■□ battere □■
レイラ
フェイン
アイリーン
クライヴ
セシア
ルディ
ヴァイパー
ロクス
昨夜のことで、少しだけ気まずくなった。
北から来た天使様は、翌日また北へと舞い戻る。天使様は疲れ果てた女騎士殿の「ひとりにして」の言葉にうなずき、あとのことを温厚な小さき存在・リリィにまかせ、今度はウォーロックの青年と共に北を目指し翼を広げた。
昨夜、妙齢の少女の姿の天使シルマリルは、己の被使役者、つまりは下僕に等しい勇者フェインを半ば力ずくで従わせ彼の心音に耳を傾けた。
そのような行動に出るからには相応の理由があり、フェインも理由を聞かされて釈然としないなりに納得だけはしたけれど、記憶が薄れるには時間が短すぎる。
シルマリルが女騎士レイラと馬で来た道を今度は徒歩で北に戻りながら、フェインは何度か己の目線より少しだけ高い場所をふわりふわりと舞っている己の天使の横顔を盗み見た。その横顔は彼の知るいつもの横顔のままで、いつもなら緊張感を感じさせない優しげな面差しにフェインはずいぶん救われているのだけれど、今日は少々勝手が違うと言うか、あまりにも無邪気すぎて無防備な行動に意識しない方が無理というもの。
見上げれば、戦乱の煙がきな臭い世界の情勢なんてどこ吹く風、空の青と雲の白が目に痛いほどまぶしい。
抜けるような青い空の下を軽やかに駆け抜ける風はいたずらな天使のようなのだけれど、実際の天使は温厚で生真面目で物静か、風というより凪の海のよう。似たような性格のフェインはそんな彼女にわずかな同調を感じているから、多少突拍子もない申し出だろうと戸惑いながらうなずいてばかり。
年端もいかぬ小娘に振り回されている気がしないでもないけれど、人間の少女ならいざ知らず、天使様が人間を振り回して楽しいと思うかどうかなんて想像すらつかない。
天使シルマリルの勇者の中で一番年長、世界を渡り歩き見てきた男は、天使だからとそれらしく厳しい顔ばかり見せられ自分たちの世界の行く先を鬱々と案じられるよりずっとましだと言うことを知っている。出会った夜、唐突に天使の剣という役目を負わされた時はずいぶん戸惑ったのだけれど、実際に行動を共にしてみればなんと言うことはなく、自分の生きる世界を自分の手で、出来る範囲で何とかしよう、その程度の話だった。
当初は肩肘張ったご大層なお題目に思わず身構えていたけれど、あれからもうじき一年、今までの人生と劇的に変わることはなかった。
空を行く雲も遥か北に見える山々の姿も何も変わりはしなかった。
「いい天気ですねぇ。こんな日はひなたぼっこしたくなります。」
大柄なフェインの少し上から宙を舞う天使様の声が暢気に降ってきた。
昨夜のことでフェインは一方的な気まずさを感じているのだけど、天使様はやはり純粋な好奇心からの言動だったらしく、気が抜けそうなほどいつもの天使様だった。青く高い空がただでさえ目にしみるのに、天使様は美しい純白の翼を広げ優雅に羽ばたきおひさまひとりじめの贅沢を堪能している。
こういう姿はいつもの、いやで彼が知っている天使様で、子どもみたいにあどけないシルマリルで、フェインは厳しいほど緊張感すら感じるほど引き締まった表情をふと緩め思わず微笑みながら見上げた。
彼女を見ていると、思い出すのは義妹であるアイリーン。
金の髪と青い瞳、天使様とほとんど同じ背格好の闊達な少女。魔道の師であるジグの孫娘。
シルマリルが、天使という書物の中でしか存在感を感じられない存在が、寒い冬の夜に姿かたちを持ち舞い降り初めて目にした時も、フェインの脳裏の隅に義妹の面影がよぎった。しかしそれは駆け抜ける光にも似た一瞬のことで、しかも正体不明の黒衣の一団に襲われた直後のことで、意識を取り戻した時にはすでに忘れていたけれど――――今は不安定な情勢なりに落ち着いていると言うか小康状態といったところなのだろう、思い出してもしょうがないような小さなことを不意に思い出すことが増えていた。
「彼女……レイラは大丈夫だろうか? ずいぶん消耗していたみたいだが。」
いろんなことがとりとめもなく思い出されるけれど、さし当たって今フェインが心配なのは、やはり昨夜憔悴しきりだったレイラのこと。確かに彼女はフェインの在籍している魔導士ギルドの本拠地でもある六王国連合を踏み荒らしている帝国の騎士の一人であるのだろうけど一線を画しているような印象を覚えたし、正義感も何もないような人間がシルマリルに選ばれるとも思えない。
