■□ 協奏曲 □■
×ロクス他  ED後
      4(成人向け)   (軽い描写あり)

 熱の残るふたつの体をひとつに絡めて狭いベッドに横たわる。
昔から、女を覚えた頃からおぼろげながら感じてはいたが、女の肌の感触は男を安心させるらしい。ロクスは愛するシルマリルを少々歪んだ形ではあったが女にし彼女の小さな体を抱いて横たわり、厳しい冬の空気に少しだけ冷たくなった肌に寄り添い唇を寄せていた。
女の肌はやわらかくしっとりとしていて今は少しだけ己よりも冷たくて、当然だが白粉のにおいなどはまったくしない。感じるのは女の汗や牡を誘うにおいではなくて、今にも消え入りそうな花の香り。
ロクスの記憶に鮮明に残っている天使シルマリルの髪の香り。
草木や花を愛するあまりに己の住まう小さな宮殿の周りに、己の手を土にまみれさせてまでたくさんの花をかいがいしく植え育て花咲かせたシルマリルは、いつも何かの花の香りを身にまとっていた。肉感的で豊満で艶かしい女を好んで侍らせていた破戒僧が幼い天使様に女を強く感じながらも強く拒絶したのは、今思えばおそらく「意地」なのだろう。
己の容姿に簡単に引きずられる女とは対極にいる女を恐れていた、当然ながら己にまったく興味を示さないシルマリルに引きずられてやるものか、そんな子どもみたいな意地の発現だったのではないか…口には出せないけれど、今は穏やかにそんなことを思いながら、ロクスはしつつも彼に寄り添い横たわる小さなシルマリルの髪をそっと撫でていた。
「寒くないか? アララスの冬は厳しいからな…ほら、もう少し寄って。」
 己が横になれればそれでいいぐらい、少しだけ余裕を持たせてあるベッドだけどふたり横たわるには狭くて、情交の疲れとあちこちに残る痛みの余韻に動きの鈍いシルマリルをロクスの腕が抱き寄せ密着し体温を分け合う。腰のない日差し色の髪が瑞々しい薄紅の肌に絡みつく様は官能的なんだけど、処女はいただけなかったとはいえ二度の放出でロクスもとりあえず満足してしまい、今夜が初めての彼女に無理強いをすることはなかった。
純白の翼を大きく広げる天使シルマリルの存在感は計り知れないほどに大きかったけれど、それをなくし女になった彼女はただただ小さい。彼女を抱き寄せ己の胸の上に乗せたロクスは唇に触れた細い髪の感触に思わず目を細めた。
「…雪か。道理で冷えるはずだ。
 天使でいた頃の君は見ている方が寒い姿がほとんどだったな。あの頃は思うことはなかったけど、君はこんなに小さかったんだな…」
 薄闇の中ふと窓を見れば雪がちらついていて、朝には聖都が白く染め上げられることだろう。夏は暑く鮮やかな色に彩られる聖都だが、辺境の地が近い土地柄、冬もまた過酷なほどに寒く、幻想的なまでに白く染め上げられる。過酷な気候の時期には聖都から離れることはなかったロクスは何度も何度も、23の年まで白く染まる聖都を見続けていたけれど、その次は別の土地で冬を迎え、そして今年の冬は夏のように鮮やかに見えることだろう。
穏やかな色を好む色味の少ない少女の肌はまるで5月の薄紅の薔薇の花びら、唇は3月の桃の花。青い瞳は彼女の生まれた9月の高い空と海の色でアララスの冬を彩るのだろう。
しかし、美しい少女の姿の天使をひとり独占しておけることもまたない現実をロクスは気づいている。
「明日夜が明けたら、会ってほしい人がいる。」
 静かに髪に降るロクスの声に、シルマリルの青い瞳が間近から彼を捉えた。
「一応これでも僧侶だから、部屋からご婦人を連れ出す姿を見られちゃまずくてね。朝一番人目を忍んでになるけどつきあってほしい。」
「……はい。」
 人間の慣習を知らないシルマリルは素直で従順で愛らしく、ロクスはそんな彼女を見ているだけでいつしか胸を締めつけられる感覚を覚えるようになった。今もそうで、それが「せつなさ」だと気づいたのはほんの最近、ここ半年ぐらいの話だったりする。
