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 その日の朝、母親の早く行けと言う大声を背中で受けながら門の前でずっとある人物を待っていたが、結局その人物が姿を見せる事はなかった。
「はぁ……」
 溜め息を吐いて腕時計を見ると、足が自慢の自分が全力ダッシュして何とか間に合う時間。この時間になっても姿を現さないと言う事は昨日のメールの通りに彼は一人で学校へ行ってしまったと言う事だ。
「何だよ、ガキの頃からずっと一緒に行ってたじゃねぇか」
 軽くアキレス腱を伸ばして準備運動をしつつ、唇を尖らせて小さく文句を吐く。彼と友好関係を築いてから……幼稚園の頃から昨日までずっと、彼は毎日自分の家までわざわざ迎えに来て、それを合図に慌てて準備する自分を玄関先で待っていたものだ。そして、まだ寝癖が立っている髪を必死で手櫛で梳きながら玄関で靴を突っ掛ける自分にニッコリと笑顔を見せて、毎日同じ台詞を吐いていた。おはよう、駿くん。その笑顔を見、声を聞く度に朝が来たんだなぁと漸く実感したものだ。
「ちぇっ、なーんか頭がボンヤリしてるな。やっぱ良ちゃんの“おはよう”聞かねーと始まんねぇや」
 首を左右に傾けてコキコキッと軽い音を響かせた後、望月は辺りに風と砂煙を巻き上げながら全力疾走を始めた。

 勢い良く扉を開けると共に聞こえて来たチャイムの音に望月は心の中でセーフと両手を広げ、声をかけてくる級友達に軽く挨拶を返しながら、お目当ての人物の席に視線をやると席に着いた彼が何かを広げてペンを走らせていた。
「よっ。お前、何で今日迎えに来なかったんだよ。俺、ずっと待ってたんだぜ?」
 極力明るい声を出して机の上に手を置くと机に広げられていた何かに向けられていた視線が自分の顔に注がれる。その表情は笑顔でも怒りでもなく、ある意味一番性質が悪い無表情だった。
「メール出したじゃないか。今日は一人で行くって。読まなかったの?」
「い、いや。読んだけど、さ。今までずっと俺の家まで迎えに来てくれてたじゃんか」
「僕、今日日直だから早目に学校行かないといけなかったんだよ。それだけ」
 無表情で淡々と言葉を紡ぐ自分に妙な圧迫感を感じているのか、何処か口篭もる望月から目を逸らし、広げていた学級日誌をパタンと閉じると望月が何かを言おうと口を開きかけた。
「で、でも、お前、今まで日直だった日もちゃんと迎えに来てた……」
「おーい、今日の日直誰だー? 黒板消し忘れてるぞーっ!」
「あ、僕です。すみません」
 望月の声を担任教師の声が掻き消し、その上に早坂の返事が覆い被さる。望月を避けるように席を立ち、黒板をせっせと消し始めた早坂の背中を望月は暫く眺めていたが、小さく頭を振って自分の席に鞄を置いた。

「良ちゃん、次の授業は化学室なんだろ? 一緒に行こうぜ」
 先手必勝と言わんばかりに化学の教科書とノートを抱えて駆け寄って来た望月に早坂は微かに戸惑いの表情を浮かべたが、やがて観念したのか小さく頷いて席を立った。机の中からノート等を取り出して移動教室の準備をする横顔を見ながら心の中で小さくガッツポーズをする望月を早坂は横目でチラリと見たが、特に反応は見せずに“行こうか”と一言だけ言ってサッサと教室の出入り口へと向かい、望月を焦らせた。
「よぉ、望月。お前、この前の漫画いつ返す気なんだよ」
「あー悪い。今度持って来るわ」
「今度っていつなんだよ。ったく……ま、いいか。ちゃんと返してくれよ?」
「へいへい」
「あ、望月君。この前は助っ人してくれて有難う。望月君のおかげで試合に勝てちゃった。またお願いね」
「へへっ、マネージャーの頼みなら断れねぇな」
 廊下で誰かとすれ違えば気軽に声をかけられ、それに笑顔を振り撒いて楽しそうに答える望月を早坂は無関心そうに見ていたが心の中の自分は寂しそうに俯いていた。駿くんって人気者なんだよなぁ。それなのに、何時も僕なんかと一緒にいてくれる。自分の知らない生徒と親しげに話す姿を横で見詰めていた早坂は微かに悲しそうに眉を顰めたが、話に夢中になっている望月は親友の僅かな表情の変化に気付かずに楽しげな笑い声を廊下に響かせた。