何より、己の立場に罪悪感や迷いがあるから昨日のことなのだろう。彼女を責めるのは簡単だけれど、そうしたところでフェインの感じている怒りなどが昇華されることはないということもわかっていたから、「帝国の騎士」ではなく「天使の勇者」と捉えて向き合った。
『シルマリルならどうするだろう?』
そう思ってみたことで、自分がどうすればいいのかが明確になった。
フェインは年齢を重ねた人間ならではの思考で、ひとりの人間として疲れきった仲間を労わった。
「手紙の件は急ぐことでもなかったから、彼女が元気になってからもう少し話をしてみたい気もしたのだが。」
「あなたや私がそばにいると、きっとレイラはつらくても気丈な顔を見せると思います。
なにかあったら彼女に同行しているリリィが連絡をくれるようになっています。」
「そうか……彼女もつらいな。」
「でも、グランドマスターも、あなたもわかってくれました。
そのことがきっとレイラの救いになるはずです。」
「そうだといいのだが……」
言いながら、言いよどみ、琥珀色の眼差しは青い空を映しこむ。
元々無口な男は言うことがなくなって、それから先は天使様の一方的なおしゃべりが始まった。
再会は、アルクマールで。
背格好のよく似た少女ふたりのはしゃぐ様子はフェインには珍しくてまぶしくて何も言えずに微笑むばかり、そして天使の同行者はフェインからアイリーンに変わった。
「はーつっかれたぁ!」
フェインもアルクマールに向かっている、と数日前に聞かされたアイリーンは、隣町のブレシアを急ぎ発ち、今朝アルクマールに入ったらしい。旅慣れた大柄な男のフェインと祖父たちと暮らした塔からなかなか出ることがなかった少女、いや子どもと言った方がわかりやすいかもしれないアイリーンとでは当然歩く速さからして違っていて、しかもフェインとの情報交換も思っていたより時間がかかり、日が暮れて天使様と共に宿の部屋に転がり込んだ頃には足が棒のようだった。
大人用の大きなベッドにシルマリルとさほど変わらないほど小さな体を投げ出して大きく息を吐いて手足を思いっきり伸ばすと眠気が襲ってきて、アイリーンは思い切り頭を振ってそれを追い払った。
フェインとの話が済んだけど、シルマリルとはほとんど話をしていない。アイリーンには多忙極まる天使様に報告することもたくさんある。
「あなたとフェインは義理の兄妹だったのですね。」
合縁奇縁、あまりにも奇妙すぎる縁、偶然に、のんびり屋のシルマリルも目を丸くしつつそう口にした。
アイリーンとフェインは、アイリーンの姉セレニスでつながっていたらしい。セレニスは現在行方不明、グランドマスターの話ではどういう事情なのか帝国にいるらしいとのことで――――運命などと言う陳腐な言葉では到底誰も納得できそうにない、「偶然」と言う言葉で都合よく片付けるのが手っ取り早いだろう。
兎にも角にもシルマリルでまた強くつながったふたりは、ひとりの女性を探し別の旅を続ける。
アイリーン。天使シルマリルの勇者で、大魔導士ジグ=ティルナーグの孫娘。
彼女自身も、幼げな外見に見合わず強大な魔道を行使する魔法使いでもある。
その姿はフェインがシルマリルを見て彼女を一瞬思い出すほど共通していて、並んで立てば身長は同じ、どちらも金の髪、青い瞳。ただ、アイリーンの瞳は青い青い氷河の色、シルマリルは春の空の青。
髪の色だってアイリーンは亜麻色に近いがシルマリルは早春のくすんだ日差し色と微妙な具合に違う。
それでも、くるんとした瞳と肩のあたりでふっつりと切りそろえている髪、丸みを持つ頬の線などはよく似ていた。
「それにしても、フェインは本当に旅慣れていますね。
一晩も休まずに旅立つなんて……」
「フェインは私と違ってギルドの仕事があるからね。
あなたこそすごく忙しかったみたいじゃない。休まなくて大丈夫なの?」
アイリーンは雑談から始まりそうな近況報告を横になったままするのはあまりにも失礼だからと軽い反動をつけ上半身だけ起こした。けれど、座りなおそうとした彼女をシルマリルは笑顔で制し、フェインの時と同じに少し強引に話を切り替えて進める。
「私は平気です。アイリーン、いろいろあって疲れたのではないですか?」
「まあね……ね、シルマリル、しばらく一緒にいてくれるって本当?」
「ええ。旅の話、聞かせてください。」
アイリーンとシルマリル、年齢が近い同士顔を見ればうるさいほどに話が弾む。
