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※赤い文字色のページには性描写があります
倒錯遊戯
少し前まで美しく咲き乱れていた桜が葉桜に変わって瑞々しい青を薫らせ、人々もまた新たな生活にようやく慣れてくる五月の昼下がり。誰かがちぎって投げつけた真っ白な雲があちこちに浮かぶ爽やかな青空の下を小さな身体が走り抜ける。
こぢんまりとした古アパートの階段を跳ねるように駆け上がり、最上階である二階に到着した少年は、我が家である部屋の前で立ち止まると少し錆びた扉を引っぱった。ガチャガチャッ。つれない施錠の音が少年を拒絶するが、彼はいつものことだと言った表情で背負っていた黒いランドセルに後ろ手を伸ばす。母と自分しか知らない“秘密のポケット”をまさぐって取り出したリール付きの鍵によって、自宅の玄関扉の封印が呆気なく解かれた。
「ただいまー!」
帰宅の挨拶を元気な声で叫びながら素早く家へと入り込み、重たい扉をできる限りの速さで閉めて鍵をかける。「誰もいないおうちに帰った時も誰かがいるようにふるまいなさい」と言う母からの言いつけを少年は毎日忠実に守っていた。
「ふぅ」
冷たい扉を背にして息を一度ついた少年はスニーカーを脱ぎ捨ててまっすぐ自室へと向かい、勉強机の椅子に重たい鞄を座らせると机の上に立ててある写真の中の人物に「ただいま」と小声で帰宅を告げた。そのまま流れるように洗面所に行って手洗いうがいを完遂し、小腹を満たす何かを求めて台所に入った時、少年はテーブルの上に置かれた一枚の紙に気がついた。とりあえず、冷蔵庫から好物であるソーダ味のアイスキャンディーを一本取り出し、ペロペロと舐めながら置き手紙に書かれたメッセージを大きな黒目でなぞる。
『鋭次へ。お母さんは今日は夜の8時まで帰れません。夕ごはんは冷ぞう庫に入っているので温めて食べてください。※宿題はお母さんが帰る前にすませること! アイスは1日1本!」
手紙の字面からも感じる母の強い釘刺しに少年――暮羽鋭次は、うへっと口の中で小さく呟き、すでに半分近くが失われたアイスを恨めしそうに見つめた。本当は二本食べたかったのだが、ばれてしまった時に脳天に直撃する母の雷を想像すると、そんな暴挙に出る気には到底なれない。
とりあえず、冷蔵庫を再度開けて今日の夕飯を指さし確認し、そうこうしている間に大好きなアイスも全て腹に消え、今やただの棒のみとなったそれを口に咥えて、木に微かに染み込んでいた味や香りの残り滓を未練がましくガジガジ齧って噛み締めていた時。
ピンポーン。
呼び出しチャイムの音が部屋に響いた。暮羽の肩が反射的に上下する。
「……」
どうしよう。一人で留守番している時は家に誰か来ても出るなって、お母さんはいつも言ってるけど。戸惑う暮羽の心中を察したかのように扉の外から呼び鈴を鳴らした人物が、その正体を口にする。
「こんにちはー、宅配便です。お届け物でーす」
宅配便。その一言を聞いた少年の瞼の裏に浮かんだのは時折見る光景。それは、仕事から帰った後に着替えもせぬまま薄っぺらい不在者通知を片手に疲れた声で宅配業者に電話をして再配達を依頼している母の姿。口から離した木の棒を、視界の片隅に映るゴミ箱に放り投げながら暮羽は考えを巡らせる。
……宅配便ぐらい、いいよね。お母さんはオレのことを何も出来ない子ども扱いして「出るな」って言ってるんだろうけど、オレ、もう四年生だし。宅配便が来たらどうすればいいかだって知ってるよ。紙にハンコをおしたり、サインを書いたりすればいいんだろ? オレだって、それぐらいなら出来るんだから! ……まだ、名字の最初の漢字が書けないから、サインを書いても「くれ羽」になっちゃうけど。
母は決して自分の息子を過剰に子ども扱いしているわけではなく、防犯のために、ひいては大事な一人息子を守るためにそのような事を言い聞かせていたのだが、親の心子知らずとはよく言ったもので、親の心を察するにはまだまだ幼い少年は、ただ少しでも母の手助けをしたい一心で玄関へと向かった。
