キッチンでは響子が奮闘していた。
日本とはだいぶ毛色の違う調味料に目を白黒させている。
今日はタム少年が先生役のようだ。

「これ、ナンプラー。最近は日本にもあるって旦那様言ってました」
「あ、そうね。私は使ったことないけど、売ってるわ」

いわゆる魚醤である。
イワシなどを塩漬けして発酵させたものの上澄み液だ。
醤油に比べてだいぶ塩気が強いが、その分うまみも強い。
魚の匂いが苦手な外国人はともかく、日本人なら平気だろう。

「じゃあこれは?」

少年はクスクス笑いながら、クリーム壷のようなものを手にした。
そしてそのフタを開け、響子の顔の前に持っていく。
つーんと強烈な匂いがして、響子は思わず顔を背け、咽せた。

「な、何なの、これ!?」
「カピ、言います。小さい海老、塩に漬けたものです」

これもナンプラー同様の発酵食品なのだろう。
ナンプラーは上澄みの汁を醤油のように使うが、こちらは発酵しきってペースト状になった
ものを味噌のように使う。
発酵しているから、もちろん強烈な匂いがあるが、加熱すると芳香に変化する。
やはりアジア人の方がとっつきやすいだろう。

パクチー、ガランガル、レモングラス、シーズニング、コブミカンなど、一通りの調味料の
説明を聞きながら、響子はメモを取っていた。
その様子を見つめている少年の目には、憧れのような色が湛えられている。
早くに母を失い、その姿を響子に映しているのかも知れない。
母よりはずっと若いだけに、姉という見方も不自然ではない。
いずれにせよ、こんな美しい女性と知り合いになれ、しかも仲良くしてもらっていることを
誇らしく思っていた。
響子が突然こっちを見たので、タムは顔を真っ赤にして口ごもった。
響子は微笑んで尋ねる。

「何を作りましょうか」
「あ、はい」

タムは照れ隠しのように、二三度咳払いした。

「じゃ、じゃあ、クン・ラートナーを」
「クン……?」
「クン・ラートナーです。旦那様の大好物」

なりにそぐわず、瞬は案外と和食党である。
それだけに、料理の得意な響子も腕の振るい甲斐があったものだが、ここはタイだ。
いつまで滞在することになるかわからない。
もちろん日本食もあるし、日系マーケットなどに出向けば、日本の食材も買える。
しかし、日本に比べて相当な割高だし、「郷に入らば郷に従え」。
瞬も響子も、タイの食べ物に馴染んでいくつもりだった。

そうはいっても、まだ何も知らないに等しい。
婦人会で聞いてもいいのだが、せっかく今まで料理担当をしていた少年がいるのだ。
聞かない手はない。
少年は、少し自慢げに説明している。
響子のような美人に教えるということが嬉しいし、誇らしいのだろう。

「海老を甘く、酸っぱくしたもの」

タムはそう言うと、有頭の海老の頭をもぎ始めた。
日本で言うところのブラックタイガーくらいの大きさである。
響子が手伝おうとすると、別のことを頼まれた。
シシトウとキュウリの前処理だ。
シシトウは日本のと比較してだいぶ大きい。
甘唐辛子みたいな感じである。
キュウリもかなり太くて大きい。
まるでヘチマだ。
それを輪切りにしていく。

「じゃあ奥様」
「あ、はい」

響子はフライパンを渡され、それを火に掛けた。
油を敷き、青い煙が立ってくると、タムがそこに海老を落とした。
じゃっと大きな音がして芳ばしい匂いがキッチンに漂う。
色が変わるまで炒めると、そこにさっきのキュウリとシシトウが入れられた。
これをざっと合わせ炒めると、すぐに調味料だ。
ナンプラー、砂糖、それにケチャップが入れられる。
少年はいちいち計量スプーンなどで計ったりはせず、経験と勘で料理している。
そこが響子には頼もしく、微笑ましかった。
いかにも家庭料理なのだろう。
すぐに唐辛子、茸にトマト、タマネギといった野菜たちが放り込まれ、これも手早く炒めた。
タムが感心したように言う。

