「しかし、貴方が今になって行動を起こそうとは思わなかった」
「……ずっと考えていた事です。ただ、わたくしには……守らねばならぬものがあまりに多かった。それを一つ一つ割り切って行くまでに……少し時を要しました」
勧められるままに茶に口を付け、ルシェラは小さく溜息を吐いた。
通された応接室は豪奢ながら暖かみに溢れ、主の人柄をよく表している。
「そうして貴方の美徳が一つ一つ削られて行く」
「悲しむべきなのでしょうが、これもまた仕方のない事です」
吐き捨てる様な口調になるゼルファスティアに対して、ルシェラは何処か感情のない様な受け答えをする。
「優しく儚い貴方を愛していた」
「申し訳のないことです。しかし……わたくしがこう思い切るまでに、貴方もその原因の一端を担っているのですから、そう仰有るのは不本意に感じますが」
「私が?」
「ええ……」
湯飲みを卓に置き、ルシェラは軽く足を組んだ。
僅かに眉を顰めてゼルファスティアを見遣る。
色の読めない瞳だった。
「貴方をお慕いしておりましたのに。貴方はわたくしの感情を裏切った」
「そう思われる事こそ不本意だ。私はただ、貴方を愛していただけの事」
「……わたくしの身体を求めさえなさらなければ……わたくしは未だ、貴方に全幅の信頼を寄せていた事でしょう……」
膝の上で組んだ手の指先から熱が失せていく。
それは、口にしないのが暗黙の約定だった。互いに立場がある。
ルシェラには他に想い人もある。
それでも……その瞬間、言わなくては自身が壊れてしまいそうだった。
「その男の前に貴方はこうして現れた。供も連れず一人で……こうして」
手と手が重なる。
あ、と思う間もなく、ルシェラの身体は引き寄せられる。
限りなく顔が寄り合うが、その唇は寸でのところで触れる事はなかった。
吐気が絡み合い、花の香に似た茶の香りが混じり合う。
「先のお話を受けて下さるならば、これより一刻の間、貴方にこの身を捧げましょう」
「一刻……か…………酷な事を言う」
「足りませんか? 成就の暁には、わたくしの昼中は全て貴方のものとなりますのに」
「相手の全てを奪い尽くしたくなるのは愛ではないと言った古人があったが……それは、その苦しみを知った上での言葉なのだろうか……」
ルシェラを見詰める瞳は苦々しいものに満ちている。
室内では黒に見える程に濃い藍の瞳にルシェラの不安げな表情の全てが映り込んでいた。
「一刻……無駄には出来ないな」
細い手首を引き、より身体を引き寄せる。
唇ではなく、直接首筋に顔を埋めた。華奢な頤が仰け反り、眩しい程皓い喉元が晒される。
「っ…………」
荒っぽい行動とは裏腹に、触れた部分から伝わるのは何処までも優しく温かな感情だ。
ルシェラは身を捩った。
今この場の交わりにそんな生易しいものは必要ない。むしろ、邪魔だった。
「ゃ…………ぁ……」
細く悲鳴が上がる。突き放す様に腕が動いた。
「何故拒む。許したのは貴方だ」
「……もっと……冷たく…………犯して…………」
「時をくれたのは貴方だ。どの様に抱こうが、私の勝手だろう」
「優しくしないで!!」
殆ど絶叫に近い。男にしては高過ぎる美しい声が、耳の中で僅かに反響していた。
「………………愛する者に優しくしないなど……出来る事ではない」
感情が昂ぶっているらしいルシェラを落ち着かせようと背を撫で、低めに優しく優しく囁く。
「……聞きたくない……」
しかしルシェラはゼルファスティアの腕の中で藻掻き、両の耳を手で塞いだ。
「ルシェラ…………貴方は、私を何だと………………」
力はルシェラの方が強い。耳に当てた手を外す事は出来なかった。代わりに肩を掴み身体を離す。
「…………犯して…………めちゃくちゃにして…………」
ルシェラはそう繰り返す。
ゼルファスティアはルシェラの身体をうち捨てる様に応接用の長椅子に倒すと、席を立った。
「頼む人間を間違えている。……兄なら、頼まずとも望み通りにして下さるだろう。ただ、普通に抱くだけでも」
ルシェラは身体を起こそうとしない。顔も上げず、耳を押さえたままただ長椅子の上で身を小さくしている。
「私に、貴方の望みばかりは叶えられない。捧げられたこの一刻を不意にするには忍びないが…………貴方に対して冷たい感情など、どの様にしても生まれ得ない……」
傍らに身を屈め、冷たくなった頬をそっと指の背で撫でる。
「幾ら全てを捧げても良い程に愛しているとは言え……出来ぬ事もある。ルシェラ…………大人しく私に身を任せるか、直ぐ様帰って兄に委ねるか……どちらかを選ばれるがいい」
