工事開始は早かった。
浦上が打ち合わせで初めてこの家に訪れてから、一週間ほどで最初の工事にやって
きた。
4シートある2トントラックに、部材や工具が満載されていた。
すべての箇所をいっぺんに工事することは出来ないし、手当たり次第にやるわけ
にもいかない。
瞬や響子と綿密に相談した上で、どこから手を着けるかを決めた。
ポイントは、家の中では瞬が車椅子で不自由なく移動できることである。
下半身が動かないから、日常生活に於いても響子の介助が必要だ。
そのため、車椅子で移動できる充分なスペースの他、介助スペースも必要になる。
ポイントポイントに福祉用具を設置することも肝要だ。
具体的な工事内容は以下の通りだ。
玄関と庭、庭と道路、ガレージに連絡できるスロープを設けること。
浴室、トイレを含む各部屋の出入り口は、可能な限り開閉ドアから開き戸に変更
する。
無理な場合は、新たに引き戸を新設する。
屋内の段差は徹底的に解消する。
トイレは洋式便器の向きを変更する。
洋式の場合、普通はドア側に向いて用を足すが、これは一度入ってきた向きを変え
ねばならない。
健常者には当たり前のことだが、車椅子でこれをやるのは一苦労なのである。
トイレのスペースも足りない。
そこで、入ってきた向きそのままで用足しが出来るように向きを変えるのである。
さらに便器後部には背もたれも作る。
浴室は、浴槽を掘り下げ式にして介助しやすいようにする。
入浴用のリフトを設置する。
加えて、廊下や部屋、トイレ、浴室などには手すりを取り付ける。
そして二階用のエレベータを設置する。
大まかに言ってこのくらいだが、一から工事するのだからかなりの日数はかかる。
業者は、毎日やってきた。
休まないのかと尋ねると、うちも次の工事もあるし、お宅も早く仕上がった方が
いいでしょうと言われた。
浦上工務店は、社長の浦上以下三名だった。
たった三人で出来るのかと思ったが、新築するわけではないから、これくらいでいい
らしい。
というより、浦上工務店は、これで全員とのことだった。
社長と、それを補佐するベテランの和田という職人。
あとは、最近入ったばかりの「若造」だそうだ。
ずっと家にいる響子は、彼らを甲斐甲斐しく応対した。
10時と3時の休憩時には茶菓子とお茶、昼食時にもお茶を用意する。
もっとも、親爺は「自分たちで用意しているから、あまり気を使わないでくれ」と
言っていた。
小さなタンクに冷えたスポーツ飲料を積めてきているらしい。
夏場だから汗もかくし、冷たい飲み物の方がいいのだろうが、響子は熱い煎茶と
冷えた麦茶を用意して持っていくようにしていた。
汗をかいた後はスポーツ飲料の方がいいのだろうが、食事をしながらの時は、やはり
甘いものより麦茶の方がいいらしく、みんなけっこう飲んでくれていた。
この日も響子は、午後三時になったのを見計らって、お茶の用意をした。
トントンと軽くノックしてから室内に入る。
「ご苦労様です。お休みになったらいかがですか?」
「ユウ! 風呂場の図面取って来いや。トラックの後ろのシートにある」
「わかりました、親方」
響子が部屋に入ると、ちょうど若い職人が反対側のドアから出て行ったところだった。
それを目で追っていると、親方が礼を言った。
「こりゃどうも。いつもすいやせんね」
部屋には親方だけがいた。
物置代わりに使っていた八畳ほどの広さの洋室があって、そこが彼らの拠点となって
いる。
響子は、休憩の時は遠慮なく応接間を使って欲しいと言ったのだが、彼らの方が
謝絶した。
工事で薄汚れた格好のまま、小綺麗な部屋に入るのは気が引けるというわけだ。
気兼ねなく休んでもらうにはその方がいいかも知れないと思った響子は、使って
いない部屋を片づけて休憩室に充ててもらったのである。
カーペットの上にブルーの防水シートを敷き、そこに工具や道具、手荷物などが
置いてあった。
広いテーブルの上には、昼食時に出したポットが出ている。
それを片づけて、響子は新しいポットとグラス、茶碗を用意しながら聞いた。
「お若い方もいらっしゃるんですね」
「ああ、ユウですかい? こないだ採用したばっかの若造でさあ。まだどうしよう
もないど素人だが、若くて力はあるし、ま、一所懸命にやってるようだから、その
うちものになりまさあ」
「そうですか……」