「あーあ、やっと終わった。化学ってホント訳分かんねぇよな。水兵リーベなら何とかなるけどよ」
 授業の間ずっと噛み締めていた欠伸を派手に解放し、大きく伸びをしながら早坂の席に近付いた望月は親友の何処か思い詰めたような表情に目をぱちくりさせた。
「うん? どうしたんだ? もしかして、今日の授業分かんなかったからヘコんでんのか? 大丈夫だって、俺も全然分かんなかったんだから。アハハーッ♪」
 頭を掻いて明るく笑う望月に対し、早坂は余計に表情を暗くしていく。沈んだ表情を維持したまま両手に持ったノートや教科書でトントンと机を叩いていたが、突然ポツリと言った。
「ねぇ、駿くん。僕達、別々に行動しない?」
「えっ?」
 予想外の一言に伸びをした体勢で固まってしまった望月に苦笑いを見せながら、早坂は静かに続けた。
「だって駿くん、僕とずっと一緒にいてくれてるけど、僕と一緒にいたら他の人とお付き合い出来ないじゃないか。駿くんだって、僕以外の人と一緒に話したり、お昼食べたり、帰ったりしたいだろう?」
「い、いやっ、そんな事ねぇよ。現に俺、普通に他の奴とも付き合ってるし」
「有難う、駿くんってホントに優しいね。でも、このままだったらいけないと思うんだ。駿くん、僕とずっと一緒にいたから好きな女の子とか出来なくて、その、少し歪んじゃって、昨日みたいに僕の写真でアレしてたんだろ?」
「ち、ち、違うって!! アレは、その、お前が」
 お前が好きだから。その一言が何故か喉の奥で引っかかって、間抜けに両手の平を左右にヒラヒラ振るだけしか出来ない。早坂はひたすら焦っているらしい望月を見詰め、そのまま小さく微笑んだ。
「とにかく、ゴメンね。僕が人見知り激しくて友達作るの下手だから、駿くんが気を使って僕と一緒にいてくれたんだよね。僕、そんな駿くんの気持ち凄く嬉しかったよ。でも、もう気を使わなくていいから。僕と無理して一緒にいなくてもいいから」
「無理なんかしてな……おいっ! 良ちゃん!!」
 弾かれたように席を立ち、足早に化学室を去った早坂を必死に呼び止めようとしたが、彼の決意は固いらしく一瞬も振り向かずに廊下を歩いて行く。化学室に一人取り残された望月はゴンッと派手に某高校の番長顔負けの頭突きを机にお見舞いした。

 自分と同じ学年の生徒達が友人と昼食を広げつつ話に花を咲かせて笑い合う光景を横目でチラリと見ながら弁当包みと校内の自動販売機で買った紙パックの緑茶を手にした早坂は足早に廊下を進み、微かに重い屋上への扉を押し開けた。自分の心とは裏腹に清々しく晴れている青空の下で弁当包みを広げている生徒達には極力見えない場所を探し、結局日の光など全く差し込まない隅の日陰にちょこんと腰を下ろす。他の生徒達の何気ない視線を過剰に感じながら弁当箱の蓋を開くと、何時ものようにおかずが多目の昼食が目に飛び込んで来た。何時も一緒に昼食を食べる親友が自分の弁当のおかずを摘み“良ちゃんの母ちゃん、料理上手いもんな”と一言添えて口に運ぶのが日常茶飯事である事に気が付いた母親が配慮して作ったらしき弁当だったが、今ではそれも無意識の内に胸に広がる寂しさを強めるだけだった。
「うぅん、これで良かったんだ」
 人知れず呟きながら箸箱を開けて左手に箸を持ち、口の中でいただきます、とポソッと言って箸をつける。僕がいると駿くん、気を使っちゃって僕と一緒にいようとしてくれるから他の人と付き合えないんだ。僕さえ一人になってしまえば、駿くんは本来の人気者に戻って色々な人に囲まれて幸せになれるに違いない。優しくて一緒にいると楽しい彼の事だから、女の子との付き合いも容易に出来るだろう。そう、僕と言う駿くんに付き纏う御邪魔虫さえいなければ。きっと、僕が彼にへばり付いていたから駿くんは好きな女の子も出来なくて、何故か僕なんかでナニしちゃったりして。でも、それがほんの少しだけ嬉しかった僕がいたりして……って、あぁぁぁ、何を考えてるんだ僕は。
「はぁ……」
 自分を覆う日陰が心の影も一層強めてしまう。箸の先が付けられたまま全く量が減らない薄暗い弁当の上にポツンッと大粒の雨が一粒だけ散った。

