■□ battere □■
レイラ  フェイン  アイリーン  クライヴ  セシア  ルディ  ヴァイパー  ロクス

 大地に夜の帳が下りつつある。
静かな緑の森の中に土ぼこり舞う道が伸び、それが石畳になるとほどなく枯草色の集落や石造りの町へとたどり着く。空と海と大地の境目が鮮やかな、神と精霊が息づく牧歌的な箱庭世界、その名は「アルカヤ」。
人々が神に精霊に祈りを捧げ踊り続ける世界には、時に伝説の中に生きる存在が現れる。

 ……忘れていたわけではない、と口に出さずにつぶやく。

 夕暮れ時の石造りの街角で、麗しい乙女は声に出さずにつぶやいた。
蜂蜜色の緩く巻いている髪とあたたかみある青い瞳、朝露に濡れるみたいな淡い淡い紅色のさす肌は人間の存在感を持つ。しかし人とは思えないほどの美貌は神々しく、なにより小さな体の向こうに見えるその体より大きな翼が並々ならぬ神気を放っている。
 天使シルマリル。背にはその小さな体より大きい翼を背負う神の代行者。
不穏な空気漂いつつある箱庭世界アルカヤを守れと天使ラファエルに命ぜられ舞い降りた少女の姿の天使様は、背に翼を持ち人並みはずれた美貌を持つ以外は人間の少女と変わりない。いや、むしろ、天使と言う精神体で存在するものと言うにはあまりにも生々しい存在感すら持っている。
だが、彼女の身なりも容姿もまさしく「清廉なる乙女」と称するにふさわしい清楚な少女の姿をしているから、彼女が自らを天使だと言えば、語りかけられた側は素直に信じてしまうほどの奇妙な説得力を持つ。
しかし彼女は自分の身なりなどを省みることなどほとんどない。胸の奥でつぶやいた言葉はもはや言い訳にもならないことを、つぶやいた当人が一番、痛いほどにわかっている。
それでも、わかってもらえないとわかっていても言わずにはいられない。
 人間より高いところにおわす彼女にそのようなことを思わせるなにかがあるのだけれど、そも天使様ともなればその御心を煩わすとなればかなりの大事のはず。彼女の表情も小さなことを思い悩んでいる風情はない。
大事なだいじな役目を負い箱庭世界に舞い降りたのは、伝説の中に息づいている救いの御手、神の代行者「天使」、のはず……なのだけれど…………

 ……忘れていたわけではない、と口に出さずにもう一度つぶやく。

 日暮れ前、人通りの途絶えない広い往来の道端で、人より上の存在は自分の世界に閉じこもる。
戦う力を持たない乙女は気弱なほどに温厚で争いごとを好まない。しかし使命に忠実な幼い天使は己の得手不得手など押し殺し押しつぶして役目に生きる。戦う力を持たぬ己の剣として七人の矮小なる人間を選び、麗しい乙女は戦いに身を投じ続けている。
 麗しい乙女の姿の天使様を支えこの世界でその御心に沿うべしと働いている七人の人間たちは、使役被使役の間柄にもかかわらず彼女も犠牲を払い同じ大地に立ち役目を遂行すべく足掻いていることを理解し、己らの天使、いや尊敬できる個として彼女にそれぞれの忠誠を捧げている。
気弱なほどに心優しい少女が、神とその尖兵たちにとっては遊戯の盤上と同じ箱庭世界のために自ら大地に降り立ち歯を食いしばり、人間と共にあくせくと日々を過ごしていることを彼女を知る人間たちは知っている。
だから人間たちは天使様の心痛を汲み取り苛烈な戦いの日々を共に耐えながら駆け抜ける。
己の勇者を盤上の駒と同じに扱わず、同じ世界に降り立ち息づいて存在している未熟で幼い天使に、勇者と称した下僕の役を割り当てられた七人は自らの意思で天使シルマリルに己の信仰を捧げ戦う。
美しい翼持つ乙女の下に、世界と、そして彼女を守るかのように集う七人の勇者たちは戦い続ける。


