばよかったわね」
美和子はレスリーの提案通り、高木を彼にカウンセリングを受けさせようとして
いた。
だが、あくまで偶然を装わねばならない。
美和子はセックスで悩み、通院していたなどと知られてはならないからだ。
それならば、医師の提案を断り、そのまま高木と過ごす選択肢もあったはずなの
だが、美和子はレスリーに逆らえなかった。
もちろん高木に変化が生じて、彼のセックスで自分が満足できるようになれば、
それに越したことはないと思ったこともある。
だがそれ以上に、知らず知らずのうちにあの医師の指示に従ってしまう気持ちが
あった。
レスリーに愛情を感じていたとか、そういうことでは断じてない。
もしかしたら、彼のテクニックに溺れてしまっているのかも知れない。
そう思うと恐ろしくもなるのだが、「あくまで治療」だいう医師の言葉に望みを託
してもいた。
それに、万が一、美和子はレスリーに溺れていたとしても、それでもいいかという
気持ちにもなりかかっていた。
高木を捨ててレスリーの女になる、ということではない。
割り切った関係として、である。
考えようによっては酷く淫らな関係ではあるし、立派な浮気でもあるのだ。
しかし、そうでもされないと美和子は自分の身体をコントロール出来ない。
肉欲の疼きをどうにも抑えられなくなっているのだ。
まさか、誰彼構わず声を掛け、行きずりのセックスに耽るわけにもいかないし、
そんな気は毛頭なかった。
その点レスリーであれば、普段は非の打ち所がない紳士ではあるし、「これは治療
だ」と自分を誤魔化すことも出来る。
それでいてセックスの時は、美和子が完全に屈服するほどの激しく濃厚なプレイを
仕掛けてくる。
申し分ないのだった。
事実、昨夜も、彼の部屋に連れ込まれてから、たっぷり3時間は犯され続けていた。
レスリーが射精したのは三回だったが、美和子は何度いかされたか数もわからない
ほどだ。
最後には、あまりの連続絶頂に息も絶え絶えとなり、足がよろけて満足に歩けなく
なり、レスリーに部屋までおんぶされて連れて行かれたくらいである。
眠りこける高木を起こさないように、その隣に潜り込んで眠りに就いたのは、もう
午前4時を回っていた。
幸い、高木は熟睡中で美和子の夜の行動にはさっぱり気づいていなかった。
「朝食の時間だ」と言って、遠慮がちに高木が美和子を起こしたのが朝の8時過ぎ
だった。
昼間は近場の観光地を回り、野天風呂にも入って水入らずで楽しんだのだが、その
間も美和子はどうやって高木をバーへ連れ出すかと考えていた。
それで思いついたのが、親戚の家に顔を出す、というウソだった。
「この近所に父方の叔父がいるのよ。この温泉に来ると言ったら、是非遊びに来いっ
てしつこいものだから……。ずいぶんとご無沙汰していたしね」
「そういうことなら仕方ないですよ。でも……」
「わかってるわ。出来るだけ早く帰ってくるから。ごめんね」
美和子はそう言って、高木の頬に軽くキスをした。
手を振って美和子を送り出すと、高木は小さくため息をついた。
納得したとはいえ、やはり寂しい。
せっかく恋人と旅行に来たというのに、夜を共に過ごせないかも知れないのだ。
ちらと時計を見ると夕方の5時になるところである。
夕食に出るか、どうするか。
美和子がいないので、部屋食はキャンセルしていた。
ひとりで部屋で食べるのもわびしいと思ったからだ。
そう言えば美和子が、雰囲気の良さそうなバーがあったと言っていた。
そう飲める方ではないが、時間つぶしにはなるだろう。
高木は浴衣の上に丹前を引っかけて、一階のバーへと向かっていった。
時間帯が悪かったのか、バーは立て込んでいた。
高木が入った時はそうでもなかったのだが、夕食を終えた客たちが流れてきている
らしい。
もともとそう広くなかった店内はたちまち人が満ちてくる。
4つあったボックス席はすぐに埋まり、カウンターにも浴衣姿の男性が何人も座っ
てきた。
カウンターの端っこで細々と飲んでいた高木は、そろそろ出て食事をしようかと
思い始めた。
今なら、付属のレストランも客が引いているだろう。
そう思った時に声を掛けられた。
「失礼、ここよろしいですか?」
「は……? あ、どうぞ……」
人なつこい笑みを浮かべた男性は、言うまでもなくレスリーであった。
昨夜、美和子を誑かした時と同じような台詞で、彼はその恋人の隣に腰を下ろした。
「混んできましたね」
「はあ、そうですね……。ああ、僕はもう出ようかと思っていたので、ごゆっくり
