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※赤い文字色のページには性描写があります
腹ペコ鳥の甘いエサ
夏色のまばゆい太陽光が壱琉大学の野球部練習場をジリジリと無遠慮に焼き、辺りに散らばる無数のセミたちによる大音量の声援が気温を上昇させる中、暮羽鋭次はグラウンドの隅で黙々と身体をほぐしていた。準備不足で怪我などしては元も子もないので、さすがにこの時ばかりは彼らしからぬ真面目さで入念なストレッチをこなす。その過程の一つである屈伸運動にて膝を伸ばすために立ち上がった時、突き出された臀部にパシッと軽い衝撃と小気味良い音が走った。
「ッて」
本当はさして痛みもないのだが、とりあえず反射的に反応を吐き飛ばし、ほんの少し眼を吊り上げて振り返ると、ロードワークに出ていたはずの風薙がニコニコ顔で立っていた。彼と同じコースを走ってきたのであろう他の部員たちが息も絶え絶えにグラウンドに倒れこんで、仰向けた腹をヒィヒィハァハァと大きく上下させているが、風薙は額に汗を滲ませているだけで息一つ乱していない。本当にお前も行ったのか。どこかで不正でもしたんじゃないか(まぁ、これは自分が言えた義理でもないのだが)、とからかってやろうかと舌先で唇を湿しかけた刹那、風薙が先手を取るように口を開いた。
「暮羽さん、お尻大きくなりましたよね」
「あ?」
突拍子もない一言に頓狂な声を返した暮羽の手が、風薙に叩かれたとおぼしき臀部の左側を何気なく撫でる。確かに、そこは以前と比べて結構な肉が付き、やや大きいながらも張りのある尻になった気がする。数ヶ月先のダイヤモンドリーグ、ひいてはその先の神宮大会を見据え、自分にとっての課題であるスタミナ強化とより一層の球威を求めてひたすらに走りこみ、倦まずたゆまず筋トレに打ち込んで、下半身強化に勤しんだ証であった。怪訝そうに目をすがめる暮羽の真横に風薙がややおどけた横歩きでスススッと接近する。そして、笑みを湛えた唇が暮羽の耳元で綻ぶように開き、囁いた。
「お肉が付いて大きくなったから、より締まるようになりましたよ」
「……?」
暮羽はしばし眉を顰めた顔を左右に何度か傾けて考え、
「〜〜〜〜!!」
風薙の台詞の意味を理解すると共にその顔が真っ赤になり、頭上まで回った熱が見えないマグマと化して暮羽の天辺からボンッと噴火した。風薙の臀部に足の甲がちょんと当たるだけのぬるいローキックが飛ぶ。
「いった!」
これまた大して痛くもないはずなのに風薙は蹴られた部位を両手で押さえてオーバーに跳ねながらはしゃぎ声まじりの悲鳴を上げ、暮羽は「テメェ変なコト言うンじゃねェ!」だの何だの叫びながら、ケラケラ笑う風薙の首に左腕を絡める。
この後、暮羽鋭次と風薙豹は通りすがった雷轟遥登に「真面目にやれ」とどやされて、二人仲良く萎むことになる。
過酷ながらも充実した練習を終えてシャワールームで汗と泥を流し、しとる髪を雑に拭きながらロッカールームに戻った暮羽は、いそいそと出てきた私服姿の風薙とすれ違った。スマートフォンに落ちていた風薙の眼が暮羽の顔を一瞥し、サラリとした声と顔で挨拶をする。
「あ、暮羽さん。お先でーす」
そのまま立ち去ろうとする風薙の肩を暮羽の「待てよ」がむんずと捕む。
「お前、これから何か用事あンの?」
「え? 今から合コンに行こうと思ってるんですけど。可愛い女の子がいっぱい来てるから早く来いって幹事から連絡入ったんですよ」
相手の女性たちが映っているのであろう携帯電話をウキウキとした様子で見下ろしながら答える風薙に暮羽は軽く下唇を突き出した。
「そッか。まぁ、あまりハメ外したりすンなよ」
「……すみませんね、暮羽さん」
「何がだよ」
「最近、“ご無沙汰”で。もう一週間近くしてないですよね。強化試合とか特別練習とか色々あったから仕方ないですけど。……あ。もしかして、今日俺が暇だったら誘ってくれるつもりでした?」
