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※赤い文字色のページには性描写があります
それからどの位経ったのだろう。風薙は豆球一つの薄暗さにも慣れてきた目をキョトキョトと動かし、一息ついて元の天井に視線を戻した。
静寂。いや、完全な無音の世界ではない。耳を研ぎ澄ませば様々な音が聞こえて来る。壁掛け時計の針の音。冷蔵庫の唸り声。近所の犬が何かの理由で吠え始め、その声に続いて他の何匹かがワンワンキャンキャンと暫し共鳴する。このアパートに向かう際に通った大通りを走るトラック、サイレンを響かせる救急車、私は馬鹿ですと大っぴらにアピールしている爆音を遥か彼方まで轟かせる改造車。だが、先程から待っている音は中々聞こえて来ない。それは。
「……」
チラリと黒目だけを横に向けると自分に背いた姿勢を維持した暮羽が横たわっていた。その襟は自分が借りた服と同じように少し草臥れ伸びていた。だから、スポーツメーカーのロゴが刺繍されたあのシャツは普段着から寝間着へと降格してしまったのだろう。まぁ、そんな事は別にどうでも良いのだが。
「……」
壁を見ると自分のか細い挨拶から十五分ほど経過している事を時計が教えてくれた。もう、なのか。まだ、なのか。何とも微妙な時間の経過の中で風薙は鼻から小さく息を抜いた。
聞こえないな。
ずっと待ってるのに。
暮羽さんの寝息。
改めてすぐ近くの暮羽の背中を見遣る。息をしているのは聞こえるが、眠っている時特有の穏やかで定期的な呼吸ではなく、寧ろ仄かな警戒心が透けて見える。風薙は布団に入ったまま数秒ほどその背を見ていたが、ついに口を開いた。
「暮羽さん」
返事はない。それどころかピクリとも反応しない。囁き声だったから聞こえなかったのか、それとも狸寝入りなのか。今度は少し声量を上げる。
「寝れないんですか?」
「……」
布擦れの音を小さく立てながら暮羽が身体を翻し、風薙もそれに合わせて身を起こした。寝る前と全く同じ様子から見るに彼は一睡もしていなかったようだ。
「そう言うてめェはどうなンだよ」
「いやー、実は俺、枕が違うと寝れないタイプなんですよねー」
「嘘言ってンじゃねェよ。大学の構内とか部室とか河原とかあっちこっちでグーグー寝てるクセしやがって」
「ははっ、バレちゃいましたか。て言うか、暮羽さんって俺の事結構見てくれてるんですね。何か嬉しいなぁ」
「気持ち悪ィ……」
俯いて口の中でモゴモゴ言う暮羽だったが、何気なく横目で相手を見た瞬間に表情が固まった。相手の今までの無垢な笑顔が消え、代わりに浮かべている笑みは自分にしか見せない毒に満ちた黒いそれ。
「もう面倒になって来たから単刀直入に言いましょうか。暮羽さんが寝入ったら襲ってやろうと思ってました」
「!!!!」
やっぱり、やっぱり、それが目当てで上がり込んで来やがったのかコイツ!! 今更ながら彼を部屋に入れてしまった事を後悔しつつ壁に背を当て、胸元に肌掛けを掻き寄せると言う我ながら無駄な抵抗をする。自分に出来る最大限の威嚇の目で風薙を睨み付けたまま暮羽は小さく唸るように言った。
「……てめェ、もう帰れよ!」
「えぇ、帰っても良いですよ」
必死で凄みを利かす瞳に氷の目線を返しながら風薙は寝台を軋ませ上がって来た。分かってはいたが脅しも何も通用しない相手を何とか睨み続ける暮羽の鼻先に風薙の鼻先が触れ、目線と同じ声で無感情に言う。
「帰るとしたら貴方を滅茶苦茶に犯してから、ですけどね」
「くそッ、クッソ……!!」
絶体絶命な状況に目の前の風薙がボンヤリと歪む。もう、駄目だ。俺はまたコイツに滅茶苦茶されるんだ。いつもコイツに部室でされているあんな事やこんな事を。
