あいつさえいなければ。
 誰も苦しまない。あいつも、おれも、誰も。
 辛くない。あいつも、おれも、誰も。

「……どうしたんですか。こんな処に呼び出すなんて、珍しいですね」

 こいつさえいなければ。

「何かありましたか」

 こいつさえいなければ。

「放課後になれば、幾らでも二人きりで過ごせますのに」

 こいつさえ……いなければ…………。

「学校では、他のお友達と過ごしたいのでは?」

 くすくす笑いながら柔らかな栗色の髪を掻き上げて、そんな事を言う。

 風が強い。目に痛い程白いシャツが、風を含んで大きく膨らんだ。
 後ろからぎゅっと抱き締める。それを軽くいなされた。
「ここでは厭です」

「お前さえ……」

「え?」
 ここに来て初めておれを見詰める。大きな淡い色の瞳が、少しの間を置いて見開かれた。

「何を……」

「お前さえ」

 強く。

 強くその華奢な背を押す。力一杯。折れる程。
 柵もない屋上の縁を越える。

 落ちて行く少年はひどく悲しそうな、そしてひどく嬉しそう顔をしておれを見詰めていた。
 どうして笑える? こんな時にまで……

 刹那、綺麗な顔が恐怖にか引き攣る。しかし、あっけなく地面に吸い寄せられて行った。

 もうあいつが立ち上がる事はない。おれの前を行く事も、並んで歩く事も。

「あれ…………」

 何で涙なんか。

 これでやっと幸せになれるんだ。だから悲しいなんて感情、持ち合わせる筈もない。この涙はきっと、そう、喜び。
 後悔なんてしない。おれはするべき事をしたんだ。おれは正しい。これであいつもおれも幸せになれるんだ。だから、だからおれは、


「ん…………っ」

 ……周りが何だか騒がしい。
「……ふぁ…………」
 大きく伸びをして身体を起こす。

「いつまで寝てるんだよ」
「うおっ」
 後ろから急に伸し掛かって来る重み。無理にでもと顔を向けると、案の定後ろの席の友人、仲矢だった。
「な〜か〜や〜〜。何するんだよっ」
「いつまでも寝てるからだよ。ほら、早く行かないと、飯、なくなるぜ」
 そうだった! さっき四限だったんだ!
 仲矢はさっさと退いて教室から出て行く。慌てておれも飛び起きてそれに続く。教室の中には、弁当を広げていない人間なんてもう誰も残っていない。おれと一緒に出て行く者も、もういない。

 私立実昇高等学校。国内でもトップクラスの学力を誇っている。おれ、佐藤寛希(さとうひろき)が在学出来ているのは奇跡の様なもの。

 街を見下ろせる小高い丘の上に、数年前に立て替えられた新しい校舎が幾つか建っている。
 校舎の規模や敷地面積を鑑みると、高校と言うより大学の様だ。
 そして、施設も充実。屋根付きの温室プールだの、競技別の体育館だの……とにかく、未だによく分からないくらい広くて大きい。

 学力も授業料も国内五指のレベルである。
 かなり居辛いが、あと一年半の辛抱。恩ある方に通わせて頂いている学校でもあるし、仇では返せない。
 それにまだ……この学校でしたい事があった。

 雑然とした学食内で、うどんのどんぶりが乗った盆を持ってうろつく。
 ……と言っても、前述の通りの学校だ。
 男子校ゆえ男だらけだから雑然としているが、女の人(この場合、勿論賄いのおばさん達は除かせて貰う)がいれば、それは立派なレストランだろう。
 ……広いのだが、空いている席はない。先に行った仲矢も何処にいるのか分からない。
 どうしよう…………。

「寛希、どうしたんですか、きょろきょろして」

 学食の最奥。特別に隔てられている訳ではないがVIP席と化している席の前で引き返そうとした丁度その時、不意に声がかけられる。

 そちらを見ると、厭になる程見慣れた顔があった。
 ……大恩人のご子息に、この物言いはないと思うけど、他に言葉が見つからない。
 優等生中の優等生。少し冷たい感じのする美貌。しかし飾らぬ雰囲気で、少し不良じみた言動も多い。
 ……取り巻きの人達は、そこがいいのだ、と言っているが、それは聞かなかった事にして。

「どうぞ。貴方の席はここでしょう」
 自分の隣に広くスペースを空ける。
「早くいらっしゃい。食事が冷めてしまう」
 ああ……周囲の目が痛い。頼むから、そんな親しげに声をかけないで貰いたい。

