その日、昭隆様は朝から様子がおかしかった。
いつもは朝食前におれがお迎えしに行くのに、ずっと先に起きていらっしゃった様だった。
お寝坊な方なのに……どうなさったんだろう。
朝食も先に済まされ、おれを置いて登校してしまわれる。
お声もかけて下さらない。
おれ、何かお気に障る事でもしたのだろうか。
普段は必要以上におれとコミュニケーションを取られるからか、話しかけられもしないと少しばかり不安になる。
「なあ、何かあったのか?」
同じ寮生に尋ねられても答えなんてない。
おれが聞きたいくらいだ。
「さあ……」
「寛希、ちょっと」
休み時間、昭隆様が扉の処からお顔を覗かせられる。
お顔が怖い。
妙に真剣で……今朝の様子に引き続き、おれの不安を煽られる。
「何か」
昼休みや放課後ならばともかく、短い休みに自ら来られるなんて……やっぱり変だ。
急を感じて戸口まで行く。
「少し話があるのですが」
唐突にそう切り出される。
「ここでは何なので、屋上へ付き合って貰えますか」
「はい……」
何か、逆らえない空気を感じた。
いつになく表情が硬い。
怖かった。
おれ……本当に、何かしたかな…………。
屋上には冷たい風が吹いていた。
「……あの、昭隆様……?」
ここに来て何分くらい経ったのだろう。
もう授業は始まっている。
でも、昭隆様は黙ったままだった。
「そろそろ授業に行かなくては……」
風に乱れて目にかかる髪を後ろに遣る。
風が強い。
あの時と同じ…………。
淡く光に透ける髪が風に靡いて舞っていた。
空気を含んで、華奢な身体に纏った白いシャツが膨らんでいた。
そう。
あの時と……。
……あの時?
どの時だ…………?
「あの時…………」
つきん……と胸の奥に痛みが走る。
何……これ……。
「どの時、ですか」
声が厳しい。
冷たい声に身を竦ませた。
いや、風の所為かも知れない。季節の割に風が冷たく身体に凍みる。 ここ数日気温は低かった。
昭隆様は、ひどく苦しそうなお顔でおれを見詰めていた。
何か物凄い既視感と共に息苦しさを覚える。
悲しそう……辛そう………………違う。
もっと、いろいろな感情が……。
「見るなぁっ!」
頭を抱え、強く振りながら訳も分からないまま叫ぶ。
「見るな! そんな目で、おれを……おれをぉ…………っ」
「寛希っ!?」
昭隆様が、突然暴れ始めたおれの身体を強く抱き締めた。
おれの身体を動かしているのはおれじゃない。
別の、でも、おれ。
「郁弥……だって、仕方なかったんだよ……」
口を突いて出てくる言葉。
自分が言った言葉。
意味が分からない。
でも、その言葉に引き擦られる様にして頭の中に鮮明な映像が浮かぶ。
落ちて行く、美しい生き物。
おれだけの存在。
おれだけのもの。
落ちて行く。
落ちて行く。
落ちて行く。
落ちて行く。
落ちて行く。
……………………………………落ちた。
潰れた、美しかった生き物。
どうして?
落ちて行く瞬間の郁弥様をおれは覚えている?
見てなかったのに。
あの方が落ちて行く処なんて。
さっきの昭隆様とよく似た表情で。
ひどく意外そうなお顔で。
声も上げず。
ただ、おれをじっと見詰めて。
分からない。
見てなんていなかったのに。
分からない。
分からないっ!
…………分かりたくない…………。
「寛希、寛希!! 分かりました。もう、分かりましたから!」
何が分かったんだ? おれには何も分からないのに。
「お願いですから、もう、大人しくして下さい。よく……分かりましたから」
昭隆様は、今にも泣きそうなお声をしていらっしゃった。
何があったんだろう。
おれが暴れているから?
でも、こうして貴方に抱き締められていたら、これ以上何も出来ないのに。
どんな面でも、昭隆様になんて敵わないのだから。
「兄さんを……殺したのは貴方なんですね、寛希」
苦しげな呟き。
「やはり……突き止めようとするのではなかった…………」
唇を噛んで俯かれる。
おれはおれで、昭隆様の仰った事を理解するので精一杯だった。
昭隆様は今、何と仰った?
おれが、郁弥様を……?
そんな馬鹿な。
あり得ない。そんな事。
「どうして、貴方が……」
悪い冗談!