この部屋に入れてしまった時からこうなるかも知れないと覚悟はしていたが、やはり状況に直面してしまうと身体は拒絶し、心は悔恨と恐怖に満たされる。
「……」
顔を赤くして歯を食い縛り、ギュッと瞑った瞼に悔し涙(それとも恐怖の涙か?)を滲ませる暮羽を風薙は暫し面白そうに眺め、唇の端をクッと吊り上げた。
ここまでは見事に計算通り。さて、と。
「でもまぁ、ちょっと困っている所を助けて貰った恩はある訳ですからね」
僅かに情が戻った声で独り言のように呟いて腕をそっと上げると、眼前の彼はそれが陵辱の始まりを知らせる動きだと思ったのか肩を強張らせた。だが、その手は誰にも触れる事はなく、項垂れる暮羽の顔の横を通って静かに壁に押し当てられる。それは意表を突いた動きだったのか白黒している相手の瞳を覗き込んで風薙は変わらぬ声で言った。
「お礼として、今回は選ばせてあげますよ。セックスとレイプ、どっちが良いですか?」
「ヘッ?」
突然突き付けられた選択肢に思わず間抜けな声が出る。選ぶも何も、どちらも嫌だから“しない”と言う選択肢はないのだろうか。
「あぁ。しない、はナシですからね。ヤる事に変わりはないですからそのつもりで」
「くッ……」
心の中を覗き込まれたような錯覚を覚えて低く呻く暮羽だったが、その頭の隅では既に諦めが付いているのか風薙に与えられた選択肢の意味を考えていた。セックスとレイプ。基本的な行為は変わらないが、その違いは概ね分かる。それを具体的に挙げろと言われると、回答に困ってしまうのだが。
「言い方を変えましょうか。抱かれるのと犯されるの、どちらを望みます?」
言葉を続ける風薙の口調はいつもと同じ穏やかなものだったが、その声からは作ったようなもどかしさを感じた。そして、暮羽から全く離れぬ彼の瞳が言う。そろそろ決めないとこっちで勝手に決めますよ。犯しますよ、と。鋭い双眸に急かされた暮羽はついに観念し、自棄を起こしたような声で言った。
「わーッたよ! 決めれば良いンだろ!? ……抱いてくれ。これで良いのか?」
「うーん、別に悪くはないんですけどー」
「な、なンだよ! ちゃんと選んで言ッただろ!?」
恥ずかしさを必死に堪えて言った台詞に飄々とした態度を返された事に声を上ずらせる暮羽だったが、次の瞬間にピクンッと身体が小さく跳ねた。風薙の、手が、触れる。刈られた側頭部を、静かに撫でてくる。戸惑い、俯く暮羽の顔を、下から舐めるように覗き込む。整った顔が、笑いかける。幼子のように純粋で、純粋すぎる故に残酷なその笑みのまま薄い唇が静かに動く。
「もっと、こうハッキリ言って欲しいんですよね。セックスしてください、って」
「…………」
笑みから滲み出る深い闇に、常に強気に吊り上っている暮羽の眉が八の字になった。コイツには、逆らえない。逆らっては、ならない。だから。
「せ……」
口唇に合わせるように声まで震えている事に気付き、コッソリと唾を飲み込む。それでも口の中が異常に乾いているのを感じながら、暮羽は相手が望む言葉をカラカラの喉の奥から搾り出した。
「セックス……して、ください……」
言い終わった瞬間に頭が噴火したかと思うと汗がマグマの如くぶわっと噴き出し、燃える顔を両手で覆い隠して何やら喚く先輩を風薙は変わらぬ笑みのまま眺め、静かに眼を細めた。眩しげな眼差しはこの上なく愛しいものを見るそれに酷似していたのだが、己の掌しか目に入っていない暮羽は気付くべくもなかった。
「よく言えました」
余り聞き慣れぬ温かな声が耳に入った矢先に自分の両手首をそっと握られ、未だ熱い顔を隠していた手をゆっくりと引き剥がされる。弱々しい豆電球一つの灯りの下。窮屈な寝台の上で二人の視線が絡み合った。
