昭隆様とのあんな行為は茶飯事。
 今更何の感慨もないし、体力配分は心得られているから翌日まで引く事もそうない。
 でも……授業を受けられる精神状態ではなく、登校後そのまま屋上に向かった。

なぁ──────ん──……

 ふと、そんな声を聞いて振り返った。
 何もない。
 そうだよな。
 こんな処に、鳥以外のどんな動物が……

なぁあぁ──────ん……

 もう一度聞いた気がして、周りを見回す。
 誰もいない。
 何もない。
 あるのは柵と、階段と小さな倉庫がある出入り口だけだ。

なぁ──────ん──……

 一体何処から……
 よくよく見回す。
 ……………………いた。
 出入り口の上の処に猫。
 おれと一瞬目が合う。
 猫は撓(しな)やかな動作でそこから飛び降り、おれの前まで歩み寄ってもう一度鳴いた。
 真っ直ぐにおれを見上げている。
 屈んで手を伸ばした。
 動物は好きだ。
 ただ、種類には疎いのでよく分からない。
 育ちの良さそうな子だとは思うけど……。

 取り敢えず……野良じゃなさそうだ。
 首輪はしていないけれど、思わず溜息が洩れる程美しい毛並みだった。
 瞳の色は澄んだ茶色。
 少し黄味がかかって……良くは分からないけれど、何処かで見た宝石の様だ。
 毛は少し灰色がかった白。……灰色というより銀に近いのだろうか。太陽の光で眩しい。
 伸ばした手に擦り寄ってくれる。
 とても滑らかで、温かくて……何だか、ひどく懐かしい手触りだった。

「おいで」
 両手を差し出すと、腕の中に飛び込んで来てくれる。
 見かけよりも幼いのか、顔を近付けると甘い香りがした。
 猫の首が少し伸ばされ、おれの顔に触れる。
 髭が少しちくちくしたけど、優しい感触だった。
 小さな舌が、ちろちろとおれの頬や唇を舐める。
「やっ……くすぐったいよ……」
 軽く引き離そうとするが、よっぽどおれの事が気に入ったのか離れてくれない。
 それでもおれが逃れようとしていると、突然猫は顔を離し、おれをじっと見詰めた。

 ひどく懐かしい。
 吸い込まれそう…………。

 しかし少しの後、その猫はするりと腕を抜けて行った。

「あ、待って」
 懐かしくて温かいそれをまだ手放したくなくて、慌てて追いかける。
 猫は開いていたドアから校舎の中へ。
 走って追う。
 猫は軽やかに階段を駈け降りて行く。
 折り返し階段を降り始めた猫を追って、そのままおれも階段を……。

「うわっ!」

「あっ!!」

 何かにぶつかる。
 蹌踉(よろめ)めいて階段を落ちかけたところを抱き止められた。
 足は浮いている。
「ご、ごめんなさい」
「……気を付けて下さい。怪我をしては大変ですから」
 …………聞き慣れ過ぎた声で囁かれる。
 慌てて離れようと藻掻いた。

「昭隆様! 申し訳ありません」
「何をそんなに急いでいたのです」
 床に降ろして頂く。
 階段の一段目。
 それで丁度ほぼ同じ目線になる。
「あの、猫が……」
「猫?」
「ご覧になりませんでしたか? 銀色の毛で、茶色の目をした……とても綺麗な…………」
「いいえ。見ていませんが……屋上にいたのですか?」
「はい」
 昭隆様は訝しげに首を傾げられた。
「それを追いかけていたのですか?」
「はい、あの……」
「しかし、何も来ませんでしたよ」

 七階から屋上に続くこの階段はかなり急で狭い。
 たとえ猫の様に小さなものでも、まず見逃す事はあり得ない。

 でも、どうして……?

 困惑していると、昭隆様のお手が頬に触れた。
「本当に、いたのですか?」
「こんな事で嘘を申しても仕方ありません。確かに…………」

 そう、今ここに触れる昭隆様のお手にも似た温もりは、確かなものだった。
 泣きたくなる程優しくて、懐かしい温もりが……。

 無意識にお手に擦り寄る。
 先程の猫に、自分を重ね合わせる。
 そう……こうして……。
「……寛希?」
 昭隆様のお手を取り、舌先で指を辿る。
「寛希、どうしたのです」