「奥様、初めてと思えない。とても上手」
「あら、お世辞まで言うのね」
「だって旦那様、最初は全然へただった」

それを聞いて響子は笑った。
それはそうで、瞬は日本にいる時代は料理などほとんどしなかっただろう。
うっかり興味本位でタムを手伝い、少年に叱咤されながら苦笑して鍋を振るっている瞬を思い
描くと微笑ましい。
その点響子は料理に限らず、独身時代から家事業のベテランである。
「家事が趣味」と自分で言うくらいだ。

それにしてもこの少年はマメなようだ。
響子は改めてタムを見てみる。
身長は140センチくらいだろうか。
痩せていて、肌は褐色である。
といっても、日本人でもこれくらい浅黒い人はいる、という程度だ。
どこへでも身軽そうに小走りで駆けていくのが微笑ましい。
何事にも一所懸命なのもいい。
はにかんだような笑顔が可愛らしい。
響子がいない間、この家の「主夫」だったのだろう。

瞬もきれい好きだった。
独身時代、彼のマンションに何度か訪れたことがあるが、いつも小綺麗にさっぱりしていた。
見かけよ寄らず、マメに掃除をするのかと感心していたのだが、後になって、あれはルーム
サービスで週に二度ほど掃除を頼んでいたと白状した。
決してずぼらということはないのだが、やはりその辺は男性で、どうしても面倒くさくなる
らしい。
洗濯も、下着を含めてクリーニング屋に頼んでいたというから、響子は呆れてしまった。

そんな瞬だから、タム少年の存在は助かったことだろう。
もちろん、ここでも外注すれば掃除から洗濯から料理まですべて賄えるのだろうが、それでは
味気ないというものだ。
もともと子供好きだったこともあり、タムを引き取って家政婦代わりにでもなればと思ったの
かも知れない。
いや、そこまでは望んでいなくて、単にひとりで食事をしたりテレビを見るのがつまらなくて、
話し相手が欲しかったに違いない。
仕事などのつき合いとはまったく関係のない、息の抜ける話がしたかっただけなのだろう。

ところが、やってきたタムは瞬の想像以上にあれこれ片づけてくれた、ということらしい。
この少年がなついてくれるのなら、誰だって保護意欲をそそられるというものだろう。
タムの方も、瞬との出会いはこの上ない幸運だったはずだ。
明日がまるで見えないその日暮らしの生活から脱して、こんな豪邸に住めるようになったのだ。
仲間の中には、引き取られたはいいが、主人に奴隷同然の扱いを受けている者も多い。
それに比べれば、ここは天国だ。

その上に響子である。
瞬から妻が来ると聞かされ、楽しみにしていたタムだったが、やってきた響子を見て己の幸運
が信じられなかった。
びっくりするほどの美人だったのである。
モデルのような冷たい印象はまったくなく、包み込んでくれるような笑顔を湛えていた。
タムはひとめでぼおっとなってしまった。
一目惚れとは違うが、強い憧憬は抱いた。
響子は、彼の思う異性としては年齢的に微妙で、母親というには若すぎ、姉というには年が離
れすぎ、というところもよかったのかも知れない。

他も異性には「恋人」という選択肢もあるのだが、タムにはまだ縁遠いものだった。
だからこそ、彼女は旦那さまの奥様である、という認識を持てたのだ。
それでも、その美貌をうっとりと眺めていることがある。
しゃがみ込んだ響子の、大きく張りだしたヒップに目が行ったり、エプロンを隆起させている
豊かな胸を覗き見てしまうのは、思春期に入りかけた少年にとって無理からぬところだったろう。

特にタムを陶然とさせたのは、その肌の美しさであった。
ノースリーブで剥き出しになった肩や腕、スカートの裾から見えるふくらはぎの肌の白さと
肌理の細かさに、ついうっとりしてしまい、慌てて頭を振って妄想を頭から追い払う。
まだ彼の年齢では具体的なセックスのイメージなどはなかったが、表現不能なむらむらとした
気持ちになることと、気が付くと性器がカチカチに硬くなっているのは事実だった。
それがどういうことなのかくらいは、さすがに彼も知っており、ご主人さまの奥様に対して不
届きな欲望を抱くことを恥じるのだった。

