※赤い文字色のページには性描写があります
まだ微かに独特の臭いが残っていたが、とりあえずの後始末が終わった地下牢で、風薙は格子に背中を預けたままこちらを向かぬ暮羽をボンヤリと眺めていた。その投げ出された下半身にはベージュ色の古い毛布が掛けられている。服を裂かれて一糸纏わぬ姿になってしまった彼に風薙が自分の獄の隅に無雑作に畳まれていた二枚の中から比較的まともな方を鉄格子越しに手渡した物だ。
「…………」
暮羽の背中を見ている内に少し前の事を思い出して胸が締め付けられる。
男達が地下室から出て行った暫し後、ようよう身を起こした暮羽が肩を震わせながら両足の間に走る男の種跡と凝血を幾度も拭い、顔にへばり付く吐瀉物を血が滲みそうなまでに擦り落とす後ろ姿に風薙は何も言えなかった。今の彼を慰め、深く刻まれた傷を癒す言葉などあるだろうか。
『大変でしたね』『俺の代わりに犯されてくれて有難う』『妊娠だけは絶対しませんから大丈夫ですよ』
……ちっとも慰めになる筈が無い。寧ろ、彼の心の傷に塩を塗りこんでしまう。
元々、このような時に適切な言葉が浮かび難い人間である風薙は、他人に構う余裕が無いほどの強いショックを受けた振りをして彼から目を逸らし、物言わず下を向く事しか出来なかった。
ただただ無言の世界に風薙は息が詰まり始めていた。
何か、話しかけようか。“てめェのせいで犯されたンだ”と怒鳴られたっていい。彼の声が聞きたい。彼と話したい。いや、話してくれなくてもいい。ただ、彼に振り向いて欲しい。望むなら、今の彼には多分無理だろうけど、あのへらっとした笑顔をもう一度見せて欲しい。
「くれ……」
ガチャン! 暮羽を呼ぼうとした風薙の声に鉄扉の音が被さり、牢の中の二人の身体が無意識に硬くなった。階段を降りる音と共に耳に入るのは、聞き覚えの無い男の苛立ったような声。
「ったく、絶対あの台詐欺だぜ。あの演出でハズレとか有り得ねぇだろ!?」
「詐欺だと思うならサッサと台変えればイイじゃねぇか。大体、パチンコなんてそんなもんだろ」
苛立ち男と会話をしているのは先程散々暮羽に無体を働いたピアスの男らしい。自然と暮羽の顔がサッと青褪め、身体の強張りが自然と強くなる。階段へと通ずる小さな鉄格子の扉が開き、二人の男が暮羽を見た瞬間に唇の端を掲げた。扉を閉めるピアスの男を尻目に進み、暮羽の眼前に立ったのは頭を綺麗に剃り上げた上背のある頑健な男で、筋肉が浮く二の腕には女神をイメージしたらしき女の刺青が彫られていた。出入り口をしっかりと施錠して近寄って来る仲間の男を横目で追いながら坊主の男は問う。
「へー? コイツが新しい玩具? 本当に好きにしていいわけ?」
「好きにしていいからココに連れて来たんじゃねぇか。一応、もう後ろの方は貫通済みだぜ?」
「ふーん……」
男はキツネ眼をより細めて暮羽の眼を覗き込んだ。これからされる行為を予想しているのか恐れの感情を滲ませるその眼に坊主頭の男はニッと歯を見せて笑いかけた。
「心配すんな、お前をヤるのがメインの目的じゃねぇから」
「え?」
男の言葉に細かな瞬きを繰り返す暮羽に対し、仲間の男が薄ら笑いを零した。
「あー、やっぱりお前はそっちの方だよな。だと思った」
「な、何だよ……」
ピアス男の意味深な声色に上ずった声を出す暮羽だったが、不意に坊主の男に手錠の鎖を上から強く引っ張られて無理矢理立ち上がらされ、薄い毛布が床に落ちた。目を白黒する暮羽の背後にピアス男が素早く回り、後ろから両腕を絡めて暮羽を羽交い絞めにした。