苦渋に満ちた声で選択を迫られ、ルシェラはゆっくりと身体を起こした。
そっと耳から手を離し、膝の上で拳を握る。
「………………口約束とは言え、お約束を違えるのは申し訳のない事…………けれど…………優しく抱かれたくない……私を、例えば……感情など何も持ち合わせない人形の様に扱って……うち捨てる様に、犯して欲しい…………優しく温かい手なんていらない…………縛って下さっても……切り刻んで下さっても構わない…………」
「今の状況以上に、どう貴方を傷つけられる……」
「私に向けられる負の物全てが……私を安定させてくれる…………」
ルシェラの手が自身の腰元へと僅かに動く。
ゼルファスティアは思わず手を伸ばし、ルシェラより早く帯びていた短刀を鞘ごと帯から引き抜いて部屋の遠いところへ投げた。
ルシェラはそれに抵抗する様に、自分の腕に爪を立て、思い切りよく切り裂く。
瞬く間に指先が紅く染まる。滴った血液が、長椅子に敷かれていた覆いを汚す。
傷は暫くそのままに紅い証を流していたが、次第に小さく白い泡を立てながら消えていく。
「…………刃など必要ない……」
「ルシェラ、冗談が過ぎる!」
「……冗談? 貴方がわたくしに優しくする程の冗談はしておりません」
もう一度、傷を重ねる様に腕を切り裂く。ルシェラの爪はよく手入れされ、それだけで立派な武器となり得た。
「ルシェラ!!」
両の手首を掴み、一纏めにして押さえつける。
「自分自身を傷つけて何とする……」
「……直ぐに癒えてしまいますけれど……少しは痛むのです。痛みを感じると…………何故か……その痛みの分だけ……安心して…………」
ルシェラはゼルファスティアを見、微笑んだ。
長椅子に押しつけられた腕や手首が僅かに痛んでいた。その痛みに、僅かに目を細める。
喜んでいる様に見えた。
「…………本日の約定はまた……日を改めた方が良かろう」
「足繁くこちらへ参る事は出来ません…………貴方が……ただ…………わたくしの望む様にして下されば……」
「貴方の流す血潮の色など……知りたくもない……」
手を離し、既に血が付着していた掛け布で腕を拭ってやる。もう傷は殆ど癒えていたが、傷つけた瞬間には深く動脈すら裂いていたのだろう。出血は思いの外酷かった。
「無理を致すなと……」
「頸を折れる程強く締めて下さるとか…………そうすればよりよく……なれる……」
「貴方は!!」
「っ、ん……んっ……」
それ以上聞いてなどいられない。
強引に唇を奪う。
ルシェラ逃れようと藻掻き、ゼルファスティアの犬歯で自身の唇を傷つけた。
唾液に混じり、淡い血の味がする。
ぞくりとした震えが背を走り、微かに身体から力が抜けた。
「んっ……ぅふ……」
荒々しい行為だがそれはルシェラを踏み躙る物ではなく、ただひたすらの慈しみと温もりが伝えられる。
細い指がゼルファスティアの腕を掴み、引き離そうと動く。
しかし、それにはひどく膨大な精神力を必要としていた。
「っぁ……く、っん……」
鼻から抜ける音がひどく甘い。
ルシェラは強く首を振った。互いを傷つけながら、唇が離れる。
「はっ……っ……は…………」
「………………何故…………ルシェラ、貴方は…………そうまで自ら傷つく事を望む。分かっているだろう。兄よりは未だ……私の方が貴方を慈しみ、愛していける。リファスの事も、許容……できる…………あの男よりは、ずっと」
「だから!!…………だから…………貴方では、厭なのです…………」
僅かに躙り身を引く。自らの細い身体を抱き、顔を背ける。
「…………だから、とは……」
ゼルファスティアにはルシェラの思いの半分も伝わっていない。
「貴方の手が……わたくしからリファスの記憶を奪う…………それは、何より堪えられない事。……リファスの記憶が失せてしまったら、わたくしはもう、生きてなど行けない…………リファスと共にもう一度生きる、その今のこの最大の望みを捨てて、リファスと共に死ぬ道の他…………何も、選べなくなってしまう…………」
「貴方に……リファスを忘れ得るとは思えないが」
「……申し上げた筈…………確かに、ただ触れる、頬や額に口づけを送る、それはございましたけれど…………性的な意味を持って触れたリファスの事など………………ただ四度、もう……数えられない程昔の記憶…………それが、その後に抱かれた男達の物と混同していないと、どうして言い切れます。貴方に、貴方の想いのままに抱かれたら…………リファスの痕跡が、わたくしの中から掻き消されてしまうかもしれない……これ以上、不安になりたくない…………」
