ローゼンベルグがセイラを連れて城を出たのは、悪夢のような凌辱劇から1時間もしないうち
だった。
あとで警察騒ぎになっても面倒なので、残った執事に後始末するようセイラに指示させ、ほぼ
強制的に連れ去った。
あちこち連れ回されたが、アイマスクをさせられていたため状況は皆目わからなかった。
どこか宇宙港らしいところに連れていかれ、シャトルに乗せられたから、地球から出ようとして
いることだけはわかった。
セイラがアイマスクを取ることを許されたのは、城を出てから2日あとのことであった。
「う……」
まる2日、暗黒の世界にいたセイラの目は、柔らかい室内灯すら眩しくて、しっかり開けられ
なかった。
「……」
セイラは手をかざして光を避け、目を細く開けてようやく室内を確認できた。
「ようこそフォン・ブラウンへ」
「フォン・ブラウン市?」
「そう、ここは月面のブラウン市ですよ。……なんだ少佐、そんなことも言ってないのかね」
「はあ……」
両手を後ろに回され、電磁手錠を掛けられたまま座っていたセイラの正面に男がいた。
机の上で手を組み、じっと彼女を見つめているようだ。
ダークスーツのローゼンベルグと違って、こちらは旧ジオンの将校服に身を固めていた。
目が慣れてきたセイラは男をまじまじと見た。
痩せた長身。
特徴的な広い額と斜に構えたような目つき。
「……なるほど、お会いするのは初めてですが、シャアの……兄上の面影がありますな」
「あなたは……」
「これは失礼。自己紹介がまだでしたな」
マ・クベは組んだ腕をほどいて、椅子から立った。
「私は……」
「あ、あなた……マ・クベ大佐? ジオンの……」
「これは。お見知りいただいて恐縮ですな」
「……」
直接会ったことがあるわけではない。
かのオデッサ作戦参戦時、ホワイトベース内で行われたブリーフィングで写真を見たことが
あるだけだ。
「だけど、あなたは……」
戦死した、とセイラは聞いていた。
ジオンとの最終決戦地だったア・バオア・クー戦に於いて、ジオン側が公表した戦死者リスト
の中に彼の名があったはずである。
もっとも、ア・バオア・クー戦やソロモン戦のような乱戦、混戦の最中では、誰が戦死したの
かなど、詳しいことははっきりわからないのが実情である。
地続きのオデッサ戦ですら、正確な戦死者数などつかめないのだ。
まして宇宙戦では、行方不明者は捕虜か戦死として扱うしか対処のしようがないのである。
事実、戦死者名簿に載っていた元兵士が、戦後ひょっこり実家に帰ってきた、という話は決し
て珍しくないのだ。
「そう、戦死したことになっていたようですな」
と、マ・クベは言った。
マ・クベ生還の真相はこうである。
早くからキシリア・ザビ少将に取り入っていたマ・クベは、その寵愛を受けた。
そして突撃機動軍設立当初からキシリアの側近中の側近として、ナンバー2の座を占めていた。
そしてガルマ・ザビ大佐戦死後、キシリア麾下の部隊が地球占領軍の主軸を担ってからは、
ジオンの生命線とも言えるオデッサ鉱山区の司令官たる役割を与えられた。
しかしこの人事は、当時、ジオン軍内部というより、突撃機動軍内からも疑問の声が呈せられた
ように、明らかに不適であった。
もともと軍人というよりは軍官僚だった彼は、大部隊を指揮する統率力に欠けていた。
単に兵站基地司令というなら適任だったろうが、オデッサは未だ敵地に囲まれており、連邦軍の
反撃がいつあってもおかしくない状況だったからだ。
彼には、自分がキシリア直近ということもあり、幕僚たちの意見を軽視した面もあったらしい。
そんなこんなで連邦軍の反撃を許し、最終的にはオデッサ作戦で惨敗することになる。
どうやらこれで彼は失脚したらしい。
マ・クベを見放したキシリアの信頼が、シャア・アズナブル大佐や「忠犬」とあだ名されたトワ
ニング准将に向き始め、とうとう彼はキシリアの司令部からも追い払われたらしい。
ソロモン失陥の後、総力戦になるア・バオア・クーに、文官のマ・クベがいても役には立たない
と思われたようだ。
それよりも、キシリア自身はア・バオア・クーでギレンと心中するつもりはなかったから、要塞
が保ちそうになければ早々に見限って、彼女の本拠地であるグラナダに立て籠もる気だったの
である。
その準備を済ませるようマ・クベに命令したのだ。
結果的にはこれがマ・クベを救うことになる。
ア・バオア・クーの最終局面、要塞の陥落寸前で、残ったザンジバル級機動巡洋艦で脱出を図