暮羽はグッと短く呻き、顔を赤らめた。図星を指されたことを表情のみで伝えてくる先輩に風薙は小さく笑い、心の中で肩をすくめた。本当に分かりやすくて可愛い人なんだから。
「何だったら、暮羽さんも来ます? 合コン。暮羽さんみたいなワイルド系イケメンだったら女の子も歓迎してくれると思いますよ」
「いや、いい」
何故か“ワイルド系”のところで微かに声を震わせるという無礼を働きながら、明るい顔でピースをしている同年代の女性たちが映し出された液晶を見せびらかす風薙の明朗な笑顔を、暮羽のちょっと拗ねたような声が乱暴に突き放す。
「今日はもう帰って寝るわ」
「そうですか。それは残念。じゃ、お疲れさまでーす」
相手がそう返事をするのを想定していたのか風薙もしつこく食い下がるようなことはせず、あっさりと引き下がって手をヒラヒラ振った。あぁ、とぶっきらぼうな返事をしてロッカールームに入ろうとする暮羽の耳に風薙はそっと小声を差し入れる。
「今度のお休みにいーっぱい遊びましょうね 何でしたら、朝から晩まで……それか、互いのタマがすっからかんになるまでヤりまくってみます?」
「……!!」
再燃してしまった顔を歪めた暮羽が拳を振り上げた時には、風薙は尻に帆をかけ噴煙を飛ばしながらはるか先まで遁走していた。
夕暮れ時というのもあってか、暮羽が乗った電車内は仕事や学校帰りとおぼしき人々に満ちていた。朝のラッシュ時のように押し合い圧し合い潰し合いで窒息するほどではないし何とか吊り革も掴めてはいるが、周りはぐるりと他の乗客に取り囲まれていて携帯電話を取り出して弄るほどの余裕はない。何をするでもなく、何をすることもできず、黒、茶、白、たまに奇抜な金や赤といった人頭の山々の間から車内広告をボンヤリと眺めていた暮羽はそっとため息をついた。
ッたく、あの野郎。変なこと言いやがって。頭の中で風薙の別れ際の卑猥な台詞を反復した暮羽はやや赤くなった頬を大小さまざま色とりどりの靴が溢れる床に向けた。お前があンなこと言うから、何か落ち着かなくなったじゃねェか。周りの乗客に聞こえぬ程度のささやかな舌打ちを零し、吊り革を握り直した暮羽は、ふとあるサイトを思い出した。
あの日、風薙から無理矢理教えられた“遊び相手がすぐに見つかるサイト”のことを。
それは数週間ほど前の昼休み。暮羽が学生食堂のテーブルで手作り弁当を広げて豚のこま切れが申し訳程度に入ったもやし炒めをついばんでいると、カツ丼が乗ったトレイが眼前に置かれ、許可もしていないのに真向かいの空席に風薙がどっかと座ってきた。そして、彼は暮羽の箸の先のもやしを見るや、ぶしつけな声をかけた。
「暮羽さん、そんなみみっちい弁当ばっかじゃなくて、たまにはイイ物食いたくないですか?」
「ンだと?」
常に火の車な家計を必死でやりくりし、出費を少しでも抑えるために特売品を求めて奔走し、食費を切り詰めるために毎朝眠い眼をこすりながら作っている弁当を馬鹿にされたような気がした暮羽が目と声を尖らせるのを見てフフッと笑った風薙は、やおらスマートフォンを取り出した。指で何度かそれを撫で叩いた後、そっぽを向いた暮羽の横顔に液晶画面を突き出す。ぶすっとしたまま画面の文字を横目で読んだ暮羽は、瞬く間に不機嫌顔を驚愕のそれに変えて向き直った。
「お前、それ、何だよ……」
「やだなぁ、分かったくせに。出会い系って奴ですよ。俺もまだ実際に相手に会うまではしていないんですけど、いつかうまい肉食いたくなったり小遣いが欲しくなった時に利用しようかなって、一応登録だけしてるんですよねー」
朗らかな声で返しながら、画面上の指を鮮やかに動かす。どうやら何か書き込んでいるらしい。
「えーっと『男子大学生。容姿は写真参照。今夜××区で遊んでくれる人募集中。ご飯食べさせてくれる人歓迎!』っと。こういうのを書きこめば、金と時間に余裕がある男から返事が……そら、さっそく来た!」