シルマリルの年齢は当然見た目どおりではないのだけれど、天使様は時に見た目どおりの行動を取ることもあるから、彼女の勇者たちは深く考えなくなった。外見年齢が近いと言う話ならもうひとりの女性勇者セシアが一番近いのだけど、セシアの場合、シルマリルの勇者たちの中で天使という存在を敬い、信じ崇めている人間としてふさわしい態度をとる。アイリーンの場合はまるで気のおけない女友達、フェインが見ればシルマリルをもうひとりの姉妹みたいに思っているのかと感じさせることさえあるほどに身近な存在として接している。
同じくらいの背格好と青い瞳、金の髪と共通している外見がその印象に拍車をかける。
もう陽は傾いて今日も残すところあと少し、おそらく今夜のアイリーンはちょっとだけ夜更かしをすることだろう。少女たちのおしゃべりに、時間なんて野暮でおせっかいでしかない。
「……ね、フェインとどんな話してるの?」
「え?」
近況報告……のはずなのに、アイリーンはいきなり義兄の話など振ってきた。
シルマリルが質問の中身を即座に理解できず問い返すのは当たり前、天使様とフェインはまだ一年足らずの関係なのに、あの口数が少ない男が義理とはいえ肉親となったアイリーン以上に親しくなるなど――――礼儀正しい天使様と生真面目なウォーロックが、たかが一年足らずの時間程度で、何もかもを、腹を割って話そうはずもない。
「あ、ほら、フェインってばなんていうか口数少ないじゃない? 真面目でいい人なんだけどぎくしゃくしてないかなーって」
少し間を置いてやっとアイリーンの質問の意味を理解したシルマリルだけれど、今度はその中身があまりにも唐突過ぎて、答えるよりも先に小首をかしげてしまった。そんな彼女の様子を見て自分の言葉がいきなりすぎたことに気づいたアイリーンは、不自然な言い訳を口にしながらぎこちない笑顔で取り繕う。
その様子を人間の少女が深読みしつつ見れば不器用な義兄と暢気者の天使様の関係を案じているだけではなさそうに映るのだれけど、人間の少女ではないシルマリルが人間ならではの微妙な印象に気づこうはずなどない。アイリーンの言葉も言い回しも笑顔さえも不自然だったにもかかわらず、どもりつつ返された言い訳のような言葉の続きにシルマリルは特に疑問も残らなかった様子でにこにこ笑っている。
「本当に真面目な人ですよね、フェインは。あなたたちみんな……と言ったら少し語弊がありますけど、みんなそれぞれ真面目ですが、その中でも特に生真面目だと思います。
生真面目と言う話では、帝国の騎士のレイラもそうなのですが」
「ちょ、ちょっと!? あなたの勇者に帝国の騎士までいるのッ?」
雑談か近況報告か境界線が曖昧な話の中でさらりと語られた驚きの事実を、利発なアイリーンが聞き逃したり意図的に受け流したりすることはない。目を丸く見開いて訊き返したアイリーンの問いかけに、シルマリルはわずかに眉根を寄せ困ったような微笑を見せる。
慎重すぎるフェインとは正反対、己の中に生まれた疑問や好奇心を優先する己の性格が天使様を困らせたと気づいたアイリーンは慌てて声の高さを少し落とし語調を穏やかにしさらに問おうとしたのだけれど、珍しいことにシルマリルが先に口を開いた。
「珍しい立場にいる勇者と言えば、エクレシア教国の教皇候補のロクスとか、レグランスの第二王子のルディエールがいます。そのせいか、レイラの立場を特別に考えたこと、ありませんでした。」
「あなたらしいわ……でもすごいわね、教皇候補とレグランスの第二王子もあなたの勇者なんて。」
「みんな同じですよ。あなたやフェインと同じように、レイラもロクスもルディエールも自分たちの事情で悩んでるみたいです。
私は頼みごとをするばかりであなたたちの力になれていないのが申し訳ないのですが……」
「そんなことない、あなたは出来るだけ一緒にいようとしてくれてるじゃない。
天使なのに命令もしないし押しつけもしないし、私、あなたの力になれるから、慣れない旅も面倒なこともやろうって思えるの。
もっと自信持ってよシルマリル。」
少女ふたりだとご機嫌の変動もなかなか激しい。天使らしくもなく落ち込んだ顔を見せたシルマリルの陰のある笑みに、アイリーンは彼女の落ち込みの原因を思いっきり言葉と行動で否定してさらにしなやかな白い手を強く掴んだ。
「本当に何もできてないなら、私だけじゃない、みんな適当にしか仕事しないよ。
あなたが一生懸命だから、せめてあなたに対して恥ずかしくないくらいにってがんばろうって思えるんだから!
