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※赤い文字色のページには性描写があります


トラウマ遊戯

 暑い夏も終わりを告げ、白い校舎の開け放たれた窓へ滑り込んだ初秋の風が、窓際に座る少年の青い髪を擽る。爽やかな風の愛撫と担任教師が真剣な声で言っている何かを子守唄に、少年は舟を小さく漕いでいた。もっとも、傍目には少年が神妙な顔で俯いて教師の話に聞き入っているように見えていたのだが。
「……ですから、下校の時は決して一人にならない。知らない人に声をかけられても絶対についていかない。いいですね?」
「はーい!」
 若い女性教師の穏やかな中にも凛とした声に教室内の生徒達が高らかに呼応する。教え子達の素直な反応に教師は少し安堵したように微笑み「それでは今日はこれまで」と解散を意味する言葉を口にした。ガタガタガタッ。待ってましたと言わんばかりに立ち上がるクラスメート達の椅子を蹴り、机をずらす起立の音に眼を覚ました少年は、慌てて級友と同じく立ち上がる。
「先生、さようなら! 皆さん、さようなら!」
 お決まりの挨拶を合唱し、深々と(一刻も早く自由になりたい一部の生徒は曖昧に)お辞儀を交わした子供達はキャアキャアと歓声を上げ、一緒に帰ろう、一緒に遊ぼうと声をかけあいながら教室を飛び出して行く中、居眠りをしていた例の少年も体に残る眠気を欠伸に乗せて吐き出して群青色のランドセルをのろのろと背負っていると、仲の良い男子生徒が少年の肩をトントンと叩いた。
「風薙くん、今からグラウンドでドッジボールするんだけどさ。一緒にやらない? 風薙くん、すごく強いからボク達のチームに入って欲しいんだ」
「ドッジボール? うん、やるやる!」
 風薙と呼ばれた少年はドッジボールが好きだった。外野に出ればほぼ的確に敵陣の相手にボールをぶつけ(もちろん、女の子には優しく当てるけど)、内野に入れば、どんなボールを投げられても、それを読んでいたかのように避けてしまうので常に最後まで生き残る。彼が入ったチームは勝率がグッと上がるので、みなが自分を我がチームに我がチームにと奪いあう。純粋にスポーツが好きなのもあったが、この小さな胸が満たされる優越感がたまらなくもあったのだ。
「早く行こう! 場所を取られちゃうよ!」
 愛くるしい顔に笑みを湛えた少年――風薙豹は言うや否や教室を元気に飛び出した。

 太陽がうっすらと衣を紅色に替え、一日が終わる気配を醸し出し始めた頃、グラウンドにどこか哀切漂うクラシック音楽のメロディーとそれに被さる放送委員の上級生のちょっぴり硬い声が轟いた。
「××○学校のみなさん、下校時間が来ました。校舎内、グラウンドに残っている人は、すぐに下校しましょう」
 残響まじりの下校勧告に風薙や他の生徒達は不服そうな顔を浮かべたが、ジャージ姿のおっかない男の体育教師が生徒を学校内から追い出す為に「早く帰れ」とがなり声を引っ提げて校庭をのしのしと歩き回りだしたのを見て、各自唇を尖らせつつも、片隅に積んでいたランドセルの山へと駆け、放置していたそれぞれの鞄を手に取り、背中にしょった。パステルカラーの携帯電話を耳にあて、今から帰る旨を親に伝えている子供もいる。
「風薙くん一人だけヒマワリ門だけど、大丈夫?」
「うん?」
 遊びに誘ってくれた男子生徒の心配そうな声に風薙は大きな眼を瞬かせた。確かに今回の遊び仲間の中では自分一人だけが家への方角がまるで違い、友人たち全員がサクラ門(と言う名の正門)から出るのに対し、自分一人ががヒマワリ門(と言う名の南門)から帰ることになる。だが、今更それが何だと言うのか。今までだって自分だけ仲間と違う門から下校したことが結構あるではないか。
「大丈夫だよ。オレの家までほんの十分ぐらいだし。じゃあバイバイ、また明日!」