ったキシリアが、シャアに暗殺されたのは有名な話だが、その時マ・クベはグラナダに流され
ていたのである。
仮に彼がキシリア側近の参謀格に留まっていたとしたら、当然、ザンジバルに乗艦し、彼女の
側にいたはずだから、ともに爆死していたはずだった。
「何が幸いするかわからない」とは、戦後、マ・クベがローゼンベルグに語った言葉である。
その後、公国軍全面降伏で公国崩壊、ジオン共和国成立で混乱するグラナダ基地を脱出し、
サイド6への逃亡に成功している。
この後、旧ジオンの残党がアクシズに集結した時も、彼は参加していない。
単に知らなかったからだが、知っていても参加はしなかったろう。
デラーズ中将タイプの純粋な軍人とはそりが合わぬからである。
デラーズ・フリート壊滅の後、ようやく彼は表に出てアクシズに合流したのだった。
「ま、私にもいろいろありましてね」
感慨を振り切るように、大佐はそれだけ言った。
「話はローゼンベルグ少佐から聞いていると思うが……」
「……ええ」
セイラがローゼンベルグを横目で睨むと、彼はいかにも「余計なことは言うな」という目つき
で彼女を牽制した。
「その前に聞かせて。あなた、アクシズなんでしょ?」
「……そうだ」
「なら、指揮を執っているのはハマーン・カーンのはずよね。彼女はどこなの?」
「……ハマーンではない」
「どういうこと?」
セイラが問い詰めると、マ・クベは彼女から視線を外して椅子を横に向けた。
そして壁に向かって語り始めた。
「ハマーンを見限っている勢力がある、ということだ」
「……」
「確かに彼女には、ここまでアクシズをまとめあげた功績はある。それは認める。だが、それ
も父親の働きが大きかったし、自我を抑え切れぬ面も否定できない。そこで我々は……」
「内部叛乱てわけね。連邦に叛乱を起こしたアクシズ内部でまた叛乱」
セイラは皮肉そうに言った。
「もっともらしいことを言ってるけど、何のことはない、あなたにも野心があるってことなん
でしょ?」
「……」
「道理でおかしいと思ったわ。私が知っている限りじゃ、確かアクシズはドズル中将のひとり
娘、ミネバ嬢を抑えているはずだものね。なるほど、それに対抗して私を奉り上げようって
ことなわけ」
「察しが良くて助かりますな、アルティシア・ソム・ダイクン嬢」
「……その呼び方はやめてくださる?」
セイラの刺すような視線を軽く弾き飛ばし、マ・クベが返した。
「あなたには、否応なくその役に就いてもらうことになる」
「……そうね。じゃないとここの住民を毒殺するんでしょ? それにしても……」
「何かね?」
「どうやって毒ガスなんて持ち込んだの? 地球圏から宇宙への化学兵器の持ち込みは厳禁され
てるはずよ」
南極条約でABC兵器の実戦使用が禁じられただけでなく、戦後になって、新たにABC兵器を
製造することも禁止になっている。
言うまでもなく、未だ不安定な状況下にあって、製造が安易かつ安価に製造可能な化学兵器は、
地球にとって大きな脅威となったからである。
核はもちろんのこと、細菌、化学兵器の持ち出し、持ち込みは厳禁だ。
体制の緩みつつある地球の関税業務に於いても、この件だけは例外的に検閲が極めて厳しい。
そんな中で毒物の密輸というのは不可能に近かった。
「……どうということはない。どの船にも積んであるものを失敬しただけだ」
「え……?」
「シアン化水素というのをご存じかな?」
シアン化水素。
無色透明の気体または液体である。
水やアルコールによく混和し、例えば水温20℃の水100ccに70グラム以上も溶ける。
きわめて猛毒であり、主に有機合成、分析試薬 そして殺虫剤として使用されている。
セイラはひとつ思い当たった。
「船倉清掃用の……!」
「その通り」
輸入用貨物船の貨物倉庫や軍艦の武器倉庫、MS整備場などで、殺鼠剤として使うのが普通で
ある。
もちろんゴキブリ退治にもなる。
他国からの輸入品貯蔵倉庫などでは必需品なのだ。
農作物など食料品であっても、青酸ガスなら物資には影響なく、酸素呼吸をする生き物だけを
殺すことができるからだ。
そのため、病原菌や細菌、有害生物の流入を防ぐ意味もあって、検疫上の観点からも輸入品に
はほぼ必ず利用されるのが実情である。
マ・クベはそれを盗み出し、大量に集めたのだろう。
なるほど、それなら海上、航宙を問わず、港湾施設に行けば普通にあるものだ。
「……」
殺鼠剤、殺虫剤として有効であるなら、当然、人体にも有毒である。