「はーい、いつでもどうぞ! 大負けした憂さを晴らしちゃってー♪」
「えっ? えッ!?」
困惑顔を幾度も動かして前後の男を交互に見る暮羽の様子を面白そうに眺め、スキンヘッドの男は右の拳に左手を被せてコキコキと鳴らして言った。
「なぁ、賭けしねぇか? お前、何発だと思う?」
「あー、そうだな」
仲間に謎の質問をされた後ろの男が、甲羅から出て来た亀のように首を伸ばして冷や汗が伝う暮羽の横顔を暫し眺めて薄く笑い、頭を引っ込めて肩をすくめた。
「ま、お前の力とか考えて五発ってトコかな」
「そうか、じゃあ俺は三発だ。負けた方がメシ奢りな。行くぜ!」
「て、てめェら、何を言ってやが……ぐッ!!!」
言葉の全てを言い切る前に男の拳が鳩尾にめり込んで息が詰まり、身体が前後に折れ、眼球が飛び出んばかりに目を剥く。風薙が裏返った悲鳴混じりに暮羽を叫び呼んだ。
「う、ぐふっ、ゴホッ、ごほっ……!!」
「ほーら、まだ一発目だぞ。もうちょっと頑張れって!」
頭をグッタリと垂れて咳き込む暮羽の身体を背後の男が引き上げて、露わになった腹部に再度思い切り殴りかかる。強い打撃に内蔵が嫌な感じにビクつき、中身が瞬く間に喉元まで押し上げられ、口から勢い良く吐き出された。
「ぐ、げぶっ、うえぉえぇえええッ……!!」
「チッ、何だコイツ……もう吐いたのかよ。賭けにもなりゃしねぇ」
服にかかりそうな勢いで噴き出され、床にビチャビチャと飛沫を飛び散らせる吐瀉物から汚らわしそうに身を引いて避けた坊主の男は拳を撫でて舌打ちをした。
「げ、げぇ! げほっ、えほっ……はぁ、はぁ、はぁ……!!」
口の周りを吐いた物で汚らしく濡らして息を切らせる暮羽の目の前に殴った男が気を取り直したように近付き、吐物を跨いで再度拳を握る。その動きに暮羽の背後のピアス男は笑みを深め、生贄でも差し出すように暮羽を少し前へと押し出した。ヒッ……と顔を引き攣らせる生贄の黄蘗色の髪を男は拳を握っていない方の手でわしゃわしゃと乱暴に撫で、不気味なまでに優しげな声で言った。
「賭けは無しになったが、まだ俺自身はスッキリしてねぇんだ。もうちょっと付き合ってくれよ!!」
「や、やめ、もう、やめてく、ぅえッ!! が、か、かはっ、がはっ……う、ぅぐえ、ぐえええぇッ……ごぼっ!!」
懇願も空しく三発目の拳が腹に沈んで噎せ返り、そのまま新たな汚物を産する事になってしまう。それにも構わず、まだ憂さが晴らせていない男は狂気じみた笑顔を強めて、同じ照準を的確に狙って拳を振り上げた。
「うぅ……!!」
反射的に硬く目を閉じる事でより鋭敏になってしまった風薙の鼓膜を刺激するのは嫌な音の羅列。サンドバッグと化した肉を拳が強く打つ音。暮羽の呻き。咳き込み。嘔吐の咆哮。コンクリートに生々しく砕け散る胃液の水音。
胃を握られるような痛みを覚え、渦巻くような吐き気を感じた風薙は耳を慌てて塞いで身を縮こませ、粘つく唾液を何度も飲み下した。
漸く気が晴れたらしい男が拳を下ろして後ろへ数歩下がると、それが合図であるかのように仲間の男が羽交い絞めにしたままだった暮羽を雑に解放した。腹部に拳大の痣を幾つも作った暮羽の身体がゆっくりと離れ、ガクンと両膝を突き、そのまま自分が生み出した嘔液の海に倒れ込んだ。少し前、男達に手酷い狼藉を加えられた時と同じように精神を手放している暮羽を軽侮の眼で見下ろしながら、坊主の男は軽く肩を緩めた。
「じゃ、戻ろうぜ」
「へ?」
それは思いもよらぬ言葉だったらしく、ピアスの男が素直に眼を丸くする。
「ヤらねぇの?」
