陸軍三式戦闘機 キ-61「飛燕」   

         陸軍三式戦闘機 キ-61「飛燕」

 第二次大戦中、戦闘機には二つのタイプが存在しました。運動性を重視した軽戦闘機と高速・重武装を施し、一撃離脱戦法を重視した重戦闘機です。日本で例を挙げると、零戦は前者、震電・紫電改は後者に当たります。1940年、陸軍は川崎に対してこの軽戦闘機タイプ(後の飛燕)と重戦闘機タイプ(試作機キ-60)の開発を命じました。

 
       試作機 キ60(重戦タイプ)                    キ61(後の「飛燕」)

 設計コンセプトは「軽戦闘機よりは運動性が落ちるものの、重戦闘機の装備を持ち諸外国のいかなる戦闘機にも勝利することができる」とされ、社内では「中戦」と呼ばれていました。エンジンは空気抵抗軽減のために前面面積が小さな水冷式エンジン(メッサーシュミットBf109で採用されていたDB601をライセンス生産したもの)が選ばれました。
 重戦タイプのキ-60が先に完成し、陸軍の審査を受けましたが、旋回などの運動性で不具合が指摘されこちらは不採用となりました。一方、遅れて完成したキ-61はキ-60をベースに発展して開発されたこと、最大速度591km/hを記録するなど総合性能で勝っていたため、キ-61のみが制式採用されました。


 設計コンセプトを証明するかの如く、昭和18年以降、南方戦線に配備された飛燕は連合国空軍の新型機とも互角に渡り合える優秀機とされました。しかし、エンジンが複雑なためトラブルが多く前線の整備員泣かせな機体でもありました。整備員の技量が未熟であったこともありましたが、工作精度が低いことやエンジンの部品の材質を下げたことはエンジンの性能低下に拍車をかけました。


 しかし、エンジンが快調であれば、大戦末期では手も足も出なくなったP-51F6Fとも対等に戦うことが出来ました。また大戦末期の本土防空線では装甲や武装を撤去すれば1万メートルまで上昇することが可能で「震天制空隊」とよばれた空対空特攻隊が編成されました。(そこまで上昇できるパイロットは貴重な存在であったので脱出して生還することが求められた)

 機体設計そのものが優秀であったにも関わらず海軍艦上爆撃機「彗星」と同じく、液冷エンジンの生産遅延と稼働率に悩まされ続け、遂には水冷エンジンを空冷エンジンに換装した改造型が登場します。
 その機体は五式戦と呼ばれ最大速度は落ちたものの稼働率が高く、飛燕譲りの運動性はそのまま受け継がれました。日本機でも屈指の急降下性能を持っており、ダイブして逃げようとする米軍機の後を追うことも得意であったと伝えられています。連合国空軍に新型機登場とショックを与えましたが、昭和20年春の登場は戦局挽回にはあまりに遅すぎました。

 設計部長を務めた故土井武夫氏は戦後、日本初の旅客機YS-11の設計にも携わっています。プロジェクトXでも紹介されていますので一度レンタルビデオで借りてはいかがでしょうか。日本の航空技術者たちがいかにすばらしかったかを認識できると思います。

 


性能諸元 (キ61U 改)

 全長; 9.15m
 全幅; 12.00m
 全高; 3.75m
 正規全備重量; 2855kg
 エンジン; 「ハ140」 (公称出力 1250HP)
 最大速度; 610km/h 
 航続距離; 1600km 
 武装; 20o機関砲(ホ5)×2
     12.7mm機銃(ホ103)×2
      爆弾 30〜250kg×2
             



                             TOPページへ戻る 

            
航空機講座過去ログ1  航空機講座過去ログ2  航空機講座過去ログ3  航空機講座過去ログ4