響子が万里邑を紹介されたのは、静香にレズ行為をされた二日後のことだった。
あの後、すっかりふさぎ込んでしまい、夫を心配させてしまった。
何度となく奥村夫人からスカッシュの誘いがあったものの、響子は頑なに断り続け
ていた。
もうあんな恥辱を味わうのはたくさんだ、というのは建前である。
深みに嵌りそうで怖かったのだ。
スカッシュ自体は楽しかったから、静香の誘いでなくてグループで行くというの
なら行ってもいいが、彼女からの勧誘では行きたくなかった。
瞬はピンと来ていた。
奥村の妻から誘われた話は聞いている。
響子もひさしぶりに身体を動かしたいだろうと思って気軽に許可した。
しかし、帰宅した妻はうつむき加減で、食事もロクに摂らずに瞬とタムを心配させた。
そして一緒に行ったのが静香だということを思い出し、大体の事情を察したのである。
レズっ気もある静香に誘われたが、あるいは犯されたのかも知れない。
瞬はため息をついた。
純情なのもけっこうだが、響子のそれは度が過ぎると思っていた。
そんなことはないのだが、瞬にはそう思えたのである。
女同士で身体をまさぐり合うくらいでいちいちくよくよしていては、とても瞬に
とっての理想の妻とはなり得ない。
「こちらが万里邑さんだ」
「万里邑です。どうぞよろしく」
「あ、三鷹の妻の響子です。よ、よろしくお願いします……」
響子は動揺していた。
瞬の説明では、いったい自分がどうされるのかよくわからなかったからだ。
夫は改めて説明した。
「響子、この万里邑さんはタイに住む日本人の指導者的な存在だ」
「指導者、ですか?」
「そうだ。万里邑さんはそう呼ばれるのを嫌うが、事実だからしようがない」
瞬の解説を聞きながら、老人は苦笑していた。
穏やかそうな柔らかい笑みを浮かべた、端正な容貌を持った老人だった。
老人とはいえ、まだ60代半ばといったところだろうか。
若い頃、スポーツをしていたのか、その歳になっても余分な贅肉らしいものは見あ
たらない。
顎の下も弛んでいなかった。
見事な銀髪を撫で付けており、同じ色の髭を鼻の下に湛えている。
高価そうなスーツを纏った、リタイアした一流企業の元社長といった雰囲気である。
響子は夫と老人を交互に見ながら聞いた。
「それであの、私は何をすれば……」
「これからしばらくの間、君を万里邑さんに預ける」
「預けるって……」
「そうだ。すべて万里邑さんの指示に従ってくれ」
「え、でも家の方は……」
夫は軽く首を振った。
「それは心配いらない。一ヶ月も二ヶ月も家を空けるわけじゃない。タムもいるし
大丈夫だ。せいぜい一週間か二週間というところでしょう、万里邑さん」
「そうですな」
白髪長身の老人は、響子を観察しながら答えた。
「もちろん個人差はありますが、奥さんは素養がありそうだ。最初は少し抵抗がある
でしょうが、順応性は高いと見ました」
「そうですか」
「ど、どういうことなんですか」
響子は不安が高じて、つい大きな声で尋ねた。
夫は少し目を逸らせた。
「……君はセックスに関して保守的でありすぎる」
「え……」
意外な言葉に、妻は呆気にとられた。
保守的とはどういうことだろう。
自分は瞬の妻として彼を愛し、貞操も守っている。
そう言うと、瞬は「まさにそれだ」と言った。
「貞操か。正直言って、僕はそんなものは要らない」
「……!」
衝撃を受けているらしい妻に、夫は言い聞かせるように告げた。
「いいかい。セックスというものは、もっと開かれていていいんだ。それを君は妙に
恥ずかしがったり、ややもすると嫌悪する傾向がある。僕にはそれが物足りない」
「でもそれは人として当たり前じゃないですか! け、けだものじゃあるまいに、
どこでも誰とでも関係するなんて……」
「それは誤解です、奥さん」
老人の落ち着いた声がした。
「人間だからこそ、ですよ。セックスは子孫を残すだけの行為ではありません。それ
では、それこそ動物と一緒です」
「……」
「これはコミュニケーションです。親愛の情を交わす手段のひとつなのです」
「だから誰とでもするのはおかしいと……」
「それが違うのです」
万里邑は響子の剣幕にも気圧されずに続けた。
「動物は一対です。基本的にパートナーは変えません。しかし人間はセックスを生殖
だけの手段から解放しました。重要な愛情交換の一種として進化させたのです。そして
その愛情とは、何もパートナーとばかりのものではありません」
「そんな! そんなことはありません」
