■□ noir(4) □■   − 聖人 −
ロクス、レイラ
           5   ……
アンケート(別窓):   見てみたいアルベリックの結末は?


「これでもう大丈夫でしょう。」

 穏やかな男の声が掘っ立て小屋の中から聞こえる。
その声が終わるよりも早くいくつもの安堵のため息がその場に満たされ、直後皆一様に声の主を、いくつもあしらわれ重厚に輝きを放つ金十字を崇め奉る。
「僕は神の啓示に導かれてここへ赴いただけ、こうしてあなた方を癒すのも務めのひとつ、いわば義務です。
 あなた方の布施という慈悲で生きている僧侶なのですから、そのように頭を下げられると困ってしまいます。」
 波打つ短めの銀の髪と穏やかで優しげな紫の眼差し、そして耳に心地よく響く慈悲深い言葉が窮地に立たされた弱き者たちに深く、深く染み渡る。
 白い法衣と、それに重ねたいかにも高貴な紫の上着がよく似合うすらりと背の高い美青年は、昼前に壊れそうな小屋の扉をそっと開けて姿を現した。それからずっと昼下がりを過ぎ夕方に近くなった今まで、ひたすらに粗末な小屋で治療と奉仕に勤しむその姿は、いかにも聖人の見本のよう、なのだ・け・ど……聖人を見守る修道女、いや修道女に身をやつした天使シルマリルの愛らしいはずの瞳は醒め切っていた。
「ありがとうございます、助かりました。
 同胞として、いえ私たちの危機を知り危険を顧みず駆けつけてくれたあなたの勇気に感謝します。」
 天使の勇者と言うだけで己には何の利ももたらさぬだろう聖人の慈悲に感謝しきり、騎士の肩書きがふさわしいレイラは深々と頭を下げて同胞に感謝の意を表す。
「勇気とは、自らの危険も同胞を傷つける心痛も省みず剣を持たない人々を救った貴女のためにある言葉です。
 そのような美しく強い貴女の力になれて僕は幸せですよ。」
 感謝のあまりに言葉をなくす村人たちに代わり感謝の言葉を述べるレイラはいつもの彼女が礼儀を尽くしているだけで違和感はないのだけれど、彼女の感謝に応える言葉はシルマリルにとって「歯が浮きそう」。珍しいことに思っていることがありありと顔に出ている自分をわかっているのだろう、この場にいる人すべてが若く美しい聖人に感謝している中、人間でないシルマリルだけが顔を背けたままであきれ果てていた。
「それでは、僕は表でシスターと今後の話をします。
 しばらくふたりきりで話をさせてください。」
 温厚極まりない穏やかな声に、今の今まであきれ果てていたシルマリルが一瞬で凍りついた。
シルマリルは彼らの使役者、彼女しか知りえぬ現実をたくさん抱えていて、呼び寄せた聖人はそれが顕著だったりするから――――しかし、彼女が次の動作に移るより早く、聖人の長い腕が彼女の二の腕を掴み微笑みながらぐいと引っ張りそれをごまかせるほどに穏やかな笑みを湛えて、今も拝み続ける村人たちに、言い訳に聞こえない言い訳を口にした。
「僕は個人的に忍びで来ている身ですので、ひとりではできないこともたくさんありますから。」
 と、聖人は穏やかに語りながら、青ざめるシルマリルを文字通りの力ずくで、抵抗を許さずに引きずってゆく。
その声は微笑んでいても目の奥、紫の瞳は恐らく、いやたぶん、きっと笑っていないことを、シルマリルは嫌というほど知っている。


「ったくどう言うことだ、君はもしかして神は神でも貧乏神の娘なんじゃないのか?」


 表に出ての第一声は、まるで別人のようだった。
「君の行く先には楽しげな催しがよく転がっていることで。
 しかしいい加減にして欲しいよ、国境越えて戦場まで助けに来いなんて僧侶の僕によく言えたな。」
 その声はあの聖人の声のはずなのだけれど、微笑みの聖人はシルマリルを力ずくで表に引きずり出すとやおら皮肉を挨拶がわりに叩きつけた。先ほどまでの、まるで聖句を読み上げているかのような言葉を噛み締める物言いはどこへ失せたのか、同じ聖人が立て板に水、いや夕立の勢いでまくし立ててシルマリルに反論の余地も隙も与えない。
