■□ battere □■
レイラ  フェイン  アイリーン  クライヴ  セシア  ルディ  ヴァイパー  ロクス

「……シルマリル…………?」
 裏通り、夜の明かり、天使様と年頃の男ふたり。聖都の汚れた夜は終わらない。

「これはこれは、噂をすれば何とやら。」
 天使様、いや美しすぎる乙女を腕に抱えているのは、隻眼の博打うち・ヴァイパーことクラレンス=ランゲラック。
彼の大事な天使様に対する礼儀はどこへ失せたのか? クラレンスは相手が変わっただけで手のひらを返しヴァイパーとしての顔と人を食った態度を見せるのだけれど、それがいつもの彼だと言うことを彼の可愛い人だけが知らないまま。
己の勇者をからかって怒らせようとしてばかりいる困った男にも見えているから、このふたりの関係は天使様の頭痛の原因になりつつある。
「はん、どんな噂なんだか。」
 そんなクラレンスの可愛い人、心配性な金の髪の天使様が豊かな胸を痛めつつ思い煩っていたのは、聖都ではその名も顔も知らぬ者がいない破戒僧・ロクス=ラス=フロレス。シルマリルの波打つ髪より巻きの強い銀の髪と、一見柔和そうな顔立ちの中で燃え上がるように鮮やかな紫の瞳、すらりと美しい立ち姿は人より上におわすシルマリルに引けをとらぬほど。白い法衣と金の十字と許された者のみが身にまとうことを許される紫の上着は教会を守る司祭様より位が高いことを表しているのだけれど、正反対、いや汚濁の極みと教会が忌み嫌う夜の裏通りの空気に恐ろしいほど馴染んでいる。
夜に住まうクラレンスと同じに、汚れた夜の空気が似合うロクス。天使シルマリルの剣のひとり、天使の勇者、教皇候補ロクス。
 ここは聖都アララスの裏通り。聖都とはエクレシア「教国」の首都、そこに座するは教皇と教皇庁。
教皇不在の聖都に教皇候補がいようと何等おかしい話ではない。おかしくはない、けれど……いる場所があまりにもまずすぎる。
ただでさえいろいろと問題の多い教皇候補だと言うのに、美しいほどの容姿を持つ男は自ら問題ばかりを増やし続けてばかりいる。
「シルマリル。」
 己の下僕に短く御名を呼ばれただけなのに、天使様が思わず小さく身じろぎする。
今はまだ彼女に一番近い場所にいるクラレンスはそれを「怯え」と解釈した。彼はひとつしかない目に勝手に恋敵だと認識している銀の髪の美青年を写しながら、まだしがみついていたシルマリルからそっと離れ距離を取り唇の端だけを不敵な人を食った笑みの形に変え、突然現れた噂の男の挑戦的な紫の眼差しを、臆病なお嬢さんに代わって真正面から受け止めた。
 何も知らない?男から見れば、シルマリルは臆病で美しすぎるお嬢さん。見栄を切りカッコつけて生きている男としての行動はひとつ、とばかりにクラレンスはたしなめる声色で口を開く。
「まあまあ、半月ほったらかしで可愛さあまってなんとやらだろうが、お嬢さんのお目当ては俺じゃなくお前だよ。
 偶然の身としちゃ、むしろ俺の方がお前を恨んでるつもりだぜ、ロクス?」
「相変わらず口の減らないヤツだ。僕の心情を勝手に深読みするな。」
「声に棘があるんだよ。そのお綺麗な顔で怒られちゃお嬢さんじゃなくてもびびっちまう。
 お嬢さんにはお嬢さんの事情があるんだ、お前の女じゃないんならそれ相応の態度ってもんがあるだろ?」
「そりゃ悪かった、これが地でね。」
 軽口に見せかけた皮肉の応酬、クラレンスから離れたけれどその光景は非常に心臓に悪くて、シルマリルはふたりの男の間でおろおろ、おたおたとおおよそ天使とは思えない気の弱さを見事なほどに露呈している。
そんなシルマリルの心情に気づいていないのか「半月ほったらかされた男」を哀れみ配慮しているのか、クラレンスの大きな手がシルマリルの背中を逆らえない強さでとん、と押し、よろりと蹴躓きつつよろめきつつ天使様は己の勇者の下へとようやく舞い降りた。
……久しぶりだと言うのにこの険悪な空気では、挨拶も何もない。紫の瞳は無機質な様子でシルマリルを見下ろしているから、気の弱い少女の性格を持つ天使様は足をすくませ言葉を失い立ち尽くすばかり。
「じゃあな、お嬢さん。邪魔者はここいらで退散するわ。」
「あ、クラレンス」
「はいはい、他の男の名を呼ばない。
 そこのひねくれたお兄さんが余計にへそ曲げッちまうぜ? ……じゃあな。」
 登場も唐突だったけれど、去り際も唐突で実に鮮やかですらある。クラレンスはひらひらと手を振りながら、聖都の闇の中へと姿を消すべくふたりに背を向け歩き出した。
 毒蛇殿はこれにて退場。名うての博打うちは引き際も鮮やか。しかし見ただけで不機嫌さを察することが出来る男とふたりで残されるシルマリルは今にも泣き出しそう。
クラレンスの言葉のとおり、整った顔だからこそ負の感情を露にされると迫力すらある。
気の弱い乙女がそれを受け流すも見て見ぬふりをするのもかなり難しい話だというのは、シルマリルの狼狽ぶりを見ていれば実にわかりやすいものだった。