――――の、だけれど。


「……忘れていたわけではないけれど…………。」
 涼やかでか細くすらある声。とうとう不安が口をついて出た。
それほどに天使様を悩ませていることがあるらしい。言葉を吐き出すのと同じようにため息もつけて、細い撫肩をさらにかっくりと落としうなだれている少女の姿を道行く人はちらりとも見ないし声すらかけようとはしない。
もう少し遅くなれば暗くなれば今度は酔っ払いが闊歩するから美しい小娘を誰も放っておかないだろうけど、今はまだ早すぎる。
 彼女が立つのは大都市も大都市、聖なる都、宗教国家エクレシア教国の首都アララスの裏通り。
裏通りでさえ石畳のモザイク模様が美しく、聖都と言う呼び名のとおり天使が舞い降りるにふさわしい都市。
聖なる都に天使が舞い降りた。しかし誰も目もくれない。
理由は至極単純で、天使様の御姿を目に出来るのは選ばれた人間のみ。それを口さがない者が知ったなら、おそらくこうぼやくことだろう。
『美しすぎる少女はずいぶんと出し惜しみしてくれる。』
……もちろん、そんなことを言えるほど肝の据わった者がいれば、の話だけれど。
 天使様はまたため息をついた。何かを「忘れていたわけではない」、しかしそう思われても言い返せなくてため息ばかり繰り返すほど、なにかを放置したらしい。丸い頬を手のひらで包み途方に暮れても誰も声をかけないけれど、彼女にとってはそれが当たり前。
何も疑問に思うこともなく、この後も誰も声をかけるはずもないまま彼女は気が済むまでため息ばかりを繰り返しいずれ諦めて己のお役目を遂行するしかなしと開き直るしかない。