「眠ろう。慣れなくて寝つけないかもしれないけど、今夜一晩の辛抱だ。」
 こうして人目もはばからず寄り添って休める夜は最初で最後かもしれない。
ここは禁欲の城・教皇庁で、ロクスは近い将来その頂点に座することになるだろう。せめて彼女の降臨を己以外誰も知らない今夜だけでも独占したまま眠りたくて、ロクスはそっと目を閉じた。
体は落ち着けども感情が高ぶり眠れないのは己の方だということを彼は気づいている。



「歩くのはつらくないか?」
 その問いかけに、シルマリルは目をこすりながらうなずいた。
体、特に下腹部一帯に違和感というか鈍い痛みを感じているけれど言えるはずもなくて言葉に出さずうなずくだけにした彼女だけれど、問いかけたロクスは何も知らない少年ではない。女と戯れ知りすぎた男は、男を知り純潔を手放した女の直後の様子の経験もあって、シルマリルの足取りも頼りなくておぼつかなくてロクスはいつもの歩調をゆるめ彼女のそれに合わせながらまだ薄暗く寒い廊下を歩いていた。
「眠そうだな。君は天使の頃からよく眠る女性だったけど、慣れない環境だったのにぐっすり寝てる姿を見て安心したよ。」
 その言葉で、自分がなかなか寝つけなかったことを白状してしまったことをロクスは気づかない。彼女に眠るようにとベッドの中で囁いて自分が先に目を閉じたけど、眠れないだろう自分のことは気づいていたとおりに、程なく安らかな寝息を繰り返し始めたシルマリルの寝顔ばかりを見ているうちに夜はふけて、気づかぬうちにまどろみそして朝が来た。
多少だるさは残れども夜遊びが派手だったロクスに徹夜など苦ではなくて、いつもと変わらぬ顔を見せているけどその声は時間帯を意識してのことなのかようやく聞こえるぐらいに密やかだった。
 シルマリルな眠そうな顔ばかり見せていて一言も話さない。袖がほとんどない淡い若草色の衣はさすがに寒くてそれだけでは過ごせるはずがなくて、シルマリルは起こされてから昨夜と同じ服を身にまとい、その小さな肩にロクスが愛用の紫の上着をそっとかけた。
普段使いでもあり、ここよりもっと寒い地域、雪と氷に覆われた辺境地域を歩く時ロクスが頼りにした、金十字が裾にいくつもあしらわれた紫の法衣。それを小さな肩にかけるのはこれが初めてではなくて、相変わらず裾を床に引きずりそうなほどシルマリルという女性は小さかった。
「足元、気をつけろよ。」
 その気遣いの言葉にも、シルマリルはうなずくだけ。声を出すことすらはばかられそうな早朝に、教皇候補が己の上着を着せた女を伴っている様子など誰かに見せるわけには行かない。
だから、誰も起こさないよう。刺激しないようシルマリルは口を閉ざしたまま歩いていた。
誰に会わされるのかなど、問いかけは山ほどあるけれど、朝の静寂と己の置かれた現状がそれを口にすることを許しそうにない。
 ロクスが山ほど並んでいるドアの前で足を止めた。そして彼は顔を上げ手を軽く握り静かに2度、3度と扉を叩く。
「副教皇、早朝に申し訳ありません。ロクスです。」
 呼びかけに返事はなかった。しかしロクスは別に思うことなどなさそうな横顔で取っ手に手をかけそれを開けようとしたから、シルマリルは慌ててその手を小さな手で押さえた。
「ロクス、こんな時間にどなたを訪ねても迷惑ですよ」
「迷惑じゃない。僕もこの時間はもう起きてるんだ、副教皇は僕なんかより年季も気合も入ってるから当然起きているよ。
 ――――失礼します。」
 そう言いながら、ロクスは己の手を止めた小さな手をそのままに扉を静かに開けた。

「ちょっとよろしいでしょうか?」