「……飲みに行くつもりだったけどなんか気がそがれたな。
 今夜はおとなしく寝ることにするけど、なにか用があるんならさっさとすませてくれないか?」



 飲みに出る気がそがれただけではなく、長期間ほったらかされたことに対する腹立ちや不快感もかなりそがれてしまった。
つかみどころのない顔見知りの言葉に毒気を抜かれたロクスは結局どこにも寄らずに天使連れのまま宿へと戻ることにした。腹立たしいことにクラレンス、いやヴァイパーの言葉は見事としか言いようがないほどに図星を突いていて、そこで自分の感情を露にするのはそれこそあの男の思うつぼのような気がして仕方がなくて無関心を装ったのだけど――――二面性著しい男とつきあいが長い天使様にはやはり通じなかった。
シルマリルはなまじ普段のロクスの振る舞いを知っているだけに、「嵐の前の静けさか」とでも思っているのだろう、怯えた表情をなかなか崩さない。崩せない。
偉そうな態度がなくて打ち解けやすい反面、この天使様の気の弱さと来たら、矮小なる人間風情に過ぎないロクスの方が心配になるほどの筋金入りでもある。
「久しぶりだな、さぼりか?」
 その日の宿に戻り紫の上着を脱いで無造作に椅子の背にかけながら、ロクスは勤めて平静を装いつつ、おとなしくついてきたシルマリルに挨拶を兼ねた雑談を振った。
 しかし、本当に美しい女。少女を好まない女たらしでさえその美貌を看過できないほどならば、彼女が人間として成長するのなら一体どんな変化を見せるのだろう? 自分の美貌に無頓着でいるあたりも男の好奇心をくすぐってくれるからロクスは己の天使様から目を離せずに入る。
 教皇と教皇庁座する聖なる都だろうと人に汚れていることは他の大都市と同じ。酒と白粉のにおいがたちこめていそうな錯覚を覚えた夜の裏通りから天使様をここまで連れてくる最中、道行く男のほぼすべてが振り向いては彼女に目を奪われていたところから察する……までもなく、今の天使様は彼女の勇者だけが姿を拝めるいつもの状況ではなく、ひとりの娘として誰もが目にできる形で存在している。
天使様は必要とあらば御姿を人間の前に現すことも出来るけれど、シルマリルは生真面目でおとなしくて控えめな性格どおりになかなか姿を現さない。しかし己が関わった人間たちが誤解されるのもまた受け入れられないお人よしで、おそらくヴァイパーが話しかけてきたからという理由だけで翼だけ隠し姿を現したのだろう、と、ロクスは当て推量にしては実に鋭い推測を抱えながらため息をつきながら、きっちりと着込んだ法衣の襟元をわずかに開いた。
 半月ぶり。空白の時間が少し長かったことは否めない。人間の男は法衣が与える息苦しさから解放されたけれど、腹立ちと理由のないいたたまれなさで言葉が少なくなり、人間でない乙女は男の顔色ばかりを伺って言葉をしまいこんでしまった。
シルマリルが視線まで彷徨わせ言葉を探しながらロクスの顔色を伺うけれど――――感情を殺してしまうとロクスはそれは見事に偽装してしまう。微笑でごまかし煙に巻かれない分シルマリルは彼の信頼を得ているのは間違いないのだけれど、気を許した相手にはいろんな意味で容赦なくなる裏表ある男でもあるから、包み隠さないでもいいと判断された反動でシルマリルは今までもずいぶんきつく当たられたことがある。
 いろいろと複雑な性格の彼だから、とシルマリルは言葉を探しながら顔色を伺いながらと実に忙しい。
出会った当初からしばらくの間、ロクスは柔和な微笑しか見せてくれなかった。生まれつき恵まれている端整で優しげな顔立ちと、その立場故に磨き上げられた洗練された立ち居振る舞いにふさわしい知性を駆使しなくても、どちらかだけでロクスは他人を容易に騙せる。女を騙し、金貸しを騙し、同胞でありいずれ下位のものどもになる聖職者たちすら欺いてなんとか己を保ち続ける哀れな青年の本当の姿をシルマリルは知っているから、見捨てられず、突き放せず。