何となく引っかかるものがあった響子は、まだドアに視線をやっていた。
───────────────
「は……むむ……んんん……ちゅっ……んっ、んじゅ……」
別荘周辺はすっかり夜の帳が落ちている。
まだ午後8時過ぎだ。
都会と違い、イルミネーションなどという野暮なものはない。
季節的に、別荘で休暇を過ごす家もあるようで、ポツンポツンと明かりが灯っていた。
別荘地だけあって、区域内にある店舗は必要最低限であり、一軒だけあるコンビニ
だけだ。
買い物に出るには、クルマで20分ほどの市街地へ行くか、もっと時間を掛けて観光
客相手の行楽地へ行くしかない。
そんな中、三鷹家の別荘は早々と居間の灯りが落ち、少ししてから書斎の薄暗い照明
がぼんやりと燈った。
中では、家主の瞬が部屋の中央で車椅子に腰掛け、妻の響子がそこに蹲っていた。
座った瞬の前でひざまづき、その股間に顔を埋めているのだった。
「ん……ん……んん……ぷあ……ど、どうですか……?」
「……うん。続けてくれ」
「は、はい……。あ、あむ……んむ……むむう……じゅるっ……」
リハビリの一環であった。
瞬の脊髄損傷は、彼から歩行能力を奪っただけでなく、下半身の神経組織そのものが
やられてしまっている。
つまり、ほとんど感覚がないのである。
それは瞬がセックスの能力を喪失することを意味した。
彼は精子製造が不可能になっただけでなく、性行為そのものが不可能となったのだ。
感じない。
勃起もしないのだ。
無論、上半身は健常である。
従って上半身の性感帯は生きている。
キスも可能だ。
しかし瞬は、男性自身の復活に懸けていた。
過去、これで響子を始めとする大勢の女性たちを泣かせ、歓喜の渦に沈めてきたの
である。
彼にとって、ペニスこそが男性の矜持であった。
響子にもそれがわかるから、こうして時間を見て口唇愛撫を行なっている。
医師の診断によると、瞬の男性機能回復は絶望的らしいが、夫が頑張っている限り、
妻としては出来るだけのことはしたいと思っていた。
「んっ、んっ……はあ……んちゅ……」
それでも響子は、半ば諦めている。
別に彼女は、夫との性生活ができなくなってもかまわないと思っていた。
愛情はそんなことでは消えないと信じている。
例え抱いてもらえなくとも、口づけは出来る。
手も握れる。
瞬の背中を摩ったり、瞬の胸に顔を預けることもできる。
夫の首筋に口唇愛撫ができる。
夫の手で、胸を愛撫してもらうことだってできる。
確かに夫の性器はもうダメかも知れない。
夫自身の手によって、ここまで開発させられた響子の肉体は、雄々しいペニスに
よって貫かれないと満足できないかも知れないのだ。
でも、それもいい。
何しろ、他の男──奥村に抱かれることは瞬公認なのだ。
不能の夫に見られながらのセックスという背徳と後ろめたさに耐えれば、どうしても
我慢できない時だけ、彼に頼めばいい。
しかしその奥村も、通常はタイにいるわけであり、響子の都合で抱かれるわけにも
いかぬ。
しかし、それも仕方がない。
自慰でもいいのだ。
不完全燃焼ではあるが、夫のことを考えればどれほどのこともなかった。
だが、響子は妻として哀しかった。
それは夫がセックスできなくなったということよりも、そのことによって夫が変わ
ってしまったことである。
セックスの時はサディスティックに責めてくる瞬だったが、日常生活に於いては
極めて紳士的だった。
五代裕作のような穏やかさとは違うが、優しかったのは事実なのだ。
それが、響子を抱けないとわかってからというもの、乱暴することが増えてきた。
きっかけは些細なことだ。
例えば、朝食の際には食卓に新聞を出しておくことになっている。
しっかり者でマメな響子は、当然それを守っている。
しかし、介護と家事に追われ、響子が忙しくてうっかり出し忘れたことがあった。
その時、瞬は烈火の如く怒ったのである。
響子が新聞を出し忘れたのはその日が初めてではない。
数少ないが、過去にもあったのだ。
その時の瞬は、苦笑して、あるいは何でもない顔をして自分で取りに行ったものだ。
実際、大したことではないのだ。
それが、車椅子生活になってしばらくすると、そうした些細なことで瞬が腹を立てる
ことが増えてきた。
気づいた響子が慌てて朝刊を取って渡すと、瞬は腹立たしげにそれを掴み、響子に
投げつけた。