「…………ルシェラ……それは…………」
都合のいい様に解釈しようと思えば何処ままででもめでたい言葉になり得る物言いに、ゼルファスティアの顔は更に曇った。
神王であればこれ幸いと付け込んだだろうが、ゼルファスティアにはどうにも手出しできない。
「…………だから、優しく、慈しまれたくないと、そう…………」
「リファスに再び会えるまで…………わたくしに優しい物など何一つ必要ないのです……………………」
「リファスの苦しみを…………お前も味わいたいのだな……」
漸くルシェラの感情と考えがゼルファスティアの中で噛み合い始める。
ルシェラはゼルファスティアを見詰め、静かに微笑んだ。
痛々しい、何処か虚ろな笑みだ。まだ壊れてはいないが、ゼルファスティアの中に小さな不安の固まりが生まれる。
ルシェラの心はそう強くない。
リファスが捕らえられている、今のこの状況でなければ、とうに壊れてしまっていてもおかしくなかった。
常にぎりぎりのところで生きている。ただ優しく慈しむだけでは、既に対処の出来ないところまで来ていた。
「…………よく……分かった…………」
例えようもない脱力感に襲われ、今度こそゼルファスティアは完全にルシェラから身を引いた。
今のルシェラに何を諭そうと無駄だ。
無駄どころか、無理に考えを改めさせようとでもしたなら直ぐ様この脆い心は壊れてしまうだろう。
守りたい対象を、壊すわけには行かない。
「…………もう、神王の下へ帰った方が良かろう。不審の疑の件なら、確認するまでもない。この星に住む生き物に訓練を施している。他にする事もないのでな。そのうち立派な兵士に育つ事だろう。そう、神王に報告するがいい」
これ以上は触れる事さえ憚られ、ゼルファスティアはルシェラに背を向けた。
「私に貴方を抱く事は出来ない。貴方が、その様に冷たい物を望まれる限り、私には触れる事も出来ない。……だが、私の想いを正しく受け取って頂いていた事に関して、大変嬉しく思う。貴方を傷つける様な抱き方をすれば……私も、同じだけ……苦しむだろう。貴方が今以上に不安を感じたくないのと同じで、私も……望んでまで苦しみたくはない。……それを理解して欲しい…………」
「ごめんなさい…………」
ゼルファスティアの優しさを受け入れられない事が辛い。また、心から申し訳なく思う。その思いは勿論ある。
ただ謝罪の言葉を口にする事しかできなかった。
あちらこちらに散らばろうとする言葉を辛うじて繋ぎ止めてはいるが、その為にかなり疲弊している。
自分の言っている事が一繋がりになっているのかどうかさえ曖昧で分からなかった。
自分の心がかなりの疲労を覚え、ばらばらになりそうな事をルシェラはある程度理解はしていた。
ただ、今以上に制御する事は出来ない。
身体の安楽と心の安楽は、完全に均衡を失っていた。
こんな風になる筈ではなかった。そう思う。
神王を差し置いてまでゼルファスティアの下へ単身やって来たのは、心の安楽と、あわよくば身体の安楽を求めての事だった筈だ。
神王や友人達と同じ程に付き合いの長いゼルファスティアが常に何処までも優しく温かく慈しんでくれる事はよく分かっていたし、神王に比べて大変受け入れやすい身体の繋がりを持ってくれる事も分かっている。
求めてくれる感情の煩雑さを越えても、リファスの存在を拒もうとせず全てを受け入れ、包括して優しくしてくれる。
これまでにも、幾度も抱かれた事はあった。激情に駆られていても神王のそれとは全く違い、常に紳士的で慈しんでくれる。
こうして余程に精神的に危険な状態でなければ、むしろ自ら進んでその優しさを求める程だ。
今日とても、こんな風になる筈ではなかった。
拒むつもりはなかった。
上手く言葉にならないが、これから控える神王との情事を思っては、せめてもう少しリファスに対して優しい物に触れていたかった。
「……貴方を……拒んでいるのではないのです…………」
「ああ。分かっている…………無理に言葉を紡がずとも良い……」
無意識にルシェラの髪を撫でようとした手にはっとして、拳を握り背に隠す。
「ゼルファスティア…………わたくしは………………」
「…………済まないが…………今、私にしてやれる事は何もない……」
振り絞る様な声音に身が竦む。