 ロクスの言葉のとおり、初老の僧侶はすでに身支度まで整えて部屋の中にいた。
小柄なシルマリルからは部屋の中の様子はまったく伺えないから耳を澄ますしかなくて、ロクスが部屋の中に入らない以上彼女は息を殺しながら部屋の外でただ待っていた。
「なんだ、こんな時間に。
 身支度を整えているところを見ると、なにやら用がある様子だが。」
「ええ。…入ってもかまいませんか?」
「ああ、まだ眠っている者も多いからな。」
「それでは失礼します。…さ、入って。」
 他者を促すその言葉を静かに口にしたロクスに、副教皇がわずかに眉を動かした。
促されるまま逆らえるはずもなく素直に従いシルマリルが入室すると、ロクスは静かにドアを閉めた。
「僕の最後の賭けは僕の勝ちでしたよ、副教皇。
 紹介します、僕の天使…だったシルマリルです。」
 癒しの手に背を押され促されて入ってきた小柄な少女は彼の紫の上着で小さな体を包んでいて、その頼りなさげな表情から、ロクスしか頼る者がいないだろうことを伺える。
彼女を促したロクスはというとドアを閉めた手でシルマリルの背中を支えて微笑む表情は男のそれで、いきなり紹介された副教皇は目を丸くし言葉を失ってしまった。
「言ったでしょう、僕と違いシルマリルは約束を破らないって。」
 少し勝ち誇った内心を隠し切れず悪戯っぽく笑うロクスだけど、当然シルマリルは戸惑い己を紹介できずにまごついている。戸惑っているという話では彼女と同じ副教皇はというと、実はまるで初対面でもないこともあり、愛らしく美しいその立ち姿は記憶に鮮やかに残っていて――――ようやく状況を飲み込むと、年老いた僧侶は穏やかに微笑みシルマリルを覗き込んだ。
「ようこそ教皇庁へ、幼き天使よ。
 大役を終えた後ロクスを選び翼を返したというのは本当でありましたか。」
 彼女は天使、ならば己らは例外なく彼女の下僕になる。たとえ宗教国家の元首だろうと神のみ使いの前では矮小なる人でしかなくて、その教育を叩き込まれているロクスがどこでどう間違い人間の少女の姿と人格を持つ天使に惹かれてしまったのかは知ることのできない謎だけど、実際に副教皇もこの小柄な天使が純白の翼を背に持っていた姿は見覚えがある。
「信じてもらえてなかったんですか?」
「お前の振る舞い如何抜きでも、信じられると思っていたのか?」
「…まあ…荒唐無稽な話、ですよね。
 でもシルマリルはできない約束をその場しのぎに交わせる性格ではありませんから」
「わかった、わかった。」
 親子以上に歳の離れた男たちが交わす軽口をシルマリルはおとなしく見守るしかなくて所在無くて思わず視線を泳がせた。
「副教皇、これで僕の話が夢物語ではなかったことを信じてもらえたと思います。
 戻って来た時伝えたとおり、僕はシルマリルと引き離されるくらいなら今の立場を捨てて彼女を選びます。」
「…そう言っておったな。無論、天使様が約束をお守りになられたのならば私も違えるつもりなどない。
 何より天使様の座する場はこの教皇庁が最もふさわしく安全だと思わんか?」
「……シルマリルを教皇庁の都合に利用しないでいただけると嬉しいのですが。
 僕の人生はこの際すべて差し出しましょう、彼女のことは交換条件の代償です。」
 しかし二人の軽口はそこまでで、唐突に駆け引きが始まった緊張感で空気がさらにしんと冷える。
「今の彼女はすべての奇跡の力を失った、ただの少女に過ぎません。
 今だってこうして戸惑ってばかりだ。信仰の依代として利用しても耐え切れないと思うのですが?」
 先に仕掛けたのは若いロクスで、彼はその優美な外見と穏やかな物腰からは簡単に想像ができないほどに内に秘めたものは猛々しくすらある。そのことを彼と長いつきあいの副教皇は当然知っているけれど、さらに深く知っているのは翼を失った天使シルマリル。