コーヒーが熱すぎる、料理の塩気が足りない、風呂の湯がぬるい。
そうしたことで癇癪を爆発させるようになっていった。
響子は訳がわからなかった。
温厚なはずの夫の行動とは思えなかった。
だが、すぐに思い直した。
まだ身体が慣れていないのだ。
今まで当たり前に出来たことが突如として出来なくなってしまったのである。
肉体的にも精神的にも相当なストレスのはずだ。
しかもこれは家にいる時だけではない。
まさか会社でこのように感情をあらわにするわけにもいかないだろうから、我慢して
いるのだろう。
それで、家では爆発するのだ。
それが痛いほどにわかるから、響子は我慢していた。
ひたすらに耐え忍び、できるだけ笑顔で対応した。
しかし、それがまた瞬には気に障ったのだ。
馬鹿にされていると思ったのである。
こうして、夫婦の気持ちは徐々に行き違うようになっていった。
妻はそれに気づき、懸命に尽くして修正しようとしたが、夫は投げやりで、そんな妻
の態度が気に入らなかった。
溝は広がるばかりだった。
「はむ……うん、うん、うん……ちゅっ……じゅるる……」
一向に芯が入らない男根が哀しかった。
媚肉に入れられると、膣が火傷するかと思うほどに熱かったのがウソのように冷たい
ままだ。
まるで夫のいじけた精神が乗り移ったかのようだった。
かつて響子を散々泣かせ、何度となく絶頂に達しさせたその象徴は、だらしなく萎び
ている。
それでも響子は、だらりとしたそれを口に含んだ。
まるでそうすることが夫に男としての自信を取り戻させる、以前の夫に戻してくれる
唯一の手段だと信じているかのように。
いったん口から出したそれを哀しげな目で見てから、舌を出してちろちろと嘗めていく。
そんな健気な妻を夫が叱責した。
「ただ嘗めるだけじゃダメだ。先の裏やくびれにも舌を絡めろ。何度も言わせるん
じゃない」
「はい……」
響子は無抵抗のまま返事をし、目の前のペニスを舌全体を使って愛撫していく。
亀頭部の割れ目や、カリの部分にも響子の舌が伸び、唾液をぬりつけていった。
「それでいい。その調子で口を窄めて、唇でしごくようにするんだ」
「んむ……」
素直に従った響子だったが、恐らく夫は何も感じてはいまいと思った。
こうしたテクニックはほとんど瞬から教えられ、技を身につけ、褒められてきたものだ。
こうやってファラチオしていると、夫は我慢しきれないように響子の頭を掴み、イラマ
チオに変化する。
そうしてそのまま咥内射精するか、興奮して響子を押し倒し、そのまま犯すのが常
だった。
なのに今では、響子のテクニックをもってしても、だらりとした肉茎に力をこめさせる
ことはできなかった。
机の上には、淫らな玩具が転がっていた。
ディルドである。
幾分、濡れているのは、さきほどまでそれで響子を責めていたからだ。
よく見れば、響子も下半身は裸なのであった。
そんなもので責められても、ちっとも感じなかった。
瞬が健在の時であればまた別だが、今の彼はその偽物のペニスで妻の身体を支配
しようとしていたのだ。
響子が感じないのは道理だった。
瞬が苛立っているのは、妻が彼の責めで一向に感じていないことを覚ったからかも
知れない。
少しも気持ち良くはなかったものの、響子は演技で喘ぎ声を上げた。
そんなことは初めてだったから、きっとうまくいかなかったのだろう。
すぐに瞬は演技と見破り、一層に気ばかりが焦ったのだった。
「う、うむ……むむ……んん……うんっ……」
響子は知っている限りのテクニックを駆使した。
舌を裏筋に這わせつつ、亀頭から根元まで嘗めていく。
ただ舌を這わせるのではない。舌先を巧みに使い、筋をこそぐように擦っていった。
そして再び亀頭の頂点まで辿り着くと、尿道をこじ開けるように突っつく。
そうしてまた全体を口に含んでいく。
いくら技術を尽くしても、ペニスは再び勃たなかった。
いくら心を込めて愛撫しても、夫の心は戻らなかった。
「もういい!」
「あっ……!」
瞬はそう叫んで響子を突き飛ばした。
尻餅をついた響子の頬に、涙がつうっと流れていく。
「すみません……。私、いつまで経ってもヘタで……」
「……」
これがいつもの光景なのだった。
勃起しない自分に腹が立ち、無駄と知りつつ尽くしている妻の姿が次第にうっとう
しくなり、最後には感情を爆発させる。
何度も経験し、その気まずさにうんざりしているはずなのに、瞬は自分の気持ちが
