現在の工業製品は技術革新が進むごとに小型・高性能化が進みます。それは第二次大戦下の軍事技術でも同じことが言え、航空機用エンジンの小型・軽量化、高出力化は最重要技術としてどの陣営でも行われてきました。
特に艦載機はその最たるもので陸上基地では優秀であっても、重量問題で空母での離発着に不向きとみなされて不採用という憂き目にあった航空機はいくつか存在しました。そんな中、アメリカ海軍機メーカーの名門グラマン社で新型艦上戦闘機の開発がスタートしました。
その背景には日本海軍の誇る零戦と死闘を繰り広げていたF6F「ヘルキャット」ではカバーできない局面が出てきたことにありました。大西洋でアメリカ海軍はUボート対策に護衛空母と呼ばれる商船を改造した空母を多数投入しました。その艦載機にTBF「アヴェンジャー」がありましたが、F6Fが搭載されることはありませんでした。その大きな理由にF6Fは大型化してしまい小型空母での運用ができないという点にありました。(戦闘機の占有スペースが増えると、本来の目的である雷撃機が積めなくなって本末転倒となるため)
あらゆるサイズの航空母艦で運用できる艦上戦闘機
それがF8F開発の目的そのものでした。
設計が本格スタートしたのは1943年でしたが、この頃は既に捕獲された零戦の技術データとF6Fの実戦データがグラマン社の設計スタッフに入ってきており、日米開戦前では想像もつかない新時代の戦闘機として開発が進みました。またこの設計の最大の特徴である小型の機体に高出力のエンジンの組み合わせという発想はドイツのFw190の技術レポートから得られた結果からでした。先に完成したF4FとF6Fの模範的な設計を発展させたF8Fは目立ったクセやトラブルもなく1944年8月初飛行をクリアし、最高速度は何と670キロを超えるという快挙を成し遂げました。
F6Fから新型機F8Fへの転換訓練が開始され、それに合わせて工場ではその日に備え量産を開始していました。しかし、日本軍機との対決の日はついに訪れることはありませんでした。1945年8月に日本は無条件降伏し、戦場の空でその優秀性を示す機会が永久に失われたからです。
さらにその5年後の朝鮮戦争ではすでに戦闘機はジェット主流の時代に移ろうとしていました。かつて日本を焼き払った「超空の要塞」と呼ばれたB-29でさえ、あっさりと撃墜される時代においてプロペラ機のF8Fが活躍する場はどこにもなかったのです。
純粋に対戦闘機用に、しかもコンパクトに設計されたために、航続距離が短く、爆弾搭載量はコルセアより格段に劣っていました。これは戦後の戦闘機の大きな特徴である戦闘爆撃機としての運用に向かないという証明でもありました。
ムスタングに並ぶ最強のレシプロ戦闘機として開発されながら、時代の転換期に翻弄された悲劇の戦闘機ともいえます。