 VIP席は基本的におれの様な平民が入れるスペースではない。
 入る資格が特別にある訳ではないが、黙って入れる厚顔無恥な人間か、何か「長」のつく役職にある人か、勉強かスポーツで学年の首座にあるか、そういった人達のお気に入りか、でなくては、こんな処恥ずかしくて座っていられない。

 この多少強引な方……櫻本昭隆(さくらもとあきたか)様は、おれを高校に行かせて下さっている方のご子息である。
 全く無視は出来ない。
 渋々隣に行き、盆を置いて座る。盆の上のうどんは、もうすっかり伸びていた。
 しかし、それより何より取り巻きの人達の視線が怖い。

「遅かったですね。どうしていたのですか」
 指がおれの髪を弄る。気持ち悪い。伸びたうどんを啜りながら、それとなく避ける。
「少し……用が……」
 居眠りしていただけだけど。最近あまり……夜眠れないから。
「そう、ですか……」
 傷付いた様な声につい様子を窺うと、捨てられた仔犬の様な目と仕草でおれを見詰めていた。
 しかし、目が合った途端に破顔される。
 ……やっぱり演技でいらしたのか。
「貴方のお迎えに行けなかった事を許して下さい。本当はずっと貴方の側にいたいのですが、クラスが違うというのは不便なものですね。三年では同じになれるよう、先生にお願いしておきましょう」
「……ご冗談でしょう」
「いいえ」
 昭隆様はきっぱりと仰い、自信ありげに笑われた。
 周囲から、殺気とも言える視線がおれに集中する。

 昭隆様のお願いというのは、叶えられる事が大前提だ。

 寄付金額校内最多で、お父様はこの学校の理事の一人。先生達が逆らえよう筈もない。それを、昭隆様はよくご存じだった。
 わがままで、奔放で、自信家で……でも、この方にはそれが全て許されている。

 でも、高校生活最後の年次の事だからって、少しわがままが過ぎる。
「……お願いですから聞き分けて下さい。奥様に申し上げますよ」
「それは狡い」
 嘘つき。狡いなんて、思ってもないくせに。

 おれが金のかかるこの高校に入れて頂けたのは、偏(ひとえ)に昭隆様のお目付役としてである。
 勉学に於いてはともかくとして、生活面に於いては余程奥様の信頼がないらしい。
 でも、その役目をおれは十分果たしているとは言えなかった。
 この方がどんな悪戯な事をしても、はっきりと申し上げた事はない。
 旦那様は、昭隆様の行動なんて気になどしていらっしゃらないし、おれは、実は奥様があまり好きではない。
 おれが恩を感じているのは旦那様、次いで昭隆様だから、自ずと優先順位は決まってしまう。
 だから、狡い、なんて言われても、昭隆様にだって分っているのだ。
 おれが告げ口なんてしないって事。

「それとも旦那様に申し上げましょうか」
「余程僕を困らせたい様ですね」
「では、手を退けて下さい。お願いですから」
 首やら肩やらに触れてる手が邪魔だ。
「分かりました。では、放課後にでも」
 そう言われては口を噤むしかなかった。

 放課後……おれ達は誰にも明かせぬ関係にあった。奥様に何も言えないのは、その事もある。

 困惑しているうちに、そっと手を取られ、手の甲に口付けられる。
「っ! あ、昭隆様っ」
「はい。済みません。もうしませんから」
 ぱっと手を放し、唇に重ねて張り付けられる笑み。
 この方は分かっていらっしゃるんだろうか。その態度のお陰で、おれがどんな目に遭っているのか…………。
 男子校の虐めは共学よりきつい。
 小、中通して虐められ続け、高校に至っても……幼い頃よりも陰湿なものが多い。なまじ学力や家格の高い人が多いから尚更だ。
 分かっている。
 自分の卑屈さが他人の気に障るのだろう。
 それに、虐め易い家庭環境でもある。
 友達もたくさん出来たけど、……でも、だから余計に他人が怖い。
 昭隆様は横柄な態度で側に座っている取り巻きの一人にお茶を注がせている。
 ……おれなんかいなくたって、この方が何に困るというのだろう。
 おれがお屋敷にいる時と同じ様にお仕えしなくても、好き好んでお世話したがる人は何人もいるじゃないか。

 最後の一本を啜って、早々に席を立つ。
 昭隆様は後を追って来たそうにしていたが、場にいるのは二人だけではなく、そう上手くはいかない様だった。


 昼食の後は昼休み……というのは当然か。
 五限まではまだ随分と間がある。
 おれが向かったのは一番高い校舎の屋上。
 この丘で一番高い……すなわち街で一番高い場所。
 あの方はここから落ちたんだ……。