 風薙の屈託のない笑顔と明るい声に他の子供達も何だか妙に納得させられてしまい、バイバイと別れの挨拶を大声で叫びながら手を振り合って解散する。ランドセルをガタガタと鳴らしながら少年は所々に赤錆がこびり付いた門から子犬のように飛び出した。
 緩い坂道を駆け下りながら、風薙は友人が持っていたある物が羨ましいなと思っていた。
 あの子、携帯電話持ってるんだ。いいなぁ。オレも欲しいなぁ。よし、帰ったら駄目元でパパやママにおねだりしてみよう! 「もしも、オレが変な人に連れて行かれた時に絶対役に立つから!」なーんて言って! もちろん、これは冗談だけど。

 学校がある市街地と自分の家がある住宅地の隙間に存在する細い畦道を進む風薙の足は自然と速まっていた。車一台が辛うじて通れる幅である未舗装の道の両側に今は誰も使っていない田畑の跡地が広がる以外に何もなかったので、親に「あの田んぼ道を渡る時は気を付けて」と口を酸っぱくして言われて自分の耳には無数のタコが出来ていたし、普段は怖いもの知らずな筈の彼自身も人があまり通らぬこの道を通る際は微かな恐怖心と警戒心に胸が自然とざわめくからだ。
 ここを抜ければ家に帰れる。帰ったら、おやつを食べて、お昼寝して、テレビをみて……。胸に広がる不安を楽しい予定を立てることで無理矢理ごまかしつつ、足音高く駆ける風薙だったが、十メートルほど先の道の真ん中に何かの塊が置いてあるのに気付いた瞬間に足の速度が緩み、やがて止まった。
「?」
 首を小さく傾けて塊に近付く。塊の正体はうずくまった人間だった。塊、もとい人間は動き、土くれに四肢をつけて「あぁ……」だの「どうしよう」だの言いながら、何かを一生懸命探している。見るからに困ったような動きと台詞に風薙は純粋な心を擽られ、ほぼ無意識に声をかけた。
「どうかしたの?」
「え?」
 突如聞こえた幼い声に顔を上げたのは、髪を金色に染めた長身の若い男だった。橙色の夕日に照らされて自分を見下ろす小さな救世主の登場に若い男は相好を崩し、両膝についた土をパンパンと叩き落として立ち上がった。
「いやー、ちょっとこの辺でコンタクト落としちゃってさ。さっきからずっと探してるんだけど、何せコンタクトないと殆ど見えないもんだから困ってて」
 まなじりが緩やかな下り坂を描いている眼を細めて「タハハ」と笑いながら頭を掻く人の良さそうな青年に風薙は素直に同情し、円い瞳をクルクルさせて声を張り上げた。
「オレも探してあげる! オレ、目がいいんだ!」
「オレ? ……ってことはキミ男の子?」
「? そうだけど」
 相手の答えを聞いた男は驚いたように垂れ目を丸くしたが、すぐに元の穏やかな笑みを取り戻して言った。
「ゴメンゴメン。よく見えないんだけど、髪がちょっと長くて可愛らしいのは何となく分かったから、てっきり女の子かと思ってた。……じゃあ、手伝ってくれるかな?」
「うん!」
 返事をするが早いか風薙はその場に両手両膝をつき、目を皿のようにして青年の落し物を探し始めた。
「いやぁ、ありがとう。本当に助かるよ」
 青年が笑顔そのままの声で礼を言い、地面を見詰めつつ少年の後ろに回る。突如、畦道に向けられていた温和な眼が澱み、濁った瞳は少年の後ろ姿を見据えた。最初、少年を少女と勘違いさせた要素の一つである、耳を隠すまでに伸ばしたサラサラした青髪。今は背中を向けているので見えないが、将来の姿が透けて見える端整な面立ち。群青色のランドセルから生える手足は頼りなさを感じるほどに細いが、濃紺のデニム生地のハーフパンツから伸びる脚からは、触れた手が吸い付きそうな瑞々しさを感じる。それは、まだ完全に男と女に分かれる段階までいたっていない無垢な身体。
 夢中になって地面を這う少年を舐めるように凝視する眼を幾度も往復させた男は含み笑いを漏らす。そう、男には少年の姿はハッキリと見えていた。最初からコンタクトレンズなんぞ探していない。殆ど見えないと言うのは虚言であり、そのギラつく眼は矯正せずとも世界の全てが鮮明に見える。