「そ、それはもしかして私が事件を引き寄せるといいたいのですか」
 それでも何とか隙を見つけてシルマリルが反論を試みるんだけど、どうやら彼はずいぶん、天使様を凌駕するくらいに口が達者らしい。シルマリルが言い終わるかどうかで語尾に声をかぶせて、小柄な彼女の上から言葉の雨を降らせ続ける。
「もしかしてじゃなくそう言ってるんだよ。ああでも少し安心したよ、皮肉は伝わっちゃいるんだな。」
「あなたの普段を知ってますから」
「じゃあ僕の性格すらも利用して命令したわけだ。可愛い顔して計算高くて憎たらしいったらありゃしない。」
「め、命令なんてそんな」
「無償で動かされるなんて僕に取っちゃ命令なんだよ。」
「ロクスそんなひどいっ」
「ひどいのはどっちだ。
 まあ国境越えがどんなに大変だったかなんて翼でお空をひとっ飛び!の天使様にはわからないんでしょうけど。」
「ごごごごめんなさいそれで私はあなたに何をすればっ」
「……もういいよ。正論吐いてるはずのこっちが悪者になりそうな仕草で逃げやがって。」
 ひとしきりずいぶん一方的な攻防戦を繰り広げたけど、彼はそれにも飽きたのかずいぶん勝手な物言いを口にして一方的に切り上げた。あの穏やかな慈悲深い青年僧侶と同じ人物のはずなのに、同じ姿のままでひとりの青年、いやひとりのろくでなしの顔で、天使のはずのシルマリルをすっかり萎縮させてしまった。
天使シルマリルは神のみ使い、そのはずなのに、人の姿を借りれば慈悲深く物静かな修道女に化け、今はまるで気の弱い少女のような様子を見せている。
 彼が、天使シルマリルがこの窮地を救えると判断した、彼女の頼れる助力者・ロクス=ラス=フロレス。
7人選ばれた天使の勇者のひとりで、触れただけで他者を癒す「癒しの手」という神の奇跡を持って生まれた。
その力ゆえに何不自由ない境遇を与えられ、引き換えに将来の選択権をすべて奪われた青年。
複雑な境遇から性格は歪み、美麗なる聖職者と女たらしの博打好きという二つの顔を使い分けているろくでなし。
今は信仰の対象でもある天使シルマリルの元でおとなしくしているけれど、その態度は敬い拝むべき天使に対するそれではない。
「とにかく、彼らが村に戻ることは諦めた方がいいぞ。
 ギルドは動きそうにないみたいだから、不本意だろうけど村を捨てて難民になった方が生き延びられる。」
 だが、彼はただの根性悪の遊び人ではない。
やはり気弱な天使様をちくちくいじめるのにも飽きてしまっていたらしい、彼は皮肉さをあっさりと表情から消してずいぶん冷静な分析と推測をシルマリルに切り出した。困難な道行の中で読み取れることは読み取っていたらしく、怯えきっていた村人たちには安堵をもたらす微笑だけを向けていたけれど、ここから動けず状況をつかめていないシルマリルには彼女の欲しがっていた情報をもたらす。
「でも、難民になってもどこが受け入れるというのですか?」
「南には確かに泣く子も黙る騎士団がのさばっているが、北――――国境向こうの帝国本土なら領主次第で保護されるかもしれない。
 あとは東の国境を越えれば教国だ、教皇庁圏が難民を受け入れずに戦場に追い返すわけには行かないからな。
 火種を抱えたくはないってのが本音だけど、宗教がどうのこうのより大事なものはあるもんだ。
 まあ何とかなるさ。」
「ではロクスっ」
「買いかぶるなよ。確かに僕は教皇候補だけど、おいたが過ぎて聖都を追い出されたことは君だって知ってるだろ。
 今の僕にそこまでの権限もないし、あったとしても僕の悪い癖を知る連中が聞く耳持ってると思うか?」
「……確かに」
「そこは否定しろ。」
 そのやり取りは独特の間があって軽妙で、アルベリックとヴァイパーのそれにどこか似ている。
しかし当事者たちが気づこうはずもない。
二つの顔を持つ聖人、教皇候補ロクスは手近な立ち木に背を預けて腕を組み、シルマリルから目を離さずに不思議な距離感のやり取りをさらに続ける。