己がそばにいて他愛ない話に耳を傾けることが彼の救いになっていることを、シルマリルは意図的ではなく無意識で理解しているから離れられずにいる。
 なにかしら夢を見ていたい女たちにどこまでも空々しく都合よく優しいロクスは、いずれひとつの国と数多の僧侶たちの頂点に立つことを定められている。その反動で考えつく限りとも言えそうな放蕩でその身を汚した破戒僧、23と言う若さでその身に背負った借金の額もかなりのもの。
それでも女たちは彼に騙されもてはやすのだけれど、当のロクスがもう調子に乗れなくなってしまい最近はおとなしく負わされたお役目を果たすべく精を出していた。
ただひとり彼をもてはやさない、けれど小言を言いながらそばにいる女に振り回される日々を送っている。
「……別に怒っちゃいないよ。君が忙しいことぐらいわかってるつもりだ。
 あいつと一緒にいたんだって偶然なんだろ? だったら僕の顔色なんて伺うなよ。」
 天使様はお忙しい。少し休めばいいのにと人間が心配しても働き続けるほど生真面目で仕事熱心な彼女には、いたずら好きな幼い天使の印象など微塵もない。
彼女に見出された今年の初めからつきあうようになりもう次の冬が来そうな現在、ひねくれもののロクスも己の天使の気性を把握するようになった。
見かけは幼い彼女だけれど、彼女の上役に当たろう大天使たちは幼さと経験不足に目をつぶり彼女の資質に賭けて、ひとつの世界の平定するために降臨させた。その重責がいかほどのものか――――巨大に肥大した宗教国家を若くして背負わされることになるロクスだからこそ痛いくらいに感じてしまう。
肩に乗せられた重荷が世界ひとつか国家かの違いと言うだけで、自分たちの立場の根幹はとても似ているからロクスは引きずられてばかりいる。
「僕の顔色なんて別にいい、君の顔色こそひどいぞ。ちゃんと寝てるか?
 サボれと言っても君ができるはずないってのはわかってるけど、誰だって休息が必要ってのはわかるだろ?」
 ロクスにはこんな風に女性を心配した記憶がない。男女など関係のない当たり前の配慮と言われれば次の言葉が出なくなるけれど、ロクスは自らを汚したい自暴自棄な破壊衝動を抱えていて、女は色恋沙汰の対象にしか見てこなかった。好みかそうでないか、食指が動くか動かないか、そればかり。
そして天使様は美しすぎるが少々幼くて性格の相性もよろしくなくて対象外。
使役被使役の関係のはず……だった。
「君は美人なんだからもう少し自分を磨かないともったいない」
「あ、大丈夫です。私はあなた方の時間で丸一日休めば元気になれるみたいですから。」
 2週間も顔を見せなかった天使様に苛立ちと心配を抱えていた男と。
 2週間もほったらかしにしていた相手と久しぶりに最悪の再会を果たして気兼ねが抜けない天使様が。
奇妙な遠慮と配慮のしあいの様相を呈している。
「心配してくれるのはうれしいのですが、あなたが思うほど疲れていないと思います。」
 小柄で愛らしい乙女の姿の天使様が、ひどい顔色のまま笑顔を見せつつ否定する言葉と共に小さな手をぱたぱたと横に振る。それがひねくれ者の癪に障る……気づいてないのか気づいてても隠したいのか、鈍いか素直じゃないか、どっちにしてもロクスの中では「可愛くない女」像。
彼が好むのはしなだれかかり甘ったれてくるようなか弱い女、シルマリルのような我も芯も強い女は扱いづらいことこの上ない。
「確かにあなたの所へ2週間も来られませんでしたけれど」

