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※赤い文字色のページには性描写があります


うたかたの甘心

 何で俺はこんな事をしているんだ。
 自分のベッド近くに置いてあるテーブルを部屋の隅に追いやる事で現れたフローリングに布団を敷く暮羽鋭次の顔は苦かった。薄い壁を通して聞こえて来るのはシャワーの音と鼻歌で、何ともお気楽なそのメロディーに少なからず苛立ちを覚えつつも布団の上で四つん這いになって角を整え、白い枕をポンポンと優しく叩くのは彼の癖であった。何故なら、本来この布団はたまに訪ねては泊まっていく母の為にある物だから。いや、実際のところ”泊めていく”が正しいかも知れない。 一日を共に過ごした母が日の暮れ頃に実家に戻ろうとすれば、自分は病を抱える母に無理をさせたくなくて、今日はもう泊まって行け、と半ば強引に押止めるから。
「ったく!」
 舌打ちをして布団のすぐ隣に配置されているベッドに乱暴に尻から飛び込み、太腿に片肘を突いて壁掛け時計を見上げると短針が“1”の文字の僅かに左上を指している。彼が眠るつもりだった時間から既に小一時間が経とうとしていた。

 それは今から一時間ほど前の事。
 提出期限が迫っているレポートを切りの良い所まで書き上げて、そろそろ寝るかと伸びをしたその時。
 カンカンカン。家賃の安さが取り柄である古アパートの錆びだらけの階段をゆっくり上がってくる音が聞こえて来た。最初は隣人が帰宅して来たのかと思ったが、どうやらその部屋は素通りされたらしく、角部屋である自分の部屋のチャイムが室内に響いた。宅配便? いや、日付が変わろうかと言う時間帯に荷物を届ける非常識な業者などいない。母親? こんな時間に? だが、母がこの部屋に来るのなら事前に何かしらの連絡をして来る筈だ。じゃあ、誰だ。帰る場所を間違えた酔っ払い? こっちの事などお構いなしにやって来る何かの勧誘? もし、そうなら思いっ切り怒鳴り付けてやる。
 軽く息を整え、既に戦闘態勢に入っているのか肩をいからせて扉に近付き、お得意の脅しの目付きでドアスコープを覗いた暮羽だったが、レンズ越しに相手を認識した瞬間、吊り上げていた瞳が丸くなった。
「風薙?」
 思わぬ来訪者の名を呟く声が聞こえたのか、それとも玄関まで来た事を察したのか、はたまた何にも考えていないのか。レンズの奥の風薙豹はチャイムから指を離し、今度はドアをノックし始めた。
「暮羽さーん、開けてくださいよー」
 深夜に響く男の声に鉄製の扉をドンドンと叩く音。平たく言えば、深夜に出す物ではない近所迷惑な音に暮羽は数秒ほど頭を抱えた後、意を決した様子で顔を上げてドアノブに手をかけた。軋む音が極力鳴らぬように扉をゆっくりと開ける。
「てめェ、今何時だと思ってンだ。デケェ声出すんじゃねェよ」
 相手によっては怒鳴ってやると言っていた決意は何処へやら、相手を諌める声もドア越しに会話する二人に漸く聞こえる程度の小さな物で、キョロキョロと近所の住宅を見回す瞳には明らかに困惑の色が浮かんでいる。普段は小賢しい態度で多くのチームメイトに眉根を寄せられている割には、このような状況で意外と常識的な面を垣間見せる先輩を面白そうに見ていた風薙だったが、ニッコリと笑顔を作って突然の来訪の理由を口にした。
「すみませんけど、今夜泊めてくれません? さっきまで合コン行ってたんだけど、終電無くなっちゃって」
「ハァ? この時間ならまだ何本か残ってるだろうが」
「いや、それがですね。終電乗って帰ろうと思ってたら、トラブルが発生したとか言ってダイヤ乱れちゃったんですよ。一応代わりとしてバスが出たんですけど、俺と同じような人がワンサカいてバス停に凄く並んでて何か面倒になっちゃって」
「ここからおめェの家まで二駅ぐらいだろ。走れ。トレーニングになるぞ」
「えー、こんな遅くにですかぁ? そんな意地悪言わないでくださいよー」
「大体、突然来るってどうなンだろうなァ? 普通、来る前に連絡よこすモンだろ?」
「予め連絡なんてしたら、暮羽さん寝たフリしたりするでしょ」
「ま、まァ、やらないと断言は出来ねェな」
「ですから、アポ無し突撃させて頂きました♪」
 囁き声での攻防戦が扉越しで続く中、不意に暮羽はしまったと言った顔を浮かべた。知らない間に風薙の足先が悪徳セールス宜しく玄関に侵入している。これでは強制的に話を打ち切って扉を閉めると言う強行策が取れないではないか。
「暮羽さん」
 突如聞こえて来た冷たいまでに静かな声。屈託のない笑顔にかかる黒い影。自分を虐げる際によく聞く声・よく見る笑顔に背筋が凍る。風薙の黒い笑顔と暮羽の強張った顔は睨めっこの如く暫し見詰め合っていたが、やがて強張り顔の方が観念したように嘆息し、ギギィと鳴く扉を大きく開いて顎を玄関の方へとしゃくった。
「やった! お邪魔しまーすっ」
 数秒前とは打って変わった明るい笑顔でいそいそと靴を脱いで部屋の中を進んでいく後輩の背中に向かって、暮羽は腹の中の空気を全て吐き出すような溜息を再度漏らしたのだった。

