Bury My Heart at Wounded Knee
2007.05.29 Tuesday | 映画作品 > ドラマ
(2007年)
HBO Films作品。
ディー・ブラウンの同名著書(邦題:『わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史』)を下敷きにしたTV映画。
アメリカ先住民が白人開拓者によってすべてを剥奪され支配されてゆく様、後にウーンデッド・ニーの虐殺という悲惨な事件を迎えるまでを、ネイティブの視点から描いている。
TV放映で鑑賞。
アメリカの侵略とネイティブの抵抗を描いたストーリー中、メインとなる人物たちは、白人社会で教育を受けた医師チャールズ・イーストマン(オヒエサ)、政府とネイティブの間で交渉を取り持つ上院議員ヘンリー・ドーズ、アメリカ政府に最後まで抵抗を続けたラコタ(スー)族長シッティング・ブル。
中でも印象的な人物はチャールズ・イーストマン。
父親によって部族から離され列車に乗せられ、行きたくもない学校へ送り込まれた少年オヒエサは、白人社会の中でそのメンバーの一人として生きることを余儀なくされる。
白人の名前に改名することを迫られても頑として拒んでいた彼も、「そうしなければ発言権はない」とばかりの圧力に負け、ついに自らクリスチャン・ネームを選び取る。
「オヒエサ」を捨て「チャールズ」になった彼は、その後成長して医師となる頃には、一見するとすっかり白人社会に溶け込んだように見える。
が、実際のところは「白人でもインディアンでもない者」という己の位置に苦しんでいたのではないだろうか。
まさに自らが名前を選んだ人名辞典と、その間に挟んでいた古い飾り羽根を目にした瞬間、自身の内側に築いていた堤防が決壊したかのように感情を爆発させ、「あのとき列車から飛び降りていれば」と涙するシーンは、そんな苦痛が叫びとなって現れたようでとても痛々しい。
ウーンデッド・ニーの事件は“戦い”ではなく”虐殺”。
男たちばかりか、女子供に老人も容赦なく撃ち殺されていく様子、そして遺体がそのままの形で凍ってうち捨てられている様は見ていてかなりきついものがある。
作中、アメリカ軍側が「白人たちが来るもっと前から、インディアンたちは部族間で殺しあい、侵略し、奪い合っていたじゃないか」と言う場面があった。白人だけに暴力をふるわれているような被害者面はよせ、というその軍人の言い分も、ある意味においては決して間違っているとはいえないのかもしれない。
しかしやはり、部族間の争いと外部からの侵略を同じにするのは無理がある。
「土地は奪うが、その一部はちゃんとインディアンに振り分けてやる」
「住む場所も食料も提供してやるし、必要なら狩りだってさせてやろう」
アメリカ側としては最上のオファーをしているつもりなんだろうけど、そんなハナから上から目線の態度に、ネイティブ側が「ハァ?」と思うのは当然すぎるほど当然。
だいたいネイティブはネイティブでもともと自分たちの文化や生活をきちんと持っていたのに、そこへいきなり乱入してきた輩に何もかも取り上げられ、部族のプライドも踏みにじられ、挙げ句に勝手なルールや信仰や生き方を押しつけられても、それをありがたがって受け入れろなんてのはどう考えてもおかしいわけで。
この「自分たちのようになりなさい」というのは、過去も現在もはびこっている、いわゆる先進国特有の傲慢さを凝縮した考えだと思う。
人間が、他の人間の権利を一方的に奪うこと。
時代や国や人種に関係なく、過去も、そして現在もなくなることのないこの暴力について、ラコタの歴史のみならずもっと幅広い範囲で今一度考えさせられるような、そんな重みのある作品だった。
マイ評価:★★★★★
以下余談:
HBOつながりだからか、『OZ』に出ていたシリンガーとビーチャー役の俳優がこの作品に揃って登場。
どんな役だろうと、画面にシリンガー出たとたん「危ない!」とか「逃げて!」とか叫びそうになるのはもう本能にしみついた癖のようなものw