……」
「まあ、そう言わずに。「袖触れ合うも多生の縁」という日本のことわざもある
じゃないですか」
「え? あ、あの失礼ですけど……」
「ああ、これは失礼。私はレスリー・リャンと言います。香港……、いえ中国人
です」
「はあ、そうですか。日本語達者なんですね」
「おかげさまで。日本で開業していますので」
「あ、お医者さんで」
「まあ、そんなところです」
そこでレスリーは指を鳴らしてバーテンを呼び、昨日のボトルを取り寄せた。
グラスに自分の水割りを作ると、高木のグラスにも新たな酒を注いでやる。
こうされては、無下に出て行くわけにもいかなかった。
半ば以上空いたボトルを見て、高木が聞いた。
「ご滞在、長いんですか」
「いいえ。昨日来たばかりですよ。明日には帰ります」
ということは、昨日だけでこれだけ飲んだということか。
高木の表情を見て、レスリーは笑った。
「私ひとりで飲んでたわけじゃありません。連れと一緒に夕べ飲んだんです」
「あ、お連れさんがおいでで」
「ええ。あなたは?」
「はあ、僕も……」
「そうですか。今は?」
「あ、何かこの辺に親戚がいるそうで、そっちへ挨拶しに行ってます」
なるほど、美和子はそういう手を使ったのか。
レスリーは思わずほくそ笑みそうになったが、それを表情には出さなかった。
高木は話の接ぎ穂を見つけようと、会話を続けた。
「今日はお仕事ですか?」
「いいえ、息抜きです。いや、仕事半分かな。あなたは?」
「僕も遊びです」
「それで彼女と一緒に旅行ですか。それはうらやましい」
「はあ……」
高木は照れて頭を掻いた。
しかし、どことなく表情が沈んでいる気もする。
「……あまり楽しくない?」
「そんなことはないんですけども……」
「何かお悩みですか。よかったら、話してみませんか。僕、心療科でカウンセリン
グやってますんで」
「あ、そうなんですか」
「それも……」
レスリーはそう言って周囲を軽く見回した。
高木の耳に口を近づけてそっと囁く。
「ここだけの話ですがね、男女間の夜の生活についてなんかの相談を受け付けて
ます」
「え……?」
「平たく言えばセックスの悩みですね」
そう言ってから笑った。
「まあ、恋人と一緒に旅行するようなあなたのような方にはあまり関係ないで
しょうが」
「……」
一瞬、高木が顔を曇らせた。
「……失礼ながら、そうでもない、と……」
「はあ、その……何というか……」
「お話、聞かせてもらえませんか。なに、気にすることはありません。料金をいた
だこうなんて思ってませんし」
「……」
「それにね、この手の悩みを抱えている人は、思いの外多いものですよ。そう悩む
ことはありません」
「そうなんですか」
「ええ。だから恥ずかしがったりすることないですよ。解決するしないはともかく
として、話してみませんか」
高木は少し俯き、考え込むような表情を作ってから、ぽつりぽつりと話し始めた。
────────────────────
レスリーが高木とバーで飲み始めた30分ほど前のことである。
美和子は何とか高木を送り出し、ホッとして部屋に戻ってきた。
履いてきたハイヒールを脱ぎ、足を解放してやる。
ストッキングの足の裏に畳の感触が心地よい。
といっても、このままここにいることも出来ない。
食事に行ったか飲みに出たかわからないが、いつ帰ってくるかわからないのだ。
その間、どうしていればいいだろう。
レスリーがうまいこと高木を引き留め、2時間くらい過ごしてから部屋へ戻って
くれれば、それがベストである。
美和子はついさっき帰ってきたことにすればいい。だが、レスリーが空振りして
高木がすぐに部屋へ戻ってくる可能性も捨てきれなかった。
そうなら、これから少なくとも1時間くらいは、どこかで時間を潰さねばならない。
高木がいるかも知れないから、宿のバーやレストランも使えない。
外で食事でもしようかと思い、窓から景色を眺めた。
まだほんの宵の口で、あたりもようやく日が暮れてきたくらいである。
美和子はバッグを持ち、立ち上がりながら、ふと高木のことを考えた。
レスリーはどう話し、どんなアドバイスをしてくれるだろうか。
一気に高木の性癖が変化するとは思えないが、多少なりとも積極的になってくれる
だろうか。
レスリーや他の男たちのように、美和子が失神するまでセックスしてくれなくとも
いい。
せめて一度くらいはオーガズムを得られるようになってくれれば。
今までは、高木に抱かれて気をやったことはなかったのだ。