今も彼女はロクスの鋭い紫の眼差しに顔色をなくしまごついている。
「…ロクス、少々気負いすぎではないか? 天使様が心配なされているぞ。」
「気負いもしますよ、彼女を無条件に守れるのは僕しかいないのですからね。」
「しかしお前は僧侶だ。普通の男と同じに生きてゆけるものではないことは承知しておろう。」
「なりたくてなったわけではない…と、以前も声を荒げましたよね。
 さすがに僕も学習する、声を荒げるような真似はしませんけれど、認めていただけないのでしたら法衣を脱ぐだけです。
 法衣がなくても祈りはささげられる、女を選び法衣を脱ぐ…破戒僧の僕にふさわしい身の振り方だ。」
「誰もそれを許さぬよ。お前は現存するただ一人の教皇候補だ。
 ようやく現れた、長いこと空席であった教皇の座を継げる者だ。お前の他に資格を持つ者はいない。それにお前は放蕩の限りを尽くしていた頃に、教皇庁の名を出し作った膨大な借金が残っておろう。それはどうするつもりだ?」
「それに関しては、せいぜいこの手を利用するつもりですよ。
 触れるだけで他者を癒す力は教皇庁に授けられたものではない、僕が生まれつき手にしていた僕のものだ。あなた方がこの力を利用したのと同じことで稼ぐだけだ。
 忘れたとは言わせない、奪うことができないから僕を取り込んだんだろう!」
 若い教皇候補と老獪ですらある副教皇、駆け引きでどちらが有利かなどわかりきったこと。しかもロクスは話次第で頭に血が上りやすい性格でもある。今も言われずともわかっていたことを副教皇に改めて言われただけで激昂し、抑えてはいるが強い語調で怒りを吐き捨てた。
「ロクス、落ち着いてください。副教皇は私を何かに利用するとはひと言も言っていませんよ。」
 そして彼を己の勇者として選んでからずっと、激昂したロクスをたしなめるのはシルマリルの役目。成功如何にかかわらず彼女はいつも感情を高ぶらせたロクスの腕に取りすがり穏やかに諭す。
ロクスもそんな彼女の言葉を耳に入れるようになってしばらくたつ、たしなめられたことで表情に険しさを残しながらもそれ以上何も言わずに唇を一文字に結んだ。
「…副教皇、私になにを求めるのですか?」
 言葉を一旦切ったロクスの代わりに、シルマリルが口を開く。
「シルマリル、何を!?」
「…天使としてあなた方とは異質な存在だった私が、人間の女性としての幸せを手に入れられるとは思っていませんでした。まして私が選んだのは、いずれ僧侶の頂点に立つことを約束されていたロクスです。」
 まず勢いと情熱を押し通そうとするロクスとは違い、シルマリルは物事を客観的に見て判断する。それが彼女自身にどれほど残酷であろうとも、天使とはそういう存在。
滅私の精神でただひたすらに己の父である神への忠誠を体現するためには、人間らしさでもある苛烈なまでの自己の表現は邪魔ですらあるから――――
「私のただひとりの男性であると同じく、あなた方にとってただひとりの教皇であることは承知しています。私も人間となった以上、私ひとりの存在の重さと信徒すべての存在が天秤に掛けられないのは当然のことでしょう。
 でも…共に生きられないのでしたら、せめて修道女として誰にも身をささげずに生きてゆく道を選ばせてください。」
 美しい少女が、微笑みながらはらはらといくつも涙の筋を頬に伝わらせる。
温厚な中に人間としての感情の起伏がすでに彼女の中に生まれていて、微笑む表情は天使の彼女、流れる涙は人間のもの。
天使としての人格と人間として生まれた感情のせめぎ合いが自分を追い詰めてしまっていることを、おそらく彼女は気づいていないだろう。不思議な表情とまた悲しませてしまった自分の至らなさに、ロクスは思わず唇を噛んだ。
「…馬鹿馬鹿しい!