抑えられなくなっていた。
そんな自分がイヤになっている。
子供のようで情けなかった。
妻は何も悪くないのに。それでも、甲斐甲斐しく介護してくれる妻にどうしても辛く
当たってしまう。
瞬は車椅子を反転させ、響子の視線から逃げた。
「すまないな、チンポも勃たないだらしのない夫で」
「そんなことありません……」
「君もこれじゃ満たされないだろう。何度も言うが、浮気してもらってけっこうだ」
「……」
今までのフリーセックスとは意味が違う。
そんなことが出来るはずがないのに、平気で口にする夫の心情が悲しかった。
「奥村も忙しいから、そうそう来日してばかりはいられないからな。欲しくなった
ら、勝手に誰とでも寝るがいいさ」
「……そんなことしません」
「もういいと言ってるんだ、そんなこと言わなくても!」
「……ううっ……」
響子は顔を伏せて咽び泣いた。
すすり泣く妻に罪悪感を感じたのか、あるいは居づらくなったのか、夫は冷たく
言った。
「……ご苦労だった。もう休んでくれ」
「はい……」
ゆっくりと立ち上がった響子は、右手で口と鼻腔を押さえつつ、瞬に一礼した。
涙が手の甲に滴り、ぽたりぽたりと絨毯に落ちていく。
部屋を出ようとした響子に、瞬が言った。
相変わらず後ろを向いたままだ。
「これを……」
肩越しに一通の封筒を持っていた。
そっと受け取った響子は夫に尋ねる。
「何ですか……?」
「好きに使ってくれ。僕は……」
「……これは?」
「……」
「……おやすみなさい」
返事のない瞬をそのままに、響子はまた一礼すると部屋から出て行った。
───────────────
響子は毎日三度三度、必ず浦上たちにお茶の用意をしている。
だが、どうしたわけか、顔を合わせるのは、親方の浦上と和田という職人だけだった。
もうひとり若い新米がいるのはわかっているのだが、響子はまだ顔を見たことがない。
最初はあまり彼女も気に留めていなかったのだが、いつもいるのに顔も合わせないと
いうのが何となく不自然に思え、気になっていた。
仕事をしている後ろ姿は見たことがある。
中肉中背、平均的な感じの男だった。
ただ何となく、懐かしいような匂いがした気がする。
なぜかわからないが、気にかかる。
と言って、どうしてそんな気持ちになるのか、響子自身わからなかったから、何が
何でも確認したいというほどではなかった。
機会があった時、さりげなく彼の顔を見ようとするのだが、どうにもタイミングが
悪かった。
ちょうど部屋から出ていく時だったり、声を掛けようとすると親方から別の用事で
呼ばれたりする。
何日か過ぎていくうち、響子は彼が誰なのかわかった気がしてきた。
それを、どうしても確認したかった。
その日、響子は廊下の角に隠れていた。
向こう側の様子を見ると、若い職人が大きな板を抱えて歩いてくる。
いつもなら、擦れ違いそうになると、彼の方が何か思い出したように方向を変えて
しまい、顔を見ることはなかった。
今度はそういうことのないよう、響子は隠れていたのである。
息を殺して隠れている響子のすぐ前を、その男は通っていく。
響子は後ろからこっそり後をつけ、彼がその板を工事中の居間に置いた時を狙って、
ようやく声を掛けた。
「やっぱり……あなただったんですね、五代さん……」
少し驚いたような顔をした男は、観念したのか穏やかに微笑んで答えた。
「響子さん……ですね」
五代裕作であった。
───────────────
響子と裕作は、応接室で向かい合ってコーヒーを飲んでいた。
夕刻である。
響子が話をしたいと誘った。
裕作はふたつ返事でOKし、仕事が終わると親方に「寄るところがある」と言って
先に帰らせたのである。
それならトラックで送って行くというのを断り、不思議そうな顔をした親方を見送る
と、再び邸内に入ったのだった。
テーブルを挟んでカップを持ちながら、ふたりはぎこちなく微笑んだ。
カップを手にして、響子から口火を切った。
「本当に……おひさしぶりですね」
「ええ……」
「五代さん、私のこと、すぐに気がつかれたんじゃないですか?」
それはその通りだった。
親方から次の仕事が那須だと聞かされた時は、そんなことは露程も思わなかった。
というより、日々の仕事に追われて、その時まですっかり響子のことは忘れていた
のだ。
そしてここに着いて気が付いた。