それでも、念のために抜き足差し足忍び足でドアに近付き、靴も履かずにたたきに降りてドアスコープを覗き込む。レンズの奥に人待ち顔の男が立っていた。キャップを被り、伝票らしき紙が貼られたダンボール箱を抱えている。どうやら、本当に宅配業者らしい。暮羽は安堵に似た小さな溜め息をつき、我に返ったように慌てて母のサンダルをつっかけて扉の鍵を開けた。
「……はい」
少し緊張した小声で答えて扉を押し開け、声色と同じ面持ちでおずおずと相手を見上げると、中年にさしかかっている男と目が合った。自分の顔を見た瞬間に相手の口がほっ、と言うように縦に小さく開き、目尻に深い皺を刻んで笑いかけてくる。
「いやー、誰もいないのかなってドキドキしちゃったよ。ボクが出て来てくれて良かった」
おどけた口調の中に感じる明朗な雰囲気に暮羽の硬くなりかけていた顔も自然と綻ぶ。荷物を持った大人が入ってこれるようにドアを大きく開けると、業者の男はありがとう、と礼を口にして玄関に滑り込み、上がり口に重たそうな箱をどすんと置いた。
「それじゃ、ここにハンコかサインをお願いします」
「うんっ」
くだんの明るい声音で指さした先にある小さな円を凝視しながら、暮羽はおあつらえ向きにシューズボックスの上に置いてあった浸透印を手にとってキャップを抜き、無意識に息を止めてグッと紙に印を押し付けた。吸い付くような湿った音と感触を僅かに覚えた後、そのままゆっくりと印鑑を離すと、赤い円に囲まれた自分の名字が指定の場所に収まっていた。ちょっと傾いちゃった。まぁ、いいか。
「はい、確かに。ありがとう」
男が捺印された伝票を千切ってポケットに捻じ込む傍らで、少年は何だか大きな仕事をやってのけたと言わんばかりに鼻の穴を少し自慢げに膨らませ、印鑑を元の場所に几帳面に置いている。男はフフッと口の中で笑って、箱にベッタリと貼られた伝票に眼を落とした。届け先の宛名欄に記入されているのは、今しがたボールペンで慌てて殴り書いたような「暮羽」と言う名字だけであったし、依頼先の欄に書かれている住所や名前は全くのでたらめであったのだが、少年は何も気付かぬ様子で小首を傾げる。帰らないの? きょとんとした顔がそう語りかける。そのどんぐり眼と自分の少し吊り上った眼が水平に結ばるように、男は片膝をついて微笑んだ。
「この荷物とっても重たいからさ、おじちゃんが家の中まで運んであげるよ。どこがいいかな?」
「えっ」
突然の申し出に暮羽の顔に戸惑いが走る。宅配業者とは言え、母の言いつけに背いて応対した自分の選択は本当に正しかったのだろうかと自問している節は少なからずあったし、さすがに家の中まで知らない人を入れるのは……
(でも……)
少年は静かに考える。この力が強そうな男が重たいと言っているぐらいなので、届いた荷物は余程の重量なのだろう。頭の中で、女手の母と男手と呼ぶには非力すぎる子供の自分が箱の両側を持ち合ってふぅふぅ息を切らしながらえっちらおっちらと荷物を運ぶ様子が頭をよぎった。
「……こっち」
気が付けば、玄関を上がって少し進んだ先にある台所の方を指さしていた。自分には隠しているつもりだろうが、完全には隠しきれていない疲れを滲ませて帰宅する母に余計な負担をかけたくなかったからだ。業者は「了解」と笑みを崩さずに応答して玄関に上がり、唸りに近いかけ声を絞りながらダンボール箱を抱え上げると、狭くて短い廊下をゆっくり進む少年の歩調に合わせて追従した。
暮羽がやや狭いダイニングキッチンを占領しているテーブルの脇を差すと、男は忠実な召使いのように指定された場所に箱を置いた。音を極力立てぬように、そっと。
「はー、やれやれ」
身体を弓なりに反らして、腰の辺りをパキパキと鳴らす男の横目がテーブルの上に置かれた手紙をザッと流し読みする。……へぇ、八時までこの子の母親は帰らないのか。
「ボク、一人でお留守番? えらいねぇ。おじちゃんがボクくらいの時は一人でお留守番なんて怖くて出来なかったよ。ボクは強い子なんだね」
自分への対処を考えあぐねている様子で傍らにボンヤリ立っていた男児に優しく声をかけ、気持ち悪いぐらいにおだてながら大きな手でその頭をクリクリと撫でると、彼は面映そうに身体と唇を少しねじった。