「いいですか、奥さん。人間は、この世で生きていく中で、誰でも制約や束縛を受け
ています。何らかの規範に外れれば、たとえそれが罪になろうともならずとも、社会
的制裁を受けてしまいます」
「……」
「また、それについて個人的にも不安や罪悪感、後悔、孤独感や疎外感を得てしまう。
しかし、よく考えてください、奥さん。別に違法行為をするわけではないのです。
確かに、公衆の面前で恥知らずなことをすれば、公然猥褻という罪になる。当然です
ね。電車の中で見ず知らずの女性に痴漢行為を働けば、逮捕されます」
「……」
「では、それが公共の場でなかったらどうでしょう。また、相手の女性がパートナー
であり、また女性の側もそれを望んでいたとしたら。それでも犯罪になるのでしょう
か。罪悪感を感じる必要があるのでしょうか」
瞬も万里邑に加勢するように言った。
「響子、セックスをそう重く考える必要はないんだよ。そんなものは握手や食事と
同じようなものだ」
「握手と食事……?」
「そう。好ましい相手と握手を交わすことはあるだろう。抱擁することだってある。
また、気の合う相手と共にする食事は楽しいものだ。セックスだって同じだよ」
「……」
「確かに衣服を脱いで、生まれたままの恰好でのコミュニケーションだ。恥ずかしい
と思うことがあるのは当然だ。滅多な相手には出来ないだろう。だけど、自分が認め
た相手であれば別に構わないんじゃないだろうか」
響子には信じられない言葉の連続だった。
老人も瞬も同じ考えのようだ。
頭がクラクラする。
自分の方がおかしいのだろうか。
なおも進歩的な夫は続ける。
「それに本能的な問題もあるだろう。君にだって性欲はあるはずだ。違うかい?」
「……」
それは確かにある。
生物である限り、それはあるのだ。
否定はしない。
だが、それをあからさまにすることが人間的だとは響子には思えなかった。
「人間は理性の動物だ。本能を理性が抑えるのも人間ならでは、だ。だが、どうし
ても我慢できないこともある。抑えきれないこともあるんだ。そういう時はどうする?
もちろん妻や夫がいる時ならいい。いない時に欲しくなったらどうするんだ?」
我慢するのだ。
実際、響子は日本で我慢してきたのである。
しかし瞬は、響子の考え方を否定した。
「おとななら……きちんと責任がとれるのなら、本能に身を任せてもいいんだよ。
誰でも彼でもとは言わない。でも、抱かれたいと思うような男性がいたら、君は
抱かれたっていいんだ」
「そんな……!」
響子は絶句した。
「そんなこと出来ません! 私にはあなたが……」
「ああ、それはよくわかってる。だからセックスにそれほど重い思いを抱く必要は
ないって言っているんだ。はっきり言おう。僕も、君以外の女を抱くことがある」
「……!」
「だからというわけじゃないが、君にもセックスを愉しんで欲しいんだよ」
「わかりませんっ」
響子は涙混じりの声で叫んだ。
「あ、あなたの言うことはわかりませんっ」
「響子」
瞬は強い口調で言った。
「僕は、他人を通して君を抱くんだ」
「!!」
「そして君のいろんな面を知りたい。僕のいろんな面を知って欲しい。それだけだ」
響子はへなへなと絨毯に座り込んでしまった。
そんな妻を見下ろして夫は言った。
「響子、きみならきっとわかってくれるはずだ。さあ立って」
夫に手を握られ、引っ張り上げられた響子はふらついている。
その腰に手を回して瞬が言った。
「いいね、今日から君を万里邑さんに預ける。彼の指示には絶対服従だ。万里邑
さんの言葉を僕の言葉だと思って従って欲しい」
「さ、奥さん」
万里邑は、瞬から響子を受け取った。
まだショックでふらついている人妻を優しく抱き寄せた老人は、瞬を振り返って
小さく頷いた。
部屋から出ていく妻に瞬が言った。
「……元気で。生まれ変わった君を待っているよ」
───────────────
美貌の若妻は、訳が分からないままに白髪の老人に従った。
服を脱ぎ、下着姿になり、ナイトウェアを身に纏った。
着替える理由はおろか、せめてひとりで着替えさせて欲しいという願いも無視され
響子は万里邑の前でネグリジェ姿となった。
「決して万里邑に逆らうな」という瞬の命令が耳に残っている。
もしやこの老人に犯されるのでは、と響子は身を固くしたが、万里邑は手を出さな
かった。
ホッとしたような、期待はずれのようなもやもやした気持ちでいると、老人は籐椅子
を引き、そこへ座るよう指示した。
「少し待っていてください。あ、そこから動かないで」