その激しい毒性のため、一時、使用禁止の動きもあったが、これに代わる有力かつ簡便安価な
方策がなかったためそのままになっている。
さらにこの薬剤は別の効用も発揮した。
密航者が激減したのである。
それまでは、関税や国家警察、軍警察などから逃れ、輸送船の船倉などに隠れて逃亡したり密
入国する犯罪者などが後を絶たなかった。
ところが0077年に、連邦軍の輸送艦に隠れて地球に侵入しようとしたジオン側のエージェ
ントが、倉庫清掃の際のシアン化水素で死亡する事件が発生した。
普通なら不祥事として、あるいは外交戦略から考えても事件を隠蔽するはずだったが、連邦
政府は敢えてこれを公表したのだ。
結果として、船倉に潜んで密航しようとする人間がほとんどいなくなったのである。
いちいち関税や軍が、倉庫をチェックして密航者を狩り出す手間が省けることになったわけだ。
この毒物は、人間の致死量で僅か0.06グラムという猛烈な毒素を持っている。
吸引しても皮膚に接触しても効果は同じで、シアン中毒症状を引き起こす。
シアンイオンは血液中のメトヘモグロビンなどに含まれる鉄分と反応し、細胞呼吸などを阻害
して窒息状態を招き、中枢神経に決定的なダメージを与えることとなる。
症状としては、頭痛や目眩、悪心、呼吸麻痺などを併発し、最終的には意識不明となり、その
まま死に至る。
沸点は26℃で、気温が高ければ高いほどに気化しやすい特徴を持つ。
青酸ガスとなるのである。
ただし気化するのが早いから、風でも吹けばたちまち周辺に吹き飛ばれて濃度が低下し、あっと
いうまに致死量を下回るので、兵器としてはあまり役に立たない。
そこが南極条約の化学兵器から外された要因でもある。
その反面、コロニーや大気のない星のドーム都市──つまりフォン・ブラウン市など──のよう
な、密閉空間では著しい効果を発揮することが出来る。
「青酸ガスを……。そんなものを人口密集地に撒こうというわけね、あなたは」
「……。そうなるか。だが、それは私の本意ではない、だから……」
「本意でない?」
セイラは不敵な嗤いを浮かべて言った。
「笑わせるわね。一年戦争の時、あなたが南極条約を破って水爆ミサイルを発射したのは誰でも
知ってるのよ」
「……」
「核ミサイルを平気で使うような人なんだから、毒ガスで一般市民を虐殺するくらい何でもない
んでしょ?」
さすがにカッとしたローゼンベルグがセイラの襟首を掴んだ。
「きさま、生意気な口を利くのもいい加減に……」
「よせ、少佐」
「大佐どの……」
ローゼンベルグ少佐は逆上したが、言われたマ・クベ大佐の方は平然としていた。
そう見えただけかも知れないが、表面上は平静であった。
もっとも、少佐が腹を立てたのは、別に上官たるマ・クベが侮辱されたからではない。
彼に犯されてひぃひぃ泣いていたセイラが知った風な口を利いたのが面白くなかっただけのこと
である。
セイラは、もう自分がローゼンベルグに凌辱されたことを訴えるのは諦めている。
相手が女性のハマーンなら何とかなる可能性もあったろうが、相手が男性、しかもマ・クベで
あればまずムダであろう。
それどころか、マ・クベまで一緒になって強姦しかねない。
ローゼンベルグも、マ・クベにはセイラを犯したことを知られたくないように見えたが、ここ
で告げ口してもあまり意味はないように思えた。
ローゼンベルグが処分される可能性もないではないが、彼は側近のようだし、確率は低いよう
に感じられた。
もしお咎めなしとなったら、今度は堂々とセイラを犯すようになるだろうし、余計なことをしゃ
べったということで、よりひどい責めを受けかねない。
そんな賭けに出る気はなかった。
「……」
セイラが失望したような表情を浮かべたのを敏感に捉えたマ・クベは部下に言った。
「少佐、遠路でアルティシア……、いや、セイラ嬢はお疲れのようだ。別室で休んでいただけ。
無礼のないようにな」
──────────────
「……あっ……!」
引きずるようにマ・クベ大佐の部屋から連れ出されたセイラは、別室へ乱暴に放り込まれた。
突き飛ばされる格好で押し込まれたため尻餅をついてしまったが、それでも従順な態度など
微塵も見せない。
「乱暴ね! 何するのよ」
「お嬢さん」
「あっ、く……」
ローゼンベルグ少佐は、唇を歪めてセイラの手首を握り、捻り上げた。
「あまり調子に乗らんことですな。大佐の前で余計なことをベラベラしゃべるんじゃない」
「……ふーん」
「……なんだ」
そうか、とセイラは思った。