フライパンではいい色に野菜と海老が炒められている。
そこにタムがコップで水をざっと入れた。
それが煮詰まるまで火に掛けると、今度はコーンスターチを流し込んだ。
なるほど、あんかけ料理なのだ。
とろりとしたとろみがついてくると、タムは何度か味見して、塩を少し足していく。
少年がにっこりとOKサインを出したので、響子がフライパンを火から上げて、料理を大皿に
盛りつけた。

「ううん、いい匂い」

鼻をひくつかせる響子に、タムも満足げだ。
響子が箸で海老を摘んで口に放り込む。甘酸っぱい中にぴりりとした辛みもあり、複雑な味を
形成している。
海老の火の通りもちょうどいい。
ぷりぷりとした食感が素晴らしかった。

「おいしい!」

響子は素直にそう褒めると、タムは嬉しそうに頬を染めた。

「これ、このままでもいいですけど、ご飯にかけて食べるともっとおいしいです」
「そうね、それおいしそう! 早速食べましょ」

昼食を兼ねた料理教室は、美女と少年の心を和ませていった。

───────────────

響子が、他の在タイの女性たちとお茶を飲んでいる間、瞬は奥村とサウナに来ていた。
サムンプライなど数種類のタイ・ハーブをブレンドして温めた香材が室内に薫っている。
日本でも注目されつつあるこのサウナは、血液循環を促進し、筋肉痛、打撲傷、疲労などに
効果があるとされている。
女性に人気が高いのも特徴である。
皮膚の新陳代謝を高め、肌を綺麗にして肌理を整えると言われているのだ。
また、その独特の香りがリラックス作用を生み、心身共に和らげる。
そもそもタイでは、古来から産後の女性の体調を整えるためにこれらのハーブが使われており、
その効果は折り紙つきらしい。

瞬たちは、話に夢中の奥方たちをそのままに、サウナを楽しんでいた。
たっぷりと汗をかいた後は、寝台に横たわってマッサージを受けている。
タイ式の古式マッサージは、身体のツボを刺激し、ヨガに通じるものがあるとされている。
とはいえ、外国人の男性相手であるから、当然のようにマッサージ師は若いタイ人女性である。

「万里邑さんに? 奥さんをか?」

奥村がビックリしたように聞いた。
うつぶせで隣り合っている瞬は、何でもないように頷いた。
奥村は少し当惑している。
瞬とは学生時代からの友人──それも悪友の類で、「悪いこと」はいつもふたりでやってきて
いた。
それだけに、互いに隠し事もなく何でも話せる間柄だ。
その瞬の思考は大体読めるのだが、今回だけは驚かされた。

「いやあ……、そいつはどうかな……」
「なぜだ? おまえだって奥さんを万里邑さんに預けたじゃないか」
「そりゃそうだが……」

奥村夫人と響子ではだいぶタイプが違っている。
どちらかというとウブな響子には少々──いや、だいぶ刺激が強いのではないだろうか。

ふたりが話題にしている万里邑とは、70絡みのある日本人男性のことである。
名前は誰も知らない。
万里邑というのも本名かどうかはわからないのだ。
ただ、10代の頃からタイに済み、日本と行き来はするものの、ほとんどタイ人のような日本
人らしい。
そしてタイに暮らす日本人の間ではそれなりの影響力を持っている。

とはいえ、指導者のような人物ではない。
むしろ控えめで、あまり目立たないタイプなのだ。
ただ、タイで困ったことがあれば、この男に相談すれば大抵は何とかしてくれる。
それでいて過度の礼は一切受け取らない。
そういう人物だった。

そしてこの老人にはもうひとつの顔があった。
瞬たちは「性の伝道師」と呼んでいた。
ごく一部の者しか知らないことだが、この万里邑なる男は、性的に未発達な男女を導き、開放的
なセックスを奨励する。
強引なことは一切しないが、双方承知の上で頼まれれば調教を引き受ける。
いや調教という言い方は正しくないかも知れない。
彼は対象の人物に、直接指導したり、まして犯したりはしないのである。
どのような調教が施されているかというと千差万別で、その人物に合った方法を採るのだ。