表札に「三鷹」とあったからである。
とはいえ、確か三鷹瞬は都内に住んでいたはずだ。
裕作は、結婚後響子たちが渡タイしたことすら知らないのだ。
だから、同姓だが別人だろうと思った。
せいぜい親戚とか、その程度だろうと。
親方からは、その家の主人が車椅子生活になったので、そのためのリフォームだと
聞かされていた。
五代の知る瞬は、テニスのコーチを生業にしていたスポーツマンである。
その彼と車椅子は、どうしても結びつかなかったのだ。
だから、初めてここへ仕事にやってきて、響子を見かけた時は本当に驚いたものだ。
「まさか」と何度も思った。
錯覚に違いないと思った。
そして親方に事情を聞いて、ようやく理解したのである。
瞬は、外国で事件に巻き込まれ、下半身が不自由になってしまったらしい。
それで帰国して、親の別荘を改装してそこに住むことになったのだという。
錯覚でないことがわかった。
あれは音無響子──いや、三鷹響子なのだ。
アパート一刻館のもと管理人であり、裕作が懸想し続けた女性だったのだ。
一瞬、偶然の悪戯に昂奮した裕作だったが、すぐに醒めた。
それがどうしたというのだ。
今はもう響子は「優しくて美人な管理人さん」などではなく、「三鷹家の美しい
若奥様」なのである。
自分とは別世界の人間になったのだ。
そう思った裕作は、意識して響子と顔を合わせないようにしていた。
挨拶すらせず、響子の気配を感じるとトイレに立ったり、いかにも別の仕事に取り
かかるかのように移動した。
親方たちは不審に思ったようだが、とりわけ理由は説明しなかった。
そうでなくとも、裕作はいちばん下っ端なわけで、使い走り的な使われ方も多い
から、別段おかしくも思われなかったようである。
ただ、時折響子が、こちらのことを確認しようとするかのように追ってきたり、顔
を見ようとしたりするので、なるべく彼女に近づかないようにはしてきた。
食事や休憩の時も、響子がお茶の用意を終えてから部屋に入り、片づけに来る前に
仕事へ戻った。
そして、何とか早くこの仕事が終わるよう祈りながら三鷹家に来ていたのだ。
裕作はカップにミルクを落としながら言った。
「こんなこと言ったら失礼ですけど、響子さんも、すっかり若奥様ぶりが板につい
てますね」
「そうですか? でも五代さんもすっかり職人さんですよ」
そう言って、ふたりは笑い合った。
それにしても意外だった。
まさか裕作が、こういう職業に就くとは思ってもみなかったのである。
確か彼は大学を卒業後、様々な試行錯誤の上、保育園の保父として就職していた
はずだ。
それが工務店勤めとは思わなかった。
響子は、そのことを聞いてみたい欲求に囚われはしたが、もう彼女は裕作とは何の
関係もないのだ。
大家と店子の関係でもないし、姉代わりでもない。
あまり突っ込んだことを聞くのはためらわれたのである。
別のことを聞いてみた。
「五代さんも……ご結婚なさったのですよね? こずえさんと……」
それが響子をして、裕作を完全に諦めることになった要因でもある。
とはいえ、これは響子の勝手な考え方だ。
何しろ、先に結婚したのは響子の方なのだ。
裕作は、なぜか視線を背けて答えた。
「ええ……。でも、別れました」
「え?」
近くに、幼稚園を兼ねる大きな保育園が出来たらしく、そこが裕作の勤める「しい
の実保育園」を吸収合併したのだそうだ。
もともと楽な経営だったわけではないらしく、園長は何度も「苦渋の選択」と言っ
ていたらしい。
その際、人員削減も行われ、裕作も切られたのだそうだ。
何でも、かなり名の売れた幼児教育機関らしく、保育士たちはみなベテランが多く、
新米で大した学歴もない裕作は整理の対象になったようだ。
「なんだか……ひどい話ですね……」
「まあ、そうですね。でも仕方ないです。クビになったのは俺だけじゃありません
し、俺なんかより、ずっと経験も能力もあった先生たちも切られちゃったんですから」
「はあ……」
「女房と別れたのは、それがきっかけと言えばきっかけなんです」
裕作はこずえと結婚後、彼女の実家に住んでいたらしい。
将来は独立するつもりだが、今は経済的にどうにもならない。
こずえの実家も強くそれを希望していたし、彼女自身、その方が節約になると思った
ようだ。
妻の実家で暮らす夫というのも大変らしいというのは、学生時代の友人たちから聞い
