陸軍五式戦闘機 
   
             陸軍五式戦闘機

 昭和19年秋、陸軍で制式採用された三式戦「飛燕」は性能向上型のエンジン、ハー140の搭載を前提とした生産がスタートしました。しかし、機体が工場から出荷されても飛行機に搭載するはずのエンジンの量産が思うように進まず工場の外にはエンジンの到着を待つ仕掛品の機体、いわゆる「首無し機」が大量発生するという異常事態が発生していました。川崎航空機は陸軍に搭載エンジンの変更を提言を繰り返し、陸軍上層部は渋々エンジンの変更を指示します。理想的にはハ-140と同程度のパワーを持つ液冷エンジンを選択すべきだったのですがこれに唯一匹敵できたのは、愛知航空機の液冷エンジン「アツタ」のみでした。海軍でも「アツタ」を搭載した艦上爆撃機「彗星」のエンジン生産に頭を抱えて空冷エンジン「金星」に変更した彗星33型を登場させたばかりでした。

 結果として、エンジンの到着を待つ三式戦「飛燕」には100式司偵(偵察機)に採用されていたエンジン「ハ-112-U」の搭載が決定しました。皮肉にも、設計当初は日本屈指の高速戦闘機と目された「飛燕」は、海軍最速の艦上爆撃機「彗星」とまったく同じ運命をたどることになったのです。


 「飛燕」空冷化計画の設計主務は同機を開発した土井武夫技師が務めましたが、エンジン載せ換えには大きな問題が生じました。それはエンジンの外径と機体幅がまったく異なるために空力学的に不利になることでした。飛燕設計当初は液冷エンジンに合わせて、機体幅を84センチまでに絞っていました。仮に新しいエンジンをカウリング(エンジン覆い)付でそのまま機体に接続すれば実に20センチ以上の段差ができてしまい、視界・操縦性の悪化、最悪の場合は異常振動の原因にもなりかねませんでした。簡単な風洞実験の結果、エンジン外径に合わせて機体表面に新たな外装を肉付けし自然な流線型にすれば解決できるいう結論が出ました。この結論に至るお手本となったのが、研究用に輸入されたフォッケウルフ「Fw190」でした。

 昼夜兼行の突貫作業の末、試作1号機が1945年1月に完成し、翌2月には初飛行に成功しました。綿密な風洞試験などが大幅に省略された半ば博打に近い設計と製作でしたが、軽快な運動性と零戦以上の速度をマークした5式戦は川崎航空機の技術陣を大いに沸かせました。予想以上の性能に直ちに陸軍はこの空冷型飛燕を5式戦闘機として制式採用、「飛燕」の未完成機を5式戦へ改造するよう指示しました。


 速度は4式戦「疾風」に及ばなかったものの、模擬空戦においては日本陸軍機のトップクラスの性能を披露し、一時は連合国空軍に新型機登場のニュースとなりました。事実、操縦性・メンテナンスのしやすさや飛燕譲りの運動性は日本本土に来襲したF6FP-51にも充分に対抗でき、終戦の日まで本土防空の要となって活躍しました。

 急ごしらえのイメージの強い五式戦の評判ですが、本土防空部隊のエースと知られていた陸軍史上最年少(24歳)の戦隊長、小林照彦少佐は「五式戦をもってすれば絶対不敗」と公言し、一式戦に慣れた歴戦のエースパイロット達からは「3機の四式戦より1機の五式戦の方が価値がある」と言われるほどの好評ぶりでした。

性能諸元(キ100 U)

 全長; 8.92m
 全幅;  12.00m
 全高; 3.75m
 正規全備重量; 3670kg
 エンジン; ハ112-U(離昇出力:1500馬力 但し排気タービン装備)
 最大速度; 590km/h 
  武装;  13o機関砲×2 20mm機関砲×2       
      爆弾:250`爆弾×2


                             TOPページへ戻る 

            
航空機講座過去ログ1  航空機講座過去ログ2  航空機講座過去ログ3  航空機講座過去ログ4