それこそ「演技」だった。
経験不足の時代ならともかく、今の美和子は高木を丸め込むくらいの芝居は出来る
つもりだった。
演技ながら嬌声を上げ、いきそうな声を出し、少し派手に喘いでみせる。
高木とのセックスで、まったく感じないということはない。
愛撫されれば感じるし、挿入されればそれなりに性感は得ているのだ。
ただ、凌辱された時のような強烈かつ鮮烈な快感ではなかった、というだけだ。
少しでも感じれば、過去のレイプを思い出して喘げばよかった。
しらふではとてもそんなことは出来ないが、抱かれている現実と、その相手が高木
であるという精神的充足感もある。
喘ぐ声は高木をその気にさせているはずだと思っていた。
もしかすると、今晩からはその心配はなくなる──とまでは言わないが、少なく
なるかも知れない。
徐々にでも彼が進歩し、美和子を悦ばせる術を学んでくれればよかった。
美和子は、今夜あるであろう高木との性交にほのかな期待を抱き、身体の芯が少し
熱くなってきているのを感じていた。
ドアがノックされたのはその時である。
「はい」
今時分誰だろうか。
高木ならキーを持っているはずだから、勝手に入ってくるだろう。
何しろ、美和子は今ここにはいないはずなのだから。
宿の従業員だろうか。
美和子は館内用のスリッパを足に引っかけて返事をし、ドアを開けた。
「え……? 先生……?」
「やあ」
ドアの外には、にっこりと微笑んだレスリーが立っていたのである。
驚いた美和子は目を大きく開けて詰問した。
「どうして先生がここに……? 高木くんは?」
「ああ、彼はついさっきバーに来ましたよ。うまくいきそうです」
「そ、それならなぜ先生はここに……」
「あなたのことをね」
「え? 私ですか?」
「ええ、協力していただかないと」
「協力?」
何のことだろう。
高木とはレスリーが差しで話してくれるはずではなかったのか。
まさか、美和子に同席させるというのだろうか。そう聞くと、医師は笑って否定
した。
「まさか、そんなことはしませんよ。でも、手伝って欲しいことがあります」
「はあ……。何をでしょう」
「僕の部屋に来てくれますか?」
「……」
美和子はすっと一歩引いた。
昨夜の記憶が生々しい。
酔った美和子を廊下で口説き、激しいキスをして朦朧とさせてから部屋に引き込み、
朝方近くまで散々犯されたのだ。
警戒するのも当然だろう。
レイプとは言い難いが、完全に同意したわけでもない。
美和子がしらふで冷静だったら、大騒ぎしてでも拒否したに違いないのだ。
「警戒してますね。僕はこの後すぐにバーへ戻りますから平気ですよ」
「じゃあ何をするんですか、先生の部屋で……」
「来てもらえればわかりますよ。疑わないで欲しいのは、本当に高木さんの治療
……いえ、レッスンのためなんです。ひいては美和子さん、あなたのためでも
あるんですよ」
「レッスン……?」
治療はともかくレッスンとは何のことだろう。
まさかレスリーの見ている前で高木と寝ろとでも言い出すのではあるまいか。
それを見ながら医師が指導する……。
そんなことを考えて、美和子は軽く頭を振った。
いくら何でも、そんな官能小説めいたことはないだろう。
仮にそう提案されたとしても、そんなことはお断りである。
当たり前だ。
それでは変態そのものではないか。
美和子は、人前でセックスをして見せて悦ぶような性癖はないと思っていた。
では何だろう。
美和子も含めて、三人で話し合うということかも知れない。
考え得る可能性の中では、それがいちばんまともそうだ。
しかし、それも遠慮したかった。
それなら高木とふたりっきりでそのことを相談する方がいい。
もっとも、それが出来なかったからこそレスリーの元を訪れるようになったのも
事実だ。
美和子が堂々巡りをしていると、医師が声を掛けた。
「どうしました? 行きましょう」
覚悟を決めた女刑事は、スリッパを脱いでハイヒールを履きながら聞いた。
「でも先生、高木くんとは……」
「バーでじっくり話してみます。その辺はお任せください」
「じゃあ私は先生の部屋で何をしてればいいんですか? 先生は高木くんを連れて
来るわけですか」
「ああ、やっていて欲しいことがあるんですよ」
「はあ……」
レスリーは後の方の質問には答えず、そう言った。
美和子はそこはかとない不安を感じつつも、前を行く医師の後について行くしか
なかった。
────────────────────