最終的には、どんな女も、また男も、万里邑の望むような「開放的な」セックスを愉しむよう
になっていく。
それでいて、決して万里邑の女になるようなこともないのだ。
一部には洗脳ではないかと疑われているらしいが、万里邑が誠実な人物で、絶対に対象の女性
には手を出さず、万里邑に依存するような仕込み方もしない。
だからこそ絶大な信頼と信用を得ているのである。

しかし、だからと言って響子を依頼するというのはどうだろう。
奥村には一抹の不安がある。

「うちのはもともとそういう素養があったからいいが、おまえの奥方は……響子さんは少し違
うんじゃないか?」
「俺もそう思うよ。だからこそ変えてやりたいのさ」

瞬は、うつぶせのまま組んだ腕に顎を載せて言った。

「響子はいい女房だが、俺には少しお人形さん的過ぎるんだな。もう少し自由になって欲しい
んだ、あらゆる意味で」
「う〜ん……」
「おまえだってそうだろう? 例え美人の女房がいたって、たまには浮気のひとつもしたくな
る。違うか?」
「まあ、そうだ。結婚前はいろいろ遊んでたしな……」
「俺だって同じだ。だけど、俺だけ好き放題するのは気が引けるし、かと言って黙っているの
も卑怯だと思う。だったら俺が他の女に手を出すのを我慢すればいいだけだが……」
「おまえにゃ無理だな」

奥村がそう混ぜっかえすと、瞬は苦笑して頷いた。

「まあな。だから女房にも楽しんで欲しいんだよ、セックスを。もちろん俺だって教育はする
けども、出来るのはテクニックが中心だろ? 思想や信条的な面までは無理だよ」

瞬は誠実な男である。
義理人情に厚いし、思想的にも偏ってはいない。
唯一、その他大勢と違った考えを持っているとすればセックスに関してであった。
多くの日本人と異なり、彼はフリーセックスを理想とする。
彼に言われれば、日本人の考えるセックスはあまりにも内的で自慰的だ。
性行為とは、それほど不自由なものではないと思う。

「……だから万里邑さんに、か……」
「そうだ。彼なら信用できる。無茶はしないし、その人に合った手法を取ってくれる」

瞬はマッサージしてくれる娘に手を伸ばし、軽くそのヒップにタッチする。
娘も心得たもので、軽く睨むような笑顔で返してきた。
タイでは人前でそんなことをしたらとんでもない話だが、相手は日本人である。
この程度のことは日常茶飯事なのだろう。
いちいち怒っていてもキリがないし、客がつかなくなる。

瞬はウィンクして誘いを掛けたが、娘は微笑んで首を振った。
そういうサービスはないらしい。
瞬は肩をすくめて残念そうな顔で笑った。

「おまえはどう思った? 俺の女房は」
「ああ、おまえが自慢するだけあっていい女だと思ったよ」

奥村は即答した。
本音だったからである。
見目麗しく、礼儀作法も心得、接客も申し分ない。

実際、瞬もそう思っていた。
仕事柄、妻同伴でパーティに出席することも多いのだが、響子は恰好のパートナーだった。
他企業──つまり大事な取引先の経営者や重役、はては外交官とも接触がある。
相手が男性であれば、誰でも響子の美貌に関心を持つし、響子もまたそうした相手に対して
如才がない。
言葉は悪いが、飾り物としては満点の妻なのだった。
その妻を一皮剥いてやりたい、脱皮させたいと思う瞬の気持ちは、奥村にもわからないでも
なかった。
それに、彼自身、響子には興味があった。
是非ともお相手願いたいものだと思っていたのである。
奥村はさりげなく言った。