 まるで話にならない、まあせいぜい約束は守ってもらいますよ。
 行こうシルマリル、僕がここにとどまる理由はもうない。今日にでも出て行こう。」
「ロクス、ひとりで話を進めるな。
 …申し訳ない、天使様、どうか嘆かれないで…」
「泣かせたのは誰だと思ってるんだ!」
「落ち着かんか。約束は守ると言ったろう、引き離すつもりなどない。
 ただ、お前には特殊な立場もある、私はともかく諸侯を説得するには相応の何かが必要だと言っているだけだ。
 …教皇庁も、一枚岩ではない。」
 『立場』、その言葉がロクスの肩にずしりと重くのしかかる。
それは、彼の枷。普通の子どもではなく、普通の青年ではない。最高の教育と何不自由ない日々の代償は彼の人生すべて。何をやろうと許されてきたのはいずれ自由がなくなることが目に見えていたからに過ぎなくて、そのことを言われると言葉すべてが彼の内側に封じ込められる。
「…滅びるより他に道がなかったはずの我々を、ロクス、かつての始祖エリアスとその天使様と同じに、お前とお前をお導きになられた天使様が救ったのだ。
 天使様にも祈りをささげる我等は、お前を導いた天使シルマリルに報いねばならぬ。その天使様がお前をお望みであるのならば、我等がそれを拒めると思うか?」
「……………あ…!」
「理由は、それで充分だ。天使様がお前をお導きになられたことは私が証明できる。
 天使様がこうしてここにいるということは、人として限りある生を生きることを全能なる父が許されたからに他ならぬ。父がお許しになられたことを我等が許さぬなど、そちらの方が許されるものではなかろう。
 …ただ、すべての者が事実を知っているわけではない。物事には理由が必要だ。」
 副教皇の言葉が理解できないほど浅はかではないから彼はいつも苦悩ばかりを繰り返す。
今回も同じ、ロクスはいつも大人の論理の前に立ち尽くしてばかりいる。
見かけだけ、体だけ大人になったけれど、彼は精神的に脆さを残したまま、未完成なままでいる。周囲の者にそんな姿を見せずにここまで来たロクスは虚勢を張ることには長けているが、暴かれると非常に脆く弱い。
目の前の初老の彼以外誰も深く立ち入ろうとしなかった中で、シルマリルは初めてロクスに強く干渉してきた存在だった。副教皇と同じ押しつけではなく、シルマリルは肯定から始めたから、今ロクスはこうなっている。
己のすべてを、あるがままに受け入れてくれた初めての女。
彼に「こうあってほしい」とは望むけれどそれを押しつけなかった女。
ロクスはそんなシルマリルを、初めて現れた唯一の理解者だったから手放せなかった。
シルマリルに至っては、この男以外誰にすがれるものでもないから、彼をあきらめるより他がないのならば誰も欲しくはない。
 ロクスを長いこと見てきた副教皇に、相手に向いた気持ちの強さがあまりにも危うげなふたりを引き離すことはできない。けれど他の者は違う。
「天使様がかつて天使であったことを明らかにすることで、天使様のお望みもかなえられるものとなる。
 どちらにとってもあまりにもささやかだが、人間と天使だと言うだけで到底許されぬ望みだ。…天使様にもお前にとっても本意ではなかろうが、本質をすりかえることで他者を納得させられずとも理由にはできるのならば、それにすがってみぬ手はあるまい?
 物は言い様だよ、ロクス。」
「…致し方ないこと、ですか……彼女を求めたのは僕なのに、表向きはまるで逆、と。」
「お前と天使様はいまや絡みあいもたれあう二本の木だ。無理に一本にすればどちらも枯れてしまうやも知れぬ。
 それをどちらも生かすための手段だ。絡みあう双樹が自然な姿ではないと誰もが思うだろうが、お互いに生かしておきたければあるがままにしておくしかない。
 そういうことだ。」
「……………………。」
 ロクスは気は長くないが短慮でもない。感情だけでどうにもならぬことは誰でもなく彼が一番わかっている。そんな彼が副教皇の言葉を理解できないはずはなくて、そうするよりほかに手段がないという彼の言い分は正しくて、しかしすんなりと受け入れることもまたできずに、副教皇からもシルマリルからも目をそらして唇を噛んだ。
「しかしそれではシルマリルがいかにもはしたなく僕を望んだかのようでは」
「それを表立って言い切るのはお前ぐらいのものだ、ほとんどの者は天使様を恐れ敬もうておる。」
「表立って言わなくても彼女がそんなだと思われるのが許せないんだ!
 自分の保身と利権ばかりを考えてばかりの連中に、僕の天使がふしだらに思われるなんて許せるものか!!」
「いつまで子どもでおるつもりだ!