てはいた。
サザエさん一家のようには、なかなかいかないようだ。
響子の知る限り、裕作は乱より平を望むタイプだから、
決して我を張らず、七尾家の家風に従って生活してきたのであろう。
それだけでも重荷だと思うのに、そこへ持ってきて職場をリストラされたとなれば、
これは住み難くなる。
「もちろん、すぐに職安へも行って就職活動はしました。女房も心配して、あれ
これ手を尽くしてくれたんですが……」
こずえの実家──特に父親が我慢できなかったようである。
聞いていた限り、こずえの父は娘を溺愛するタイプだ。
その娘がどこの馬の骨とも知れぬ男に獲られるというだけでも心穏やかにはなれまい。
百歩譲って、自分が探してきた男と結婚させるのならともかく、見も知らぬ男なのだ。
しかも仕事が保育園の保父だという。
彼自身、サラリーマンでそれなりの地位があっただけに、保父などという職業を認めて
いなかったらしい。
実際、安月給ではあったし、子供相手の仕事ということで蔑んでもいたようだ。
というより、やはり愛娘を寝取られたくらいに思っていたようだから、つけられる
ケチならどんなケチでもつけたいと思っていたフシがある。
そこへ持ってきて解雇された、などという事態が発生してしまった。
ここで父親が攻勢に出たのである。
衝突とはならなかった。
間にこずえが入ったということもあったし、裕作自身、ケンカする気にはなれなかっ
たからだ。
そういう性格ではなかったし、自分がこずえの父親でも同じような気持ちになるだろう
と思ったからだ。
そんな甲斐性なしに娘はやれんと、そういうことだろう。
母親は、別に裕作と敵対していたわけではなかったが、やはり娘の方が可愛いのは
当たり前である。
「……」
そんな家の中を想像して、響子はため息をついた。
裕作の性格であれば、正面切って正論を翳し、ケンカするなどということはないだろう。
そうでなくとも入り婿状態だったのだ。
針の筵である。
こずえは責め立てたりはしないだろうが、慰めたり励ましたりすることが、かえって
裕作にとってプレッシャーになったであろうことは想像に難くない。
「それで何となく、女房ともうまくいかなくなっちゃいましてね」
それはそうだろうと思う。
義理の両親の視線に耐え、懸命に就職活動をするものの、なかなか良い口はない。
裕作は教育学部の出で、教師の免状はあるものの、そうそう口はなかった。
保育園にしたところで、合併したところから解雇されたのは彼だけでなく、他にも
大勢いたらしい。
その連中も就職に困っているような有り様らしいから、裕作ではどうにもならない
のだろう。
それでも家にカネを入れないわけにはいかず、バイトをしてやり繰りしていたらしい
のだが、いつまで経っても勤められない裕作に業を煮やした義父が、離婚を切り出し
たのだそうである。
「その頃は、僕と女房もケンカばかりしてましたから……」
「……」
「嫌い合っていたわけじゃないと思うんです。でも、もうお互いに疲れてしまったん
でしょうね。女房がサインして捺印した離婚届を持ってきた時、すぐに俺もサイン
しました。それでおしまいです」
「そうだったんですか……」
「子供がいなかったせいもあるでしょうが、あっさりしたもんです」
裕作は、決してこずえが好きでなかったわけではない。
だから結婚したのは、とりわけおかしなことではなかったのだが、問題は彼女以上に
好きだった女性がいた、ということだ。
その女性を諦めることで結婚した──というよりも、その女が他の男と結婚した後も、
まだ未練が残っていた自分に見切りを付けるために結婚した、という方がいいだろう。
「好き」と「嫌いではない」という感情の間には、深くて冷たい川がある。
言うまでもなくその女性とは音無響子その人である。
よく考えてみればひどい話で、そんなことで結婚したこずえには失礼極まりない。
それもあって、裕作は離婚届に判を押したのである。
もしかすると、そうした裕作の真情も、こずえは薄々気づいていたのかも知れない。
だから響子も、裕作が結婚したという話を聞いた時は意外だったし、かなり衝撃も
受けた。
もしかしたら自分は五代が好きだったのではないか。そういう思いに囚われたので
ある。
裕作の方の気持ちは、充分以上にわかっていた。
それでも彼からの言葉を待ち続けていた。