風薙が楽しげな歓声をあげる中、テーブルの上に放り投げられた携帯電話の画面が慌ただしく動き出した。滑稽なネット動画を観るような生温かい眼の風薙と状況の全てが読み込めていない様子で唖然としている暮羽が見入る液晶の中が返信らしき文章で溢れ、それを読み終わらぬ内に新たな投稿がどんどん割りこんできて、数多のメッセージが上から下へと結構な速度で流れていく。興奮しているのか獲物を奪われまいと焦っているのか誤字脱字が甚だしい文章を送ってきている輩もポツポツといる。
「お、お前、これ全員相手にすンのか!?」
「はぁ? やだなぁ、そんなの無理に決まってるでしょ」
風薙はカラカラと笑い、箸を突き立てた丼の底から肉と白米を豪快にすくい取ると、欲張りなハムスターよろしく口いっぱいに頬張った。
「へははふぇっぽう、ふぁぶうひぁあふぁうっふぇひうふぁ」
「何言ってるか分かンねェから飲みこんでから言え。ッつーかメシ口に入れたまま喋るな行儀わりィ」
「ふぐむぐ、もぐ、むぐ……んぐっ。……だからぁ、相手さんもスルーされるの前提で返事してくるんですから、あまり深いこと考えなくていいんですよ。彼らは下手な鉄砲数うちゃ当たるってノリで、相手を募集してる人に手当たり次第メッセージ送ってるんです。とにかく金を払ってでも若い男とヤりたいって奴ばかりですから。……はい、今回も全員スルーっと。ホント、みんながっついてんだから」
風薙は手に取ったスマートフォンに流れ続ける文章を空っぽの眼でザッと読みあげると、恬淡とした様子ですでに中身の半分以上がなくなっている丼の横にコトリと置いた。
「後で暮羽さんにもアドレス送っときますから、興味があったり、お金が欲しかったら是非どうぞ♪ あ、暮羽さんクラスだったら顔写真載せれば返事がガンガンくると思いますよ」
恥ずかしかったら顔の一部隠した写真とかでもいいですから。そう付け加えた風薙は、箸でつまんでいたトンカツの端っこを暮羽の弁当箱の中に放りこんだ。暮羽が怪訝そうに顔を上げると、どうぞ、と相手のにこやかな表情が返る。
「……」
後輩からの施しに正直ムッとしたが、突き返すのも何だか癪だったので、暮羽は黙って肉の切れ端に歯を当てた。風薙にもらったカツはほとんどが衣で、肝心の肉はほぼ欠片の状態だったが、それでも“歯ごたえのある肉”は、悲しいまでに美味く、惨めなまでに沁みた。
閉店間際のスーパーの商品棚の隅でポツンとたたずむ干からびかけた売れ残りのパック寿司や、ごくたまの贅沢として自分と同じく貧乏学生である友人たちと食べる回転寿司とは違う“回らない寿司”。
特売の時だけ買う薄っぺらい物でも硬い物でもない、焼ける音を聞くだけで胸が弾み、ほんの少し歯を当てただけで溢れ出る肉汁が口と心を満たす分厚い肉(焼肉? ステーキ? どっちでもいい。肉の味を存分に堪能できるんだったら何だっていい!)。
店先から漂う香りに春の陽気に浮かれた蝶のようにフラフラと近づいてはみたが、その値段に目玉が飛び出すと同時に懐具合の寂しさを痛感し、涙を呑んで諦めざるをえなかった、下の白米がまったく見えぬほど豪快に盛られた鰻がてらてらと輝くうな重。
普段はまず手が出せぬ、もはや高嶺の花に近しい物たちが自分の懐を痛めることなく食える上に、結構な額の小遣いまでもらえるのだ。無論、それ相応の(考えようによってはそれ以上の)対価を己が身で支払わなければならないのだが。
それでも、腹、財布、そして身体。これら全ての餓えを満たしてくれるのならば――
(……いや)
駄目だ。暮羽は金色のトサカを軽く揺らしてうつむいた。いくら美味い物が食えて、財布が潤って、乾きかけた身体を満たしてくれるとしても、男、しかも知らぬ人間に易々と脚を開くと言うのは……
そこまで考えた所で、暮羽は自嘲気味な微笑を零した。何を考えてるんだ俺は。知らない野郎に抱かれてイイ物食って金をもらおうとか、馬鹿馬鹿しい。僅かに上がった唇の端からハッと自分への嘲笑を飛ばし、己の愚かさにほとほと呆れて目を薄く閉じた暮羽だったが、直後に感じた妙な感覚にすぐ瞼を開いた。
(ん?)