……お父さんがいたら、このおじちゃんぐらいの年になるのかな。物心がつく前に父親と言う存在を失い、無意識に父性を求めていた少年はくすぐったそうにしつつも大きな垂れ目を細め、頬をピンク色に染めていた。気を抜くと口からキャッキャとあどけないはしゃぎ声が零れてしまいそうだ。
それは、少年が警戒心と言う鎧を脱ぎ、隙を剥き出しにしている証。少年を撫で、誉めそやし、持ち上げ続ける男の穏やかな瞳の色がみるみる変わる。そして、妙な光を湛え始めたその眼が数度の瞬きを終えた時、暮羽の体がふわりと宙に浮いていた。
「ふえっ!?」
細めていた目を忙しく白黒させる暮羽の腹が男の広い右肩の上に乗っかかり、床にだらっと伸びる両手が男の背中に触れた。
「な、な、何するンだよ!!」
声をひっくり返しながら四肢をばたつかせ、手当たり次第に相手の背中や肩甲骨を殴る暮羽に構わず、男は脇に置いていた箱を余った腕で抱え上げる。ひょいっと。軽々と。先程まで重たそうに扱っていたのは演技だったのかと疑いたくなるほどに。
「馬鹿! ばか! アホ! ボケ! バカ!! 下ろせ!! 下ろせッてば!!」
無反応を装っていたが、自分の顔のすぐ近くで思いつく限りの罵詈雑言を連ねる少年のきいきい声や僅かながらも少しずつ背に重なりゆく痛みはやはり不愉快だったらしい。男はそっと溜め息をつくと、横目で少年をじろりと見据えた。今や無表情になった顔の唇のみが曖昧な笑みを作る。
「騒いだって無駄なのはキミだって分かってるだろ?」
「え……」
「このアパートの部屋数は四つ。キミの部屋の隣に住んでるお兄さんは一人暮らしで夜遅くまで仕事から帰ってこない。彼の部屋の下には若い夫婦がいるけど、これまた共働きでこの時間帯は留守。そして、この部屋の下は今は誰も住んでいない空き部屋。つまり、この時間帯にこのアパートにいるのはキミ一人だけ」
「!!」
自分や母、同じアパートの住人しか知らないはずの情報を男に言い連ねられた暮羽は、続けて飛ばすつもりだった叫び声を息と一緒に飲みこみ、顔を硬直させた。暮羽の予想以上の反応を見た男の情無き顔に僅かな機嫌が戻り、目元も少し緩む。男は楽しそうな声音で続けた。
「一ヶ月前に偶然キミを見た時から、ずっとリサーチしてたんだよ。キミといっぱい遊びたかったから。」
男の気味の悪い台詞を頭の中で反復した暮羽は、その意味を彼なりに理解し、強い悪寒に震えた。
「い、嫌だ! 嫌だ!! 帰れ!!」
“遊び場所”を求めて家の中を歩き回る男に抱え上げられたまま喚き続ける暮羽だったが、男が「おっ」と言う声と共にズカズカと入った部屋を認識した瞬間、彼の高い叫びは低い唸りに変わった。
二人が入った場所は、四畳半ほどの部屋だった。男の子の部屋らしく、と母が青系の色を基調にコーディネートしている中で、ワンポイントとして映えているのは芝生色をした小型の円い絨毯。「こんな子供っぽいの……」と母には唇を尖らせつつも、実はひそかに気に入っている動物キャラクター物の枕と布団が敷かれた木製のベッド。着席時間イコール苦痛の時間と言える学習机。あまり読まない活字の本(もちろん、母が買ってきたものだ)と毎日のように読む漫画本が入り乱れた本棚代わりのカラーボックスの最下段には、白地に赤青黄色に緑色と色とりどりの星たちが大小ランダムに散りばめられた収納箱が置かれている。
つまり、ここは自分の部屋であり、自分だけの城。
「ここがキミの部屋か。いいね、いいね、いかにも男の子の部屋って感じで。よし、ここで遊ぼうか」
言うが早いか男は肩の上に乗せていた少年を寝台へと投げ飛ばす。暮羽の身体がベッドの上で跳ね、そのまま柔らかな布団に尻が沈み込んだ。強張った顔で布団を握る少年の眼前で男は口笛を吹きつつ例の箱を床に置くと、図々しく学習机に近付いた。真っ先に目に飛び込んだノートの名前欄に太文字のネームペンで書かれた「4−1 くれ羽えい次」の男児らしい金釘流の文字に男の顔が綻ぶ。
「エイジくんって言うのかな? いい名前だね」
「う、うるせェ! 気安く呼ぶンじゃねェよ!! 出てけ!! 出ていけ! 帰れー!!」
心を黒い舌で舐められているかのごとき怯えを感じながらも何とか勇気と怒声を振り絞り、枕元に置いてあった漫画の単行本を投げつけると、所属しているリトルリーグの監督も目を見張る持ち前の制球力が光り、本は男の腰に当たった。
