一〇〇式司令部偵察機
  
    
         一〇〇式司令部偵察機

 旧日本軍は情報戦を疎かにした盲目の軍隊だと酷評するマニアがいますが、「偵察」という分野に関しては日本は先進国と言っても過言ではありませんでした。昭和12年、零戦が開発に備えた研究段階にあった頃、日本陸軍は「高度4000mで時速600kmを出せる高速偵察機」の開発指示を三菱に出しました。

 この当時、時速600kmとは最新の戦闘機でも速度記録を出したことがない未知の領域でした。念のために言うと、零戦21型の最高速度は時速533km、隼1型の最高速度で時速536kmでした。

 無謀とも思える要求に対して、三菱は自社製のエンジンを2基搭載した双発型の機体設計を行い、さらにできるだけ空気抵抗を減らす流線型の断面型を持つようなデザインとしました。


 試作機は昭和14年11月に完成し、初飛行を迎えました。陸軍が要求した最大の条件「高度4000mで時速600km」は達成できなかったものの、最高速度は時速540kmを記録しました。これは当時最新鋭の零戦21型を超える画期的な性能でしたが、要求条件を満たせなかったとして制式採用に難色を示しました。しかし、英米との開戦がもはや不可避という現実もあり、三菱側の更なる上位機の登場を待つとして昭和15年8月に制式採用が決定しました。

 最初期の1型は陸軍の要求条件を満たせなかったボーダー的な採用と思われがちですが、そのスピードは驚嘆すべきものでした。100式司令部偵察機以降に開発された高速双発機でスピード勝負ができるのは中島の月光、川崎の屠龍、空技廠の銀河程度でした。



 陸軍に仮採用されたという苦い思いをした三菱は更なる新技術投入と設計改良を施して、上位機となる2型を開発しました。テスト飛行の結果、最大時速604kmをマークしようやく陸軍の航空関係者を納得させることに成功しました。この2型は1000機以上が量産される主力機とされ、北はアリューシャン列島、南は南太平洋と日本軍が展開した太平洋地域全域を作戦区域とし大活躍しました。


 連合軍側からは「写真屋のジョー」「空の通り魔」などと呼ばれ、100式司令部偵察機が現れると、その数日後に日本軍の攻撃があるとしてその飛来を恐れたといわれています。



 緒戦では戦闘機を振り切る高速で強行偵察が可能でしたが、敵戦闘機の性能向上に伴い被害が軽視できない状況が続くと、更なる高性能化が求められました。エンジンを1500馬力のものに換装、キャノピーをさらに空気抵抗の少ない形状に改設計した3型の登場でした。 テスト飛行の結果、最大速度はなんと時速630kmを突破しており、大戦末期の陸軍主力戦闘機「疾風」をも振り切る高速を発揮し、結果として日本で実用化された軍用機の中では最速の機種となったのです。

 高高度でも戦闘機と対抗しうる性能を持ったこの機は37ミリ戦車砲や月光と同じ斜め銃を搭載したタイプなどが開発され、本土防空戦に逐次投入されました。偵察機であるため、始めから戦闘機として設計された戦闘機のような運動性は無かった反面、高高度で安定して飛行できたため一定の戦果を挙げていました。さらに三菱はターボチャージャーを標準装備した4型を実用化させました。実戦に参加する前に敗戦となったのですが、テスト飛行の結果では高度10000mで時速630kmを出せることが確認されています。

 手元に資料は無いのですが、戦後、アメリカに接収されたこの機体が良質なハイオク燃料と高級プラグを使用したテスト飛行で技術調査団をうならせたのは想像に難くないと思われます。


※ターボチャージャー
 エンジンの排気ガスを使って、タービンを回し、その回転力で空気をより多く取り込みエンジンの出力を増強させる装置。酸素の薄い高空を飛行するための必需品であるが、ジェット機の飛ぶ現代では必要の無い装置となってしまった。世界で初めて実用機に装備したのはB-17であったが、迎撃側からすれば、ターボチャージャー稼働中のタービンは赤く発光して不気味さすら感じたという。

 戦後は自動車に多く装備され、スポーツ車と呼ばれるものは大抵装備済み



性能諸元 (一〇〇式司令部偵察機二型[キ46-II])    


 全長; 11.00m
 全幅;  14.70m
 全高;  3.88m
 正規全備重量; 3263kg
 エンジン; 三菱一式(ハ102)空冷複列星形14気筒 離昇1,080馬力×2
 最大速度; 604km/h 
  武装;  
7.7mm機銃×1     


     


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