それにしても、『28 weeks Later』でオーガスタス、『Invincible』でミゲール、そして今作のこの二人と、最近元OZキャストたちをいろんな作品で連続して見かけまくってるなぁ。
アメリカの侵略とネイティブの抵抗を描いたストーリー中、メインとなる人物たちは、白人社会で教育を受けた医師チャールズ・イーストマン(オヒエサ)、政府とネイティブの間で交渉を取り持つ上院議員ヘンリー・ドーズ、アメリカ政府に最後まで抵抗を続けたラコタ(スー)族長シッティング・ブル。
中でも印象的な人物はチャールズ・イーストマン。
父親によって部族から離され列車に乗せられ、行きたくもない学校へ送り込まれた少年オヒエサは、白人社会の中でそのメンバーの一人として生きることを余儀なくされる。
白人の名前に改名することを迫られても頑として拒んでいた彼も、「そうしなければ発言権はない」とばかりの圧力に負け、ついに自らクリスチャン・ネームを選び取る。
「オヒエサ」を捨て「チャールズ」になった彼は、その後成長して医師となる頃には、一見するとすっかり白人社会に溶け込んだように見える。
が、実際のところは「白人でもインディアンでもない者」という己の位置に苦しんでいたのではないだろうか。
まさに自らが名前を選んだ人名辞典と、その間に挟んでいた古い飾り羽根を目にした瞬間、自身の内側に築いていた堤防が決壊したかのように感情を爆発させ、「あのとき列車から飛び降りていれば」と涙するシーンは、そんな苦痛が叫びとなって現れたようでとても痛々しい。
ウーンデッド・ニーの事件は“戦い”ではなく”虐殺”。
男たちばかりか、女子供に老人も容赦なく撃ち殺されていく様子、そして遺体がそのままの形で凍ってうち捨てられている様は見ていてかなりきついものがある。
作中、アメリカ軍側が「白人たちが来るもっと前から、インディアンたちは部族間で殺しあい、侵略し、奪い合っていたじゃないか」と言う場面があった。白人だけに暴力をふるわれているような被害者面はよせ、というその軍人の言い分も、ある意味においては決して間違っているとはいえないのかもしれない。
しかしやはり、部族間の争いと外部からの侵略を同じにするのは無理がある。
「土地は奪うが、その一部はちゃんとインディアンに振り分けてやる」
「住む場所も食料も提供してやるし、必要なら狩りだってさせてやろう」
アメリカ側としては最上のオファーをしているつもりなんだろうけど、そんなハナから上から目線の態度に、ネイティブ側が「ハァ?」と思うのは当然すぎるほど当然。
だいたいネイティブはネイティブでもともと自分たちの文化や生活をきちんと持っていたのに、そこへいきなり乱入してきた輩に何もかも取り上げられ、部族のプライドも踏みにじられ、挙げ句に勝手なルールや信仰や生き方を押しつけられても、それをありがたがって受け入れろなんてのはどう考えてもおかしいわけで。
この「自分たちのようになりなさい」というのは、過去も現在もはびこっている、いわゆる先進国特有の傲慢さを凝縮した考えだと思う。
人間が、他の人間の権利を一方的に奪うこと。
時代や国や人種に関係なく、過去も、そして現在もなくなることのないこの暴力について、ラコタの歴史のみならずもっと幅広い範囲で今一度考えさせられるような、そんな重みのある作品だった。
マイ評価:★★★★★
以下余談:
HBOつながりだからか、『OZ』に出ていたシリンガーとビーチャー役の俳優がこの作品に揃って登場。
どんな役だろうと、画面にシリンガー出たとたん「危ない!」とか「逃げて!」とか叫びそうになるのはもう本能にしみついた癖のようなものw
それにしても、『28 weeks Later』でオーガスタス、『Invincible』でミゲール、そして今作のこの二人と、最近元OZキャストたちをいろんな作品で連続して見かけまくってるなぁ。
author : 四葉 | - | -