「けど、騎士団に見つかってよく無事でいられたな。侵略先での虐殺と強姦は連中の十八番だろうに。」
 しかし、この男は不思議なことにシルマリルの前では表情の変化が激しくすらある。
まるで親密度で態度を変えているかのような器用さで、そういうことならばシルマリルはずいぶん信頼されていることになるのだろう。
一面識もなかった村人とレイラを前にしている時は文字通りの「微笑みの聖人」だったけれど、シルマリルだけになるとただの青年でしかない。そして今度の表情は「心配」、天使様が知らない世の中の汚れた部分をよく知っている男は、遠慮も何もなく、彼女の顔を見るまでずっと抱え続けていた心配事を彼女にぶつけた。
「え?」
「よく強姦されなかったなって言ってるんだよ。君の器量なら男は目の色変えるだろ。
 まあ腐っても天使様だし被害にあうとは思わないけど、無鉄砲もほどほどにしとけよ。
 僕がいつも一緒にいるわけじゃないんだし、君の話を真に受ければこの世界のどこにも安全な場所なんてないってことだからな。」
「えっと、えっと」
「……どっかの誰かさんなら今の様子だけでめろめろにされちまってるだろうが、僕にその趣味はないって言ってるだろ。
 ああ僕も幸運なんだか運が悪いのか。絶世の美女の下僕になっても、美女ってよりガキじゃなあ。」
 汚れた人界の汚らしい話を理解するにはシルマリルは純粋すぎて、聖人のくせに汚れているロクスは多くの善男善女が目をそらしたがる現実をあえて直視している。神々しい天使が慈悲深い修道女に、そして彼とふたりになったら気の弱い少女、シルマリルの変化はそれで止まらなくて子どもにまで幼くなってしまった。
ロクスの言葉は世の中を知らない子どもを怖がらせて教え込むのと同じ、恐怖を突きつけ「論より証拠」と危機感を深く植えつけた。
 天使すらも舌先三寸で躍らせる男は遊び好き故に表に出ない話も知っていて、同時にいずれ国を背負わされる教皇候補の肩書きは張りぼてではなく、常に動き続けとどまらぬ世情にも当然通じている。それに軽口を紛れ込ませても気づかぬ者も多く、シルマリルもその口か、彼の最後の台詞は耳に入らなかった様子で、与えられた情報量の多さに混乱し泡食って固まってしまった。
 だが、そんな彼女を置き去りにする勢いで、ロクスはさらに先を急ぐ。
追い詰められてまわりが見えなくなった連中と彼は違う、いずれ登らされる立場ゆえに高みから俯瞰することをその身に叩き込まれている。それは彼の中に根強く残り、無意識の内に多くの物事が見えたりして、下手に洞察力も判断力もあったせいでひねくれて今に至っている。
「とにかく、君が人前に姿を現すと男は確実に振り向くと思えよ。
 自意識過剰も見てて痛々しいけど、自覚がないのはただのバカだ。」
「……私がバカだと言いたいのですか?」
「今はな。いや、バカと言うより世間知らず、かな……どっちにしても、どうしようもないあたりまで追い込まれないためにも、君は人間より高い位置にいる存在なんだって自覚だけしといてくれ。
 身近な君は気取らなくてありがたいけど、守る側に立たされる男は結構大変なんだ。」
 容赦ない物言いの青年にまくし立てられ反論できなくて、シルマリルが珍しいふくれっ面なんかを見せるけれど、彼女は不意になにやら思い出した風にふくれっ面を消して顔を上げた。
「あのロクス、アルベリック……侵略者の旗頭について何か知っていますか?」
 その名を聞かされ、ロクスはシルマリルから目をそらし顎に指を当てながら思案に沈む風を見せる。
「親の七光り。」
 そして返ってきた最初の言葉は、驚くほど短く端的でわかりやすすぎて、シルマリルの頭の中にはすぐに飛び込んでこなかった。
「え?」
「それ以外に特に語るほどの売りもない男だって聞いてる。
 ああ、前の騎士団長を決闘の名目で殺して今の立場に収まったってことだから剣の腕は悪くないと思うが、まあそれだけみたいだな。