 ほら。本音はそうだろうが。

 口には出さず顔に思い切り出して、ロクスは苛立つ自分を押さえ込んで久しぶりに聞いた涼やかな声に耳を傾ける。
「最近ではみんな私のことを心配してくれるようになったといいますか……やっぱり、頼りなく見えているのでしょうね。あべこべに心配されてばかりいます。」
「そんな風に言うなよ。
 頼りないと言うより、君はひとりしかいないのに君の勇者は七人もいるからな。働きすぎだってのはガキじゃなきゃ、それこそこんな僕だって想像ぐらいできる。」
「でもそれなりに息抜きというか、あなたたちと一緒にすごしているといろんな発見があってちょうどいい気分転換になってますし」
「へえ?」
「最近もですね、みんなの鼓動を聞く機会があって、面白いと言うかみんな違うんだなあって不思議に思ってたんですよ。」

 ロクスが無邪気で無神経なその言葉で、とうとう頭のてっぺんから凍りついた。

「姿かたちや声なんかと同じで、鼓動にもその人の性格が現れているんです。」
 元々が好奇心も探究心も旺盛な天使様は、急激に冷えてしまったロクスの空気と視線に気づかないまま、新しい発見を嬉々として彼に説明し始めた。しかしロクスはまったく別のことを考えている、鼓動を聞くことのできる距離、彼女の勇者はもちろん男女関係なく存在していること、つまりは自分以外の男の勇者ともかなり近い距離感でそれを感じていたこと――――必要以上に働きたくない自分でも存在意義が保てて美しい乙女の喜ぶ様子が見られるのならとあくせく働き時に痛い思いもしていたと言うのに……
「年齢も出るんですよ。若いと跳ねるみたいに元気な感じで、あなたぐらいの年齢の勇者だとずいぶん落ち着いていて、もちろん男性と女性でも違っていて」
 この天使様と来たら男女見境なく密着しながら何を考えていたのか…………
「女性はどんなに強い人でもどこか優しくて、男性だとどんなに物静かな人でもとても力強いんです。」
 天使様のおしゃべりは、そこまでだった。
余計なことまで知りすぎて邪推が日常の汚れた聖職者は、天使様の純粋な好奇心も観察力も、何もかもが腹立たしくて、敵に対峙し一撃を加えるのと同じにその重厚ないでたちからは想像がつかないような素早さで手を伸ばし、何を思ったのかいきなりシルマリルを捕まえて抱きすくめてしまった。
彼女が人間の女性ならば「自分に振り向かない女との駆け引き」かもしれない、しかし、彼女は乙女の姿をしていても天使様。
やましい思いを胸に沈め触れていい存在などではない。
聖職者がそれをわかっていないはずなどない、いや、それ以前に天使とは信仰の対象。
平伏し。畏れ。敬い縋る対象のはず。
そんな存在を、彼女の都合で受肉し触れることが出来る現状をいいことに、ロクスは天使様を火遊びの相手と同じに見かけより厚い胸板に抱き嗜虐的な笑みを唇の端に浮かべた。
「……これは何の冗談ですか?」
 彼から話を振ってきたというのにその腰を折り唐突に不埒な振る舞いに及ばれて、以前から時々からかわれ遊ばれて振り回された覚えがあるシルマリルの声に、冷ややかな怒りが混じり始める。短い言葉静かな声なのに、生真面目で性質のよくない冗談が通じない彼女が今何を思うのかを感じるには充分すぎるのだけれど、ロクスは動かない天使様の頭、耳を己の胸板に押しつけながらいつもの声色で口を開いた。
「聞き比べてるんだろ? 別に嫌がったりしないから気が済むまで聞いたらどうだ?」
 性格の曲がった男。なまじ自分に自信があるばかりに、他の男と比べられることをよしとしない。
いつもと同じ声色、だけどロクスの表情は建前で使い通している柔和な聖職者のそれではなく、鋭く妖しげな色気を隠そうともしない美しく自信過剰な青年のものだった。
 比べるのなら徹底的に比べさせる。そして自分と言う男を強く強く印象づける。