万里邑は念を押した。
「いいですね、私がいいと言うまでは、そこから動いてはなりません。これから何が
あっても、です」
「……」
「返事は?」
「わ……かりました……」
響子の返答を聞くと、万里邑は頷いて部屋を出た。
響子が不安になる暇もなく、白髪の男はすぐに戻ってきた。
「タ、タム君!? な、なんで……」
響子は大きな目をこぼれ落ちそうなほどに見開いた。
薄いネグリジェ姿のまま大きな籐椅子に座らされていた響子の目の前に現れたのは、
召使いの少年だったのである。
万里邑が連れてきたらしい。
両腕でブラジャーの透けている胸を隠し、思わず立ち上がった響子に、万里邑の厳
しい声が響く。
「響子さん! 命令を忘れたのですか。座りなさい」
「でも……」
「座りなさい。動いてはなりません」
「……」
響子はよろよろと腰を下ろした。
恥ずかしそうに脚をぴったりと合わせ、少し傾ける。
両腕は相変わらず胸を守っていた。老人の声がした。
「何をしているのです。腕は肘掛けの上に置きなさい」
「で、でも……」
「何度も言わせないでください。腕を置きなさい。脚も開いて」
「……」
響子はタムから顔を背けて両脚の膝を離した。
固く目を閉じた響子の耳に、万里邑のよく響くバリトンの声が入ってくる。
「奥さん、あなたはこの家へやってきたその晩に、ご主人に抱かれましたね」
「!」
一瞬ピクリとしたが、響子は身を固くして黙っていた。
確かに夫に抱かれたが、別におかしなことではない。
夫婦なら当然だし、何しろ三カ月ぶりに会ったのだ。
その間、響子はセックスレスだった。
全身を淫らな拘束具で縛られてのセックスは恥ずかしかった。
だが、それだけのことだ。
万里邑は見透かしたように言った。
「ひさしぶりに瞬さんに抱かれ、感じて、何度もいきました。そうですね」
「……」
「その時、何か感じませんでしたか?」
「……?」
「例えば……」
老人は思わせぶりに言った。
「例えば、誰かに覗かれていたような気がした、とか」
「……!!」
思い当たることはある。
あの時、きちんと閉めたはずのドアが開いていたのだ。
終わって、寝るときに確認したら、ちゃんと閉まっていた。
おかしいとは思ったが、そのまま夫の腕の中で熟睡したのだ。
しかし、本当に誰かが覗いていたとしたら誰だろうか。
泥棒でも入ったのか?
そんな形跡はなかった。
では覗きを常習とする性犯罪者でもいたのだろうか。
違う。
そんなものがいれば、いかに響子でも気づいただろうし、その前に夫が気づくだろう。
ならば誰だ。
家にはふたりしかいないはずだ。
いや、もうひとりいるが、彼のわけはない。
「ま、まさか……」
響子は目を明け、思わず万里邑を見た。老人は頷いて告げた。
「そうです。目の前のタム君が見ていたのです」
「そ、そんな……」
響子は目の前が真っ暗になった。
まさか、この可愛い少年が自分の痴態を見ていたとは思わなかった。
翌日以降も、彼は普通に接してくれた。
響子をいやらしい目で見たり、軽蔑したりするようなこともなかった。
だが、それは表面的なことだ。
もしかすると、彼の部屋で響子の身体を思い出しながら……。
「い、いや……いやあっ!」
響子は両手で顔を覆って泣きだした。
万里邑が優しくその肩に手を置く。
「気になさることはありません。このくらいの少年であれば当たり前のことです」
「……当たり前」
「そうです。性的な興味を持つのは健康的であり、むしろ正常です。増してあなたは
それだけ美しいのです。男性の性的興味を惹くのが当然でしょう」
「……」
響子はゆっくりと視線を前にやった。
タムが申し訳なさそうに、今にも泣きそうな顔をして俯いている。
「彼を責めてはなりません。タム君は瞬さんに言われて覗いていたのですから」
「そんな……! 夫が……!?」
「そうです。わかってあげてください、瞬さんはそうした嗜好もある」
そう言えばあの時、覗かれていることに響子が気づきかけた時、瞬は言っていた。
「気にすることはない。僕たちの仲の良いところを見せつけてやろう」と。
純粋にそういうつもりもあったのかも知れないが、見られて昂奮する嗜好もあったのか。
「お、奥様……」
少年の上擦ったような声が聞こえる。
響子にはタムがどこを見ているのか痛いほどにわかった。
まるで視線に物理的な力があるかのように感じる。
響子の胸に、脚に視線が這っているのがわかる。
それを見たくないがため、響子の目は固く閉じられていた。