 もう片方の手が頬を包む。
 そこで、漸く自分が何をしているのかを認識した。
 顔から血の気が引く。

「す、済みません……おれ…………」
「いいえ。貴方から誘ってくれて嬉しいですよ」
「ちっ、違います!」
 今度は紅くなったおれを見て、昭隆様はくすくす笑われた。
「貴方はまるでph検査薬の様ですね。……分かっていますよ。今日の貴方は普通じゃない。今度はもっと正気の時に誘って下さいね」
 おれの頬を一度撫で、手を放す。
 おれもお手を放した。
「戻りましょう。先生が貴方を捜していたから呼びに来たのです」
「先生?」
「今日は日直なのでしょう? クラスの人達が困っていましたよ」
「……あ!」
 いけない、忘れていた!


 教室に戻り日直の業務をこなして、ちゃんと授業を受ける。
 …………と、やっぱり睡魔に襲われた。
 でも、寝てるの分かるんだから、仲矢とか、起こしてくれたっていいのに。
 またもほぼ一時間、眠ったり起きたりを虚ろに繰り返してしまった。

 ああ……こんなのじゃ、旦那様に顔向け出来ない……。

 ……あれ?

 俄(にわか)に周りが騒がしくなる。
 何だろうと思って立ち上がろうとすると、おれの席の周りがぐるりと人で取り囲まれていた。
 怖くなって座り直す。
 雰囲気が険悪だ。
 この人達……昭隆様の取り巻きだ。
 何で、こんな処に……。

「佐藤、話がある」

 ……十人とは言わなくても、それに近い人数。
 おれには話なんてないけど、逃げ出せる状況じゃなさそうだ。

「……何?」
 中の一人、昭隆様の取り巻きを締めている生徒が、おれの机に手を置いた。
「お前、最近なんか勘違いしてねぇ?」
「……勘……違い……?」
 何を言われているのか全く分からない。
 顔を見上げると、しっかり睨み付けられていた。
「郁弥君が死んでから、昭隆君に鞍替えしたってのかよ」

 ……やっと思い至る。
 この人達、最近おれ達が妙に一緒にいる時間を長くしてるから、怒ってるのか……。

 確かに、郁弥様が生きておられた頃は、今程頻繁に校内で昭隆様とお会いする事はなかった。
 しかし今は…………朝、昼、放課後と頻繁にうちの教室にいらっしゃる。
 そうでなくても屋上での遭遇率はひどく高い。

「誤解だよ」
「最近は、俺達とだってちっとも一緒にいてくれないの、お前の所為だろうが!」
 胸座(むなぐら)を掴まれる。
 何人かがおれの肩を持ち、引き立たせられる。

 ……ここまで直接的な行動に出て来るなんて思ってなかった。
 基本的に、姑息な手段が多いのに。
 ものを隠したり、階段で足引っかけたり……って。

 みんな殺気立ってる。
 おれにはどうしても分からなかった。
 言葉を探しても、彼らの怒りを煽るだけの様な気がして口を開けない。
 どうして、この人達は集団でやって来るんだろう。
 おれは力もないし、頭も良くない。一人で来たって変わらない筈だ。
 それに……そんなに昭隆様が好きなのなら、どうして集団でなんていられるんだろう。
 おれが少し一緒にいるというだけで嫉妬するのに、どうして何人もで固まっていられる?
 好きならもっと独占したいと思う筈だ。
 何も、相手は全く手の届かない存在って訳じゃない。同じ高校の生徒だろう?
 小、中学校で見た女の子の集団心理に似てる気がする。
 要するに、ただのミーハーなのだろうに。
 たくさん頭の中で考えるけど、そのまま言葉に出来る程の度胸はない。
 俯いて視線を反らせた。

 抵抗してもいいが、体力の無駄だ。
 対一人だって勝てる自信ないのに、無理に決まっている。
 それに、おれから手出ししたら、旦那様にご迷惑が掛かる。
 相手がある様な不祥事は起こす訳にいかない。

 それが余計に気に障ったのだろう。
 無理に顎を持ち上げられ、視線を合わせられる。

「ちょっと可愛い顔してるからって、いい気になるんじゃねぇぞ」
 声が低くなる。
 次に来る動作を予想して歯を食いしばり、目を閉じた。
 案の定、乾いた音が頬で立つ。
 じんじんするが、ダメージは少ない。
 それが分かったのか、不意に身体から手が離れ、突き飛ばされる。
「郁弥君が死んだからって、何昭隆君と校内を歩き回ってるんだよ。変な事聞いて、郁弥君の死因は事故だろ? 妙な理由付けて、わざわざ昭隆君を束縛してんじゃねぇよ」
 隣の机に倒れ込み、腹に鈍い痛みが走る。

