■□ 協奏曲 □■
×ロクス他 ED後
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4(成人向け)
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(軽い描写あり)
何から話せばいいのかわからない。
ロクスは久しぶりに副教皇と相対して、狭い個室で差し向かいの位置に座ったけれど、すぐには何も言えなかった。どこから始めればいいのか、天使シルマリルと過ごした2年近くの時間は濃密で、その中で自分のこれからの生についてまで考えるようになった。
しかし、考えることから、現実から逃げ続けたロクスは、表し方がわからなくて叱られた直後の子どものように黙り込むばかり。大人びているのは外見だけ、ロクスという男は優美な外見で成長しきれず歪んだままの自分を隠し守っていた。
「…それにしても……。」
何から話せばいいのかという話では副教皇も似たようなものだったらしいけれど、彼はさしあたってすぐにわかったロクスの変化を最初の話題に選んだ。
「あれだけ不実な遊びに耽ったお前が、顔に傷をつけたまま戻って来るとは思わなかったぞ。
お前の天使に、傷を消してくれるよう請わなかったのか?」
「ど…どうしてそれを……?」
天使の話を出されたロクスが思わず顔を上げて絶句する。
顔が自慢だったロクスの振る舞いを知らないほど凡庸な男では、副教皇などという要職、しかも教皇不在・事実上の首領という重責を背負いきれるはずもない。一番わかりやすいロクスの変化の向こうの話までも見事見抜いた言葉と、己をはじめとするごくわずかな人間だけにしか見えない、事実上自分が独占していた天使にまで話が及び、ロクスは驚きのあまり問いかけを最後まで口にできないまま、少し乾いた唇を半開きのまま目の前の老人を見た。
シルマリルはロクスのような彼女の勇者には当たり前に見えるけれど、多くの者には姿が見えない。まれに何かしらの力を持つ者や、ヴァイパーをはじめとする同じく天使に魅入られた者には見えるけれど…副教皇ともなればシルマリルの姿を見ることができても不思議な話ではないけれど、果たしてその機会があったのだろうか?
「聖都陥落の折に、美しい少女の姿の天使に川向こうのレーンディアにて拝謁した際にな…天使様がお前の古い十字を腰に下げておられた。
お前の天使様は、あの愛らしい方なのであろう? 幼げに見せておられたが、あの方のお導きがあってレーンディア側の人的被害は皆無だった。」
ロクスの疑問に答えるような絶妙のタイミングで言葉を続けた副教皇の声に、ロクスは当時のことを鮮明に思い出していた。あの時ほどシルマリルがいたことに救われた時間はなかったロクスだけど、それはロクスに限った話ではなかったらしい。
そう、幼げに見せているけれど、シルマリルは大天使ラファエル直属の天使。彼女の祈りが見せた奇跡の数々を、ロクスは何度も目の当たりにしている。…機会があったのだったら、副教皇が奇跡の発露に立ち会ったことも不思議ではない。
シルマリルは幼かろうと紛れもない伝説の中の存在で、彼女が祈ればそれは奇跡となり矮小なる人の目には疑いようもない現実を描き出す。
副教皇は、奇跡を目の当たりに見た。いや、彼女の存在そのものが神がもたらしたもうた奇跡。
幼く美しい天使を遣わせ、弱き者どもを導き災厄から遠ざけた。
「…はい。シルマリルといいます。」
信心深いものならば、それで信じるには充分すぎる。猜疑心の塊だったロクスだから天使シルマリルはまるで少女のような素顔も見せていたけれど、この老人の言葉が普通なのだとロクスは顔に出さずに感じていた。
「かつて始祖エリアスが同じように天竜と堕天使を退けた際には、力ある高位の天使と他に二名の勇者とともに立ち向かったとある。幼き天使と未熟なお前、そしてその同志がどのようにして奴等を打ち払ったのか、落ち着いたら語ってくれまいか。」
「…シルマリルと僕と…途中天使長ミカエルと大天使ラファエルの助力はありましたが、ふたりで向かいました。」
もう、何も隠すまい。ありのままを語ろう。それで信じてもらえぬのならそれも致し方ない。これから語る伝承の一説のごとき物語がすべて事実であることは、ロクスだけではなく大天使ラファエルが、天使長ミカエルが、そして愛しい天使シルマリルが知っている。