バーの隅っこで、レスリーと高木が酌み交わしていた。
レスリーは「人誑し」と呼ばれるほどに、他人に取り入るのを得意としている。
職業柄、人の話をよく聞く習慣がついていたから自然と聞き上手になっており、
そこが好かれ、信用される原因となっている。
また、30台半ばとは思えぬほどの童顔であり女性の人気もあったし、男から見て
も憎めない顔ではあった。
他人の警戒心を奪うような表情だったのだ。
刑事であるはずの高木も、まったく無警戒となってレスリーに何でも話すように
なっていた。
これは高木が軽率であると一概に批判は出来ない。
何しろレスリーはウソを言っているわけではない。
その99%までが事実を話しており、語り口に訝しい点はなかったのだ。
決定的なのは、レスリー自身が高木を騙しているつもりはなかったことだ。
あくまでカウンセリングというスタンスである。
後ろめたいところがないのだから、その言葉は胡散臭くならない。
「……なるほどねぇ、そういうことですか」
「はあ……」
やはり高木の方も、美和子とのセックスに違和感を持っていたのである。
若い自分に経験が少ないため、充分に彼女を満足させてはいないのではないかと
疑っていたわけだ。
もちろん美和子に高木を圧倒するほどの経験があるとは思えなかったが(事実は
違って、年齢相応以上の強烈な経験を持っていたのだが)、それにしても自信が
ない。
そうでなくとも高木の方には引け目がある。
最初は高木の方が一方的に美和子を慕っていたのだ。
美和子の方は高木に対して「頼りない後輩」という意識しかなかったはずだ。
それからいろいろあって徐々に美和子の心も接近し、今こうなっている。
しかも美和子はどちらかというと年上好みだったはずなのに、自分は年下なのだ。
そう話すと、医師は笑みを浮かべて言った。
「そんなこと、どのカップルでも似たようなものですよ。いかに相思相愛とは
言え、両方が同時に相手を好きになる、なんて偶然がそうそうあるわけありま
せん」
「そりゃそうですが……」
「でしょう? どっちが先か、なんてどうでもいい問題なんです。それにね、
実際問題として、先に惚れて打ち明けた方が後々主導権を握ることが多いん
ですよ」
「そんなもんですか……」
「ええ、そうです。それに年上年下なんて、もっとどうでもいいです。年齢差が
20年30年あるなら、そりゃあ多少意識はするでしょうけど、世の中にはそう
いうご夫婦もけっこういますよ。他人がどう見たって、そんなものご夫婦の問題
でしょう。互いが良いと思っていれば、そんなこと気にすることはないです」
医師はそう言って、若い刑事のグラスに氷を足し、スコッチを注いでやる。
「どうも……。でもですねえ、やっぱり気になるんですよ。さと……、いえ、
彼女との、そのセックスがね……」
高木の普段の言動からして「セックス」などという言葉を使うとは思えないが、
彼はするりと口にしていた。
相手が聞き上手の上、医師のレスリーであったことに加え、高木の方もけっこう
アルコールが回ってリラックスしていたのだろう。
「具体的には?」
「どこがどう、ってことはないんです。でも、何かこう、今ひとつ、彼女は満足
してくれないのかなって気が……」
「……」
それは当たっている。
ぼーっとしているようで、けっこうよく観察しているようだ。
さすがに刑事というところか。
というより、やはり恋人関係になっても美和子が気になるのだろう。
高木には美和子を「自分の女」にした、という実感が持てていないのだ。
レスリーはぽつりと言った。
「……それはつまり、あなたに抱かれた彼女が「感じているふり」をしているとか?」
「……そんな気もします……」
「なるほど、それは気になりますね」
医師はここで、昨夜美和子に話したのと同じ話を高木にした。
「義務と演技、ですか……」
「ま、フィクションのドラマですけどね。そういうのがありました」
「僕と佐藤さんもそうだ、と……」
高木はもう名前を誤魔化そうとせず「佐藤さん」と口にしていた。
酔っているのだ。
美和子は自分に抱かれている時、感じているふりをしているのだろうか。
そう思うと情けなく、いたたまれなくなってくる。
自分も義務感で美和子を抱いているのだろうか。
いや、それはない。
高木はあくまで美和子が欲しくなるから抱いているのだ。
とはいえ、高木自身が疲れていて調子が悪い時、あまり性欲を感じない時でも結局
抱いていることがある。