最初、電車の揺れによる不可抗力によってたまたま触れてしまっただけかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。何者かの手が自分の尻を撫でている。臀部から伝わる不快が脊髄を伝い、脳に嫌悪の感情が広がる。男相手に痴漢かよ。もちろん、女を狙えと言うつもりは毛頭ないが。
不愉快な感触をよこす相手の方を振り返ると、スーツ姿の中年男とバチッと目が合った。視線が合わさった瞬間、彼は目を逸らすでもなく、ただ静かにそれを細めた。そのいやらしい笑みに純粋な不快感を覚えた暮羽は、尻を単調に撫でる男の手を右手ではたいた。そして、露骨な舌打ちをしながら一睨みすると男はようやく視線を外した。その口元は相変わらず卑しい微笑を湛えていたのだが。
「チッ」
もう一度、相手に聞こえるほどの舌打ちを飛ばした暮羽は、つんけんと前を向いた。あのオッサン、妙なことしやがって。その、撫でるなら、もっと、こう、いや何でもない。うん、本当に何でもない。あのような単調な撫で回しでも、身体の燠火にとっては小さいながらも確かな火種になってしまったらしい。そんな自分の欲求不満さに驚き呆れ、押し込んでいた身体の奥から頭をもたげそうな劣情を振り払うようにブンブンとかぶりを振る暮羽を煽るように、またあの手が腰の下に触れてきた。先程と変わらぬ、つたなくて中途半端な撫で方が暮羽の不可解な苛立ちを助長させ、怒りに視界が赤く爆ぜる。コイツ、手をひねられなきゃ分かんねぇのか! ちょっとした仏心で相手が社会的地位を失わぬチャンスを一度与えてやったのに、こりずに痴漢行為をする男を成敗してやろうと吊り革を右手に持ち直し、利き手である左手が臨戦態勢をとる。さっきから人のケツ触りまくってるテメェのその汚ぇ手をひねり上げて、車両全体に響くぐらいの大声で怒鳴ってやる。“テメェ、いい加減にしろ!”と……
「ふぇあっ!?」
叫ぶために開いたはずの口から飛び出たのは、どこか抜けた声だった。怒りと微かな緊張で強張っていた暮羽の身体がピクッと小さく跳ねた理由は尻に触れる手の動きの急激な変貌。単純な撫でさすりは、ねっとりとした愛撫に変わり、時には素早く時には遅く、時折こなれた風に柔らかな肉を揉んでくる。
「あ、ぅ……」
男の手に完全に翻弄されている暮羽は叫ぶのも忘れ、細かく震えてカチカチと音を鳴らしそうな奥歯を強く噛み締めつつ、吊り革を掴む手に汗を滲ませた。焦りが頭を走り、得も言われぬ淫熱が全身を駆ける。叫ばないと。奴の手を払わないと。あぁ、でも……。
見るからに反応が変わった青年に中年男は唇の端をクイと上げて頬に皺を刻んだ。その手が、服の上からでも形のよさを感じる柔らかな双丘の片割れを曲線に沿ってしつこく撫で回し、揉み、広い手の平でギュッギュッと掴む。
「はう……ん、んンッ!! ぅんッ!」
唇から漏れそうな喘ぎをわざとらしい咳払いでごまかす暮羽は気付かなかった。大根な咳を繰り返す自分の背後で男が唇を大きく裂けて笑ったことに。その指が、今の自分にとって触れてはならぬ場所に音もなく近づいたことに。
「ッ! あ、あァぁッ……!!」