…今の彼は、それで充分。愛する唯一の女性が信じてくれているだけでよかった。
「なんだと?」
「僕が彼女にそう望んだのです。誰も間に入れないでほしい、と…僕が倒れ世界の終わりが来るのならば、僕は彼女とそれを迎えたい、他の誰も要らない、そう…頼みました。
そして彼女はそれにうなずいてくれた。」
「まさか…まさか、お前は………!」
「…シルマリルを、愛しています。」
絞り出すような声でそれだけ言うと、ロクスはそばにシルマリルがいない現実に押しつぶされそうな不安を押し殺して目を伏せた。
「彼女はあの戦いの後、僕と生きるために今翼を返しに天界へと戻っています。
まだ戻らないところを見ると、他の方に言わせれば僕は捨てられたのかもしれませんが…。」
「…ロクス、禁書も紐解くことができるお前ならおそらく読んだだろうが、天使と人間の恋には悲劇がつきまとうぞ。現にお前は今にも倒れそうな顔色のままここにいるではないか、狭かろうとひとつの世界の混乱を平定したほどの天使が、翼を捨てて人界に下りることを許されるとは思えぬ。
それに天使の時は永遠だ、しかしお前の人生は短く光の速さで老いて命尽きてしまう。…愛しているというのならばなおのこと、残される者の身になれ。」
「シルマリルは僕を選び人としての生を全うすると決めたそうです。
僕は嘘をつきますが、彼女は決して嘘をつかない。」
若さゆえの勢いなのか、身分違いの恋から生まれた約束を信じて疑わぬロクスをたしなめる副教皇の言葉に、ロクスが視線を上げて、力強く断言した。
けれど、どちらが正しいのだろう? 副教皇は現実の厳しさを知っている。
どんなに心通わせようと引き裂かれる恋人たちの話は、著名な物語から市井の噂に至るまで枚挙に暇がない。
「時間がかかろうとうやむやにすることなく、シルマリルという天使は必ず約束を守ります。僕は何度も彼女を裏切りましたが、彼女は僕を一度も裏切りませんでした。
待っている間に僕の命が尽きたとしても、彼女が約束を破って僕を忘れたのではなく、それが僕の運命だったのだと思えます。」
「ロクス」
「僕は彼女がいたから、今こうして少しだけまともになれました。
女性とともに生きることを戒律が許さないのでしたら、…この法衣はお返しします。過去の放蕩で作った借金も、一生かかろうと終わるまで払い続けます。
彼女は僕のことを、過去も罪も何もかもを承知で僕を選んでくれました。僕には揺れる理由がありません。」
何日、何月、何年何十年…彼女が再び舞い降りるまでいくらでも待つ。天使と人間の間には越えられない溝があることなど百も承知。
それでも、シルマリルのためならばこの身も命さえも惜しくないとまで思ってしまった。こんな思いはしたことがなくて、おそらくこれが最後になることだろう。
恋にすら夢を見ないロクスが「永遠の恋」「運命の出会い」など己の状況に酔っ払っていることはなくて、単純な話でシルマリルとの縁が切れたら、もう恋に生きる気力をなくすだけ。
あんな思いをしても結ばれなかった恋とやらに身を焦がすことができなくなるだけの話。
だから、後悔が残るような自粛はしないと最初から決めていた。今更みっともないも何もなくて、ロクスは門の前に立った時と同じに深く頭を下げた。
「お願いします、僕の最後のわがままをお許しください。」
ただ、これだけのわがままがすんなり通せるなど甘いことも考えていない。ロクスは女を選び教皇庁を、何不自由ない教皇の座を捨てることを決めてここにいる。
宗教は千年の時を経て空洞化していて、しかしシルマリルは彼が手にしたゆるぎない真実。
副教皇は、そんな彼のまっすぐな視線を見てあることを思い出していた。
聖女ディアナ。始祖エリアスがしたためたとされる手記に生きる聖女の想いを、推測で語ったことで、それは限られた者しか手にとることができない「禁書」とされている。
ロクスはそれを繰り返すのか? 聖女と違い彼の想いがかなわぬときは、彼の命とともにその想いも露と消える。どう考えても報われそうにない恋に身を焦がすよりは、早いうちにあきらめさせた方が…それに彼は聖職者の頂点に立つ資格を唯一持つ男、彼がどう望もうと、教皇の座を蹴らせる訳にはいかない。
「…………………」