 昼休みになった途端に失踪した親友を探し当てられず、結局手近な他の友人と昼食を済ませた望月が、毎日口にしている早坂の弁当のおかず一品を食べていないから物足りないと訴えている口の中に牛乳を流し込んでいると、何者かが背中をトントンと指先で叩いて来た。
「よっ、珍しいな。お前の近くに早坂が居ないなんて」
「あ、竜二さん」
 昼食なのか食後のおやつなのか微妙なメロンパンに噛り付きながら笑いかけて来る服部竜二に義理のような笑顔を返しつつも、改めて廊下の窓から外を眺めて溜め息を吐いてしまう。それが伝染ったかのように竜二も溜め息を吐き、手の中のパンを千切って望月に手渡した。
「なーんか元気ねぇな。早坂も凄ぇ沈んだ顔してたし。お前ら喧嘩でもした訳?」
「え? 早坂を見たんですか?」
「あぁ。さっき屋上で一人で弁当食ってるの見たけど。それで、アイツ何時も望月と昼飯食ってるのにおかしいなって思って」
「そうですか……」
 メロンパンの欠片を口の中に放りながら物思いにふけり始めた望月の横顔を竜二は暫くの間見詰めていたが、突然バンッと平手で思い切り望月の背中を引っ叩いた。
「ぐっ!?」
「湿っぽいなぁ、元気出せよ。喧嘩したならお前が折れて謝っちまえ! きっと早坂だって一人で行動してて寂しい筈なんだからよ」
 口の中にまだ僅かに残っていたパンを思わず吹いて咽る望月の鼻先を人指し指で強く押し、ニッと白い歯を見せて何処か強気そうな笑顔を見せる。
「そんな風にウジウジ悩む位ならサッサと行動起こせっつーの。お前らしくねぇなぁ。恋の悩みでもしてるみたいな表情しやがって」
「!!」
 恋の悩み。余りにも図星な単語一つで望月の顔は一瞬にして赤くなり、心臓も自分でも危険ではないかと心配してしまう位に忙しい鼓動を始める。胸を押さえてフラフラと二、三歩後退する望月の妙な反応に竜二は不思議そうに目を丸くした。
「どうしたんだ? 急に真っ赤になって。まさか、お前マジで恋の悩」
「違います! そんなんじゃないんです! マジでマジで!!」
「あ?」
 怪訝そうに眉間に皺を寄せる竜二に必死に両手の平を振り、この場から逃げ去ろうと回れ右して走り始めた瞬間にゴミ箱に蹴躓いて派手にすっ転ぶ。一人で勝手に大騒ぎして周りの注目を浴びている望月を竜二は呆気にとられた表情で見詰めていた。

 言うんだ。一緒に帰ろうって。このホームルームが終わって解放されたら、即アイツの席までダッシュして声をかけるんだ。俺は良ちゃんと一緒に帰りたいって。また一緒に過ごそうって。頭の中で色々と台詞を作り、その台詞を口にする時が近付く毎に何故か緊張して腹の何処かが微妙に痛くなってくる。前の方の席に着席している親友をコッソリと見ると、彼は何処か俯いた感じで担任教師の話に耳を傾けているようだった。
「あぁ、それと今から名前を呼ぶ者は……」
 教師が何人かの生徒の名を呼び始め、その中には自分の名前も入っている。一体何事かと教師の方を向いて話に耳を傾けると、紙にメモしていたらしい名前を読み上げた教師が顔を上げた。
「今、名前を呼ばれた者は前回の試験の成績が芳しくなかったので今日から一週間居残り補習を受けて貰う」
 はい? 今、何て言いました? 居残り補習? ちょっと待って下さいよ。そしたら俺、良ちゃんと帰れないって事じゃないですか。じゃあ、今までずっと頭の中で作っていた台詞は全部無駄? そりゃないよ。ふと視線を感じ、顔を視線の方に向けると視界に入った親友が慌てて目を逸らして前を向く。一瞬見えた親友の表情は何処か寂しげだったが、結局彼はホームルームが終わった途端に逃げるように教室を後にして望月の胸に強い痛みを与えた。