 好いた女を自分が守るとぐらい言うてみせぬか!!」
 苛烈な舌戦の最中で、いつまでもぐずぐずと頭の中でばかり考えているロクスを副教皇が激しく一喝する。
「それを言うことを許さぬのはお前の力量しだいだ。お前はこの大地を救いし天使の勇者だろうが、今まで舌先三寸で生きてきたのなら、取るに足らぬと思う連中などその口で黙らせてみろ。
 …お前が本気になれば帝国兵どころかあの天竜すらも屠るのだ、かつてのエリアスに挑む者などいなかったように、今のお前に楯突く者などおらぬ。
 物は言い様と言ったろうが、後はその頭で考えるのだ。」
 あのロクスが、舌の回転だけはかつて最大の敵だったヴァイパーにも押し負けなかったロクスが、初老の副教皇に言葉で押し負けた。理屈でも本質でも副教皇の言葉には一分の隙もなくて、唇を噛んでいたロクスが一転して泣き出しそうな表情を見せた。
「私は朝の礼拝があるから先に行くぞ。
 …天使様、」
「は、はい!」
「このとおり、己の方が分が悪いと思うと途端に脆さを見せる少々頼りない男だが、だからこそあなたの存在すべてが支えとなっております。
 どうかこの迷える子羊をお見捨てになられぬようお願いいたします。」
 苛烈な舌戦を、今のロクスと同じように泣き出しそうな表情で見守っていたシルマリルに、副教皇が優しく声をかける。
その言葉にシルマリルがようやく思い出した――――ロクスの抱えていた危うさがきっかけだったこと。
自我を守るためにそうせざるを得ない、精いっぱいの自己の表現が反抗と偽装だった。そんな彼の仮面を外させ壊したのは自分だったこと、ロクスを裸にしてしまったのは誰でもない自分自身。
ならば、部屋を出ようとしている老僧への返答はひとつだろう。シルマリルは泣き出しそうな表情を一転させてやわらかく微笑んだ。
「こんな危なっかしい人を見捨てるなんてできません。
 私も守られるばかりの存在ではないことを証明して見せなければなりませんね。」
「ほ、これは頼もしい。
 さすがはこの大地を守りし天使様、儚げに見せてお強い。
 ロクス、このお言葉を聞いてもぐずぐずとしているようではあまりにも情けないぞ。翼をお返しになられた天使様の方がよっぽど覚悟がおありではないか。」
「…仕方がありません、私の都合で彼もずいぶん不安な日々を送ったようですから。
 副教皇、いってらっしゃいませ。ロクスもすぐに追いかけると思います。」
「それでは、ロクスのこと、お願いしますぞ。」
 儚げに見せて強か、は女の特権かもしれない。
シルマリルは典型的でもある、どんなに苦境に立たされようと彼女はそれを目の当たりにしたからとあきらめない。石にかじりついてでもそれを覆そうとするあきらめの悪さも辛抱強さもあって、それが現れたからロクスは変わり滅びへと向かっていたはずのこの世界はかろうじてその小さな掌にて救われた。
 執着する恋心に迷うあまりにロクスはまたさまざまなことを見失い捨て鉢な態度を取ったけれど、副教皇は己ではどうにもできないことを理解していて、しかしようやくロクスには拠所にできる存在が現れたのだから、流れに任せ支える役目をシルマリルへと今手渡した。
今までは己ではどうにもできなかろうと、この青年に苦言を呈する存在は自分しかいなかったから、通じないことを承知の上で小言ばかりを繰り返してきた。
けれどロクスはやはり女で変わり、ただひとりの言葉だけに耳を傾ける。ならばもう己の口から小言を言う必要もない。
副教皇はようやく肩の荷を降ろし、シルマリルに向けて少しだけ晴れやかな表情を一瞬ゆるめ微笑を見せて、しかし何も言わずに自室を静かに後にした。
扉が閉まった後は、出て行った副教皇の足音すら聞こえないほどに静かだった。
「ロクス。」
 シルマリルは静かに呼びかけるけど、ロクスは答えない。
今一番所在無いのは間違いなく彼で、年の功を見せた副教皇と生来の強かさを表に出したシルマリル、どちらの気持ちの強さも持てず取り繕うこともままならず、情けない顔しか見せられない。
呼びかけられても顔も上げられず視線すら向けられず、泣くに泣けない己の気の強さが恨めしくて、ロクスは顔半分を隠すかのように片手で前髪を無造作にかき乱した。
「はしたないかどうかは別にして、私があなたを求めたことはうそではないと思いますよ?
 私があなたにこだわったからあなたの生きている世界が救われたんですから、あなたには胸を張っていてほしいのですけれど、無理な望みでしょうか?」
「……いったい何を」

「一緒に開き直ってください、ロクス。
 だって本当のことを言われたからと怒っているようでは仕方がないでしょう?