老人は皺を深くし目を閉じた。
ロクスは確かに変わった。今の彼なら、今まで口にしたことを実行に移すだろう。その意思の強さは、我の強さは変わっていなくて懐かしくすらあるのだけれど……あの幼い天使がロクスをひとかどの男に変えた。同時にただの男にしてしまった。
「…仕方がない、ではこうしよう。
お前は天使が戻ると信じているが、私はそれだけの功績を挙げた天使を上級天使が人として生きることを許し下界におろすとは思えない。しかしどちらがどうと論じることでもない。
お前は教皇庁に戻り、しばしの間再教育を受け諸侯を納得させた頃に改めて選出の儀を受けてもらう。今のお前ならば功績のみを重く見て教皇の座につけるのは容易だ。しかしそれでは禍根も残るし何よりも多くの修行僧たちに示しがつかん。」
「副教皇、僕は」
「天使様のことは、お戻りになられた場合はお前の功績を重視して強引だが押し通そう。
そのためにもお前の個の力で教皇に立つための賛同を得るのだ、功績を振りかざすことなく実力で認められれば後の話はお前が思うよりも容易い。」
そこまで言うと、副教皇は穏やかに微笑んだ。
「…多少相手が高望み過ぎだが、ようやく心の底から誰かを愛することができたのだな。
お前の将来も自由もすべてを奪い、十字架にかけられた聖者と同じく犠牲にするしかない歪んでしまった世界かも知れぬが、全能の父と始祖の愛を信じ続ける信徒たちには拠所が必要だ。
本当にお前は始祖の映し身なのかも知れぬ…。」
僧侶が恋に身をやつし、思い人と生きて行きたいなど戒律が許さない。けれどそれは普通の男がごく当たり前に望むことでもあり、ごく普通の子供だったロクスを己たちの都合で親から引き離し引き取り歪んだまま育てて――――彼は己の運命とめぐりあっただけ。それなのに、大人が己らの都合で背負わせたもののせいで苦悩ばかりを繰り返す。
ただの男ならば、何も謗られることではない。
「副教皇…?」
「天使がお戻りになられたら、隠すでないぞ。
逃げ続ける一生などを愛しい誰かに味わわせるような真似だけはしないと約束しろ。」
「で…では……!」
「お前の最後のわがままならば、なんとかしてみせよう。その後はしっかり働いてもらうぞ。」
穏やかに、あきらめたみたいに微笑む副教皇の言葉もまた親の、育ての親の愛だった。
「しかし、お前には少々過ぎた女性だと思うが。
優しげなのに芯が強く、あのか細い声は実に頼もしい。」
「…場数だけは踏んだ僕の魂まで奪った女性です。
彼女以上に惹かれる女性など、もう僕の前には現れません。」
「して、今までだまし続けた女性らはどうするつもりだ?
中にはお前に本気で引かれていたご婦人もいたろう。」
「だました、って…そんな、人聞きの悪い。
残念ながら、僕のこの顔に幻滅する女性がほとんどかと。
それにあちらもおそらく僕のことなど遊びでしょう。そもそも僧侶があちこちで浮名を流しているなど、本気ではないと言いふらすよりもわかりやすい。」
「…お前、あの純真可憐な天使様をだましてはおるまいな?
お前の素行の悪さを知っての選択なのか、不安になってきたぞ。」
「純真可憐、って…とんでもない。彼女はああ見えて性格は悪いというか意地悪ですよ。
それに、僕は女癖だけでなく借金やらなにやら恥ずかしいあたりまで知られています。関わりあいたくないとか迷惑ならば、彼女の性格なら僕に期待させるようなことはしません。」
「それならばいいが…見栄っ張りのお前が、たとえ天使という人ならざる存在相手だろうと、女性を相手にそこまでさらけ出していたとは正直驚いたぞ。」
「こういうのを…尻に敷かれてる、って言うんでしょうか…。」
密室で、いずれ教皇になる男と、今は後見人であり立場が上の副教皇。密談の果てに、教皇候補は取引にうなずく形で思い人の居場所を作ることとなった。
さあ。後は彼女の帰りを待つだけ。天界まで人間が行けるものなら迎えに行きたいほど恋しい。
あどけないくせ焦らし上手で、女に不自由してなかった男に何度もおあずけ食らわせ続ける。それが男に火をつけたことを、彼女は気づいているだろうか?
待つことが楽しいなどということ、ロクスは知らない。
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2008/07/30