 ……はずなのに。

「よぉ、お嬢さん。今日もまたお美しいことで。」

 突然頭の上から降ってきた聞き覚えのある低い声に、天使様が弾かれたように丸い目を真ん丸く見開き顔を上げる。
そして見上げるまでもなく視界に入ってきた大柄な青年の姿。普通の人間には姿が見えないなりに控えめに道端で思案に沈んでいたシルマリルの目の前に、いつからなのだろう、大柄の強面が相好を崩しながら立っていた。
小柄なシルマリルと並ぶとさらに際立つ長身の体、逆立つ短い銀色の髪、左こめかみの髪を上着と同じターコイズブルーに染め、右目には眼帯。
シルマリルの天使らしい品のあるいでたちとは明らかに正反対、不似合い、不釣合い。どこから見ても不良少年上がりの性質のよろしくない大人、なんだけれど――――
「しかしいつにもまして可哀想な困り顔だ。ロクスにまたいじめられたか?」
 そのいでたちにふさわしい言葉遣いと不躾さは、天使を天使と知り敬う人間のそれではない。美しい少女をからかう性質のよくない男のそれ。
だが、からかう言葉とはまるで正反対の、まるで子どもをあやすかのような穏やかな声色と、強面だからこそ愛嬌すら見え隠れする微笑はぱっと見で身構えてしまいそうな悪人のそれには見えない。
そのひとつしかない目には見上げる小さなシルマリルの姿がしっかりと映りこんでいて、まるで子どもみたいな顔をしている美しすぎる乙女の様子をどう思うのか、彼はとっさに返事どころか挨拶すら返せずにいる彼女を気にした風もなくにっこりと笑いかけた。
 そんな彼の表情に何を思うのだろう? 天使様は戸惑う素振りを隠しきれないままぎこちなく微笑み返した。
矮小なる人間風情の思惑を看破するのが特徴でもある天使様も、普通の人間に見えないはずの己の姿を見ることが出来る男の唐突な登場に警戒するどころか身構えることすらしない。
男の物言いは顔見知り以上のそれで、いわゆる「良い子の見本」シルマリルは知人である目の前の青年に心配かけまいと微笑むのだけれどその微笑みはやはりぎこちなくて、男は微笑みのまま彼女と同じにため息をついた。
「クラレンス……久しぶり、ですね。」
「そうだな。一日千秋、ってこういうことかって、そりゃあもうさびしかったぜ。」
「……あなたは相変わらずみたいでなによりです。」
 半分は心配させまいと唇を笑みの形にした、けれど気持ちの半分くらいは「困っているけどほっとして笑みが漏れた」。そこにいるだけで美しすぎて目がつぶれかねないほどの乙女の微笑みは翳っていようと文字通り値千金で、笑顔をまんまと引きずり出した隻眼の男、いやクラレンスはしてやったりとばかりに今度は少々人を食った笑みを唇の端に浮かべた。
微笑みと共に挨拶のような台詞を短く返して、シルマリルは不意に己が「普通の人間には見えない」ことを思い出す。
目の前の彼はどうやら当たり前に人間ではない自分の姿が見えているらしく顔見知りに気安く話しかけてくるのだけれど、道行く人間が見れば「壁に向かってなにやらぶつぶつ話しかけている変な男」。限られた、許された人間しか見ることが出来ないはずのシルマリルをその目に映す彼はすれっからしだけど彼女には優しいから――――好意を寄せてくれる彼が道行く人々に誤解されることがないように、シルマリルはこっそりと、存在感を消しながら天使の御姿を誰でも目に出来る確かなものにした。
 しかし、最初から違和感なくシルマリルの姿が見えているクラレンスは天使様が起こした小さな奇跡に当然気づかない。彼はその風貌からは想像がつかないような甘ったるい言葉を口にしているのだけれど、その口調は本気か冗談かといった具合で、想われすぎることで生まれる重苦しさや押しつけがましさは微塵もない。
独特の存在感を持つ不思議な青年なのだけれど、クラレンスは抱えている好意を包み隠すことなくシルマリルに見せている。好意を寄せられて悪い気はしない、と言うのは天使も人間も大差なくて、厚かましさと紙一重の人懐こさが鷹揚過ぎるシルマリルの警戒心を粉々に打ち砕いていた。
「相変わらずもなにも、逢えないからってころころ気分が変わるような浅い惚れ方してねえっていっつも言ってる気がするんだが?」
「逢えなかろうと変わらずにいてくれることが相変わらずでほっとするんです。」
「ってーことは、ロクスのヤツは」
「……それ以上言わないでください。」
 口説き文句にも似た言葉遊びのような軽いやりとりに天使様はつい笑みをこぼした。しかし、何気ない彼の言葉にまた現実に引き戻されて微笑みは消えシルマリルは「思い出したくなかったのに」と言うかわりに目をついとそらしてしまう。
「ったくホント、あいつと来たら器が小せえってかわがままっつーか。
 お忙しいお嬢さんが自分にかまってくれなくて当り散らすなんざ、惚れ合ってる女だってどうかしたら百年の恋も一瞬で冷めちまうってのに。
 惚れてもいねえお嬢さんなら見捨てられかねねえってこと、わかってねえな。」
「見捨てはしませんよ。それに、まだ会ってもいません。……半月ばかり。」
「……そりゃロクスに同情するぜ。」
 シルマリルは忘れてしまえれば気楽になれればどんなに楽だろうかと思い悩んでいることを思い出して、クラレンスは半月も放り出されたままのここにいない顔見知りの心情を察して、またふたり同時にため息をつく。
そんな会話を交わしながら、シルマリルはなにやら思い出したようにクラレンスの顔を見上げた。
目の前の彼はここにいない誰かさんに同情している最中、美しすぎる乙女にいきなり顔を凝視されてわずかな間固まって、わずかに、ごくわずかに肩をすくめ、頭を傾ける程度に首をかしげた。
 どういうことなのかシルマリルにもわからないけれど、この青年は人間ではないシルマリルの姿が見えている。
それは出会った時からそうで、いつの間にか当たり前のように会話する間柄になったのだけれど――――やはり時折思い出す。
 人間ではなく精神体のシルマリルの姿は普通の人間なら見えなくて当たり前、彼女に魅入られた者以外は「見える」というより「存在を感じる」ようなもの。なのに彼はシルマリルに選ばれた勇者たちと同じに彼女の姿を人間と同じようにひとつしかない目に映し、人間の少女を相手するような気安さでシルマリルに声をかける。
そのことを何度も不思議に思ったのだけれど、彼女は気づかないがシルマリルの個性として彼女はどうでもいい事に関しては至極鷹揚と言うか適当と言うか、物事をなんでもかんでもほじくり返さない。