 やっぱり、一人って寂しいな。何時も通る道をトボトボと進み、望月と一緒に買い食いをするコンビニエンスストアや新刊をチェックしたり立ち読みをしたりする本屋が目に入る度に寂しさが強まって溜め息が漏れる。でも、僕から別行動しようって言ったんだから、今更“やっぱり駿くんと一緒がいい”とは言えないし。万が一、それを伝えたら駿くんは笑顔で元通り一緒に過ごしてくれるだろうけど、そしたらまた駿くんは他の人と付き合えなくなっちゃうし。やっぱり、僕が我慢するべきなんだろうな。信号で立ち止まり、視線を落として考え事をする早坂の背中をを黄緑色の制服姿の男子生徒数名が影から指差して小声で何かを話し合ったかと思うとクスクスと笑い合う。青信号になって道を渡り始めた早坂の後を黄緑色の制服が小走りで追いかけた。
「?」
 顔も見た事がない他校の人間が自分の後を付けている事に気が付いた早坂が立ち止まって後ろを振り向くと、数人の男が数メートル先から自分を見ている。目が合った瞬間、彼らはニヤリと笑ってポケットに手を突っ込みながら早坂に近付いて来た。
「やーっと気が付いたか。正直、このまま気付かなかったらどうしようかとおもってたんだけどな。ヘヘヘッ」
「僕に何か?」
「実はさぁ」
 一人が早坂の肩を掴んで電柱に身体を押し付け、残りの者達が早坂を取り囲む。その状況を早坂は冷静に理解し、特に表情も変えずに心の中で呟いた。あぁ、カツアゲか。今時下らない事をするもんだね。
「財布落としちゃってさ。家に帰れねぇんだよ。悪いけど電車代貸してくんねぇかな」
「此処に居る人全員財布落とした訳? だとしたら凄い確率だと思うけど? それとも、皆アッサリ財布落としちゃう位にだらしないの?」
「なっ! てめぇ馬鹿にしてんのかよ!」
 涼しい顔でサラリと言う早坂の胸倉を掴むが、特に驚いた様子も見せずに呆れの視線に嘲りを加える。早くも頭に血が上っているらしい男達に早坂は小さく笑った。
「別に馬鹿にしたくはないけどさ、全員が財布落としちゃうなんて結構笑える話じゃないかな。今度から皆お金落とさないように首からガマ口でも提げとけば? そしたら落とす可能性がかなり減ると思うんだけど」
「うるせぇなっ!! 四の五の言ってねぇで金出しときゃいいんだよ!!」
「何ムキになってんのさ。僕は普通に君達の為に提案しただけだよ。君達がすぐにお金落とすから。もしかして僕の言い方が癪に障った? ゴメンゴメン、今機嫌悪いから。……すぐお金落とす御方に絡まれて」
「コ、コイツ、馬鹿にしやがって……!!」
 涼しげな表情の早坂に対し、暑苦しい湯気を感じそうなまでに顔を赤くしている相手の男達が拳を振り上げる。やれやれ。早坂は心の中で肩をすくめ、左手に持っている鞄を密かに持ち直して表情と同じ声で言った。
「本当に暑苦しいね。ちょっと冷ましてあげるよ」
 相手の拳よりも先に自分の鞄が真正面の男の顔に当たり、頬を強く打たれる事で無残な表情になって倒れた仲間に逆上して殴りかかる一人を蹴り飛ばし、後ろから隠し持っていた武器で攻撃しようとした卑怯者には振り向かずに肘鉄だけを食らわし、その卑怯者が落とした武器を拾い上げて軽く振ってみせれば、その肉眼で捉えるには難しいスピードに男達はヒッと情けない声をあげ始める。どうする? 口元に笑みを浮かべ、表情で続行するか否かを聞いてみると黄緑の制服の男達は何も言わずに全力疾走でその場から逃げ去ってしまった。
「それだけ速く走れたら電車に乗る必要ないでしょ。若いんだから走って帰りなよ」
 制服や鞄に付いた埃を軽く叩いて何事もなかったかのように帰路を歩き始めた早坂だったが、地面に散っている血の斑点を見て微かに顔を顰めた。
「ちょっとやり過ぎちゃったかな……でも、僕が機嫌悪い時に絡むから悪いんだ。駿くんと一緒にいれなくて寂しがってる時に……」
 自分に言い聞かせるように呟きながら、逃げるようにその場を離れていく。この“やり過ぎた事”が後になって自分を恐怖に陥れる事を早坂は知る由もなかった。