少なくとも私は納得できてないことに一生懸命になんてなれないよ、もっと胸張っててよ、シルマリル。」
まっすぐに目を見て。
叱るような口調で。
出来ていることの割に自分に対する評価が低い天使様を、アイリーンが強く強く励ます。
強く握られた手のひらから感じるものは彼女の体温と気持ちの強さと心配の深さ。天使様は存在する次元が本来違うのだけれど、高みの見物を潔しとしない性格が表に出て己の下僕たちと同じ次元に存在している。勇者たちには触れ得る確かさで存在している上位の精神体が共にいると言う現実が更なる力と信頼につながり、シルマリルは驚くほどの時間の短さで複雑な背景を背負う人間たちの信頼を勝ち得た。
しかし少し気の弱い天使様は彼女の努力に気づかなくて目先の無力さを責めてばかりいるから、勇者たちは彼女への気持ちをさらに深めてしまう。
威張り散らさずに、同じ次元で同じように悩み苦しんですらいる天使様に対して何が出来るかと考えてしまう。
アイリーンの激しい言葉で胸が詰まってしまったシルマリルはなにかいいたげに唇だけ動かすけれど言葉は出てこなくて、自分の手を痛いほど強く掴んで離さない小さな手にそっと頬を寄せた。
上質な蜂蜜みたいな淡い日差し色の髪がさらりと指に絡み、どこか恍惚とした様子を見せながらまぶたを閉じた天使様の表情に、アイリーンは思わず頬を染め目を見開いたけれど、思い余って振りほどくことはしない。
むしろ心配や慈しみ以上、どこか愛しさを感じさせる眼差しで幼い天使様を見守っている。
「……アイリーン、あなたの鼓動を聞かせてくれませんか?」
手のひらからかすかな鼓動は感じる。けれど弱くて彼女の面影はよくわからなくて物足りなくて、天使様はフェインに投げたわがままを同じようにアイリーンに投げた。
ただ、フェインの時とまるで違うのは、今の天使様は心細くて眠れない幼子のような声だということ。
幼子が父母に添い寝をせがむのとさして変わりなさそうな様子でポツリとつぶやいたから、そこにわかりやすい事情めいたものがあったから、アイリーンはクスリと微笑みうなずいた。
「いいよ。そのかわり、あなたの鼓動も聞かせてね……って、私たちと同じじゃないかもしれないけど。」
越えられないのは、種族の壁。気持ちが近づけば近づくほど隔たりを強く感じてしまう。
どうして同じ世界でずっと一緒に生きてゆけないのだろうとひどく切なくなってしまう。
それを感じているのは依存にも似た親愛を抱えるようになったアイリーンばかりではなく、人間と言う存在に引きずられ始めたシルマリルも同じ。どちらからともなく、なにか口にすることもなく、気持ちも手のひらも合わせた少女ふたり、まるで鏡あわせのよう。こつりと額を合わせそうな近さで胸まで重なりそうな近さで目を閉じて、お互いの存在感を感じたいと強く願いすべてを傾ける。
――――そう、瞬間、世界にふたりだけ、世界のすべての人間が消えたかのように。
大好き。ダイスキ。ずっと一緒にいられたらいいのに。少女はそう願いながら。
好き。親愛以上の気持ちを知らないからそんな言葉しか出ないのがもどかしい。天使様もそう感じている。
「……あなたってあったかいね、シルマリル。」
「……あなたも、とてもあたたかい…………。」
難しいことが考えられない。
気持ちが絡まって解けないように指が絡んで離れない。
くすぐったくてあたたかくて苦しい気持ちをなんと言うのだろう? 男女なら恋愛感情だということをお互いに知っているけれど、同性同士だと禁忌とされている感情。他人は多分そう言うのだろう、けど――――すべてが解けてなくなるような不思議な気持ちをどう表せば的確に表現できるかを、人間も天使も知らない。
知らない、けど……知らない、から…………
小さな額が、こつんと触れ合った。
少女たちの夜はただ静かに過ぎるばかり。
レイラ
フェイン
アイリーン
クライヴ
セシア
ルディ
ヴァイパー
ロクス
2009/08/03