「それじゃ、暮羽さんの望み通りにしましょうか。……賢明な判断だと思いますよ」
語尾の方はほぼ囁くように言いながら、風薙は相手の微かに揺れる眼を刺すように見据え、頭の中を少しずつシフトチェンジさせる。この人は、性欲処理に使う人なんかじゃない。この人は、大事な人。この世界で一番愛しい人。だから、大切に大切に扱わなければならない。
あぁ。思考回路を一時的に変えた風薙の瞳は何かに繋ぎ止められてしまったかのように目の前の男から離れられなくなり、熱い嘆息が漏れる。優しくて甘くて羽衣のように薄い作り物の情愛がふわり、ふわりと重なって頭の中を覆って行き、うたかたの恋心が、空虚な風薙の心を薄桃色に包んでいく。
未だ壁に背中を貼り付けたまま不安げに自分を見詰める大きな垂れ目。すっと整ったラインを描いている鼻梁。小さく開きっ放しの薄紅の唇。しっかりセットしている普段と違ってあちこちが乱れ落ちているくすんだ金色の髪。着ているシャツのヨレヨレの襟元さえも日がな一日遊び回るやんちゃな子供を彷彿させる。あぁ、何て愛らしいのだろう。何ていとおしいのだろう。歯が浮いて仕舞いには零れ落ちそうな美辞麗句が次から次へと頭の中で羅列される。
――そろそろ、良いかな。
頭の片隅に必ず残している何処までも冷静なもう一人の自分が声をかけてくる。どんなに相手を想ってもそれはあくまでも作り物。陵辱ではなく、情を交える事を選んだ相手に対する最低限の礼儀であり、儀式に過ぎないのだ。
いつまで人の目を見てるんだコイツ。己の瞳を見据えてくる風薙の鋭かった眼差しが瞬きに合わせて少しずつ甘く緩んでいく事に不気味さを覚えつつも、彼もまた相手から目を逸らす事が出来ずにそっと舌打ちをする暮羽だったが、急遽自分に向かって伸びて来た手に過剰に身がびくつくのを感じた。近づいて来た手が自分の頬を包む。熱を帯びた頬に触れる冷たい手が何とも心地良い。手に続くのは風薙の顔。両の口角をキュッと上げた笑顔がアップになり、これまた冷たい額が自分の額にコツンと触れる。
「っ……」
不安混じりの短い呻きを零すと、耳ざとい彼は優しく囁いた。
「怖いですか? ……大丈夫」
優しく、しますから。確かにそう聞こえた。今まで彼と幾度も身体を強制的に交わされた中では一度も聞いた事がなかった台詞に自然と躊躇いが走る顔に風薙は少しだけ困ったような表情を返し、額同士が触れ合っていた場所に唇を近付けた。
柔らかな唇が触れ、あっと思った時には唇は左右の頬に交互に挨拶をし、くすぐったさを覚えて小さく持ち上がる鎖骨にもキスが贈られる。そして
「暮羽さん」
「あ?」
突然名前を呼ばれて面食らう相手に風薙は微笑を浮かべながらも至って真面目な声で聞いた。
「唇にキスしても大丈夫ですか?」
「……」
コイツ何を言っているんだ。これが率直な感想だった。いつもは……部室やらマッサージルームやらで自分を辱める時は許可も何もせずに、無理矢理唇を吸い、血が滲むまで噛み付き、口内を貪ってくるくせに。
「暮羽さん」
問いに答えぬ自分の名前を再度呼ぶ彼の声は切なげだった。笑みも崩れ、眉を悲しそうに顰めていた。それは、ただ単に同情を誘っているだけかも知れない。彼がそう言うのが得意である事も充分分かっている。でも。
優しく、しますから。
頭の中で件の台詞が反復される。
そして、気が付けば、相手から少し視線をずらしつつも小さく頷いている自分がいた。視野の隅で風薙の顔がパッと輝き、慌ててその表情を引き締めていた。再度、風薙の手に包まれた顔に、手の主の顔が近付く。無意識の内に目を閉じた暮羽の唇に柔らかい何かが触れ、溶け合ったのはそれから数秒後の事だった。