この国に不慣れな響子に、何くれとなく世話を焼いてくれ、タイ語の教師役も務め
てくれた。
家事一般は響子が感心するほどに手際が良く、タイ料理などは響子がもっぱら教え
てもらっていた。
タムも気さくで優しい響子が好きだったし、響子や瞬も我が子のように可愛がって
いた。
年齢的に実子というには無理があるが、年下の従兄弟くらいに思っていたのだろう。
そのタムが、青い性欲を剥き出しにして自分を見つめていると思うと、気が狂い
そうになる。
「あっ!」
万里邑の手が、響子の膝を払った。
脚にかかっていたネグリジェの薄い布地が払われて、白い脚が覗いた。
一瞬、タムと目が合ってしまい、響子は思わず顔を背けた。
そして「許して欲しい」と縋るように万里邑の方を見たが、老人は冷たい視線でそれ
をはね除けた。
響子の手は震え、今にも動き出して脚を覆い隠したかった。だが、それが出来ない。
瞬の命令もあるが、この万里邑という老人には不思議な迫力があり、逆らおうという
気が失せてくる。
暴力的に言うことを聞かせるのではなく、その言葉だけで従わせる圧力があった。
何人もの人間を性の桃源郷へと導いてきた自信がそうさせるのかも知れなかった。
美しい人妻は、頬を染めながら恥ずかしげに眉間を寄せた。
そう、響子には年下の男に見られるという屈辱より、可愛がっていた少年に見られ
ているという羞恥の方が強かったのだ。
万里邑の声がした。
「さあタム君。好きなようにしたまえ」
「す、好きなようにって……」
タムは驚いたように老人を見た。
万里邑は「わかっているだろう」とでも言いたげに顎をしゃくる。
タムが生唾を飲み込む音が聞こえた。
大恩ある瞬の奥方である響子に、淫らな欲望を抱くなど以ての外だと思っていた。
増して敬虔な仏教徒が多いタイだ。
タムも例外ではない。
死んだ両親も熱心な信徒だったのだ。
仏教に於いて性愛は否定されている。
愛情や肉欲とは即ち執着であり、仏教とは執着を捨てることだとしているのだ。
タムもそれはよくわかっていた。
それだけに、自分が響子に抱きつつある醜い欲望に自己嫌悪している。
しかし、そうしたこととは別に、魅力的な異性に性的な欲求を持つのは、人間として
生物として当然のことなのだ。
理性が本能に打ち勝つことは難しかった。
「あっ!」
タムの震える指先が伸びてきた。
それがちょんと響子の脚に触れると、まるで通電されたかのような悲鳴が出た。
驚いたタムがすぐに手を引いた。
万里邑が叱責する。
「響子さん。すべてを受け入れなさい。タム君の思いを受け入れるのです」
「……」
逆らえなかった。
悲しそうな目で万里邑を見て、そして諦めたように姿勢を正した。
それでも、腿や腕はまだ細かく震えている。
タムの方は見なかった。
「……!!」
再び伸びてきた少年の手が、響子の肉感的な腿に触れた。
ビクリと反応したが、何とか抗うことを防げた。
響子の抵抗がなくなったことに勇気を得たのか、
タムの手の動きが大胆になっていく。両手で響子の真っ白い太腿の上を這い、撫でて
いった。
「く……」
人妻は唇を噛みしめて耐えている。
羞恥に耐え、触られるおぞましさに耐えていた。
しかし響子は別の感覚に戸惑っていた。
意に染まぬ相手に身体を触られたことは過去にもある。
痴漢されたことはあるのだ。
いやらしい手が響子の尻や腿を這い、しばらくは我慢していたが、いつまでも触って
いる男に堪忍袋の緒が切れた。
その手を掴んだ上に横っ面を張り飛ばしたのである。
車内の乗客の協力も得て、警察に突きだしたわけだが、触られる感触は気色悪いだけ
だった。
ところが今回のタムのそれは違う。
毛嫌いしている相手どころか、好意を持っている相手という差はある。
だが、それにしてもタムと関係したいなどと思ったことは毛ほどもないのだ。
そういう対象としてまったく考えられない相手だからだ。
それなのにタムの手指の感触は、あの痴漢とは違っていた。
「……っ……あ……」
響子の唇から、時折「耐えきれない」とでもいうように、熱い吐息が洩れる。
いつしか大きな目は開かれ、羞恥に潤んだ瞳でタムを見ていた。
少年は、そんな女の目には気づかぬように、懸命に脚を撫で、さすっていた。
まさに愛撫だった。
最初のうちは、手のひら全体を使って、響子のすべらかな肌の感触を味わうのに
精一杯だったが、だんだんと彼なり技巧を用いて太腿を触っていた。
まぎれもない愛撫だ。
響子は、若々しいというより、まだ子供ような少年に脚を触られ、熱いものを感じ