 小さな笑いが零れる歪んだ唇を赤い舌で湿した男は息をすうっと吸った。
 かねてから抱いていたどす黒い願い野望を果たす為に。
「あっ! あーっ!! あった! そこに……キミのすぐ近くにあるから動かないで!!」
「へ? え? どこ? どこどこ!?」
 男の突然の焦り声に驚きつつも、自分が先に見つけてやろうと言う子供ながらの競争心のままに風薙は眼の色を変えて、見える範囲の土を睨み回す。
「すぐそこ、すぐそこだから動かないで!」
 早口で相手の動きを止めながら、男は四つん這いを維持する風薙の背後に近付き、背負われた青い鞄を刺すように見る。ゴクッ。自然と込み上げた生唾を飲み込む男を見下ろすように飛んでいた一羽のカラスが巨大な夕陽の真ん中で甲高く喚く。何も知らぬ幼子に危機を知らせるように。早く逃げなさいと伝えるように。だが、鳥の言葉が分からない少年は警告に気付かず、相変わらず地面に落ちている筈の小さな光をキョトキョトと探し続ける。
 そして、その眼が大きく見開かれた。
「――――!? ん、んむっ!?」
 気が付いた時には唇を大きな手が覆い、身体が持ち上げられ、視界が大きく変わった。
「ん!! んうぅうう!!」
 必死に叫ぶが男の手によって空しく篭り、自分を抱えているらしい男の疾走に身体が揺さぶり、それに合わせて上下左右に激しくぶれる世界に酔ってしまいそうになって、思わず瞼を閉じる。
 その悪夢のような抱っこの時間はどれぐらいだっただろう。男の息が徐々に荒くなってきた頃、自分を運んでいた速度も少しずつ遅くなってやがて止まった、一体、自分の身に何が起こっているのかと風薙が眼を開けようとした刹那、彼の身体はどこかに押し込まれ、荒々しく何かを閉める音と共に瞼越しに感じていた微かな光さえも失われた。
「はぁっ、はぁ……な、何?」
 その時点でようやく男の手から解放されていると気付いた唇を震わせ、閉じたままだった瞼を恐る恐る開くと、そこは狭くて暗くて何となく息苦しい密室だった。この形、狭さ。きっと、ここは車のトランクだ。……え!? 自分が入れられた場所を知って息を呑んだ風薙の耳にエンジンの音が入り込み、細かな震動と嫌なガスの臭いが小さな身体を包む。サッと全身の血の気が引くのを風薙は感じた。
「だ、誰か……! ま、ママ!! パパァ!!」
 ありったけの声で叫び、内側から鉄の扉を拳で叩く少年を嘲笑うかのように車は急発進し、彼の華奢な身体は呆気なくトランクの中を転がる。畦道を数度空回りするタイヤから物騒な高音を立てながら、猛スピードで無人の細道を去る車の唯一の目撃者であるカラスの鳴き声が夕間暮れの空に哀しげに響いた。

 不幸にも、少年は数時間前の担任教師の注意を聞き逃していた。
 ――最近、校区内で子供に声をかける不審な男の人の目撃情報が寄せられています。ですから、下校の時は決して一人にならない。知らない人に声をかけられても絶対についていかない。いいですね?――

「助けて!! 誰か、助けてぇええ!!」
 車が走る間も誰かに気付いてもらうために密室の中で喚き続け、微動だにせぬ扉を頼りない拳で殴り続ける風薙だったが、その裏返った声は運転している男がかけているのであろう、車全体がドムドムと震動でリズムを刻むほどの大音量でかけられた音楽によって掻き消される。痛み始めた右手をさすりながら、風薙は揺れる声でポツリと呟いた。
「誰か……」
 それが呪文であったかのように車が急に止まり、鼓膜を痺れさせていた音楽も消えた。急な静寂に緊張し、身を強張らせる風薙の視線の先で一筋の光が横走った。闇に慣れ、光を忘れかけた瞳に容赦なく突き刺さる夕日の眩さに思わず片目を潰した風薙の頭上で難攻不落の扉が大きく開き、本日最後の力を振り絞る陽の光が一瞬全身を照らすが、即座に逆光で顔が余り窺えぬ男の影が覆い被さる。
「おい、出ろ」
 聞こえてきた声は先程の青年のそれと同じようだが口調は別人のように乱暴だったので、本当にさっきの優しそうな人なのだろうかと呆然とする少年にチッと苛立たしげな舌打ちが聞こえてきた。