ゼルファスティアに多大なる無理を強いている。それが痛切に感ぜられ、ルシェラは思わず顔を覆った。
「…………ごめんなさい…………でも……もう少しだけ……ここにいたい…………」
「好きなだけ……そしてあの男が待てる間だけここにいればいい。茶の代わりと、菓子を何か持って来よう。そこでじっとしておいで」
「……はい………………」
堪らなく受動的だ。
そんな自分に苛立ちはするものの、だからといって率先して動くだけの気概など既にない。
ゼルファスティアを待つ長椅子にことりと上体を倒し目を閉じた。
身体は大した事もないが、酷く疲弊している気分だ。
神王の力の翳りを待つ。ただそれだけの事を、逸る気持ちが事の手順を阻害している。
頭の回転が悪いというわけではないが、そもそも計を巡らせるのはサディアやラシェルの仕事である。
ルシェラは性格的に、細かく策略を練る事を得手としていない。
リファスの為、その一点がなければとうに神王など斬り殺している。
残念ながら、封じる力や解放する力、それらを維持する力に於いて神王の力はいかんともし難い。発動に要する力もルシェラのそれを凌駕する。
力さえ僅かにでも陰れば、リファスに向けての力が発せられる前に神王自身を押さえる事も出来るだろうが、今のところその兆しはまだなかった。
全てから自由になりたい。
本来のルシェラが持っている奔放さが強い力で鬱屈させられ、もうそれ程経たずに破裂してしまいそうな気配すらあった。
額に手の甲を当てて休んでいた所へ、程なくして扉が開く。
ゼルファスティアが戻ってきた。
「リファス程ではないがな、私の腕もなかなかになってきたと思う。食べてみて貰えまいか」
軟禁の身のみならず、ゼルファスティアをある種恐れる神王は、酷な事にこのエリフィールナにゼルファスティア以外、人一人置きはしなかった。
通いで必要な物資を運ぶ者があるがそれだけで、他は動植物と魔獣、怪物の類しかいない。
身の回りの事は、無論自分人でする他ない。食事に始まり、掃除も、洗濯も。
この無駄に広い屋敷も、普段立ち入る場所以外は目も当てられない状態だった。
流石に悠久の時を生きるだけはあって、凄惨な様にはなっていないが、所詮は男の一人暮らしである。
ルシェラは身体を起こさず、手だけ外してちらりとゼルファスティアを見遣った。
瞳に生気はない。
「好みでなければ……またいずれで構わないが。リファスの料理を食べ慣れていた貴方なら、舌も確かだろう。私の今後の為にも、忌憚ない意見を聞かせて頂きたいものだが」
「…………ええ…………」
目の前の座卓に焼き菓子や生菓子などを並べられる。
果物を絞った飲み物も数種類が並んだ。
ゼルファスティアも人恋しいのだろう。例えルシェラでなくとも、同じ程に持て成したであろう気配があった。
ルシェラはすっと腕をゼルファスティアへ伸ばす。
その手を引き、身体が起こされた。
流れる様に美しい動きだった。性欲が絡む事さえなければ、ルシェラが慈しみを拒絶する事もない。
花の蜜で甘みと香りを付けた果物の水菓子を勧められ、匙を手にする。
ルシェラの食は酷く細い。
リファスの作る食べ物以外は基本的に喉を通らないらしく、日々の食事は殆どが噛まずに飲み込めるものか果物、または酒のつまみ程度の料理とも呼べない様な代物ばかりである。
ゼルファスティアが封じられる直前にレグアルドに仕込んだ目は三つ。
その一つはルシェラの居所の玄関にある。およその生活は筒抜けだった。
「この程度のものなら、口にも出来るのでは?」
「ええ…………少し、頂きます」
小さな匙を僅かに付け、嘗める程度に口に含む。
口の端に、微かな笑みが浮かび、けれども直ぐに消えた。
「如何かな?」
「……少し甘みが強い様に思います。蜜が少し多いのではないでしょうか」
「そうか……勉強になる」
「けれど、とても、優しい味わいです。お兄様」
「その呼び方は止めて貰いたいな。私は貴方の兄弟ではなく、生涯を共にする道を選びたいのだから」
「………………わたくしに選び得ない道を望まれても困ります……」
空気が再び険悪な気配を帯びる。
見つめ合う視線は悲しみに溢れていた。
しかし、そこへ、
『守護者ファリア、神王の名により、守護者首座ルシェラをお迎えに上がりましたー。開門して下さい!』
館自体が音声の拡張器ででもあるかの様に震え、外の声を伝える。
はっとして、二人は視線を外した。
「ファリア…………」