当然かも知れないが、やはりこの男がセイラを乱暴したことが知れるとまずいのだろう。
「別に。今度、マ・クベ大佐に会ったら、あなたがやったことをお話しておこうかと思って」
「……」
「都合が悪いわよね、それじゃ。黙っててあげるから、もう二度と……」
「黙れ」
「……」
男は美女の手首を制したまま言った。
「つまらんことはしゃべるなと言ったはずだ。俺がその気になれば、いつでもこの市は壊滅する
んだぞ」
「そんな勝手なことが出来るわけないでしょ? 大佐の命令がいるんじゃないの?」
「ふん」
フォン・ローゼンベルグは鼻を鳴らした。
「理由などいくらでもあるさ。事故、内部攪乱、原因不明だってかまわん」
「……」
「俺はな」
少佐はセイラに顔を近づけて低い声で言った。
「おまえに惚れた」
「な……」
「勘違いするな、俺は愛情なんぞ信じるほど甘ちゃんじゃない。おまえの身体に惚れただけだ」
「触らないで、いやらしい!!」
セイラは男の手を振り払った。
2日前、ローゼンベルグに凄惨な凌辱を受けたことを思い出す。
しかも、言うに事欠いて「身体に惚れた」と言う。
まるで、女をセックスの対象として見ていないかのようだ。
ローゼンベルグは薄笑いすら浮かべて続けた。
「おまえは俺の女だ。俺がやりたい時、いつでも犯ってやる。そのために生かしておいてやる。
その合間に大佐の仕事もしてやれ」
「お断りよ!」
「何度も言わせるな。いやなら市民は全滅だ、それでもいいなら勝手にしろ」
「……卑怯者」
「卑怯、けっこう。最高の誉め言葉だ」
「……」
──────────────
ふたりを送り出した後、マ・クベ大佐は少し考え事をしていた。
気になることがひとつあった。
ローゼンベルグ少佐のことである。
マ・クベ自身は、自分の部下に絶対の忠誠などは要求しない。
この世に「絶対」などというものはないし、それを口にする者は嘘つきだと信じている。
まして今のような戦乱の世では、正直者はバカを見る。
どこか裏があるような者の方が能力的にも優れていると見ていた。
彼自身がそうだからである。
従って、ローゼンベルグと知り合って盟友となった時も、完全には信用していなかった。
互いに「腹に一物」くらいでなければ共闘する意味もないし、野望も達成出来ないだろう。
といって、あまりそれが目に付くようでも困る。
あからさまに見える場合、二通り考え方がある。
ひとつは単に能なしで、自分のカバーがうまく作れない場合。
もうひとつは、わざをそうした面を見せてこちらの反応を見る場合だ。
マ・クベはひとりごちた。
「……ローゼンベルグはそれなりに有能だ。だが……」
そこまで言うと、机上のインターホンを押した。
すぐに相手が出る。
「トレスコウか?」
「はっ、大佐どの」
「いいか、よく聞け。これからしばらくの間、ローゼンベルグ少佐を内偵しろ」
「は?」
インターホンの向こうには、トレスコウ大尉がいた。
公国軍時代、本国のサイド3で情報局にいた男だ。
「……少佐に何か不穏の動きでも?」
「まだわからん」
「……」
「だが様子がおかしいのも事実だ。こちらから指示するまで内偵せよ。細大漏らさず調べ上げ、
私に報告しろ」
「了解しました。それで、何か危険な動きがあった場合は……」
「かまわん、そのまま泳がせておけ。どこからの指令で動いているか知りたいのでな」
「わかりました」
「それと例のもの、差し替えて置いてくれ」
「は? もうですか? 予定より早いようですが」
「かまわん、やってくれ。やつは追い詰められたら暴走しかねん。そうなったら手遅れだ」
「……了解しました」
ローゼンベルグそのものは小物だと思っていた。
私利私欲に過ぎて大義が見えない。
あれでは部下の人望は得られない。
だから、彼が単に成り上がりたいというだけなら、放って置いてもかまわないと思っている。
どこまでやれるか観察してやって、いよいよとなったら証拠を突きつけて破滅させればよい。
問題は、ローゼンベルグの上に誰かがいる場合だ。
仮にそれがハマーンであれば、マ・クベとしてもそうゆっくりは出来ない。
最悪、アクシズから逃亡して、またサイド6へ逃げ込むか、あるいはいっそベルゴンツォーリ
にでも頼んで、連邦に亡命するくらいしか道がない。
それだけは願い下げである。
痩身を立ち上がらせた大佐は小さくつぶやいた。
「お手並み拝見といこうか、少佐……」
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