仲間の男の驚きと呆れの入り混じった声に坊主男はハッと軽く嘲笑し、生気の欠片も無い暮羽の横顔を革靴で踏み付けると、開きっ放しの口から出し損ねていたらしい反吐が少量ながら零れ出た。
「こんなゲロまみれの野郎なんて犯せるかよ。臭くて萎えちまったぜ」
言いつつ男は暮羽を踏み締めたままベルトを外してズボンと下着をずらし、至って通常状態の柔らかな分身を引っ張り出す。やっぱり、犯すんじゃないか……! 男の矛盾する行動をすがめた眼で見て気色ばむ風薙があっと叫んだのは次の瞬間だった。
踏んでいた顔から足をすっと離した男の先端から勢い良く飛び出して来た温かな排泄水が暮羽の頬にぶつかると、かけられた方は身体を一度ピクンと動かしたが、その瞳は相変わらず開きっ放しで、同じく開いたままの口からは悲鳴も何も出ては来ず、男が浴びせる小水を顔で、身体で受け止めていた。
「ハハッ、ガチの便器だな」
ピアスの男が暮羽の虚ろな顔を覗き込んで笑い、そのまま牢の中で蹲っている風薙に目をやる。おい、と声をかけるとその身体が僅かに跳ねた。
「折角掃除してくれた所で悪いけどよ。コイツが起きたらまた後始末するよう言っといてくれや」
「…………」
ゆるゆると青い顔を上げて、紫がかった唇を震わせる風薙にピアスの男は顔を歪めて片目を不器用に瞑り、排泄が終わった長身の仲間と共に牢を後にした。
ぐうぅ。相変わらず無言が続く地下牢で虫が鳴いたのはそれから暫く後の事。坊主の男達が襲来する前と同じように鉄格子に背を当てていた暮羽がゆっくりと振り向くと、虫の主がほんのり頬を赤らめて俯いていた。
「腹減ったのか?」
「…………」
久方振りに聞いた彼のまともな声に安堵と喜びを噛み締めながら、風薙は微かな照れ笑いを浮かべて頷いた。暮羽の整った眉がやや心配そうに顰められる。
「ここに連れて来られてから何も食ってねェからなァ」
「暮羽さんは腹減ってないんですか?」
「あー……胃ン中は空っぽなンだろうけど、何か余り食いたくねェ」
食った所で、また無理矢理吐かされるだろうしな。そう付け加えて、ふっと前方の壁へと視線を戻した暮羽に風薙はしまったと顔をしかめ、己の浅はかな言葉を激しく悔いた。
「おーい、生きてるかー?」
場の空気を読まぬこれまた軽薄な声が上から聞こえ、どやどやと件の外道達が階段を下りて来る。片割れが低く呻き、片割れが身体を硬くする中で男達が部屋に入って来た。例の男達と見覚えの無い男が数人。
「おー、あんなに汚したのに結構綺麗に後始末出来てるじゃん。お前、見かけによらず掃除が得意なんだな」
見かけ云々と言う余計な一言を添えながらピアスの男が暮羽の乱れた髪をグシャグシャと余計に滅茶苦茶にし、その手を暮羽に振り払われて仲間達の失笑を買う。その様子をヘラヘラと見ながら、膨らんだコンビニ袋を提げた大男が鍵を取り出し、二人を隔てている牢の鍵を開けて風薙がいる方へと入り込んで来た。風薙の息を呑む音に暮羽が慌てて男に向かって怒鳴った。
「お、おい! そいつに手ェ出すンじゃねェ!!」
男は怒鳴り声がした方を振り向き、片眉を上げて馬鹿にするように答えた。
「何言ってんだお前。コイツに飯をやるだけだよ」
言いながら風薙の眼前でコンビニ袋を逆しまにして乱暴に振ると、中から五百ミリリットルサイズのペットボトルの水と半額シールが貼られたサンドイッチが転がり落ちた。雑な扱いを受けたらしいサンドイッチは半分潰れて中身がちょっと飛び出ている。
「じゃあ、召し上がれ♪」
「え……」