「全く……あの男も余程急いていると見える。お好きなものをどうぞ、気の行くまで。私は向かえに出よう」
「ええ…………」
足早にゼルファスティアは席を立つ。
残されたルシェラは匙を置き、薄く焼いた芳ばしい菓子を一つ手に取ってその端を軽く口に銜えた。
ファリアは四大神のうちの一人土を司る神に付いている守護者であり、気安く心を許せる親友の一人でもある。
また、先に出てきたラシェルとは恋仲でもあった。
唾液で僅かずつ焼き菓子を溶かしながら飲み込む。咀嚼の出来ない程弱っているわけでも顎を退化させているわけでもないが、リファスの作るものより数段落ちる味わいはルシェラの食欲を阻む。
これもまた、ルシェラには甘過ぎる。
果物ならともかく、菓子の甘みをそう好む方ではない。
並べられた菓子の内容も、油脂分も糖分もやたらに多そうなものが多く、またとても美しく飾り上げられて街の菓子店の店頭の様だ。
正直なところ、勘弁して欲しいのが本音だ。
ルシェラが訪れる度に何かしら持て成してはくれるが、いかにも女が好みそうなものばかりを並べられて困惑を通り越して不快である。
酒でも酌み交わして腹を割って話そうとでも言ってくれれば、まだしもよいものを。
見た目や周りの年齢からすれば確かに未だ若くはあっても、酒も飲めぬ子供ではない。
それどころか、ルシェラは飲んでも酔いを知らぬ質だった。身体に障りそうならば止めようとも思うが、そう感じた事すらない。
口に銜えていた菓子を側の皿の端に置いて溜息を吐く。
そうしているうちに、ぱたぱたと軽く元気の良い足音が聞こえてきた。
「ルシェラ!!」
勢いよく空いた扉から、一人の少年が駆け込んできた。
長く波を打つ金の髪を無造作に後ろで一つに括り、簡素だが軽く撓やかな素材で作られた衣を纏っている。
少し目尻の上がった大きな瞳は生の喜びに溢れ、血色の良い頬や唇と相成って非常に愛らしい。
「ファリア……お迎え、ご苦労様です」
「はーいっ。陛下が凄いご立腹……うっわぁ〜〜、凄いごちそう!!」
見た目の年も、実年齢も、ルシェラと殆ど同い年である。
全く子供らしさが抜けてはおらず、真っ直ぐで素直な気性は愛らしいの一言に尽きる。
ルシェラは苦笑を抑えられなかった。
「貴方が心ゆくまで食べたら、戻りましょうか」
「うんっっ!!」
ゼルファスティアは未だ戻ってこない。
それでも、ファリアは気になどせずルシェラの隣に座って早速菓子に手を伸ばした。
「ゼルファスティア殿は?」
「んー、もう戻ってくると思うけど」
ちらりと扉を見る。
折しも、男の手が開いた扉に添えられたところだった。
「……行儀のなっていない事だな」
「申し訳ありません。ファリアも、職務に急いでいたのでしょう」
「一飛びに上がる事もなかろう。わざわざ向かえに出てやったものを」
「ファリア、ゼルファスティア殿にお謝りなさい。このお菓子も、この方がお作りになったのですから」
数種類の菓子を掴んだままのファリアの腕に触れ、ゼルファスティアへと向き直らせる。
「……はぁい。済みません、ゼルファスティア様。ルシェラに早く会いたかったから、ちょっと急ぎ過ぎました。それから、お菓子、凄く美味しいです。もっと食べていいですか?」
小さく首を傾げてゼルファスティアを見詰める。
そうされるとこれ以上の嫌みも言えず、ゼルファスティアは小さく溜息を吐いた。
「そうだな。私とルシェラで食べるには多い。好きなだけ食べればいい」
「やった! ありがとうございまーす」
「…………相変わらず、子供だな……」
「ゼファ様は食べないんですか?」
「ルシェラの為に作ったものだからな」
「でも、ルシェラはこんな甘いのはあんまり食べないし。ユーリアとレシューラとか、サディアとか呼んできた方が減ると思うんですけど」
口いっぱいにものを詰め込んでいる為に少々聞き取りづらい。
言った名は全て、同じ立場の少女達だ。食べるもの……殊に甘いものには目がない。
確かに食が細い上に甘いものが得手でないルシェラより、余程食物に対して礼を尽くしていると言えるだろう。
「早く食べて早く帰る事だな」
「ルシェラも一緒に帰っちゃいますけど?」
「……仕方がないのだろう。どのみち、あまり遅くなってはルシェラが傷つけられる……」
「じゃあ呼ばなきゃいいのに」
ファリアの言葉には全く遠慮がない。
そうまではっきり言われては、怒る気も失せる。
「勝手に来たのだよ、ルシェラが」