「そうだな……。いいかも知れないな」

───────────────

弾んだ笑い声が室内に響いた。
在タイ公使・高中氏の屋敷の一室だ。
外交官ということで異動は常だから、もちろん持ち家などではない。
借家なのだが、夫婦ふたりで暮らすにはあまりにも広い。
三階建ての全12室という構成で、確かに家というよりは屋敷である。
高中はここに夫人と召使いふたりとともに暮らしている。
昼間は仕事で公館にいるから、ここにいるのは執事と夫人だけだ。

暇を持て余している高中夫人は、頻繁に日本人会の会合に出席し、友人を増やしていった。
夫の影響力もあり、いつしか夫人も在タイ日本人の女性たちの中のリーダー的存在となって
いたのだった。
週一の割りで、こうして屋敷でティ・パーティを開いている。
とは言っても、誰でも参加できたわけではない。
高中夫人のお眼鏡に適った人のみ、つまりは今風に言えばセレブ夫人ばかりである。

タイに永住している人たちは、基本的には入っていない。
老後をタイで暮らしている老夫婦や、技術を伝えようとしている若い技術者、あるいは留学生
たちなどである。
高中夫人が避けているというよりも、彼らの方がそういったサロン的なものには興味を示さな
かった。
必然的に、集まったのは立場を同じくする人たちばかりだ。
つまり、カネも暇も持て余している富裕層の女性たちなのであった。

典型的庶民だった響子にとっては、どちらかというと前者の方が近しいのであるが、瞬の勧め
もあって渋々参加している。
夫の仕事柄、外交官や他社の重役連とのつき合いも多数あるからだ。
夫人同伴のパーティなども、けっこう頻繁に開催されるから、どうしても響子の方もつき合い
が出来ることになる。

響子は彼女たちとは違って、家事や雑用が好きだ。
そういった仕事を現地で雇った召使いにやらせるという発想がよくわからない。
そんなことをしたら無駄にお金を使うことになるし、そもそも時間が余ってしまうではないか。
彼女には、テニスの他にこれといった趣味もなかったから、家事をすること自体、楽しかったの
である。
それでも夫に言われてここに顔を出すようになったのは、テニスを始めとしてスポーツのサー
クルに参加している人たちもいると聞いたからである。
そういう人たちとなら仲良く出来そうだし、響子自身もたまには身体を使わないと鈍ってしまい
そうだったのだ。

高中夫人以下響子まで、六人の女性がテラスでくつろいでいた。
談笑しているのだが、響子はそこはかとない違和感を感じている。
庶民である響子が、こうしたサロンには馴染まないというのはある。
一刻館の縁側で、一の瀬夫人や朱美たちと茶飲み話をしていた頃が懐かしい。
ここの雰囲気に馴染めない要因は他にもあった。
その話題である。

正直言って、響子はファッションや噂話などにはあまり関心はない。
女性だからファッションについてまるで興味がないということではない。
しかし、彼女たちセレブの趣味とは根本的に異なる。
ブランド云々に一切興味がないのである。
それよりは、半額セールやノーブランドもので、自分に似合う質の良いものを選ぶ方が楽しか
ったし、自分らしいと思うのだ。
噂話も好きではなかった。
要するに、この場にいない人の悪口や愚痴になることが多いからだ。
そして、何にも増して馴染めなかったのが、これである。

「響子さん。日本にいる時、全然浮気しなかったって本当?」

無論、顔を赤らめるほどのカマトトではないし、「失礼な」と怒るほど社会経験がないわけで
はない。
この程度の話なら、一刻館時代にもあったのだ。
ただここでは、その先があったのである。
しかもかなり具体的にだ。

「冗談だと思ってたんだけど、本当なの?」

こう聞いていたのは奥村の夫人である。
名は静香と言った。
響子から見ても美しい麗人で、家柄も良いと瞬から聞いていただけのことはある。
雅な感じがするのだ。
その美女から、あからさまな話が平気で出てくるので、面食らってしまう。

「は、はあ……」

何となく口ごもり、誤魔化してしまう響子だったが、周囲は「信じられない」という顔で首を
振る。

「どうして? まだお若いのに、身体が疼かない?」
「誘惑がなかったわけでもないでしょう? それだけお美しいのだから」
「自分でして満足してたってこと? そんなことないでしょう」