 何か特技があるならこのご時世だ、噂にもなるけど、そいつに限ってはそんなの聞いたこともない。
 僕のことをろくでなしの女たらしで借金王なんて言うのと一緒さ、騎士団長の場合はそれが親の七光りって言うだけ。」
「耳に入っているのなら善処すればいいのに……」
「余計なことは言うな。いちいちひと言多いんだよ。
 ただ、騎士団長とやらは自分の評判を耳に入れてすらいないみたいだな。……ある意味哀れな男だ。」
 その言葉は噂のアルベリックに向けてか、それとも自分自身に向けたのか。ロクスがシルマリルから目をそらして長い睫を伏せ深いため息を吐いた。
彼の立場を知るシルマリルも「余計なひと言」は口にせず、少し悲しげな眼差しでロクスを見るけど、口に出しては何も言わない。
同情も同調もロクスは欲していないことを、シルマリルは知っている。
アルベリックに関してはシルマリルも多少の知識はあるけれど、それもこれもすべて彼を蛇蝎のごとく嫌っているレイラから聞いた話で、シルマリルの性格ではすべてを鵜呑みにはどうしても出来なかった。
レイラを信用していないなどと言う話ではなくて、そう、ロクスとヴァイパーの関係と同じ、一方的に相手を嫌っている人物から、嫌いな人間に対しての正当な評価は得られようはずなどない。
シルマリルは特に利害関係でもなさそうなロクスに話を聞いたけれど、アルベリックに関しては彼もレイラと同じような認識だった。
「とにかく、明日までは手助けをするけど、それ以上長居はしない方がいい。
 今すぐ動けるんだったら今逃げるよう勧めるけど、それはまだ無理みたいだからな。でも僕の治療は魔導と同じで短い時間で効き目が出るから、明日には動けるようになってると思う。
 できることなら夜明け前の暗いうちに逃げた方がいいけど……」
 それ以上アルベリックについて知ることはないらしい、ロクスは話を変えて、緊張感漂う表情でシルマリルに現実を突きつける。けれど彼はシルマリルに現実を突きつけた直後、申し訳なさそうに眉根を寄せつつ、ごまかすみたいな打ち消すみたいな中途半端な笑顔を浮かべた。
「……たいしたこと出来なくてごめん。
 でも、僕の個人的な感情で動くと、関係ない人たちを巻き込んでしまうことになるから許してくれ。」
 国を背負う者ならではの苦悩、束縛。ロクスは一介の僧侶ではなく、彼にはその身に常にエクレシア教国を乗せられている。彼の軽率な振る舞い、いや何気ないひと言でもこの世情なら火種になりそれで苦しむのは多くの力なき民だから、ロクスが感情を抑えて慎重に出るのはある意味当然だった。
「いいえ、助かりました。
 許されているのなら私の力で治癒も出来ますけど、できる限り干渉しないようにと戒められていますので……」
「そりゃそうだ。子どもが転んだからって大騒ぎして何でもかんでもやりたがる親なんてろくなもんじゃない。
 だからあんまり気に病むなよ、シルマリル。」
 そんな彼の立場を、シルマリルも重々理解している。
頼みを聞いて駆けつけてくれただけで充分感謝に値することを彼女は知っている。
その振る舞いの割に善人の感覚を持っているロクスは、彼が自分をあざ笑うほど愚かでもろくでなしでもないことをシルマリルは知っていて、そしてロクスも頼られる自分と言うものは嫌いではない。
「一緒に行ってやるどころかこれ以上のことは出来ないけど、……シルマリル、気をつけろよ。
 君の行く先には厄介ごとが転がってるみたいだからな。」
 だが、助けてやれぬ以上、釘を刺すぐらいしか出来ない。ロクスはそう念を押すとそれっきり押し黙ってしまい、しかしなにやら言いたげな眼差しは隠し切れない。
そんな彼の前では、シルマリルは彼が警戒しているヴァイパーに窮地を助けられたことを切り出せなかった。

           5   ……
アンケート(別窓):   見てみたいアルベリックの結末は?

2009/04/16