「ラシェルが怪しい動きが何とかって言ってた。わざわざ見張りに教えたんじゃないんですか? いつもの手だし。陛下にも分かってると思いますけど」
「…………全く、敵わないな……」
ルシェラと顔を見合わせ、軽く溜息を吐く。ルシェラもそれに対して苦笑を返した。
「お許し下さい」
「……これもまた、いつもの事か」
「ええ。これは、彼の美徳なれば」
「…………? ルシェラ、もしかして、すげぇ具合悪い?」
ふと菓子を頬張る手を止めて、ファリアはルシェラの顔を伺った。
「今日はまだマシって聞いてたんだけど。何か、ちょっと変」
「……まだ、大丈夫ですよ」
「んーーー……」
身を翻し、ルシェラの額と額を合わせる。
「混乱してる……だけじゃないね。もうちょっとここに居させて貰う? 一晩の半分くらいだったら、俺で我慢してくれると思うし」
「いいえ。……戻ります。ここにいても…………ゼルファスティア殿には申し訳ないばかりですから……」
露骨に眉を顰めるファリアに微笑みかけて見せる。
「俺なら大丈夫だよ。ルシェラとかラシェルとか行かせるより、よっぽどいいし」
「ファリア……身体は大切にしなければならないと、いつも仰有るのは貴方ですのに」
「でも……今のルシェラじゃ無理じゃん。このお屋敷から出るのも無理っぽいんだけど」
近しい分、余計に嘘も誤魔化しも通じない。
子供らしい率直さそのままに、ファリアは全く曇りなく人の心を受け止め、更には自身が乱される事もない。
その強さが羨ましかった。
「……戻ります」
ルシェラは身を引き、額を離した。
ファリアの身体を軽く押して正しく座らせる。
「何で。意地っ張り! 優しくて大きい人に頼りたいくせに」
掌の大きさの生菓子を一気に口に入れる。少し、怒っている様だった。
口の周りに滓がまとわりついて、汚らしいながら微笑ましい。
布巾で丁寧にそれを拭ってやり、ルシェラは困った様に眉を寄せた。
「ここにいても……傷つけ合うばかり…………まだ、陛下のお相手をしていた方がある種楽ですから……」
ゼルファスティアに視線を送る。
複雑な表情で、ゼルファスティアは直ぐに目を反らせた。
「二人とも何でそんなに意地っ張りなんだよ。馬鹿みたい」
ファリアには二人の感情が伝わりはしても理解が出来ない。
回りくどい事は苦手だ。本来ルシェラもそういう質の癖に、と思うと、余計に苛立つ。
「ファリア。いい加減になさい」
「…………焦ったって……自棄になったって………………分かってる癖に」
口を尖らせる様が本当に幼い。
しかし、幼過ぎる様子とは裏腹にファリアの指摘は実に的を射ていた。
友人として、また友人の恋人として、大切なルシェラを苦しめるものから助けてやりたい。
神王がその原因となっている事は分かる。分かっているのに、帰らせたくはない。
命じられて迎えに来たものの、何とかなるものなら少しでも安楽な時間を引き延ばしてやりたかった。
「戻った方がいいだろう。せめて、レグアルドへは……何時までもここにいては、貴方にも謀反の疑いがかかる。そうなれば今度こそ……魔水牢行きは免れまい。そうなれば……残りの生涯全てをあの男の慰み者として生きるしかなくなる……僅かな自由もなくしては、それこそ貴方は…………壊れてしまう……リファスと共にでなく、貴方一人、壊され、朽ちていく…………」
神の世界の監獄。今以上の牢獄へと囚われる。会う事の許されるものは、看守と神王のみになってしまう。
とても、今のルシェラに堪え得る環境ではない。
ゼルファスティアの言葉が深くルシェラの心に落ちる。
リファスと共になれば、生きる道は勿論……どうしようもなくなれば死ぬ道も受け入れられよう。
しかし、リファスの解放を見ずして死ぬわけにはいかない。それだけは、何よりも強く誓っている。
「…………ね、ファリア。ゼルファスティア殿もこう仰せです」
「……そんなの、するならもっと早く……してると思うけど」
ファリアは引き下がらない。
ルシェラは苦笑してファリアの髪に触れた。
「素直なファリアには分からないでしょうね」
「逃げ出せる状況に置く事で、より精神的な圧迫を強める。アレの手だ。ルシェラの性格を熟知しているからこそそんな手にも出られる。ただ捕らえただけではそれこそ、壊れたらルシェラは何をするか分からないからな」
ゼルファスティアも、ファリアの頭を撫でた。
「ファリアの気分と腹が満たされたら、門まで送ろう」
「……もう、いいです。帰ろう、ルシェラ」
「ええ…………」