男がしゃがみ込んでニッコリと優しく、だが隠し切れぬ愚劣さを滲ませた笑みを風薙に見せた。笑顔を贈られた方は少しまじろぎ、床の潰れかけたサンドイッチを一瞥し、その眼は流れるように、牢の外で不安げに自分を見詰めている暮羽へと向け、率直な質問を口にした。
「く、暮羽さんの分は? もし、これで二人分なら先に暮羽さんに……」
「あはははは!! 全部お前の分だよ!」
笑い声は出すがその眼は全く笑っておらず、ラップに包まれたままのパンを拾って包装も解かずに風薙の口に押し当てる。苦しげに低く呻く風薙に男は高笑いをピタリと止めて凄んだ。
「いいからサッサと食え。俺が見てる前で全部な。俺達の目がなかったら、アイツに分ける気なんだろ? そうはさせるかよ」
「!!」
図星をさされてうろたえる風薙の泳ぐ眼が、獄外の暮羽の気遣わしげな眼とパチリと合わさる。視線が絡んだ瞬間、暮羽は小さく首を振り、口をパクパクさせて無音の言葉を伝えた。全部食え、と。
「で、でも……」
戸惑いの声で呟く風薙だったが、すぐ近くにいる男の、そして暮羽の、それぞれ鋭い眼光の前に口篭り、観念したようにラップを少し震える手で剥がして、タマゴサンドを両手で持った。彼らが入手してから時間が経っているのか既に端が干からび始めているパンに恐る恐る齧り付く。
……“不味い”と言うのはこんな味の事なのだろう。風薙は生まれて初めてそれを知った。
「よしよし、しっかり全部食べるんだぞ」
大男が満足そうに風薙の頭を無骨な手で撫でるのを仲間達が可笑しそうに眺め、彼らもまた同じようなコンビニ袋から水の入ったペットボトルを取り出して、いかにも美味そうに喉を鳴らしてそれを飲み始めた。自分に見せびらかしている事に気付いた暮羽は忌々しげに舌打ちをしつつも、コッソリと喉を鳴らした。空腹感は余り無いが、喉の渇きはやや耐え難い状態まで来ている。何よりも、男の体液や禍々しい肉、そして己の吐物の感触が残る口をゆすぎたい。
「何だ、お前も水が欲しいのか?」
「……」
一瞬、自分の中のプライドが拒もうとしたが、今はそんな事を言っている場合ではない。暮羽は自分の反応を目ざとく見つけた痩せ男から顔を逸らしながらも、微かに頷いた。ふーん、と気の抜けた返事をした痩せた男は中身がまだ充分にある手の中のペットボトルを数秒ほど眺め、座り込んだままの暮羽の俯く頭を見下ろした。
「ま、いいか。口開けな」
「あ……」
相手が思ったよりもアッサリと受け入れた事に嫌な予感を密かに覚えながらも、今はただ水が欲しい暮羽は素直に口を開いた。男が近付き、ペットボトルの口を暮羽の唇に普通に近付ける。嫌な予感は外れたらしい。この狡猾そうな男にも良心と言う物があったのだ。暮羽は安堵し、久し振りに顔が綻びそうなのを感じた。そのささやかな安らぎが次の瞬間には苦悶に変わるのも知らずに。
「!!? んぶぐ……ぷぁッ!! ひ……やあぁああぁああ!!!」
渇望と言う言葉そのままに待ち望んでいた水の入った容器の口が唇に触れるか触れないかと言う所まで近付いた瞬間、突如ペットボトルは男の肉筒に変貌し、先端から勢い良く飛び出た黄色い温水が暮羽の開かれた口に飛び込んだ。暮羽は声高に悲鳴をあげ、口に入ったそれを唾液と一緒に激しく吐き出しながら、小水をぶつけてくる肉鉄砲を照準が少しでも自分の口から外れるように必死に押し退け、首を捻って顔を逸らしたが、涙が流れるその頬に、乱れた髪に、強張った肩に尿は容赦なくかかり、暮羽は嫌だ嫌だと泣き叫び、もがいた。
「ひゃははははは!! 騙されて小便飲んでやんの! 素直に水貰えると思ったのか? 甘いんだよバーカ!!」
