陸軍四式戦闘機 キー84   「疾風」   

         軍四式戦闘機 キ-84 「疾風」

 陸軍4式戦闘機「疾風」は中島飛行機が最後に送り出した高速重戦闘機です。昭和16年12月、陸軍より二式単戦(後の「鍾馗」)の後継機開発の指示がなされました。要求は厳しいもので12.7mm機銃2挺、20mm機関砲2門を装備し、最大速度は時速680km以上であり、防空・制空・襲撃などあらゆる場面に使用できる万能戦闘機の開発でした。


 この厳しい要求に対し、中島飛行機は最強の2000馬力エンジン「ハ-45」をエンジンに採用し、以前に設計された「」「鍾馗」を踏襲した機体設計を行いました。重武装に加え、疾風は防弾装備を重視した戦闘機でもありました。これまでの戦闘機は7.7mm機銃ならば耐えることができても、アメリカ全軍で標準化されていた12.7mm機銃には無防備も同然でした。
 機体が破壊されて墜死するよりも、エンジンが被弾→火災によってパイロットが焼死するというパターンが多かったのです。(日本海軍では零戦の防弾装備について軍とメーカーの会議で源田実大佐が必要ないと言い切ったため、防弾はさらに後手に回ってしまい多くのパイロットが命を落とした)

また生産性にも配慮しており、「隼」と比較すると、2/3程度の期間で製作できたと言われています。戦時下にも関わらず、昭和18年3月には試作1号機が完成しました。開発を順調に進めるため、試作機は100機程製作されたというエピソードが残されています。
 試験飛行は順調に進み、昭和19年4月制式採用に至りました。制式採用後、疾風は生産最優先機種に指定され量産された機体は昭和19年の晩夏からフィリピンに配備され、台湾、沖縄そして本土防空戦に活躍しました。

 期待された最新鋭機「疾風」でありましたが、新型エンジン「ハ-45」はハイオクガソリンの使用を前提としたデリケートなエンジンである上に、疾風に採用されていたプロペラは新機構であったため、動力系統のトラブルが多発しました。

 しかし、整備の基本である予備部品の確保とメーカー推奨の使用条件さえ遵守していれば、本土より遠く離れた劣悪な環境のフィリピンでも稼働率は高かったという記録も残されています。


 隼、鍾馗、飛燕に慣れきった連合国空軍を震撼させる疾風の活躍は一時、悪化した戦局を巻き返せるものと大いに期待されましたが、工業力の相違からやがては良質なガソリンと資材、そして行き届いた整備の施された連合国空軍機にまたも押されていきました。

 大戦末期には、工業水準のさらなる低下に伴い稼働率は落ち、カタログデータを出せる機体はほとんどありませんでした。それでも尚疾風をベースとした開発は地道に続けられ、排気タービンを搭載したものから、木製の疾風までさまざまなバージョンが考えられました。

 終戦後、疾風開発スタッフにとって名誉な出来事が起きます。それはアメリカの技術調査の到来でした。並み居る日本機のなかでも疾風は特に注目され、アメリカ本土での試験飛行の際、オクタン価140の航空燃料と最高級の点火プラグを使用したところ中島飛行機の技術陣も想像し得なかった最高速度687km/hを記録し日本の最高傑作機としての評価を得ました。

 余談となりますが、「疾風」という名前は新聞の公募で選ばれたものと伝えられています。確かに結果として実用化された日本最速の戦闘機でした。


 

 さて、アメリカによる疾風の飛行試験に使用されたアメリカ製の最高級点火プラグですが、実はこのプラグのメーカーは「チャンピオン」と言われています。当時は世界を轟かした「チャンピオン」も現在ではNGKか日本デンソー(両方とも日本メーカー)の前には見る影もありません。もしもこのテストで現代のNGKのプラグを使ったらどうなるのでしょう?

 


性能諸元  (キー84)     アメリカ軍調査データより

 全長; 11.30m
 全幅; 9.70m
 全高; 3.40m

 正規全備重量; 3600kg
 エンジン; ハ-45-21 (公称出力 2040HP)
 最大速度; 680km/h (オクタン価140の航空燃料使用時)
 武装; 20o機関砲×2
     12.7mm機銃×2                     

(ただし、武装解除した状態)




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