思わず吹き出す。
「寛希……?」
「あはっ……あはははははははっ」
「寛希…………」
抱き締める腕が強くなる。
「もう……」
何かが可笑しくて可笑しくて、堪らなくなる。
更に声を上げて笑った。
「もう、止めて下さい……」
「あっはははははは」
「……もう……黙って…………」
「っ!」
いきなり、唇を貪られる。
舌を絡め取られて……一番有効な口封じに出られた。
慣れさせられた身体は、それだけで力を失う。
かくんと膝が折れたところを抱き止められた。
ぼんやりと昭隆様を眺めると、何故だか泣いていらっしゃる様だった。
そのまま長々と、頭に霞がかかる程に続けられる口付けは、次第に苦しさだけを伝える様になる。
完全に昭隆様に全てを預ける。
しっかりとした腕は、それでも重みに動じる事はなかった。
そのうちに離れる唇。決して甘くはない唾液が伝う。
「済みません。……気付けなくて…………」
声が潤んでいる。
「貴方が、それ程兄さんの事を想っていたなんて……」
気分はどんどん冷めて行く。
昭隆様の目に浮かぶ涙。
でも……何も感じる事が出来ない。
昭隆様を突き放す。しかし直ぐに蹌踉けて柵に身体を寄せた。
口元の唾液を拭いながら、昭隆様を睨む。
「今更、何を仰るんですか…………分かっていらしたでしょう。おれ達が……お互いをとても大切に想っていた事なんて。……何を見ていらっしゃったんです。それは確かに、好きだとも、愛しているとも言えなかったけど、そんな言葉が何になると? わざわざ公言しなくてはならなかったのですか?」
「……それさえ、必要のない言葉だったのですね」
「臆病で言えなかったのかも知れません。でも…………」
そう。
郁弥様の事が大好きだった。
ずっとお側にいたかった。
それを?
おれが?
殺した?
……そんな…………そんな…………。
あの、あと何年もは生きられなかった方を?
あの日だってそうだ。
前の日に、酷い発作を起こされて、弱気な事を仰っていた。
「死ぬ時はせめて側にいて」なんて。
あの方が、もうこれ以上苦しむところなんて見たくなかったのに。
もしこのままあの方が生きていらっしゃったら、あと何度、あんな苦しそうなお姿を見なくてはならなかっただろう。
いっそのこと、この手で……苦しむ事もなく、送って差し上げられたら…………。
違う!
違う。違う。違う…………ちが……う……。
頭を抱え、強く振る。
酷い耳鳴りがしていた。
「あの方だけがおれの全てだった……」
全てだった。
生き甲斐だった。
あの方がいなければ、おれは……とうの昔に命を絶っていただろう。
昭隆様に弄ばれ続けても、あの方がいたから……あの方の為に、おれは全てを堪えて来た。
あの方を幸せにしたかったから。
それだけが、おれに考えられ得るおれの幸せの全てだったから。
「気付けなくて……申し訳ありませんでした。貴方方が何も表立った事をしていなかったから……きっと友達の延長なのだろうと……そして、傷を舐め合っていたのだろうと…………兄さんが死んで、貴方があれ程取り乱し、犯人探しに躍起になったのは、恋人を失った悲しみより、これ以上傷を分かち合う者がいなくなったからなのだと……そう、思っていました」
深々と頭を下げられる。
耳鳴りは益々酷くなって行く。
昭隆様の言葉も、半分と少ししか聞き取る事が出来なかった。
でも……結局、昭隆様は何も分かっていらっしゃらなかったんだ。
何もご存じなかった。
そんな、簡単な感情じゃなかった。
もう……おれ達は、互いが互いの一部を形成してしまっていたのだから…………。
「キスは義務ですか? それ以上の行為も? ……貴方は、何も分かっていらっしゃらなかった。……おれには……おれ達には、醜い身体の関係なんて必要なかった。それでよかったんです。手を繋いでいるだけでよかった。キスをしたくなかったと言えば嘘になるけど、郁弥様が幸せでいらっしゃればそれでよかった。だって、それだけがおれの幸せだから……だけど、あれ以上、郁弥様は幸せになれない…………もう時間がなかった。郁弥様が、幸せな時期を終えられる時まで……」
耳鳴りが、少しずつ遠ざかって行く。
変わりに、まるで自分の事ではない様な思考が脳裏に流れ込んで来る。
頭を抱えたまま頭皮に爪を立てた。
そこまでしても、頭の中が自由にならない。
考えたくない。
考えたくないのに……。
そう……郁弥様には幸せなまま……生き続けて頂きたかった。
おれの手で、幸せにして差し上げたかった。
それがおれの幸せ。
これ以上酷い発作を起こす前に。
まだ、おれとお話し出来ている間に。
「……おれだって少しくらい、幸せを望みたかった……」
そう、最期の瞬間、あの方は意外そうな顔をなさっていらっしゃっただけではない。
落ちて行く途中、それは美しく微笑んで下さったではないか。
……おれは、間違っては、いない……
それで、漸く、苦しむ事のない永遠を手に入れられたのだから。
「大切過ぎて……他に……どうすれば……」
苦しまなくて幸せな郁弥様。
おれが何よりも望んだ宝物…………。
郁弥様が幸せならおれも幸せ。
おれが幸せなら郁弥様も幸せ。
郁弥様が苦しまなければ、おれだって苦しくない。
そう、その筈……。
思い込んでも許されるだろうか。
郁弥様も、おれと同じ様に考えていらっしゃったと。
……どうしておれは見ていたんだろう?
どうして、あの方の最期の表情が、鮮明に焼き付いて離れない?
どうして?
どうして……?
意識がふっと遠ざかる。
途切れる間際まで、おれの頭に浮かんでいたのは疑問符だけだった………………。