 おれは何も、ずっと前から昭隆様から口付けを受ける程親密であった訳ではない。

 昭隆様にはご兄弟がいらっしゃった。

 ……おれの心情的に言えば、昭隆様が、その方の弟でいらっしゃったのだが。
 郁弥(いくや)様と仰るそれは綺麗な方で、ほんの一週間前までは同じ教室に机を並べていた。
 ……この高みから身を投げて亡くなられるまでは。

 櫻本家は、江戸時代から続くらしい商家で、今はとても手広く事業を展開している。お屋敷には、何人かの使用人達がいた。
 そのご当主であり、おれの父の親友だった昭隆様のお父様、櫻本隆弥(さくらもとたかや)様は、会社が倒産して父が首を吊って果てた後、おれと母を引き取って下さった。
 母は家政婦として。おれは、丁度同じ歳だった二人のご子息のお相手として。
 母もおれが八歳の時に亡くなってしまった。
 けれど、その後もお家や会社には何も出来ないおれにお金を出し、養い、学校にまで通わせて下さる。
 ……何をされても、どんな事になっても、旦那様……そして櫻本家にお仕えするしかないんだ。

 おれが櫻本の家に引き取られたのは五つの時。
 大人しい郁弥様と、腕白な昭隆様。
 お母様が違われても、お二人は本当に仲の良いご兄弟でいらっしゃった。
 他人のおれが入っても仲良くして下さって、楽しかった。

 郁弥様はとても儚げな方だった。
 事実、幼い頃から丈夫ではいらっしゃらず、入退院を繰り返しておられた。
 成人は出来ない……そう、生まれた頃から宣告されていらっしゃった。
 何処が、と明確にお悪い処を挙げるのは難しいけれど、「出来損ないの身体」だと、ご自身は評していらした。
 それでも、無理を押して高校に進学なさったのは、最期まで「普通」にしがみつきたかったから……郁弥様は、おれにいつもそう言っておられた。

 郁弥様は人から恨まれる様なお方では決してなかった。
 常に学年主席でいらっしゃったのに、それを鼻に掛けられる事もなく、誰に対してもお優しかった。
 おれなんてどれ程他の人々に嫉妬したか分からない。
 おれだけ見ていて欲しい……なんて独占欲、この方以外に抱いた事はない。きっと、これからも。

 昭隆様には決してご理解頂けないだろう。
 あの方にはお母様がいらっしゃる。おれ達には、お互いしかなかった。
 郁弥様のお母様は既に亡く、後妻に入られたのが、元愛人だった昭隆様のお母様だったのだそうだ。
 お家の中では奥様が絶対。旦那様は、そうお家の事や子供達に関わられる方ではない。
 だから……おれ達は虐げられていた。
 郁弥様はお家にいる事が少なかったからまだましだったけど、郁弥様やおれが母親に似ていると言っては詰り、おれにはきつい仕事を与えられた。
 ……郁弥様のお母様も、おれのお母さんも、奥様に殺されたのではないかという噂さえもある。
 ……勿論、そんな事をして隠し通せる程用意周到な方だとは思えないから、デマなんだろうけど……。

 おれ達は、お屋敷の中でもたった二人きりだったのだ。
 昭隆様はお優しいけれど、おれ達の内面の闇も傷も、何もご存じなかったから。
 だから……郁弥様の死は、おれにとって……恋人なんて軽々しく言える言葉ではない、もっと大切な心の中の何かを失うに等しい事だった。

 ここは七階の上。
 学校という構造上、同じ階数のマンションなんかよりはずっと高い。
 特に、スペースを重要視した建築になっているから、同様の建物より余計に高いだろう。

 そんな処から落ちた郁弥様のご遺体は、一見しただけでは誰なのか、分かったものではなかった。
 歯形と、身体に残る手術痕が一致したので断定されたが。
 その時から、ここはおれの……おれと昭隆様の特別な場所となった。
 こんな処、滅多に誰も来はしないし、怪談話にも事欠かない事だし。
 警察は自殺と事故との両面から捜査中。学校は既に事故として処理している。
 おれも昭隆様も疑問だらけだった。
 だって、屋上になんて何の用があったと?
 だから、おれ達は、調べる事にしたのだ。郁弥様を殺した人間を。
 郁弥様を殺せる人間がいたという事は信じられない。でも、おれ達にとっては余りに不自然過ぎた。

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