それぞれ、尚美、祥子、幸恵と名乗った夫人たちである。
夫は、大使館の書記官やら、大企業の駐在員事務所長やら、タイで貿易会社を興している社長だ。
高中夫人は外交官夫人で、奥村静香の夫は、日本の電機会社のタイ支社長である。

「あまりいじめちゃだめよ。響子さんは、それだけ瞬さんを愛してるってことなのよ」

そう助け船を出してくれたのは年長者の高中夫人だが、すぐにまた追っ手がかかる。

「あら、夫を愛しているのは私も同じですよ。でも、それとセックスは別でしょう?」
「そうよ。だから響子さんは瞬さんのセックスで充分満足してるってことよ」

こうした話が出ると、どうしても顔が赤らんでしまう。
夫婦なら夜の営みがあるのは当然だし、照れることでもないのだが、こうしておおらかに話題に
すべきことではないように思う。

「そうかしら? でも夫に満足していても、他の男が欲しくなるってことはあるでしょう」
「それは、まあね。後腐れのない相手なら、抱かれてもいいなって男はいるわ」
「でしょう。それが自然よ」

祥子が響子を覗き込むようにして訊いた。

「ねえ響子さんは、そういう人いないの?」
「そういう人って……」
「だから、愛情は別にして、抱かれてもいい相手。というか、抱いて欲しい相手」
「い、いませんっ……」

真っ赤になって否定する響子を、みんなくすくす笑いながら見ている。
悪意はないのだろう。
ひさびさに加わった新人をみんなでいじっている、という図なのだ。
苛める気なら、もっと露骨にするし、そうならそもそもこの席に誘ってはいない。
いずれ響子にもこのグループに入って欲しいからこそ、誘ったのだ。
高中夫人が言った。

「この集まりはね、響子さん。男女ともに自由にきままに交際するグループなのよ」
「気ままに、ですか……」
「そう。もちろん、こうしてお茶を飲んだり、お酒を飲んだり、パーティになることもあるわ。
その中にセックスも含まれるっていうだけ」
「……」
「閉鎖的な日本ではね、なかなかこうした考え方は理解してもらえない。ヘタしたら変態扱い
されちゃうわ」

聞いている夫人たちは何度も頷いていた。

「でもね、こうしてせっかくこの国に来たのだもの。自由を愉しみましょうってこと。何も堅
苦しく考えることはないわ。思いのままにすればいいの」
「そうよ、響子さん。今度、パーティにも是非参加して。瞬さんも常連だけど、奥さんがいな
かったこともあって遠慮がちだったし、寂しそうだったわよ」
「夫が……」
「ええ。今度、響子さんも参加してくれれば、瞬さんも堂々と出られるしね」
「はあ……」
「最初は誰でも戸惑うわ。実を言えば私もそうだった。でもね、何度か参加しているうちに、
なんて素晴らしいんだろうってわかってきたの。きっとあなたにもわかるわ」

熱心に誘ってくる尚美や祥子の口調に、響子も絆されてきた。

「そうですか……。で、そのパーティでは何をするんですか?」
「カクテル飲んだり、談笑したり。その辺は日本でも普通にやってることよ。その先はね……」
「その先は?」
「うふふ。まるで映画か小説の中みたいな楽しいことがあるのよ」

響子はそれ以上追求しなかった。
今聞いてもわからないかも知れないし、それが彼女にとって嫌悪的なことであれば、顔に出て
しまうかもわからなかったからだ。
後で夫にでも聞いてみればいい。
聞けば瞬も常連だったようだから。

その後は、響子のことを考えたのか、あまり露骨に性的な話題は出なかった。
スポーツの話も出て、タイにあるテニスクラブやコートのことは、響子も熱心に聞いて、質問
もした。
このメンバーの中では、奥村静香がいちばんのスポーツウーマンであるらしく、彼女の話題は
豊富だった。
彼女自身、テニスを日本でやってたらしい。
だが今は、スカッシュという球技にはまっているのだそうだ。
響子は静香にスカッシュを誘われた。
未経験だと響子が言うと、テニスと似たようなものだから、と静香が説明した。
ウェアもテニスと同じでいいし、あとはラケットとボールだけである。
もちろんテニスのそれとは違うが、レンタルもあるし、今回は響子の分も静香が用意してくれ
ると言う。
それなら、と響子は承諾した。