「サッサと出ろ!手ぇ煩わせんじゃねぇ!!」
「きゃっ!!」
 伸びて来た手が風薙のシャツの襟を鷲掴みにし、狭いトランクから荒々しく引き摺り出される。外に出されると同時に頬を撫でた風から漂った磯の香りや一定のリズムで何処かの壁にぶつかり砕ける波の音から、海の近くに連れてこられたのだと悟ったが、詳しい場所や状況を確認する余裕は微塵もなかった。
「ふぎゅっ……ううむぅ!!」
 とにかく大声を出さなければと思った時には男の手によって開きかけていた口を押さえつけられていた。うーうーと篭った叫びを漏らしてもがく風薙の身体を軽々と抱え上げた男は少し古ぼけた建物へとまっすぐ向かい、分厚い鉄の扉を重たそうな音を立てて横へずらす。殺風景な空間が扉の奥から垣間見えた。
「オラ、入れ!」
「ひっ……!」
 建物の中に雑に放り投げられ、コンクリートの床に身体をぶつけた風薙がうっすらと目に涙を滲ませながら何とか起き上がろうとしていると、背後で件の扉がガシャン……と音を立てた。ハッと振り向いた時には男は太い鎖がついた錠をガチャガチャとかけていて、窓から差し込む紅い光で輝く鍵をポケットに入れつつ向き直る。傍らの壁に貼りついた数個のスイッチを、こちらを向いたままの男の指がパチパチと爪弾くと、まだ自然光で明るい建物内に人工の光が走った。
「ここは俺の親父が経営している会社の倉庫だよ。ま、今は使ってないから俺が好き勝手させてもらってんだけどな」
 ニッと歯を見せて笑う男の瞳に宿る恐ろしい何かに肩を震わせながら、風薙は横座りのままキョロキョロと辺りを見回した。そこは無駄に広く、寒々しい雰囲気ではあったが、高い所に規則的に並んだ大きな窓からは幼い少年を何とか元気づけようとしているかのように夕陽が黄金色の手を差し伸べていたし、男が使っているのであろうソファーにテーブル、テレビに冷蔵庫と言ったちょっとした生活には困らぬ程度の家具もあった。それを見た風薙は、自分の学校の体育館を小さくして人が住めるようにしたらこんな感じになるのかな、と思った。
「……っ!」
 風薙が青褪めていた顔の色を微かな赤に変えてふいとそっぽを向いたのは、長椅子やテーブルの上に乱雑に散らばっていた開きっ放しの雑誌やDVDのパッケージに一糸纏わぬ若い女性が苦しげな、でもどこか悩ましげな顔でこっちを見ている写真があったから。綺麗なお姉さんの裸に興味がないわけではないのだが、見てはいけないものを見てしまった気持ちの方が勝り、反射的に目を閉じる風薙の小さな胸がトクトクと脈打つ。余りにも初々しい反応に男は満足気に微笑み、明後日の方向を向いたままの少年の目には入っていないテーブルの上に置いてある茶色い小瓶の蓋をねじ開けて中身を一息に煽った。空き瓶が床に放り投げられると、少年が大嫌いな風邪薬のシロップにも、少年の父親が時々「仕事がたまってて」とボヤきながら飲んでいるドリンク剤にも似た匂いが青年と少年の間に広がった。
「お前、その鞄下ろせよ。重たいだろ?」
「……う、うん」
 確かに少しでも身軽になった方がいざと言う時に素早く走って逃げられる。彼なりの計算を働かせて青い鞄をぎこちなく肩から下ろした風薙は硬い床に転がる空瓶のラベルに何気なく目をやった。何か、書いてる。読めない漢字ばかりだけど、何て読むんだろ。なんとか、力、なんとか、強……
 謎のラベルの解読に集中していた風薙は気が付かなかった。座りっぱなしの自分の背中を見る男の眼光の色が異常になってきたことを。不気味な笑みを崩さぬ顔が赤らんできたことを。荒く吐きだす息の温度が上がってきたことを。風薙が完全に読めなかったあの小瓶のラベルに書かれた漢字――「精力増強」の効果がある薬が男の全身を一気に駆け巡り、欲望まみれの黒い魂をより強く醜く歪めつつあることを。
 そして、悪魔の腕が伸び、長い指が少年の細い肩に食い込んだ。