そんな彼女の個性が、彼女の下僕、事情を抱えている天使の勇者たちにはかなりありがたくて、未熟だけれど無力だけれど幼い天使は己の勇者たちにずいぶんと慕われていたりする。
話の中ちらちらと存在が出てきた「半月ばかり放置されたロクス」も彼女の勇者のひとり、だけれど……
 天使の勇者なのに使役者である天使をいじめ。
 かまってくれなきゃすねて当り散らす可能性があって。
 都合の悪い時間に訪ねれば天使相手だろうと容赦なく不機嫌な顔なんて見せる。
……彼らの物言いから浮かび上がる人物像は、あまり誉められるような人間ではなさそう。
天使の勇者と言う肩書きが空々しいかもしれない。
「仕方ない、今日はあいつに譲るから早く行ってやんな。
 そんだけほったらかしにしちまったんなら、先延ばしにすると可愛さあまってなんとやら、になっちまうぞ。」
 しかしそれでも、美しすぎる少女に恋した?男の目線で見ればその心情は痛いほどにわかってしまう。天使の勇者、天使の代行者としてのその振る舞いなら不謹慎極まりないかもしれないけれど、クラレンスはシルマリルに見出された勇者ではなく彼女の姿が見えているだけのただの人間?にすぎない。
そのせいなのか、彼は天使相手に不謹慎とも言えそうな見方しかしない。
 しかし不真面目な不良青年の戯言だろうと、己の未熟さを理由にあっさりと話を片づけてしまうシルマリルの耳には、低い声で語られた言葉すべてが強い説得力を持ったまま飛び込んでくる。天使様の認識で図れば人間たちの気持ちはあまり理解できないことも多くて、無責任な部外者に過ぎないクラレンスの「人間の薄汚れた本音」を語る言葉は、そういう感情を持たされず思い及ぶことがないシルマリルにとってありがたい以外のなにものでもない。
つまりクラレンスから見れば、シルマリルは高みにおわすお高い存在ではなく生真面目だけど意外に頭がやわらかい美少女で、彼女に触れ得る男なら恋をするのと同じに魅入られてもおかしい話ではない。
クラレンスはいつもいつも同じような台詞を繰り返しながら、わかりやすいようなわかりにくいような好意を人間ではないシルマリルにまっすぐに投げ続けている。それが報われなかろうとかまわない、一方的な片思いなんだと割り切りながら、お気に入りの少女を時にからかい時に慰めて共にある空気を楽しんでいる。
同時に共通の知人の心情も己の認識に当てはめて語るのだけれど、下衆の勘繰りのような憶測ではなく似た者同士が感じる本心の部分を暴いている、と言う話では、天使様には到底理解できない部分をさらりと語る貴重な存在でもあった。
「で、でもロクスは夜に訪ねると不機嫌になるし」
 今だってそうで、やはり女の、しかも本当は天使様のシルマリルはすんなり理解できなくて、至極真っ当な話だけど口調では混ぜっ返すみたいに反論した。しかしそれを聞いたクラレンスは最後まで言わせずに、己の顎に指なんて当てながら駄目押しとばかりに言葉を続ける。
「あんただってお仕事であんな面倒なヤツだろうとこき使わなきゃなんねえんだろ? だったら何度も押しかけて慣れさせちまえよ。
 慣れればいちいち腹立てるのも疲れちまうもんだ。」
 そう言って喉の奥で笑った低い声に、シルマリルがとうとう反論できなくなり口を閉ざした。
「ま、そうできなくて悩んでる気の弱いところが可愛いんだけどな。
 だから言ってるだろう、あんなヤツやめて俺に乗り換えちまえ、って。」
 そしてクラレンスがどさくさにまぎれてとんでもないことを口にする。
いつの間にか陽は落ちて濃紫の中にまだ白い月が浮かび、大きな満月を背にクラレンスが表情から甘みを消してとんでもないことをまた言うのだけれど、
「乗り換える乗り換えないと言う話でも間柄でもないんです。」
 天使様は鈍いのか意図的に受け流したのか、にべもない返事をさらりとつき返した。
「……妙なところで気が強いんだよな。まあそんなところに惚れちまったからいいけど。」
 気が弱い、そのくせ頑として譲らない面がある。クラレンスは取り付く島なくふられたと言うのに落ちこんだ様子など微塵も見せずに軽いため息ひとつで受け流された告白の話を丸ごと流してしまった。
 時はわずかに流れて聖都にも酔っ払いと夜行性の動物たちの時間がやってきて、裏通りはにわかにざわめき始める。
クラレンス自身昼間より夜が似合う男、傍目から見れば「帰りそびれた美人を口説いている不良」に見える。ここが聖なる都とはいえ裏通りはどこも似たようなもので、口説く男と口説かれる女と言う構図は珍しいものではない。
同じように、夜の帳が下りたなりに酔っ払いと言う生き物が我が物顔で跋扈するようになる。
 何を言っているのか周囲からではまったくわからないほどに呂律が回らなくなってしまった怒号、それと同時に派手な破壊音が当たりに響き、そんな世界の住人のクラレンスは厳しいほどの真顔に戻り顔を上げ音のした方を見た。
昼間に生きる天使様は唐突な騒ぎを耳にしてもその目で見ても何が起こったのかとぽかんとするのだけれど、酔っ払い同士の喧嘩だと察するまでもなく理解したクラレンスは大柄な体でシルマリルを隠すように動きつつ彼女に背を向けようとした。
「――――っと」
 しかし、振り向くよりも先に、彼の背中になにやら飛んできたらしい。踏ん張りきれずに思わずよろめいたクラレンスが顔だけ背後を振り向きながら片手を挙げた向こうにシルマリルが見たのは……彼が踏ん張りきれなくて当たり前、大きな背中にぶつかってきたのはどうやら殴り飛ばされた酔っ払いの背中と後ろ頭だった。
 こんな場面に出くわすことなどない天使様はなにも言えない。驚くあまり言葉を落っことしたみたいに口もとを押さえて固まってしまった。
だがこんなことが日常のクラレンス眉を寄せ鬱陶しげに舌打ちした。些細なことが癇に障る酔っ払いはそれを聞き逃さなかったらしく、濁った目がぶつかった相手に向き標的を変える予兆を見せる。
 これはクラレンスにとっては日常。珍しくもなんともない。臆するほどのことですらない。
ただ、今夜は少々勝手が違う。「女連れの男」が少々生意気な態度を取れば酔っ払いはそっちに絡み始める。
そのことを痛いほどに経験しているクラレンスは反抗も反撃もせず、少し離れて立っていたシルマリルの細い肩に手を伸ばし己の体で隠そうと抱き寄せた。