始めた自分を恥じた。
それでも開発されつつある肉体は、タムの稚拙な愛撫に応えてきている。
指が腿やふくらはぎの肉を摘んだり、皮膚に触れるか触れないかくらいの微妙な
タッチで愛撫されると、響子は気づかれない程度に唇を開け、小さく喘いだ。
「あ……ん……っ……あっ……」
敏感なところを触られると、肘掛けを掴んでいた手にぐっと力が籠もる。
少年に愛撫されて喘ぎ出すような恥ずかしいマネはできなかった。
それより、ここで感じてしまっては、もうタムと以前のような関係を保つことなど
出来そうになかったのだ。
「あ、痛っ……!」
自分の愛撫に応え始め、徐々に悶えてきた響子に昂奮したのか、タムはつい指に力
が入ってしまった。
彼としてはそれほど力を入れたつもりはなかったのだが、昂奮していたのだろう。
響子には抓られたように感じられた。
ぎゅっと腿を強く抓られて、響子の劣情は一瞬に冷め、痛みが走った。
万里邑はそれを見て「仕方がない」とでも言うように荒々しく叫んだ。
「もういい! 行け!」
ハッとして響子から手を引いたタムは我に返り、目にいっぱい涙を溜めたまま、
その場から走り去っていった。
それを追う響子の目が虚ろだった。
タムの手で官能の入り口が見えてしまったことの情けなさと、それこそが瞬や万里邑
たちの望むことなのだという諦めが混濁している。
万里邑の手が響子の両肩に置かれた。
「響子さん」
「は、はい……」
老人にじっと見つめられ、響子もその瞳を見返した。
「今ひとつのようですね。今度彼を使う時は、あなたの方がリードするようにして
ください」
「今度? リードって……」
「それと、あなたはまだ羞恥心が強すぎます」
万里邑がきっぱりと言った。
「羞恥心それそのものは大切です。それを失った女など、ただの痴女です。そんな
女には、三鷹さんも私も興味はない。羞恥や恥辱で打ち震える女性こそ、男性を
その気にさせるのです」
「……」
「しかしあなたのそれは、まだ私の望むものではない。このまま時間を掛けてゆっ
くりと取り除いていくのもいいのですが、あなたにはショック療法の方が効きそうだ」
「ショック療法……?」
響子が不安げな顔になると、そこで老人は温顔に戻った。
「大丈夫。あなたならきっとうまくいく。大事なのはすべてを受け入れること。状況
を楽しむことです。それによってあなたは解放される」
「……」
「それは決して淫らなことではない。恥じることもでないのです。生物として人間と
して本来の姿のはずだ」
そこで万里邑は立ち上がり、響子に手を差し出した。
「今日はここまでとしましょう。次は明後日です。迎えに来ますから、午後3時に
家にいてください。では」
老人は慇懃に頭を垂れ、響子を後にして部屋を出ていった。
───────────────
万里邑に連れて来られたのは歓楽街のようだった。
夜の街である。
首都のバンコクから、そう離れていない。
響子は、日本でも新宿の歌舞伎町や渋谷の駅前周辺などの歓楽街があまり好きでは
なかった。
落ち着かないのだ。
右を見ても左を見ても、鵜の目鷹の目で歩く人々を見繕っているような気がする。
欲望の街だと思う。
不安げな響子に、同行の老人がゆっくりとした口調で説明した。
「ここは今でこそこんな街だが、かつてはちっぽけな漁村でした」
「漁村?」
「はい。ところがそこにベトナム戦争が起こった。隣国で激戦が展開されているの
です。ここも無事に済むわけがありません。ここは国境の町ですが、すぐ隣に空軍
の基地があって、そこをアメリカ軍が利用しました」
「ベトナム戦争ですか……。あ、もしかして万里邑さんも……」
「昔の話です」
万里邑は歩みを止めて、目を細め、遠くを見るような顔になった。
そして隣の響子に微笑みながら言った。
「隣は戦争ですが、さすがに国境侵害まではありませんでした。しかし、アメリカ
軍は基地のすぐ隣にあるこの街に目を付け、軍人たちの保養地として利用するよう
になったのです」
ベトナム国内では、後方の補給基地や休養施設でさえもベトコンのゲリラや特殊
部隊の奇襲を受け、大きな被害が出ていた。
もはやベトナムに安息の地はなかった。
それで米軍は隣国のタイに要請し、保養所を開発したのである。
ソ連の軍事顧問団と称する特殊部隊や、北ベトナムのゲリラたちも、国際非難を
恐れて、そこまでは手を出さなかった。
そしてこの街は、ベトナム戦争中、最大の保養地・歓楽地として発展した。