禁断の穴にずぶりと布越しに入り込んできた男の太い指の感触に暮羽はあられもない悲鳴をあげ、吊り革から全ての指が零れ、床に両膝を落とした。急に声を上げてへたり込んだ青年の周辺で、彼の身に何が起こったのかも知らぬ乗客たちが何事かとどよめく。
「だ、大丈夫ですか?」
OLらしき若い女性が心配そうに覗き込んできたが、右手で唇を押さえた暮羽は「大丈夫です」と眼で伝えながらもう片方の手を力なく振って応えるぐらいしかできなかった。そのような中で
「キミ、大丈夫?」
「!」
暮羽の赤らんだ頬に声をかけたのは、自分をこのような状態にした張本人である中年男だった。彼も床にしゃがみ込み、図々しく暮羽の背中に腕を回してさすってくる。
「顔が赤いけど、熱でもあるんじゃないか?」
「くッ、てめッ……!」
男を横目でねめる暮羽だったが、少し前に睨んだ時のような鋭利な眼光はすでになく、大きな瞳の奥が熱に浮かされたように揺れていた。青年の甘くたゆたう眼差しをとらえた男は、何かを確信したような含み笑いを漏らし、頬と同じ色をした耳元に唇を寄せて低くささめく。青年が胸の内に必死に押さえつけているのであろう欲望の獣をくすぐり、理性という檻から解き放つ言葉を。
「……もっと、気持ち良くなりたくないかい?」
「……」
自分の周りの世界の動きが少し緩慢に感じるのは頭がうだっているからか。脳全体が腫れ上がって膨張したかのごとき鈍い熱を帯びた頭を重たげに横向かせると、視界に男のえびす顔が飛び込んだ。下がったまなじり。アルファベットの“U”の字に吊り上がった口。一見は人となりのよさそうな中年。だが、細められた眼は暮羽をしっかと見据えており、瞳に宿る淫靡な光が暮羽をただれた桃色の世界へといざなう。
「ぁ……」
プシュッ。細かく揺れる唇から何らかの言葉を発しようとした暮羽の蚊の鳴くような声を電車の停車音が掻き消した。世界の流れが遅く感じた錯覚は電車の減速がもたらしたものらしい。自動ドアが開くと、暮羽と一緒にしゃがみっぱなしだった男は「行こうか」とずっと背に添えていた手で暮羽の肩を二度叩いてすっくと立ち上がった。停車した駅は巨大な路線の隙間にちょんとある小さな無人駅で、乗降する人もまばらな中、男はサッサと降りていく。
「……」
乗客たちの案ずるような視線を感じながら暮羽はゆらりと立ち上がり、開いているドアを睨んだ。自分が住むアパートの最寄り駅はまだ先にあり、この駅で降りる必要はまったくない。このまま降りてあの男についていったら、取り返しのつかないことになりそうなのも頭では分かっている。あの男を無視して電車に乗り続けていれば、何も起こらず平穏無事にすべて終わることも分かっている。
だが。
それでも。
もう。
吸い寄せられるようにフラフラと乗降口へと向かう青年の足元は少しおぼつかなかったが、そのふらつきは本当に微々たるものだったので乗客の誰一人として気付いておらず、彼らは体調を崩したらしき青年が電車を降りる後ろ姿を不安と心配と微かな安堵の目で見送った。
暮羽の靴が無人駅の硬いホームを踏むが、男に与えられた熱ゆえかその言葉どおり地に足が着いていない。どこかフワフワとした感触を足と身体に感じながら歩を進める暮羽の数メートル先で、例の中年男が恋人を待つ男さながらに気取った様子で紫煙をくゆらせていた。