「ほら、飲めよ! コイツが分けてくれた水なんだぞ? しかも聖水だぞ? ぎゃはははは!!」
仲間の一人が暮羽の髪を掴んで、未だ続く放水を真正面から浴びるように顔を向かせ、別の男が背後から暮羽の両手首を引いて無防備な姿勢にさせる。暮羽は身体を痙攣させ、容赦なく引っ掛けられる汚水で濡れた頬に新たな涙を伝わせて嗚咽した。
「ひ、ひっく、もう……許し、て、もう、やめて、くれ!! もう、もう、嫌だ!! ぅわああぁああぁああ!!」
「あ、あぁ、や、やめろ!! やめるんだ!!」
思わず声を限りに叫ぶと、男達が一斉に自分の方へと振り向いた。その無数のギョロリとした眸子に風薙は一瞬、うっ、と微かに唸ってたじろいだが、一度眼をギュッと固く閉じて己を奮い立たせると、手の中にあるペットボトルを牢越しに突き出した。
「頼むから、お願いだから、コレを暮羽さんに飲ませてくれ……い、いえ、飲ませてください!! お願いします、お願いします!!」
一心不乱な切願が相手の心にちょっとは響いたのか、男の一人が風薙にゆっくりと近付いて、その震える手からペットボトルを乱暴に奪い取った。殆ど中身が減っていないボトルを軽く振り、その蓋を捻り開けながら男は暮羽の方へと足を向けた。
「お前の可愛い後輩ちゃんが水くれるってよ。有難く飲みな」
「…………」
小水まみれのベソかき顔が弱々しく風薙を見る。風薙は何とか彼を元気付けるように硬いながらも笑顔を見せ、今の自分に出来る限りの強さで頷いてみせた。それにつられたかのように彼の顔が僅かに緩みかけたその瞬間。
「!!」
二人の顔が固まったのは彼らの視線の先で男がペットボトルを傾けて、床の上に中身をぶちまけてしまったから。な、何を……。どちらかがその言葉を口にする前に男は空のペットボトルを放り捨て、容器がぶつかり転がる音が響く床に出来た水溜りを指差して言った。
「はい、どうぞ。これを啜るんだ。後輩ちゃんから貰った大事な水だぞ?」
「なっ……!!」
二人の言葉が重なり、それを最後に絶句する。埃が浮かび、ゆらゆら泳ぐ水溜まりを見詰めたまま硬直する暮羽に男が顔を寄せた。
「飲まねぇのかよ。アイツの好意を無にする気か?」
「…………」
風薙の気持ちを無下にするつもりは毛頭無いのだが、お世辞にも綺麗とは言えなくなった水を床に這い蹲って啜り飲むと言う行為を実践する気には到底なれない。微動だにせぬ相手に男は露骨な溜め息を吐き、彼の横顔に唇を寄せて何かを耳打ちすると、言われた方が眼を大きく見開き、いかにも動揺した様子で風薙を瞥見し、その眼を床の溜まりに戻して低い呻吟を喉の奥から絞り出した。そして
「!!」
暮羽の一瞬の目配せに首を傾げていた風薙は唖然とした。膝立ちをしていた暮羽の身体が床の水溜りにめがけて額づき、汚れた水を思い切り吸い込んで、その勢いゆえか不味さゆえか激しく咳き込む。その無様な姿に派手な蔑笑を飛ばす男達と身体を丸めて苦しげに咽る暮羽を呆然と眺める風薙の肩を、ずっと彼の傍らにいた大男が図々しく抱き寄せて囁いた。
「あーあ、お前が余計な事するから、アイツはあんな姿晒す羽目になったんだぞ?」
「俺の、せい?」
余計な事? 俺は、ただ、暮羽さんに、水をあげたかっただけなのに。俺のせいで、また、暮羽さんを苦しめる事になってしまったのか? 俺のせいで。俺が悪い。暮羽さんが苦しむのは俺がいるから……
風薙の大きな瞳に涙が盛り上がり、視野に広がる悲惨な光景が滲んで歪む。そして、瞬きをせぬ目から真珠のような涙が零れ、すべらかな頬の上をコロコロと転がり落ちていった。