「いやー、風呂まで借りちゃってすみません暮羽さん」
 使い慣れた石鹸の香りがする湯気を纏いながら部屋に戻って来た風薙の声によって現実に戻された暮羽は、あぁ、と曖昧な返事をして声の方へと顔を向けるとトランクス一枚の風薙が髪をガシガシと乱暴に拭いていて、目が合った瞬間にニッと白い歯を見せて笑いかけてきた。その笑みに意味深な何かを勝手に覚えて思わず顔を逸らすと、その横顔に向かって風薙は、申し訳なさそうなそうでもなさそうな、何とも微妙な彼特有の声音で頼んだ。
「あのー、すみませんけどパジャマ代わりになる奴ありません?」
「…………」
 宿と風呂借りた上にそれかよ。浮かんだ悪態を何とか頭の中で止め、尻を引き摺るようにして降りたチェストベッドの引き出しを、すぐ近くに敷かれた布団が乱れるのも構わずにザッと開ける。一番手前の列に鎮座している部屋着の上下を引っ掴み、相手の方は見ずに後ろ手で投げつけると、ナイスコントロール! とふざけた声が聞こえて来た。
「流石は壱琉大学の制球王!」
「ンだよ、それ」
「いや、今俺が考えたんですけどね」
「くっだらねェ」
「ははっ」
 苦い顔を浮かべる暮羽の反応の一つ一つが可笑しいと言わんばかりに朗笑しながら、風薙は借りた部屋着に袖を通した。貸してくれた相手が着ているそれと同じような、襟が少し草臥れたTシャツにファストファッション店の特売チラシでよく見るウエストゴムの綿パンツ姿になった風薙は、膝をうっすら隠している裾を小さく引っ張り、その手元を見てウンウンと満足気に頷いた。
「あー、やっぱピッタリだった。俺と暮羽さんって縦も横もそうサイズ変わらないですもんね」
「あァ、そうかい。そりゃ良かったな」
 やや疲れた声でおざなりな返事をしつつ、ちょっと気分を変えようと台所へ向かい、冷蔵庫の中から飲み物のポットを取り出してシンクの近くに置いてあったグラスに注いでいると、何時の間にか付いて来たらしい風薙の顎が肩の上に無遠慮に乗って来た。
「あーもう! 何なンだよてめェは!」
 何処までもマイペースな相手に顔を少し赤らめて苛立ちを露わにする暮羽だったが、当の本人は何食わぬ顔でグラスの中を羨ましそうに凝視する。
「暮羽さんばっかり何イイモノ飲んでるんですか?」
「ただの麦茶だっての」
「麦茶? え、コレ、まさか煮出して作ってるんですか?」
「あ? それが何か問題でもあンのかよ」
「へぇ、煮出しの麦茶なんて中学の時に田舎のおばあちゃん家で飲んで以来ですよ」
 言うや否や、温度差で早くも曇り始めていたグラスを素早く引ったくり、取られた方がアッと言った時には中身の半分以上が風薙の喉の奥に消えていた。唖然とする暮羽の前で空のグラスが勢い良くシンク台に置かれ、彼は激務から解放されて漸くビールにありつけたサラリーマンさながらの威勢の良い吐息をプハーッと発射して濡れた口元を手の甲で大きく拭う。
「ご馳走様でした♪ もー、そんな顔しないでくださいよ。良いじゃないですか、こっちは風呂上りで喉渇いてたんですから」
「あ、うん、いい。もう、別に、どうでもいいわ。頼むからもう寝てくれ、な?」
 怒りや呆れと言ったものを超越した疲労感を覚えてまともに喋るのも面倒に感じた暮羽は、先程風薙に奪われたグラスに再度麦茶を半分ほど注いで口を付けた。お、関節キッス。グラスの縁を軽く挟む唇を見て風薙は思ったが、それを声に出すと本気で切れて追い出されそうな可能性が無きにしも非ずだったので、今回ばかりは素直に布団が待つ部屋へと戻った。