 瞬間、感じた違和感に、シルマリルがハッとする。こんなに近い距離なのに、クラレンスの鼓動が聞こえない。
彼は確かに目の前に存在しているはずなのに、鼓動だけではなく呼吸すら感じない違和感の方がシルマリルに恐怖を与えた。

 だけど、シルマリルの感じた恐怖はすぐに断ち切られた。クラレンスの鼓動や呼吸より強く強く酔っ払いの息遣いが彼女に叩きつけられる。
「お? お嬢ちゃん可愛いねえ」
 酔っ払いの挨拶と同じその言葉は、途中で打ち切られた。
いい女を見つけ目の色を変えた下品な酔っ払いの言葉にクラレンスが素早く反応しシルマリルを解放したかと思うと、直後酔っ払いの情けない悲鳴があたり一面に響き渡った。
「酔っ払いはあっちで続きやってりゃあいいもんを。」
 クラレンスの骨っぽい大きな手が、ギリギリと男の腕を背中に回させたままねじり上げている。派手に殴り返したわけではないが懲りさせると言う意味ならば相当の効き目があるらしく、酔っ払いは咄嗟には他の言葉が口に出来ないほどに痛んでいるらしい。
「て……てめえ……ヴァイパー…………!」
「こっちも女連れだからこのぐらいで勘弁してやるっての。下手なことしてみろ、腕一本いっちまうぜ?」
 クラレンスが切れ長の目をすっと細め、声を潜めつつさらに酔っ払いの腕をねじ上げる。みしりと嫌な音が聞こえてきそうな酔っ払いの苦悶の表情に同情も手加減もする男ではないらしい、そして男はついに情けない悲鳴を上げたけれど、クラレンスは許すどころか緩めようとすらしなかった。
その様子は獲物を絞め上げる「毒蛇」そのもの。クラレンス=ランゲラック、このあたりを根城にしている名うての博打うち。
その勝負強さと狙った獲物は必ず仕留める執念深さを揶揄し、恐れ、人は彼を「ヴァイパー」と呼ぶ。
「クラレンス、やめてください!」
 シルマリルが悲鳴に似た声で胸にすがりつき引き離せないかわりにそう請うた声で、「ヴァイパー」が「クラレンス」に戻る。通り名を知りながらも本来の名で彼を呼ぶシルマリルはそんな彼の泣き所のような存在で、小さな手でしがみつかれたなり、彼はあっさりと酔っ払いの腕を解放した。
「……これに懲りたら今日は家帰って寝ちまえ。」
 毒蛇かただの男か、どっちつかずの優しげな呆れたみたいな声色でそう言いながら、クラレンスが酔っ払いを追いやる。絡まれそうになったと言うのにクラレンスが人を傷つけずにすんだこと、酔っ払いの男が怪我せずにすんだことに、シルマリルは彼にすがりついたままで安堵のため息を吐き出した。

「……シルマリル…………?」

 しかし、話は終わらないらしい。天使様の名を呼んだその声に、シルマリルはもちろんクラレンスまで一緒に固まった。
緩く波打つ銀の髪、天使様に負けぬほどに麗しい優しげな顔に静かな怒りを満たしながら、燃え上がる紫の瞳がふたりを突き刺す勢いでねめつけている金十字煌く紫のケープと彼女の翼と同じ純白の法衣――――その姿に、名を呼んだ声に、シルマリルは覚えがある。
いや、それどころの話ではない。


 天使様の受難の夜は、これからが本番。
レイラ  フェイン  アイリーン  クライヴ  セシア  ルディ  ヴァイパー  ロクス

2009/10/03

間が開きすぎて小説の書き方を忘れてしまっていたのは秘密です。