滅多にないデートの機会だから、ということもあるし、抱かないと美和子が自分の
愛情を疑うのではないか、という恐れもあった。
なるほど、つまり義務感で抱いている、というのはそういうことも含むのかも知れ
ない。
「そうかも知れませんね。でもこれは多かれ少なかれ、どのカップルにもあること
です。完全な性の一致などあり得ませんしね」
「そうですけど……」
「お気持ちはわかります。それでも彼女を満足させたいですよね、それが男の矜恃
ってもんです」
「……」
医師は、彼の話を聞いてじっと考え込んでいる高木の顔を覗き込んで言った。
「……自信がありませんか」
「そうです……ね……」
「……では「勉強」してみますか」
「勉強?」
グラスを持ったまま、高木は隣の医師を見た。
レスリーは、高木のグラスが空いているのを見て、そこにまた水割りを作ってやる。
水割りと言っても、ほとんどアイスウォーターは入れず、限りなく生に近いウィ
スキーである。
「勉強というのも大げさかな……。ねえ高木さん」
「はい」
「失礼かとは思いますが……、あなた「お座敷ショウ」って見たことあります?」
「は……?」
「下品な話で申し訳ないですけどね」
「はあ……」
こういった温泉地では、酔客を相手にした非合法かつ刺激的な性の商売がけっこう
ある。
女性客を惹きつけるために、そうしたものを一掃するようなところもあるが、それ
でもこうした温泉宿の主客は中年以上の男性客が中心だから、隠れてまだやって
いるところもあるらしい。
いわゆる「女体盛り」などもその一部だろう。
女体盛りとは特別注文の刺身盛り合わせて、舟盛りの舟の代わりに女の身体を使う
というやつだ。
人体の上に刺身など盛りつけたら生暖かくなってしまっておいしくないだろうし、
女体盛りでは醤油の代わりに女性の膣から愛液をとって、それとつけて食べると
いう話もある。
そんなものがうまいはずもなく、要は裸の女を見て愉しむという、それだけのこと
だろう。
お座敷ショウというのも、商売女を部屋に呼んで、あれこれ淫らな見せ物を見ると
いうものだと聞いている。
当然のように、その後は売春行為が行われるのだろう。
高木はそうしたものは見たことがなかった。
興味もなかったのだ。
聞いた話では、主役の女に美人はほとんどいないし、年増も年増、大年増の夜鷹
ばかりだという。
余計にそそらなかった。
それでも、大学の時とか、警官になってからの職場旅行などで、温泉地のストリッ
プくらいは見たことがある。
あそこでやっているのも似たようなものなのだろう。
酔った客が中心だから、演じている女が美人かどうかははっきりわからないだろう
し、化粧を塗りたくった大年増でもわからないのだろう。
そもそも客の視線は、顔よりも下半身や胸に行っているはずだ。
従って高木にはほとんど興味はなく、ストリップを見に行ったのも「付き合い」に
過ぎなかった。
高木がそう言うとレスリーは苦笑して頷いた。
「そんなもんでしょうね。東京の有名なストリップ劇場でやってるようなものは、
名の売れたAV女優なんかを引っ張ってくることもあるし、まだ見応えがあるん
でしょうけど、こういういところはね……」
「ですよねえ。で、それがどうしたんです?」
「ええ……」
レスリーは少しもったいぶって、そこで言葉を止めた。
氷を鳴らして自分のグラスをゆっくりと傾ける。
そうして、若い高木がレスリーの次の言葉を待っていることを確認し、再び口を
開いた。
「……どうです。一度、見てみませんか」
「何をです? あ、そのお座敷何とかを?」
「ええ。実はね、僕の部屋に商売女がいます」
「はい?」
「いや、そんな目で見ないでくださいよ」
医師は苦笑して言った。
「ひさしぶりの息抜きだったんでね、少し羽目を外そうかと思って買ったんです」
「……」
高木は「僕は刑事ですよ。それは非合法でしょう」と言いたくなったが、倫理観
よりも興味が上回っていた。
「それで、あなたもどうです?」
「どうですって、どういうことです? 僕もその女を抱いてみないかってこと
ですか」
「それでもけっこうなんですがね」
医師は右耳の後ろあたりを掻きながら言った。
「僕がその女を嬲って見せます」
「はあ?」
「どうもさっきからお話を伺っていると、あなたは彼女に対してというより、女性
に対して自信がないようだ」
「……」
ズバリである。
「女体がどういうものか、どうしたら感じさせることができるのか。ぶっちゃけた
話、彼女をいかせてみたいでしょう、思う存分に」