結果としてそれはなく、瞬との結婚に流れ、そのことを祝福する言葉をかけてきた
裕作を見て、踏ん切りがついたというのが実情だ。
何不自由ない生活、自分を愛してくれている夫。
新しい生活に追われ、そのことを思い返すことも減ったが、それでも心のどこかで、
裕作のことは忘れていなかった。
互いに結婚したのだという現実に、何とかそれを心の底に沈めてきたのである。
そこに、降って湧いたような夫の事件。
計ったように現れた裕作。
美しい人妻の気持ちは千々に乱れた。
雰囲気が気まずくなってきている。
これ以上、湿っぽい話をするのは、響子もだが裕作だってイヤだろう。
彼女は話題を変えた。
「それにしても、新しいお仕事が大工さんだとは思いませんでした」
響子はそう言いながら、笑顔でお代わりのコーヒーを煎れた。
裕作も連られたように笑みを浮かべた。
「そうですね、俺もそんなつもりはなかったです。でも、他に良さそうな仕事
もなかったし」
「……」
「でも、どうせ建築をやるなら、親方みたいなところが希望だったんですよ」
「あら、どうしてです?」
「うちは、新築もやりますけど、どちらかというと改築の方が得意なんです。
それも、この仕事みたいな障害者……あ、いえ、その、身体の、その不自由な人
向けの……」
この当時、バリアフリーという便利な言葉はなかった。
「そうだったんですか」
それなら何となくわかる。
裕作らしいような気もする。
このお人好しの男は、目の前のチャンスを他人に譲り、降って湧いた好機を見逃し
てきたのだ。
その理由のほとんどは、人助けである。
他人の世話をし、面倒を見るのが性に合っているのかも知れなかった。
保育園も、キャバレーでの子守りも、もっと言えば教職をとったのも、それが原因
だったのかも知れない。
裕作自身が、それに気づいているかどうかはわからなかったが。
「でも、まだこの仕事について半年ですし、俺なんかまだまだ新米です」
「でも、親方の浦上さんは、まだ素人だけど一所懸命やってるから、そのうちもの
になるだろうって、おっしゃってましたよ」
「ホントですか? 俺の前じゃお世辞でもそんなことは言わないし、未だに使いっ
走りなんですけどね」
そう言うと、響子と裕作は顔を見合わせて笑った。
響子は何だかホッとしていた。
こんな穏やかで気の置けない時間はひさしぶりだった。
瞬とふたりの時だって、どこか気を張っていたような気がする。
何となく「構えて」しまうのだ。
裕作とのつき合いが長かったからかも知れないが、彼の前ではそうした気遣いを
しないで済んでいる。
瞬との結婚を最終的に決めたのも、裕作が響子を諦めたからである。
では、裕作が瞬より先に求婚していたらどうだったのか。
いや、瞬の求婚を受けた後、裕作が「自分と結婚して欲しい」と言ってきたら、
どうだったろうか。
そう考えたことは何度もあった。
答えは出ないし、また、出してはいけないと思った。
瞬に対しても裕作に対しても申し訳ないと思うからだ。
その疑問が響子の胸にまたわき上がってきていた。
同時に、裕作の方はどうだったのだろうかと考えた。
彼はなぜ自分を諦めたのだろう。
どうしてすぐに七尾こずえと所帯を持ったのだろう。
仮に、優柔不断な裕作を見越して、響子の方から言い寄っていたら、彼は結婚して
くれただろうか。
響子が、そんなとりとめもないことを考えていると、裕作は伸び上がって掛け時計
を見た。
「ああ、もうこんな時間ですね」
響子も振り返って時計を見てみると、夕方の6時少し前になっていた。
親方たちが仕事を終えて帰ったのが4時半過ぎくらいだから、かれこれ1時間以上も
話し込んでいたことになる。
響子は慌てたように立ち上がった。
「え、まだ早いですよ」
「そんなことありませんよ。もう6時になります。帰らなくちゃ」
「あ、でも……、何か予定がおありですか?」
響子は俯き気味でそう言った。どうして自分が裕作を引き留めているのか、よくわか
らない。
「いいえ、チョンガー(死語)ですからね。住み込みですから、親方のところへ行っ
て夕飯食って寝るだけです。帰りにどこかへ寄って食べていくかも知れませんけど」
裕作は気軽に答えた。
こういう点の鈍さは相変わらずのようだ。
「そ、それなら……」
「それに響子さんだって、夕飯の支度をしないといけないでしょう? 三鷹さん…