彼はシルマリルに出会う直前までそうやって何人もの女性と夜を重ね、火遊びが過ぎて教皇候補と言う肩書きを負わされているにも関わらず、ほとぼりを冷まし頭を冷やすべしとばかりに聖都を追い出された。
昔のように権力をちらつかせ不自由なく遊べなくなった穴埋めに、純粋で美しすぎる天使様をおもちゃにして気晴らしをする。それは到底許されるはずはないのだけれど――――鷹揚でのんびりしすぎている天使様は己の未熟さを申し訳なく思いながら、己の下僕の不埒な振る舞いを腹立たしく思いながら許し続ける。
 だけど、時には許せなくて不快感を露にする。しかし、その表情すらも美しい。
「だ、だからといってどうしてこんなっ」
「聞きやすいようにしてるだけだろ。なに妙なこと考えてる。」
「妙なことなんて考えてません、離してくださいッ!!」
「騒いでちゃちゃんと聞こえないだろ。性格を感じ取れるほど観察してるんじゃないのか?」
 いつか、魔法剣士フェインの時は迫って押し切りしどろもどろになった彼を口先でねじ伏せて半ば無理やりにその鼓動に耳を傾けた。今はまるで真逆だと言うことを、シルマリルは気づかない。気づける余裕などない。ロクスはそんなもの与えてくれない。
鈍くて女に振り回される側のフェインとは対極にいる男、ロクスは女との駆け引きを楽しみ、時に主導権を握って離さず気が済むまでからかって楽しむような性質の悪い男。
「ほら、おとなしくしろ。静かにしないと聞こえないだろう?」
 声色でなだめ、表情は意地悪に。ロクスは声は優しげに腕は強引にシルマリルとの距離をさらに縮める。
彼は無邪気で突拍子もない発想で振り回す側のシルマリルを振り回す珍しい存在。彼も他の勇者たちと同じ、天使様に振り回されてしょっちゅう疲れているのは同じだけれど、やられっぱなしは性に合わなくていつも不埒な方法でやり返しては天使様の鼻を明かしている。
今もそうで、いきなり不躾に触れられて怒り心頭のはずなのに……ここしばらく、一番興味深かった人間たちの鼓動が小さな耳を打つ。シルマリルはまた好奇心をくすぐられ、不本意ながらもおとなしくなる。
 今までもそうだった、勇者たちの鼓動はそれぞれに何かを語りかけてくるようだった。
迷いと不安を隠せなかったり。
度肝を抜かれたり。
信じている誰かと鼓動を気持ちを重なりあわせたいと望んだり。
模索している最中で一条の光に似たものを感じたり。
まだ知らぬはずの母性をくすぐられてみたり。
向けられた好奇心に戸惑いながら驚きながら応えたり。
6人6様で勇者たちは隠した何かを語りかけてくるみたいだった。
 ロクスは? ロクスは何を隠している?
美しい容姿と複雑な性格、そして子どものような不確かさ。
彼はこの大陸で、最も神と天使に近い人間のはず。なのにもしかしたら勇者の中で最も非協力的かもしれない。
お互いの立場の間に横たわるものは何か、シルマリルはそれが知りたくて、無意識下で彼から目を離さないようになってしまった。
それは天使の強すぎる責任感から生まれたものだけれど、今では彼女自身戸惑いそうなほどに感情との境界線が曖昧になってしまった。
人間風情のロクスはとうの昔にお互いの立場の間に引かれた境界線など綯い交ぜになり、一瞬前の自分の感情がどんなものなのか、自分自身に向けての説明、言い訳ひとつ出来なくなってしまった。
まともな恋をしなかった男が初めて己を振り回しているそれが恋だと言うことに無意識で気づきながら、意識して黙殺している。立場を考えれば考えるほど傷つく結末が見えてしまうから、それを恐れ傷つきたくなくていつか離れる自分たちを考えたくなくて態度すべてが強くなってしまう。
 ただでさえ難しい男の鼓動が抱えているものに、シルマリルは何を感じるのだろう?
麗しい乙女は法衣を身にまとう男の胸に抱かれたまま身を預け、鼓動が何を語るかに意識を集中している。
従順な乙女の顔ではなく好奇心旺盛な子どもの顔で男の胸板にしなだれかかる。