「そう……です、ね……」
「そうできれば、あなただけじゃなく彼女だって満足なはずだ。違いますか?」
「そう思います……」
医師は高木からすっと視線を外し、カウンターを見下ろしながら言った。
「だから、あなたに女性はどこが感じるのか、どうすれば燃えてくれるのかとご教授
してみようかと思うんです」
「……」
「もちろんあなただって子供じゃない。経験もあるんだから、基本的なことはご存じ
でしょう。でも、それでは何かが足りないのではないかとご自分でも思っているの
ではありませんか?」
「……それを、その女性で試してみる、ということですか」
「そういうことです。もちろん僕がやって見せます。あなたは見ているだけでもいい。
その気になれば抱いてもらって構いません」
「いや……、それは……」
「まあ女の方は、他人を連れて来るとは言ってませんので、最初は抵抗するかも知れ
ませんが、それは気にないでいいです。後で割増料金をかなり弾んでやれば、喜び
こそすれ文句は言わないでしょうし」
高木は戸惑っていた。
そんなものは見たくもない。
しかしこの医師の言うことも当たっている。
自分はセックスに対する……ひいては女性に対する自信がない。
美和子に対しても、壊れ物を扱うように接してしまう。
もしかしたら、それが彼女には物足りないのかも知れない。
自分が自信をつけ、美和子に対しても堂々と振る舞い、抱いている時でも主導権を
握るようなことになれば、彼女も高木を見直してくれるのではなかろうか。
そのためにはセックスや愛撫のテクニックはともかく、その最中の女とはどういう
ものなのかを知るのも悪くないのかも知れない。
レスリーが「途中で嫌になってしまったらすぐに止める」と言ってくれたのも心強
かった。
物は試し。
高木は見てみる気になってきていた。
────────────────────
「んん……ん〜〜っっ……」
その頃、美和子はレスリーの部屋で苦しそうに呻いていた。
輪島塗りの大きなテーブルに布団が敷かれ、その上に仰向けで寝かせられている。
全裸であった。
上半身には浴衣の帯が巻き付けられ、乳房の上下をきつく縛めている。
縄尻で両腕は背中に回されて、これも縛られていた。
両脚は軽く膝が曲がる程度まで引き伸ばされ、足首が帯で縛られた状態で鴨居に
引っかけられている。
足でバンザイさせられているようなものだ。
なぜかその足には、美和子が履いてきた黒っぽいハイヒールが履かされていた。
口にはタオルで猿ぐつわがされていて、鼻で何とか呼吸は出来るが何も喋れず、
呻くのが精一杯だった。
腰の下には二つ折りにした座布団が敷かれ、腰──というより臀部をぐっと持ち
上げるような格好になっている。
レスリーに呼ばれ、渋々部屋に連れてこられた美和子は、その場で裸に剥かれ、
この恥ずかしい姿のまま拘束されてしまったのだった。
今まで乱暴なことはしなかった医師が初めて行なった暴行じみた行為に、美和子は
ショックを受けた。
それでも美和子を縛っている時、医師は「すみません、我慢してください」と謝り
ながら彼女を拘束した。
必死になって事情を尋ねる美和子に、レスリーは「詳しい訳は今は言えない。すぐ
にわかる。終わればもちろん解放する」とだけ言い残し、閨を後にしたのだ。
経緯から考えて、医師は高木と話すためにバーへ行ったはずだ。
それを終えてから、この部屋で美和子を犯そうというのだろうか。
昨夜は酒が入ったいたこと、その前の高木とのセックスで欲求不満になっていた
こともあって、レスリーの押しに抗いきれず、半ば同意のまま抱かれてしまった。
しかし今日はまた話が別だ。
レスリーがまた誘ってきても、美和子は恐らく断るだろう。
美和子の身体が欲しくなった医師が、それを見越して先手を打って美和子を拘束
したのかも知れない。
そんなことをされたら高木が心配する。
一応、親戚の家へ行くとウソはついたが、今夜中に部屋へ戻らないとまずい。
昨日のように明け方まで犯され続けるわけにはいかないのだ。
不安と焦燥に駆られ、美和子が落ち着かない時間を過ごしていると、ドアのシリ
ンダー錠が開けられる音がした。
続けてドアが開く音がする。
戻ってきたらしい。
医師が来たら文句を言ってやりたかった美和子は唖然とした。
すらっと襖が開けられて中に入ってきたのはレスリーだけではなかった。
高木渉もいたのである。
「!!」
美和子は声も出さずに悲鳴を上げた。
(た……高木くん!?)