 私は人間の少女になって、愛する男性に体まで愛されただけです。信仰の本質は愛です、それを知っているあなたの祈りが力の差すら覆すほどに強いことを、私が証明できます。
 信仰の本質を身をもって知っているあなたが、保身と利権に走る人々と同じではないと、かつて天使であった私が何度でも証明してみせます。
 私も生きるこの世界を、世界を救ったその手のひらで守ってくださいね。」

 にこにこ笑いながらとんでもなく強かな台詞をさらりと口にしたシルマリルの毒舌に、ロクスが唖然とする。確かに彼女は見かけによらず口が達者だと思ったことは何度もあったけれど、どんなに隠されていようと彼女なりに本質を看破しそれを理解して切り返す速さは並ではなかったけれど、まさかこれほどとは思っていなかったロクスは泣きそうな顔を間抜けなそれに変えてしまったことも知らずに、彼女ばかりを見つめている。
「私たちはお互いに求めあいました、見る人によってはそれがはしたなくも見えるでしょう。でもそれは所詮解釈の相違でしかありません。
 あなたは私を愛してくれたことであの強さを手に入れたのなら、私が愛されていなければ今はなかったかもしれないんです。そのことを踏まえてもあなたを謗れる人がこの世にどれほどいると思いますか?」
「…君のペテンはヴァイパーにも負けないな。
 あいつの毒に当てられてそうなったのか……。」
「ペテンなんて人聞きの悪い、私は私なりに理解していることを口にしただけです。」
 呆けた後は呆れ顔、ロクスもかなり口は達者だけど、先ほどのように追い詰められればあっさりと弱点を露呈する。けれどシルマリルは真逆で、普段は些細なことで泡食ってばかりだけれどここぞと言う時の豪胆さは幼い天使のそれではなかった。
「…副教皇がお待ちですよ。
 私はもうしばらく、あなたたちがこの部屋に戻るまでここでおとなしくしているつもりですから、まずは朝のお勤めをすませて来てください。
 私はずっとあなたのそばにいるんですから、もう何よりも優先しなくてもいいんですよ。」
「いや、僕にとって君はなによりも優先することに変わりはない。
 でも君が言って来いって言うんだったら、情けないことに今の僕は逆らえなくなってしまった。…少し待っててくれ、せいぜい副教皇と悪巧みしてくるよ。」
 彼女の言葉のとおり、シルマリルはこれからずっとここにいる。そのことを思い出したロクスがようやく微笑を取り戻した。
思い出してしまえばいつまでもぐずぐずしていることがどれほど情けないかも共に思い出す。誠実なような不実なような言葉を口にしてようやく立ち直った彼の様子に、シルマリルはことさらまぶしく微笑んだ。
「じゃ、行って来る。」
「はい、行ってらっしゃい、ロクス。」
 交わす挨拶はすでに恋人同士のぎこちなさはない。お互いに覚悟さえ決まれば誰でも一瞬で変わるのと同じに、ロクスもようやく最後の覚悟を決めた。
白い法衣を翻して、僧侶の頂点としてふさわしくも汚らわしいただの男として謗られぬ存在になるべく、彼は再び戦いの最中に身を投じる。
彼の伴侶は、伝説に刻まれる逸話と同じに彼のあどけない天使様。壮大な叙事詩の中天使と結ばれた男としてこれからを記してゆく。
美しい天使シルマリルは聖なる経典に天使として名を記されることはなく、例外中の例外、教皇ロクスの唯一の伴侶として聖女の称を冠し彼と共に語られるのだろう。
シルマリルの耳の奥に、聞き慣れたロクスの足音がいつまでも力強く響く。

 教皇ロクスをきっかけに、教皇庁は破壊にも似た改革への道を歩まされることとなる。敬虔でない、しかし神と己以外のものへの慈愛に満ちた強い教皇は他に例を見なくて、ロクスは破天荒な存在として後世に語られる。
 その初手が、僧侶でありながら妻女を娶ること。
シルマリルは自ら望んで荒れ狂う海にロクスと共に船出した。これからの苦難なんて覚悟の上。
心づもりがあるから、多少のことでは動じない。
好奇心が強い彼女は、むしろこれからの人間としての生活に対する好奇心も芽生え始めていて、意外なことに適応能力が高いと言う個性を身につけ始めていた。

      4(成人向け)   (軽い描写あり)

2008/08/14