2時間ほどの談笑で解散となり、ホッとしたように響子が部屋を出ようとすると、するりと祥子
が寄ってきた。

「響子さん、あなた奥村さんに誘われていたけど、行くの?」
「え、ええ……。スカッシュを教えてくださるというので……」

祥子は肩をすくめてつぶやいた。

「やれやれ、あの奥さんも好きだから……」
「は?」
「ううん、なんでもないわ。響子さんもいい経験になるだろうし、頑張ってきて」
「はい……」
「気を付けてね」
祥子がなぜ最後に「気を付けて」などと言ったのか、響子にはさっぱりわからなかった。

───────────────

「ここがコートですか。思ったより狭いんですね」

響子は物珍しそうに辺りを見回した。
四方が壁で、まさに室内テニスの様相である。
スカッシュ初心者の言を受けて、奥村静香がにっこりして答えた。

「そう思うでしょうね。でも、狭いだけにけっこうハードなのよ。ボールは弾まないしね」

手にしたラケットをくるくる回しながら説明する静香を見る。
決して痩せすぎでないほどにスリムだ。
35歳という年齢相応の肉はついている。
それがまた魅力的に見えた。
ノースリーブのシャツから伸びる腕と、スコートから生えている脚が美しい。
響子のような色白ではないが、健康的な肌だと思う。
瓜実顔で目は細めである。
俗に言う公家顔であろう。
ぱっちりとした少女のような瞳の響子は、逆にこういう切れ長の大人っぽい女性の目に憧れて
いる。
同性から見ても「美しい」と思う。

「響子さんはテニス経験者だから、すぐにでも始められると思うわ。練習はひとりでも出来る
から、早速ゲームしてみる?」
「あ、でもルールもわからないし……」
「簡単に言えば、この室内でボールをラケットで打ち合うだけ。テニスと違うのは、壁を使って
いいってことね。前や左右はもちろん、後ろの壁もOK」
「後ろもですか」

響子は驚いた。
壁にボールを当てる競技だとは聞いていたが、まさか後ろの壁まで使えるとは思わなかった。

「そう。びっくりしちゃうわよね。でも天井だけはダメなの。それと、壁にラインが見えるで
しょ? そこから出ちゃうとアウトね。それで相手の打っていたボールを2バウンドする前に
打ち返す。これだけ。簡単でしょ?」
「はあ……」
「テニスや卓球みたいに相手を圧倒するようなスマッシュで打ち勝つゲームじゃないのよ。ゲ
ーム運びや相手との駆け引きの方が大事なの。そういう意味でも女性向きだと私は思うわ。
相手を引きずり回して走り回させるのよ。どちらかというと意地が悪いゲームね」

そう言うと静香は微笑んだ。

「最初は難しいことを考えなくてもいいわ。そもそもスカッシュっていう言葉の語源は「潰す」
ってことらしいから、それに従って思いっ切りボールをひっぱたいてやればいいのよ。それこそ
ストレス解消だわ。こうやって……」

静香は言いながら、左手に持ったオレンジ色のボールをトスして、前の壁にラケットで思い切り
打ち込んだ。
パコーン!と小気味良い音が響き、ゴムボールが一直線に飛んでいく。
しかし勢いの割りには返ってくるボールの速度はなく、夫人は難なくそれをラケットで受け止
め、左手でキャッチした。

「いい音でしょ。私なんか、この音が聞きたくてやってるようなものだわ。あとの細かいルール
はやりながら教えます。取り敢えずプレイしてみましょう」

奥村夫人はそう言うと、またボールをトスした。
静香のラケットからボールが打ち出されて前の壁で弾むと、あっというまに響子の前に飛んできた。
慌ててラケットを構え、それを打ち返す。

「さすがね、いい反応よ! こっちもいくわよっ!」




      戻る   作品トップへ  第一話へ  第三話へ