予想外の苦戦に、米軍は臨時徴兵を重ね、若者たちを次々に戦地へと送った。
同時に、奨学金目当てで軍に志願する大学生も後を絶たなかった。
軽い気持ちでやってきた彼らだったが、戦場の凄まじさに恐慌することとなる。
三ヶ月あるいは六ヶ月に一度の休養は、それまでの戦地での緊張感を一気に解放
するただひとつの場だった。
だからこそ若い兵たちは羽目を外した。
ビーチの開発や映画館、バーの建設などはまだよかったが、当然のようにカジノや
売春窟も裏で作られた。
表向き軍指導部は、こうした非合法店舗の利用を禁止したが、兵隊たち全員を監視
は出来ないし、街をパトロールするMPたちも、犯罪行為でも起こさない限りは
見逃してやるのが常だった。
軍としては、奨励することは立場上できないが、多少の無茶は兵たちのガス抜きに
なると考えたのである。
そのせいで、非合法店も取り締まられることなく営業を続けた。
「そこに終戦という転機がありました」
「アメリカ軍は負けたのですよね……」
「はい。米軍撤退の後、ここは恐慌状態となり、そして沈静化してからは廃れ始め
ました」
ところがここは生き残ったのである。
もともと風光明媚な場所だし、歓楽街としてのノウハウもあった。
戦争が終わって兵隊がいなくなったのなら、今度は民間の観光客を相手にすればいい。
それが当たった。
欧米からの観光客が増加していったのだ。
彼らを楽しませる施設はそっくり残っている。
レストランにバー、映画館、カジノ、そして風俗産業。この街はアングラタウン
となったのである。
「良いことばかりではありませんでした。アメリカ軍の代わってこの地域を支配
したのはギャングどもでした」
「ギャング……」
「日本風に言えば暴力団ですね」
性風俗産業とヤクザは切っても切れぬ関係だ。
実質支配していた軍がいなくなった後、彼らがのさばってきたのは当然と言えば
当然だった。
増え続ける観光客と暴力団の介入により、性風俗産業はより過激に大規模になって
いく。
「今はタイ警察も力を入れて、何とかこの街を浄化しようとしています。その甲斐
あって、いわゆる少女売春はほとんど壊滅しましたし、暴力団の影響も下火になっ
ています。しかし、なくなったわけではなくて地下に潜っているだけです。そして
彼らから解放されたかっこうの売春婦たちも、今さら商売替えも出来ず、私娼と
なっている女も多い」
そこまで話すと、万里邑はにこりと笑った。
「……ですが、これから行くところは大丈夫です。暴力団の息のかかっていない
ところですから」
「はあ……。それで、私は何を?」
「行けばわかります。難しいことをするわけじゃありません」
老人はリラックスさせようとして言っているのだろうが、響子の不安は募る一方で
ある。
セックスに絡んだことをさせられるに違いないのだ。
まさか見ず知らずの男に抱かせるとか、酷い責めをするとか、そういうことはない
だろうが、まだ性には懐疑的である彼女には充分不安なのであった。
万里邑は女を抱かないという。
それでいて性的な指導をするらしい。
何をさせられるのか見当も付かなかった。
万里邑は、寄ってくるポン引きや飲み屋の呼び込みを適当にあしらい、どんどんと
進んでいく。
美しい響子に奇声をかけてくる男たちもいたが、連れているのが万里邑と知ると
後込みをしている。
響子は足早に老人の後を追った。
迷いもせずに街の外れまでくると、老人は古ぼけた雑居ビルらしい建物に入っていく。
下りの階段ということは、地下室があるのだろう。
階段の電灯は薄暗く、切れているものもある。
万里邑の白髪がうっすらと浮かび上がり、響子はその後に続いた。
老人はノックもせずにドアを開けた。
ドアに隔てられた室内はぼんやりとした照明で視界が悪かった。
階段に比べればまだ明るいのだが、薄暗いことに変わりはない。
よく見ると電灯ではなく、あちこちにロウソクが灯されているようだ。
剥き出しのコンクリートの上に、建築用の青いビニールシートが敷いてあった。
窓はなく、調度類もほとんどない。
空気が澱んで濁っている。
思わず響子はハンカチを取り出して鼻と口を押さえた。
部屋には十人くらい人がいた。
みんな東洋人の顔で、現地の人なのかも知れない。
年齢は様々で、初老の男から中年、まだ20代前半と思われる若者もいた。
服装は、みすぼらしいとまでは言わないが、薄汚れたシャツやズボンを身につけて
いる。
響子たちが中に入っても、特に関心を示さなかった。
思い思いの場所に座り込んだり、寝ころんでいる者もいる。