バサッ。お気に入りの一冊が小口を足にして床に着地し、凍りついたように動かなくなった男の傍らに「人」の字の形で立ち尽くす。
「……」
男の首のみがロボットのようにゆっくりと暮羽の方へと捩じられた。少年を直視する瞳が冷たい炎を静かに揺らしている。静寂に包まれた子供部屋の中で、部屋の主が息を飲んで硬直した。男が向き直る。仁王立ちしていた漫画本が蹴り飛ばされて横たわる。蛇に睨まれた蛙が小さく開いた唇をあうあうとわななかせる。男の、太い腕が振り上げられる。
そして後に続くのは、しなやかな一閃。破裂する頬。弾ける悲鳴。まろび倒れる小さな身体。
「う、うっ……」
痛む頬を利き手で押さえる。熱い。左手の指先に涙の粒が染み込んだ。顔を歪めて泣きじゃくり始める暮羽の身体の上に覆いかぶさった男の腕が少年の黒いシャツの裾を鷲掴みにして乱暴にたくし上げると、胸元にちんまりと描かれていた可愛らしささえ感じるポップな絵柄のドクロまでもが悲しそうに顔をクシャクシャにし、直後、ぺしゃんこに潰されてしまった。
「!! ぃや、や、やめろ!! やめ、て……!!」
喉に絡まる声で抗う暮羽の腰回りにも男の指が絡まり、膝下をうっすら隠していた迷彩柄のパンツを足首までずり下ろす。剥き出しの太腿を撫でる微かな涼風を感じた瞬間、混乱でさまよっていた暮羽の焦点が不意にピシャリと定まった。防衛本能が喉元で引っかかっていた叫び声を引き剥がし、麻痺していた両手足を暴れさせる。
「やだ! 離せ!! 出てけ!! どっか行けえェええ!!」
やみくもに振り回していた拳が偶然男の頬を打った。あっ。生まれて初めて人を殴ってしまった少年は反射的に叫び、無意識の内に手を引っ込める。男は無言だった。怒りもしなかったし、泣きもしなかった。物言わぬ彼はゆっくりと身を起こして少年を解放し、寝台を降りた。
オレに殴られて目が覚めたのかな。このまま、帰ってくれたらいいんだけど。寝そべったまま心の痛みが移った拳を擦りながら、不安げな眼で男を追っていた暮羽だったが、瞬く間にその瞳が張り詰めた。男が向かった先は出口ではなく、学習机。彼が手に取ったのは、その傍らの壁に立てかけていた少年野球用の金属バット。彼は振り向き、少年が待つ寝台に近付いた。口は笑みの形を作っているが、眼は怒りの色に染まっていると言う複雑で恐ろしい形相になっていた。
「いっ、いぁ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
恐怖で身体が動かず、逃げだすどころか起き上がることも出来ない。視線の先にある天井に向かって震える謝罪をただひたすら繰り返す少年の顔を男の歪んだ笑顔が覗き込む。冷たいバットの先が嫌な汗に濡れた暮羽の額をコンコンと軽く打った。
「余計なことはしてほしくないなぁ。大人しく出来ないんだったら、おじさん、エイジくんの頭をこれで吹っ飛ばして殺しちゃうよ?」
おどけた口調で紡がれる言葉は物騒の一言で、それを聞いた暮羽は色が悪くなった唇から高い悲鳴を短く漏らして身体を縮こませる。その怯えた姿にいびつな優越感を覚えつつ、男は少年を完全に屈服させられるであろう台詞を小刻みに揺れる耳朶にねじこんだ。
「何だったら、キミのお母さんも犯して殴り殺してもいいんだよ? キミを殺した後に待ち伏せしてね。キミみたいな可愛い子のお母さんだから、さぞかし美人なんだろうなぁ」
「!! お、おか……お母さん……」
男の言う「犯す」の意味は知り得なかったが、自分の行動しだいで母にまで危害が及ぶかも知れないことは確実に察した少年は、涙で濡れた頬を引き攣らせながら、男への従属を口にした。
「や、やめて……大人しく、するから、言う事、聞くから……お母さんを巻き込まないで……お母さんには何もしないで……」
「……いい子だ」
彼の母親も云々と言うのは少年を確実に服従させるための欺瞞であったのだが、それに気付く様子もなく己の目をひたと見つめて宣言する彼の殊勝さに男は素直に感心し、小さな頭を撫でる。だが、その手から少年が先程と同じような温かさや喜びを感じることはなかった。