日本海軍陸上爆撃機 「銀河」
   
      日本海軍陸上爆撃機「銀河」

  昭和15年、日本海軍は直属の航空技術研究機関、通称「空技廠」に新型陸上爆撃機の開発を指示しました。その当時は96式陸上攻撃機が主流、次期主力爆撃機の「1式陸攻」がテスト飛行を繰り返していた頃でしたが、ヨーロッパでは既に第2次世界大戦が始まっており、国際情勢の悪化を軽視する人間はいなかったからです。

 空技廠では独自に日本の航空技術の限界に挑む記録機が企画され、「航続距離」「最高速度」「高高度飛行」のジャンルがありました。空技廠は爆撃機に最も必要である「航続距離」を重視した実験機を下地に新型機開発に乗り出しました。

 海軍が要求条件として提案したのは以下の通りでした。

  ・最高速度は零式艦上戦闘機と同等
  ・航続距離は現在開発中の「1式陸攻」と同等
  ・雷撃可能で、最大1トンまでの爆弾で急降下爆撃もこなせること

 この設計には多くの矛盾を内包するものでした。例えば航続距離を立てれば、機体はどうしても大型化してしまい、速度が出しにくくなったり、急降下爆撃可能な主翼構造では戦闘機並みの高速は出せないなど技術者が頭を抱える難しいものになっていました。
 この難題に設計主務、山名正夫技師は要求条件を全て満たすため、以下の手法で設計に取り掛かりました。


 ・高速を発揮できるように徹底した重量削減、搭乗員の定数を3人とし、防御火器も必要最低限に留める。
 ・エンジンは開発中の小型高出力エンジン「誉」を採用
 ・艦上爆撃機「彗星」開発で得られた主翼構造や急降下制動板(ダイブブレーキ)の技術をフィードバックする 
 ・機体や主翼はできるだけスリムな設計をして、高速を出せるようにする

 全ての条件が整えば、零戦並みの高速が出せる夢の長距離高速爆撃機として完成するはずでした。


 海軍からの過酷な要求を達成できたのは昭和17年夏のことでした。テスト飛行の結果、速度・運動性は無論次期主力爆撃機としての性能を軍関係者に見せ付け「銀河」という名称で制式採用されました。しかし、精密に作られた銀河は民間工場で生産する場面で大きな問題を抱えることになりました。民間工場の工作精度では銀河の生産ができず、作ったとしても額面どおりの高性能は出せないのです。このため、量産に向くように設計の変更を度々繰り返しているうちに生産ラインに乗り出したのは敗色濃厚となった昭和19年になっていました。しかし、生産に向くよう量産用の設計変更をしても大量生産に向かないことは大きな泣き所でした。

 
 運用していた現場では工作不良起因のエンジントラブルが多く、整備員泣かせの機体でしたが前機種の一式陸攻をはるかに凌ぐ高速と汎用性は様々な作戦を可能にしました。この当時はサイパン、フィリピン方面の激戦が繰り広げられ、従来の鈍足の双発爆撃機では生還できない強襲や強行偵察に運用されました。ただしこの当時はパイロットの錬度は大きく落ちており、離着陸時に最前部の偵察員席をぶつける事故が多発することから銀河は「偵察員殺し」「後家作り」などという有難くないあだ名をつけられる始末でした。

 一部の部隊では急降下爆撃で空母「フランクリン」に廃艦寸前の大ダメージを与えたり、夜間戦闘機に改造された機体(通称「極光」)がB-29相手に奮戦した記録が残されています。
 
 戦争末期、搭載エンジンの誉の故障が多く、稼動率の低下に拍車をかけ、搭乗員や整備員にとって大きな負担となりましたが、一式陸上攻撃機に代わる主力爆撃機として終戦まで戦い続け、最終的に約1,100機の銀河が生産されました。

 戦後、銀河設計陣の一人であった三木忠直は、初代新幹線の開発に銀河の胴体形態をデザインとして流用しました。戦争中、日米両軍の尊い命を奪った兵器であった銀河は戦後、「0系新幹線」という新しい形で生まれ変わりました。ご存知の通り、新幹線は日本が復興し、高度経済成長を遂げるのに大きく貢献してきました。

 なお、アメリカ軍により戦後接収された銀河は1機だけスミソニアン博物館に分解保存されています。


性能諸元     

 全長; 15.00m
 全幅;  20.00m
 全高;  4.30m
 正規全備重量; 10500kg
 エンジン; 中島「誉」一二型空冷複列星形18気筒 公称1,670馬力×2基
 最大速度; 546km/h (高度5900m)
  武装;  
13mm機銃×2 20mm機銃×1      
  爆装;  800kg航空魚雷×1、 800kg爆弾×1または500kg爆弾×2など



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