レスリーの後ろには、冴えない表情を湛えた高木がいた。
医師は美和子に笑いかけると、高木を部屋の奥に座らせた。
あまり美和子に近づけない方が良いと思っているのかも知れない。
室内の証明はスモールランプのみで薄暗く、近寄ってよくよく見ないと顔の判別は
難しいだろう。
しかし、それにしたって高木の前でこんな恥ずかしい格好でいることは我慢出来な
かった。
美和子の呻き声が大きくなり、身悶えが激しくなると、医師は後ろ手で襖を閉め、
その隙間から高木に「ちょっと待って下さい」と言うと、ぴたりと完全に戸を閉めた。
医師は、顔を振りたくる美和子を抑え、顔に巻いていた猿ぐつわを外した。
「ぷあっ……、せ、先生っ、これはどういう……むむっ」
「しっ」
レスリーは右手で美和子の口を覆い、左手の人差し指を立てて自分の唇に当てた。
「お静かに。あまり大声で叫んでは高木さんにバレてしまいますよ」
「!!」
途端に黙った美和子に、医師はそっと告げた。
「そう、そうです。おとなしくしていれば、まずバレることはありません」
「先生、これはどういうことなんですか! どうして高木くんがここに……」
美和子は無音で一気にそう喋った。
激怒し、動揺する美女を宥めるように医師は言った。
「落ち着いてください。これから高木さんに、美和子さんの身体について教える
だけですよ」
「そ、それはどういうことなんですか……。ま、まさか私を高木くんの前で……」
さあっと美和子の美貌が青ざめた。
高木の見ている前でレスリーに嬲られ、犯されるのだろうか。
しかし、そんなことをすれば、いかに高木でも気づくはずだ。
美和子だって助けを求める。
そう言うと、レスリーは無表情でこう答えた。
「そんなことはしない方がいいと思いますがね」
「なぜですか! 私は高木くんの前でこんな屈辱的なことは……」
「では大声で叫んで彼に助けを求めますか? そんなことをしたら、彼は怒るより
前に、なぜあなたがここでこんなあられもない格好でいるのか疑問に思うことで
しょうね」
「……!」
「そうすればあなたと僕の関係を疑うようになるかも知れない。それでいいんですか」
「そんな……、卑怯です!」
「それにね」
レスリーは美和子の血の叫びを無視して、なおも続けた。
「目の前でこうやってあなたの肉体がどう反応するのかを教えてあげれば、彼だって
憶えてくれますよ。これは彼のためであり、あなたのためもであるんだ」
「そんな……いやです!」
「もし「彼にバレでもしたら」と思っているなら、その心配はありません」
「ど……どういうことですか……」
「彼にはちょっと術を掛けておきました」
「さ、催眠術……?」
レスリーは黙って頷き、内容をかみ砕いて美和子に説明していった。
「失認症という障害があります」
「失認症……ですか」
「医学的に言いますと、一転の感覚路を通じての対象物に対する意味把握の障害
です」
「……」
「わかりやすく言うとですね、見てもわからない、聞いてもわからない、という
障害です」
つまりこうである。
例えば、目隠しした状態である物を触らせる。
すると、触った物の形や素材などはわかっても、それが何であるかがわからない、
というのが触覚失認である。
その物が木製であるとか、触った感じがざらざらしているというのはわかるのだが、
それが何かというのが理解出来ない状態である。
もっとわかりやすい例を出すと、同じく目隠しした状態で鈴やフルートの音を聞か
せてやる。
それがどういう音をしているかというのはわかるし、音自体は聞こえるのだが、
それが何の音なのかが理解できない。
フルートや鈴を知らないわけではない。
知っているのだ。
ただ、その音とフルートを結びつけることができないのである。
これを聴覚失認と呼んでいる。
あるいは、例えば時計を見せても、その形や色は説明出来るのだが、それが何で
あるのかがわからない。
しかし、それを手に持たせてやると時計だということがわかる。
そういう症状を視覚失認という。
「そ、それがどうしたんですか……。高木くんがそうだと言うんですか」
「それに近い状態にした、ということです」
「な、何ですって!?」
「だから術でそうしただけです。僕が解けば治りますよ」