 隣の台所から聞こえるのは例のグラスを洗う流水音(明日にすりゃイイのに。暮羽さんって結構マメなんだな、と甲羅に隠れる亀のように掛け布団を頭から被った風薙は思った)。キュッと水道を締める音にグラスを水切りカゴに入れたらしき音。それらの音が続いて暫く後に少しムッとした顔の暮羽が戻って来て、表情そのままの声で言う。
「じゃあいい加減寝るぞ。……変な事すンなよ」
 変な事。その一言で布団の中で小さく笑った亀はもぞもぞと柔らかな甲羅から顔を出し、とぼけた声と顔で問うた。
「変な事って何ですか?」
 それは予想外の反応だったのか、彼はあんぐりと口を開けて数度瞬きをし、そこからみるみる顔を真っ赤にしつつ食い縛った歯の間から小さな呻きを漏らし、眉間に深い皺を刻んだ。裏返った早口が風薙の頭に降り注ぐ。
「う、う、うっせェ! わかンねェなら良い! 今のは忘れろ! 考えるな! 寝ろ!!」
 言いながら無遠慮に頭の上を跨いで蛍光灯の紐を手に取る先輩の両足の間を、うつぶせのまま何気なく上目で見た風薙は、ある物が視界に入った途端に思わず吹き出しかけた口を慌てて覆って布団に突っ伏した。……ヤバい、見えてる。今、自分が履いてるのと似た膝丈パンツとトランクスの隙間から、その、うん、暮羽さんのポロポロちゃんが。え、まさか、わざと? 流石にそれはないか。
 そこまで考えた所で風薙は慌てて敷き布団に向けていた視線を天井方向へと戻した。布団なんか見てる場合じゃない。せっかくの“お宝ショット”を堪能しないと。
 そんな後輩の挙動にも大変な失態を見せている事にも気が付いていないらしい暮羽は、顔を蛍光灯に向けたまま握った紐を数度引き、豆球一つの灯りになった所で何故かさっきから天井を穴が開きそうな勢いで見ている風薙から足を離して壁際のベッドに上がっていると、ささやかな抗議の声が背後から聞こえて来た。
「えー、豆球点けて寝るんですか? 俺、真っ暗派なんですけど」
 何処までも図々しい招かれざる客人に暮羽は四つん這いのまま相手の方を向いて声を荒げた。
「布団被って寝るなり、その辺のタオルで目ェ隠して寝ろ馬鹿!」
 そう言うや否や、フンッと鼻から息を抜いて薄い肌掛けに滑り込み、枕に頭を叩き付けるように沈めて背を向ける。
「……おやすみなさーい」
 相手を刺激しないようにか細い声で挨拶をした風薙は、組んだ両手を枕と頭の間に挟んで天井を見上げた。