1930年代、世界各国で新型戦闘機の開発競争が繰り広げられる中で、長距離作戦が可能な機種として、エンジンを複数搭載した大型戦闘機の開発が始まりました。
有名なもので例を挙げれば、アメリカはP-38「ライトニング」(稲妻という意味)、ドイツではメッサーシュミット「Me262」、イギリスでは「モスキート」と名だたるものが多いです。しかし、単発(エンジンが一基しかないもの)に比べると、やはり運動性は若干劣るため、戦後の戦闘機はジェットエンジンを機軸上に並列配置したものが標準となっているようです。
日本でも例に漏れず、双発戦闘機の開発がスタートしました。この背景には、列強で進められている新機種の開発に乗り遅れられないことに加え、中国戦線に投入されている爆撃機に随伴する長距離護衛機の開発も兼ねていました。昭和12年、重慶爆撃で中国空軍の迎撃で大打撃を受けたことに衝撃を受けた日本海軍は中島航空機に対し、十三試陸上戦闘機として開発命令を出しました。
要求性能は航続距離が3700キロ(零戦21型で3000キロ)、最大速度が時速510キロ以上、さらに開発中の十二試艦上戦闘機(後の零戦21型)と同等の運動性を持ち、爆撃機と同等の航法(現在位置や燃料残量などを計算しながら飛行し、作戦終了後は出発した基地に戻ってくること)装置と通信機器を装備できることが条件でした。
海軍の欲張った要求を忠実に満たした試作機は昭和16年3月に完成し、5月2日に初飛行を迎えました。航続距離や速度は要求性能をクリアできたのですが、最も重要であった運動性が劣っていた上に、先行投入されていた零戦がすでに中国戦線で護衛機として採用されていたため、戦闘機として採用されませんでした。
しかし、長距離戦闘機として開発された高速と長大な航続距離は偵察機にはもってこいの性能であったため、強行偵察機として転用されることになりました。昭和17年7月、偵察用カメラを搭載した試作機がラバウルに送り込まれガダルカナルを中心に前線司令部の目となりましたが、アメリカの戦力増強に伴い撃墜される確率が増え偵察機としての運用は下火となってしまいました。
戦闘機としても偵察機としても運用不可の烙印を押された月光でしたが、二五一航空隊の司令小園中佐の発案で機軸に対して上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃を斜め上方に向けた改造型が製作されました。
これまでは連日のようにアメリカ陸軍のB-17による夜間爆撃が繰り広げられ、ラバウル航空隊の手を焼いていました。改造型の月光はB-17の射程外から攻撃が可能であるため、たちまち2機を撃墜しました。この報告を聞いた海軍上層部は月光の改造を許可し、夜間戦闘機としての制式採用を決定しました。この改造機は撃墜スコアを伸ばし、一時的に夜間爆撃を押さえ込むことに成功しましたが、アメリカは戦局が優勢になっていたため夜間爆撃から昼間の爆撃に切り替えました。そのため、月光は夜間偵察や敵基地の夜襲に使われるようになりました。
本土防空戦ではレーダーを装備し、B-29を相手に戦いましたが、1万メートルの高高度の飛行には限度があり、護衛機としてP-51が現れてからは十分な戦果を挙げることはできませんでした。特攻機として使用されたこともあり、終戦時には稼動機が40機程度しか残りませんでした。現在、月光はアメリカのスミソニアン博物館で復元され、展示されています。