…ご主人だって帰ってきます」
平然と話していたように見えた裕作だったが、瞬を「ご主人」と言うところだけ、
少し表情が変わった。
「いいえ。今日は仕事の後、病院でリハビリなんです。リハビリの時は、大抵帰って
きません。そのまま泊まって来るんです。今日も「帰れない」と、朝、言われましたし」
「それなら余計にまずいでしょう」
裕作は少し動揺して言った。
亭主の留守中に人妻のいる家に居座ったのでは、間男の濡れ衣を着せられても仕方が
あるまい。
まして裕作は、瞬と響子を奪い合った間柄なのだ。
裕作としては、このまま長居して瞬と顔を合わせたら気まずいと思っていたのである。
瞬の性格からして、裕作がこのまま居残って食事をご馳走になったとしても、大して
気には留めまい。
互いに独身で、響子を落とそうとしていた頃であれば、自らの優位性を誇って裕作を
貶めるくらいのことはしただろうが、今はもう共に結婚しているのだ。
懐かしさから話し込むことも考えられる。
だが裕作としては、それだけは遠慮したかった。だから「帰る」と言ったのだ。
と言っても「夫は帰らない」と言われたら、余計に居られまい。
こずえと別れてから、女っ気のなかった裕作だ。
目の前に、かつて惚れていた女が無防備でいたら、どうなるかわからない。
響子の美貌は衰えることなく輝くようだったし、人妻としての得も知れぬ色気やフェ
ロモンが漂っていた。
この女を前にして、目の前のエサが食えぬ状況は勘弁して欲しいところだ。
一方、響子は、このまま裕作を引き留めたらどうなるのか、ということは何となく
わかっていた。
食事をして、昔話をして……、では終わるまい。
以前の独身時代のふたりなら、そうだったかも知れない。
だが、もう響子は男の味を知り、裕作も女を知っているのだ。
彼が自分に好意を寄せていたことはわかっている。
その女とふたりっきりの状況で、手を出して来ない男がいるだろうか。
しかも、引き留めているのは女の方なのだ。
響子はこの時、単に裕作と話がしたかったというだけだったわけではない。
彼が欲しかったのである。
工務店の若造の正体が裕作だとわかる以前から、響子は彼を見つめていた。
たくましかったのだ。
汗の浮いた腕や首の筋肉が男らしかった。
匂ってくる汗の臭気も、彼女にはフェロモンに感じられた。
それが裕作だとわかった時、彼女は身体の芯が疼くような感覚すら持った。
響子は、結婚前と今とでは、はっきりと男の趣味が変わっている。
結婚前、つまり瞬にセックスを仕込まれる前は、どちらかというと線の細いタイプ
が好きだった。
亡夫の惣一郎然り、裕作然りである。
それが今では、筋骨たくましい男が好みになっていた。
道路工事現場などで、汗を噴き出して鶴嘴を振るっている工事夫を見ると、欲情
してしまうこともあった。
タイプの男性が前から歩いてくると、声を掛けそうになってしまうこともあった。
瞬が大怪我をして下半身不随になってからは、その傾向が顕著だった。
それもムリもない話で、タイ時代には夜も昼もないほどに瞬に責められ、そうで
ない時はグループセックスで弄ばれていた肉体なのだ。
開発され切っている。
もともと性的に鋭敏な身体だった。
我慢できる道理がないのだ。
それを何とか堪えていたのは、彼女の人並み以上の倫理観、道徳観の賜なのだ。
それでも我慢しきれず、飛行機の中では自分から誘って激しいセックスをしている
くらいだ。
増して、今、目の前にいるのは、好き合っていたかも知れない相手──五代裕作
なのだ。
「五代さん……」
帰ろうとドアを開けようとしていた裕作に、響子は手を掛けた。
Tシャツから剥き出しになった腕に指を這わせている。
彼女は筋肉質の男が好きにはなっていたが、スタローンやシュワルツェネッガー
のようなタイプはお断りだった。
ああいうわざとらしい、人工的な筋肉ではなくて、ジャッキー・チェンやブルース
・リーのような、鍛えた筋肉が好きだった。
裕作のそれも、いかにも仕事でそうなったというような筋肉の付き方だった。
思わず触れてしまった響子だったが、ふつふつと滾ってきている自分の醜い欲望を、
五代に覚られたくはなかった。
それでも指は、勝手に裕作の腕を擦っていた。
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