濁った目でぼんやりと中空を見つめていたり、気怠そうにゴロゴロしているだけだ。
見たところ男がほとんどで、響子が確認する限り、女性らしいのはひとりしかいない。
共通しているのは、みな喫煙しているところだ。
室内がぼんやりともやっていたのはそのせいなのだろう。
紙巻きをくわえたり、パイプをくゆらせていたりして、紫煙に煙っている。
酒瓶を煽っている者もいた。
不思議な光景だった。
休憩している風でもないし、酒を飲みに来ているようにも見えない。
ただ、ここにたむろしているようだ。
万里邑は、部屋のあちこちに座り込んでいる男たちを避けながら、部屋の隅へスタ
スタと歩いていった。
そこには、ここの主らしい顔中が髭面の男が胡座をかいて座っていた。
やはり長い煙管を吸っている。
万里邑が身を屈めて二言三言話すと何度か頷いて、後ろのごちゃごちゃしたクロー
ゼットを漁った。
老人は男が取り出したものを抱えて響子のところまで戻ってきた。
入り口付近で立ちすくんでいた響子の手を引いて、部屋の真ん中まで連れて行く。
そして、スーツのポケットからハンカチを取り出すと、シートの上を軽く払って座り
込んだ。
「さあ座って」
「え……」
響子は一瞬疎んじたが、戸惑いながらも従った。
着ているツーピースのスカートを汚したくはなかったから、万里邑と同じように、
手にしたハンカチでシートの上を掃いた。
一応は万里邑が掃いてくれたのだが、すぐに埃がたまるような気がする。
砂と埃を払うと、そこにハンカチを拡げて敷いてから腰を下ろした。
横座りした響子の臀部に、シートとハンカチを通してコンクリートの硬く冷たい
感触が伝わった。
「試してみなさい」
万里邑はそう言うと、響子に煙管を勧めた。
響子はびっくりして手を振る。
「あ、私、タバコは吸えません」
「タバコではない」
「そ、そうなんですか?」
「タバコよりよほど害はありません。さあ吸ってみて」
「は、はあ……」
響子は手渡された煙管を眺めた。
昔、祖父が吸っていたものとよく似ている。
吸い口と火皿の部分だけが金属で、それをつなぐ長いパイプは木製だ。
火皿には、刻み煙草のような乾燥した葉っぱらしいのが詰められている。
また万里邑が吸うように勧めるので、響子はおずおずとマウスピースを口にくわえた。
老人は燭台を持つと、それで火を点けた。
なるほど、ロウソクは照明とともにこういう目的で使われているらしい。
言われるままに響子は軽く一息だけ吸った。
口の中にぼわっと煙が入ってきて、それが喉に届いたところで咽せてしまう。
喫煙経験のない響子にとっては、刺激的な痛みである。
「んっ、ごほっ……けほけほっ……おほっ……!」
すかさず万里邑が響子の背をさすって介抱する。
「大丈夫ですか、奥さん」
「え、ええ、すみません……けほっ……」
響子は口を押さえながら答えた。
「やっぱり私、ダメです、これ……」
「そうですか。もしかして学生時代などに悪戯でタバコを吸ったこともありません
か?」
「はい……」
「わかりました」
老人は感心したように、半ば呆れたように肩をすくめ、また立って主のところへ行く。
固い女性だとは聞いていたが、タバコを一度も吸ったことがないとは思わなかった。
響子は万里邑の持ってきたものを見て首を傾げた。
ガラス製らしい容器だ。
半分くらい水らしい液体が溜まっている。
何だか花瓶のようなものに鶴首が伸びていた。
そこにゴム製らしいチューブがつながっていて、先には吸い口らしいのがある。
「何です、これ?」
「ここではボングと呼ばれています。水パイプですね」
「水パイプ?」
「はい。これを使えば少しは楽です。煙がいったん水を通っていきますので、喉や
肺への刺激が小さくなる」
「そうですか……」
やはり先は吸い口だったらしい。
万里邑は火皿の部分に得体の知れないものを載せた。
何だか、どろどろになったものが冷えて固まったように見える。
「それは?」
「さっきと同じものです。刻んだ葉はこの中に入っています。糖蜜などで固めてある
ので、少しは吸いやすくなっているはずです」
万里邑は説明しながら火皿の中の葉に火を点けた。
うながされて響子は再びそれを吸った。
「……」
なるほど、さっきよりはずっと楽だ。
喉も肺もあまり痛まないし、何よりむせなかった。
言われるままに二度、三度と吸ってみた。
甘い感じはするが、特においしいものではない。
こういう機会でもなければ吸わないだろう。
響子は首を傾げながら尋ねた。