「お邪魔を致しました。陛下には、動物の調教をしている様だとお伝え致します」
「兵を募っているとでも言っておけば、暫くは貴方から目も離れよう」
ルシェラは微笑みながら頭を下げた。
「では、失礼致します」
「ああ」
ルシェラが身を翻すのに合わせ、ファリアが玄関の扉を開ける。
「っっ!!」
ルシェラは外の様子を見るなり、勢いよく身を返し邸内に駆け込んだ。
「ぁ……っ…………」
身体が瘧にかかった様に震えている。膝が頽れ、床についた。
「ルシェラ!!?」
「いかん! 扉を閉じろ!!」
「は、はいっ!」
ルシェラを奥へと引き摺り、扉が閉ざされる。
「はっ…………は……ぁ……っ…………」
強く身体を掻き抱き、床に伏している。床面には毛足の長い絨毯が敷かれていた事は救いだったろう。
「ルシェラ、何で」
「ファリア、今時間は?」
「え? えっと……分かんないけど、もう夜なのは確か…………あ」
ファリアは慎重に、僅かに扉を透かせた。
外は未だ明るい。月と星と宵闇にはまだ遠い様だった。
このエリフィールナは、レグアルドと時を共有している。この場が明るいという事は、即ちレグアルドもまだ明るいという事だ。
「……何で……リファトゥー様に何かあったのかな」
「神王の我儘の可能性が高いと思うが」
「そんな。だって……自然の摂理には、神は何より誰より逆らっちゃダメなのに」
「ルシェラ……兄の目を感じるのだな……」
震え続けるルシェラは反応を返さない。
「ファリア、ともあれ、レグアルドの様子を確かめてきてくれ。そして、出来る事ならサディア殿を連れて戻って欲しい」
「はいっ!」
ファリアは命ぜられて直ぐ様飛び出して行った。
ルシェラを抱き締め慈しみたい。
しかし、ただそれだけの事さえ憚られてならない。
傍らに膝を付き、ただ様子を伺い続ける。
「ルシェラ……」
触れられぬ手で拳を握り、強く床に叩き付ける。
絨毯の柔らかさも越え、じんと痛みが走ったがそんなものでは足りなかった。
この気持ちがまた、ルシェラのものでもあると分かっている。
リファスに対するルシェラの想いし同種同等のもの。
ゼルファスティアとて、苦しんでいた。
「……にいさま…………お兄様…………」
震えるルシェラが漸くにゼルファスティアへと手を伸ばす。
不快を示す様ではなく、しかし自然にゼルファスティアの眉根が寄る。
「どうした、ルシェラ」
「助け……て…………」
声も震え、状態が尋常ではない事を示している。
「何がお前をこうまで苦しめている」
「怖い…………」
指先がゼルファスティアに触れようとし、しかし、ぎりぎりのところでただ絨毯を掴む。
「神王が摂理を破っている。その事か?」
ルシェラは小さく頷く。
「酷く……お怒りです…………」
「いつもの貴方ならば、さらりと受け流しているのに……何故今日に限って」
ゼルファスティアの手の甲がルシェラの頬に触れる。
ルシェラは逃れようとする様に僅かに身を捩った。
「お兄様が、優しくなさるから………………弱くなる……嫌い…………お兄様なんて……嫌い……」
「私が、貴方を弱くしたと……?」
「……………………わたくしは……もっと……強くあらねばならないのに…………貴方がわたくしを弱くしてしまう……」
「貴方は十分に強い。……悲しい程」
ルシェラを抱き起こす。
直ぐに細い腕が縋り付いた。
腕の力が強過ぎて少しばかり苦しいが、それでも引き離す事など出来ない。
力の強さは、そのままルシェラの苦しみを表している様に思えた。
ファリアは直ぐに戻って来た。
サディアを伴っているが、到底レグアルドへ往復したとは思えない時間だ。
「直ぐそこまで来てました。陛下のご命令で」
「久しいな、ゼルファスティア殿。急を要するので畏まった挨拶は省かせて頂く。ルシェラ……陛下が大変にご立腹だ。戻れるか?」
「…………ええ…………」
ゼルファスティアに縋っていた手をサディアへ伸ばす。
それを取ったサディアはルシェラを引き寄せた。
「お手数をおかけして……」
「お前が戻るまでは玉座を辞さぬと仰せだ」
「……自然の理を、何と……お考えか……」
小柄なサディアに、ルシェラの身長は少し余る。側からファリアが支えた。
「待て! 戻ればルシェラがどうなるか、」
「貴方に選べる道はない」
「いや、あるぞ!」
叫ぶ様に言うなり、ゼルファスティアは屋敷の奥へと駆けた。
直ぐに戻って来たが、その手には布が握られている。
それは、先までルシェラがいた応接室の長椅子に掛けられていた布だった。