 その顔をあの男に、他の男たちに見せたのか? どす黒い感情がロクスの中に満たされる。
しかしそれを口に出せないままだから、考えるよりも先に突き放してばかり。

「あ、ごめんなさい。つい……」
 突き放すと言ってももちろん乱暴に突き飛ばしたりはしなくて、ロクスは苦虫でも噛み潰したような渋い顔を見せながら、己から半歩下がりシルマリルとの距離を取った。無鉄砲で子どもっぽい彼女もしつこく追うような真似はしなくて、シルマリルは口元を思わず押さえて謝罪の言葉を口にしたけれど――――いつもなら微笑という仮面を被って優しげな言葉を口にするロクスなのに気の利いた台詞の一つも出てこなかった。
もちろん、己の鼓動が何を語っていたかなんて怖くて訊けない。だから訊かない。
信実を見抜く目をもつ天使様の言葉で、その優しげな声で正鵠を射抜かれては何かが壊れてしまいそうだから何も聞けない、言えないまま。
「……やっぱり今夜は飲みたい気分だ。悪いけど帰ってくれ」
 言い換えすり替えごまかして、ロクスは己を追い詰める。
「嫌です。」
「…………は?」
「半月も会わなかったんですから、その間の話してください。」
 そしてシルマリルはいつも思い通りにならない女、今夜も珍しく、いやいつもの通りに天邪鬼な返答を返しロクスの意表をつく。ロクスが半歩下がった分彼女も半歩踏み込んで、こうと決めたらてこでも動かない頑固さの予兆を見せつつ意のままに動いてくれない己の下僕を力ずくで跪かせるべく食い下がる。
「だからそんな気分じゃないって」
「酒場で他の女の人相手にはしゃげるのなら私の話し相手にくらいなれるのではありませんか?」
「なんだよその屁理屈は?」
「屁理屈でもなんでもかまいません。他の勇者たちと同じようにあなたのことも気になります。
 今夜は諦めて私の知らない半月の話をしてください。」
 何気ない言葉を深読みしすぎてロクスは背筋がかゆくなる。しまりのない表情の小娘が眉を吊り上げ鋭く詰め寄ってくる時、ロクスはいつも押し負ける、いや押し切られてしまうからどうしようもなくて、
「そのとんでもない理屈はどこから出てくるんだよ、ったく……。」
 あと言えるといったら愚痴ぐらいしかない。ロクスは銀色の波打つ髪を片手で乱暴にかき上げながら悪態めいた台詞を口にし、ついに言葉尻は舌打ちになる。言うだけ言ってしまうとシルマリルは耳を少し紅くしながら長椅子にすとんと腰を下ろし長期戦の構えを先に見せたから、また後手を踏まされたロクスは打つ手を失い派手なため息をひとつ吐き、長椅子とは別の方向を向いているひとりがけの椅子に腰を下ろし頬杖をついて脚を組んだ。
「あなたの話がないのなら私から」
「いいよ。聞かされてる内に腹が立ってくるからしゃべります。」
「なにが腹立たしいのですか?」
「いろいろ。説明してもきっとわかっちゃもらえない。」
「じゃあいつか話してください。」
「気が向いたら、な。期待はしないでくれ。」
 「いつか」なんて先の約束なんてされたりしたらそれだけで怒りも不機嫌さも薄れてしまう。
押しては引いての駆け引きなんて本気でやったことがないから、ロクスは加減がわからない。
駆け引きも何もないから、シルマリルは何もかもを真に受けてばかり。
好奇心が強い天使様はなかなか己を打ち明けてくれない、意識して隠そうとしているのが見え見えの性悪男に振り回される。女たらしの教皇候補はすべてに全力でぶつかる女なんて初めてだから読めなくて振り回される。
性悪男と頑固娘の夜は火花を散らしながらふけてゆく。

レイラ  フェイン  アイリーン  クライヴ  セシア  ルディ  ヴァイパー  ロクス

2009/10/03

間が開きすぎて小説の書き方を忘れてしまっていたのは秘密です。