「……」
美和子が落ち着いたのを見計らって、医師はまた説明を始めた。
「その中に相貌失認というのがあるんですがね、これは相手の顔とか表情の識別
ができない症状です」
「顔が……わからないんですか」
「いや、その人の顔……、例えば目の色とか鼻の形とかほくろとか皺なんかはよく
わかるんですよ。顔のパーツについてはわかるんです。ただ、顔の識別ができない。
それらのパーツで構成された顔を認識できないんです。つまり顔でその人が誰なの
か判断ができない状態です」
「……」
「希ですが、先天的にもこういう人はいるようです。事故などで頭部に怪我をして、
後天的にそうなってしまう人もいるそうです。僕はその状態を人為的に作り出した
だけです。術を解けば簡単に元に戻ります」
美和子は、隣の部屋にいる高木を気にしながら聞いた。
「じゃ、じゃあ……。高木くんは、私が今こうして縛られているのがわからないん
ですか?」
「わからないでしょうね。彼にはだいぶ酒も飲ませましたし、術もよく効いていま
す。多分、あなたの顔を間近に見てもあなただとはわからないと思います。あなた
の身体や顔の特徴は彼もよく知っているとは思いますが、それらのパーツについて
はきっと見覚えがあると思います。ただ、今言った通り、顔の構成が出来ない状態
ですから、あなたが彼の恋人である佐藤美和子だとはわからないんです」
「……」
「ただ、彼の名前を呼んだりはしない方がいいと思います。術で麻痺しているのは
視覚だけであって聴覚は生きていますから。美和子さんが「高木くん」と呼んで
しまえば、その声であなただとわかりますから、視覚障害も解けてしまうでしょう
ね」
「そんな……」
「ただ喋ったり呻いたりするくらいじゃわからないと思います。ひょっとしたら、
あなたの声に似ているな、くらいは思うかも知れませんけど、そこからバレること
はまずないでしょう」
レスリーはぷるぷると震えている美和子の裸身を眺めながら言った。
「まあ、彼があなたのその美しい肉体を完全に憶えてでもいれば、身体を見ただけ
であなただと見抜くかも知れませんけどね。その時は仕方がありません。僕が事情
を話して……いや、高木くんに一発殴られて逃げ出しますよ。あなたは変質者に襲
われた、くらいに彼に言えばいい」
「……」
美和子は初めて医師を睨みつけた。
その可能性は低かったからだ。
高木が美和子の身体を隅々まで目や触感で憶えているくらいに知り尽くしていれば、
彼女が高木のセックスに不満を持つことなどなかっただろう。
通り一遍の愛撫と挿入、短い時間の律動、そして射精。
それしかなかったのだから。
「わかりましたね?」
「あ、先生、でも……」
「あなたは普通にしていればいい。感じれば喘いでいいし、いっても構いませんよ」
「そんな……、た、高木くんの前でそんなこと……」
「彼のためですよ。それにあなたも、そういう刺激は嫌いじゃないんでしょう?」
「バ、バカにしないでくださいっ」
「わかりましたよ。じゃあ彼を連れてきます」
「あ、待って……待って!」
美和子の声は無視され、医師は襖を開けて高木のところへ歩んでいく。
美和子は気が気ではなかった。
バレないというのは本当かも知れない。
しかし、美和子の方は高木の前で嬲られているということはわかっているのだ。
高木は気づかないとしても、彼の前で生き恥を晒すことになるかも知れないので
ある。
普通でいろと言われても無理な相談だ。
それに、別の困惑と懸念もあった。
レスリーの言った通り、美和子は高木に見られているという状況に異様な興奮を
覚えて、普段以上に反応してしまう恐れがあった。
いくら否定したくとも、彼女自身、身に覚えがある。
なぜかわからないが、美和子は恥ずかしい責めをされたり、卑猥な言葉で責めら
れたりすると、異常な官能を感じて、燃えてしまうのだ。
激しく責められる様子を愛しい高木に見られるなど、これ以上に恥ずかしくつらい
責めがあるだろうか。
そうした恥辱や羞恥を官能として受け取ってしまう被虐体質が、ここでまだ発露して
しまわないだろうか。
美和子の不安と心配はその一点にあった。
戻る 作品トップへ 第三話へ 第五話へ