自傷行為の際に付いた血で汚れている。
「これを神王に。ルシェラ殿の御身は預かったと」
「それは……!!」
「急げ。もうこれ以上私も、ルシェラも……お前達とて堪えられはせまい」
「だめ……ゼファ……」
ルシェラの手がゼルファスティアへと伸ばされる。その手を強く握り締め、真摯に見詰めた。
「ルシェラ、すまないが……誰かの血をなくして、この一事は片付きはしない」
「……お兄様……だめ…………二人とも、わたくしは戻ります、ですから……っ」
ゼルファスティアは、サディアとファリアの腕から強引にルシェラの身体を引き取った。
腕の暖かみと力強さがルシェラから力を奪う。
「や……っぁ……」
「これまで、その覚悟すらもてなかった方が今更何を言う。ルシェラを離して貰おう」
腰に帯びていた剣を抜き払い、ゼルファスティアに突き付ける。
サディアの気配に容赦はなかった。
「サディア……剣を引きなさい……」
「ルシェラ、お前も何をじっとしている。戻らねばならぬ事は分かっているだろう。この状況では、ゼルファスティアが事を強引に進めたというより、お前が懇願したと受け取られよう。そうなればリファスはどうなる!」
たくましい腕の中でルシェラの身体が硬直する。
「…………今度こそ、戯れ程度では済まんぞ」
「分かっています。ですから……戻りますと…………」
分かっているのに身体が動かない。
ルシェラは唇を噛んだ。
「私がこのままレグアルドまで送っても……駄目なのだろうな」
「当然だ。それこそ収拾のつかない事態になる」
ゼルファスティアは、渋々ルシェラを二人に返した。
細い足が必死で身体を支えようと震えている。
痛々しい様にファリアは思わず目を反らせた。
ゼルファスティアも耐え難いのか、サディアの耳元に顔を寄せる。
「…………近いうちに」
「………………ルシェラの顔だけは立てて貰いたいな」
「…………努めるさ」
二人の会話はルシェラにもファリアにも聞こえていなかった。
ゼルファスティアを突き放す様にサディアは離れ、ルシェラの肩に触れる。
「さぁ、ルシェラ」
「…………はい……ご機嫌よう、ゼルファスティア殿…………」
「…………すまない、ルシェラ……」
二人に頑強に守られ、ルシェラは外に出る。
先まで感じていた神王の気配が薄らいでいる様に感じるのは、その為なのだろう。
二人に縋りながらも、ルシェラは自力で動いた。
飛ぶ様にしてこの敷地から出、レグアルドへと戻る。
神々の執務の場、太陽神殿第一殿の玄関口に辿り着き、暫し身体を休める。
ここまで辿り着くとそれなりに空気にも慣れ、具合の悪そうな事は一目で知れても何とか自我も自立も保っている。
「…………何を謝るのです……」
ルシェラの声は固かったが、サディアを詰ってはいない。
悪いのは一瞬でも心の揺らいだ自分だ。
そう思っている事が何より、サディアには辛く感ぜられた。
「戻らねばならない、それは……よく分かっておりますから」
大きく深呼吸を繰り返し、数度の後に息を吐き切って顔を上げる。
瞳には未だ微かな揺らぎが残っていたが、腹は決まっているのだろう。二人の手を払い、背筋を伸ばす。
顔色は相変わらず良くはなかったが、殆ど常態に見えた。
「このまま、直ぐに陛下の下へと行けるか?」
「ええ…………間を置けば余計に行き辛くなる……。それに、早く行かねば……これ以上自然の理を狂わせる訳には参りません」
「扉の前までは付き合おう」
「……お願いします」
「俺も、ついてく!」
勢い余ったらしいファリアの身体がルシェラに飛びつく。
首に腕を回して抱きつくファリアの背を、ルシェラは優しく抱き返してそっと撫でた。
青褪めているルシェラの頬に、僅かな笑みが滲む。
「ええ……ファリア…………貴方の強さを、わたくしにも少し分けて下さい……」
「……ごめん、ルシェラ…………ゼファ様と居る方が……ずっと楽だって分かってるけど……」
「貴方が謝る事など、何もありませんよ」
今にも泣き出しそうになるファリアの髪を撫でる。
見かねて、サディアは口を挟んだ。
「ルシェラ、行こう。ファリア、陛下の下へ先触れを頼む。今は……ラシェルがルシェラの代わりを務めていよう」
「うん」
ルシェラから離れ、触れるだけの口づけを皓い頬に残してファリアは神殿へと駆け込んだ。
「…………ルシェラ」
「ええ。…………ラシェル達に苦労はさせられませんね」
重い足取りで、二人もファリアに続いた。
続
作 水鏡透瀏