「タバコではないそうですけど、いったい何なんですか?」
「大麻です」
「大麻?」
「ええ、マリファナとも言いますね」
「なんですって!?」
響子は仰天した。
つまり、いわゆる麻薬の仲間なのではないか。
「そ、そんなもの吸っていいんですか!?」
「いいですとも。ここは日本ではありません」
「で、でも……!」
「大麻が違法薬物として禁じられている国は、そんなに多くありません。ここタイ
でも違法ではない」
これはウソである。
違法だからこそ、こんなところでコソコソ吸っているのだ。
響子は反論した。
「で、でも私は日本人ですし、いくらここでは許されるとは言っても、そんなもの
吸いたくありません!」
「吸ってください、これは私のお願いです」
「そんな……」
「これを吸えばいい気持ちになる。リラックスして、これからのことが楽になります」
「でも、もし中毒になったらどうするんですか。身体にだって良くないはずです」
「そんなことはない」
万里邑は響子に顔を近づけて言った。
「依存症にはならない。こいつの肉体的、精神的依存度はタバコよりも少ないのです」
「ウソですっ」
「ウソではない、本当のことだ。それに、別にいつまでも吸い続ける必要はありませ
ん。あなたは今日ここで吸うだけで良いのです。病みつきになってしまってはご主人
に申し訳ない」
「……」
半信半疑という顔の若妻に、老人は滔々と説得する。
「大麻には、ヘロインのような禁断症状もありません。酒やタバコにだって多かれ
少なかれある禁断症状がないのです。幻覚症状が出ることもあるが、別にクルマを
運転するわけじゃない。もしそうなったら、醒めるここでのんびりしていればいい
のです」
「でも……」
「吸いなさい。命令です」
「……」
まだ躊躇していた響子だったが、万里邑に強く勧められ、それに従った。
夫に「彼には絶対服従するように」と釘を差されていたからだ。
良心に道徳心、倫理観、そして遵法意識に責め苛まれ、ためらいつつも響子は吸い
始めた。
「……」
彼女に変化が現れたのは、マリファナを三度ほど続けて吸わされた後であった。
他の人間たちのように、ぼんやりとし始めた。
気怠い。
あまりやる気が出ない。
それでいて、決して悪い気分ではなかった。
どことなく落ち着かない感じがしているのに、妙にリラックスしている気がする。
大麻が効果を現してきたのだ。
マリファナは、効かない時には効かないが、周囲の環境や本人の健康状態などで
かなり効く。
薄暗い室内、怪しい雰囲気。ここの環境は、そういう意味では理想的で、響子には
覿面に効いたらしい。
目がとろんとしてきた。
潤んで少し赤くなっている。
眼圧が減少しているようだ。
盛んに胸元に手をやり、襟元から外気を取り入れていた。
少し暑いと思っているのだ。血圧や体温が上昇しているに違いなかった。
万里邑の声が近くから遠くから聞こえる。
「……如何です、奥さん。どんな気分ですか?」
「はい……。何だかふわふわしているような感じで……」
「悪い気持ちではありませんね?」
「そうです……ね……」
響子はそう答えつつ、自分から大麻を吸った。
一口吸うごとに、頭の中がぼうっとするような、逆にすっとするような、妙な感覚
を覚えている。
何となくもう一口、もう一口と吸いたくなる。
一服めを終えると、万里邑がすぐにまた大麻の塊を置き、火を付ける。
ぼんやりとした視線でそれを見ている響子だが、「もういらない」とは言わなかった。
もっと吸いたいというのではない。
そう言うのも面倒な気がする。
そうして四回目の吸引を終えるのを待って、万里邑はボングを片づけた。
響子はそれを物憂げな美貌で見つめている。
もっと吸いたいとも、どうでもいいとでも、どちらとも取れるような表情だった。
響子の美しい顔に、もやがかかったように気怠さが増している。
夫の瞬が見たら、びっくりするような色っぽさだと思ったかも知れない。
響子の色気は、そのほとんどが健康的なそれであって、ややもするとセックスの最
中ですら清純さを感じさせる。
それが、今の響子は、まるで経験豊富な娼婦のような妖しげなフェロモンを湛えていた。
身体から余計な力が抜けてリラックスし、ぐんにゃりしているからかも知れない。
普段はどちらかというときりっとしている彼女が、憂い顔でとろんとなって、新たな
色気と魅力を発散していた。
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