 ……ちくしょ…………。

 クラスの奴らは遠巻きに見守ってはいるものの、誰も助けてはくれない。
 仕方ないのは分かってる。
 こいつらは集団で、ここにクラスの人間までが介在したら騒ぎが大きくなる。先生沙汰になったら後が面倒だ。おれも、困る。

「使用人は使用人らしくしてりゃあいいんだよ!」
 尻を蹴り上げられる。
 痛みに洩れそうな声を必死で噛み殺した。
 何も知らない奴らにここまで言われたら腹も立つ。
 しかし、表には出せない。
 どうせ、きっと、聞く耳も持ってくれないだろうし。

 そして、時計に目を遣る。

 さっきは二限。次は三限…………後、五分。

「……何やってんだ、お前ら」
 ……仲……矢…………?
 振り向くと、ハンカチで手を拭きながら不思議そうに仲矢が俺達を眺めている。
 トイレにでも行っていたのだろう。
「佐藤……っ! てめぇら、佐藤に何しやがったっ!?」
 おれの姿をしっかりと認め、仲矢が俺達の間に割って入る。
 そして、中心人物に掴みかかった。

 駄目だ!

 仲矢の服を強く引っ張る。
「仲矢、いいから!」
「お前……! だって、こいつらに何かされたんだろっ!?」
「もう授業が始まる! 君達だって、もう、戻った方がいい」
「何余裕見せてんだよ」
 彼は忌々しげに舌を打ち、仲矢の手を振り払った。
「とにかく、さっき言った事、覚えとけよ」

 覚えていたくても無理な気がする凡庸な台詞を残し、取り巻きの人々は引き上げて行った。

「大丈夫か」
「ああ……ありがとう」
 手を借りて立ち上がり、自分の席に戻る。
 まだ鈍い痛みが残っている。痣にはなってるかも知れない。
「一体何だったんだ」
「うん……ちょっと、な……」
 仲矢に言ったって仕方ない。
「お前、何で抵抗しなかったんだよ」
「疲れるから……」
「ばっ……お前、冗談じゃねぇぞ!」

 仲矢の慌て振りが何だか可笑しい。
 少し吹き出す。
「冗談だよ。……騒ぎが大きくなると、後で困るだろう」
「心臓に悪い事言うなよな」
 本当に胸に手を当てて嘆息している。
「そんな弱々しくないだろう?」

 ああいう事をされた後だと、仲矢のささやかな優しさも身に染みて嬉しくなる。
 自然に顔が綻んだ。

「馬鹿野郎……」

「ん? 何?」

 仲矢が何か呟いた気がして尋ねる。
 仲矢の顔が、何だか紅くなっている様に見えた。

「いや、何でもない。それよりお前、顔も叩かれたんだろ? ほっぺた、紅いぜ。次の授業、ちゃんと先生には言っといてやるから、保健室行って来い」
 気のせい……だったのか?
 まあいい。気のせいだったのだろう。
 席を立つ。
「そうする。じゃ、頼むな」

 この一件は、昭隆様のお耳には届かなかったらしい。
 取り巻きの人達にとっては、当然知られたくない事だろうし、クラスの奴ら、仲矢も、黙っていてくれたらしい。
 昭隆様に知れたら事が大きくなる。
 それは、とてもありがたかった。
 ただ、保健室へ行った事だけは流石にバレた。
 夜のベッドで腹に出来た痣を問い詰められたけれど、転けたと言い張って納得して頂いた。

 それから連日、おれは屋上へ行く度猫に出くわした。
 会う度、酷い既視感に襲われる。
 でもそれは、とても心地良いものだった。
 猫がおれの腕の中で喉を鳴らすと、嬉しくなって思わず抱き締めてしまう。
 この腕の中にある温もりは、おれの中の欠けている何かを埋めてくれる……そんな気がした。
 ……いや、言葉では表せられない。この充足感は…………。

 猫からはいつもいい匂いがしていた。
 飼い猫なのだろうけど……民家までは遠い。
 誰かが隠れて寮で飼っているのかも知れないが、この屋上以外では一切見かけない。
 不思議な事に、どんなに僅差で猫と入れ違いになっても、昭隆様は猫をご覧になった事がない様だった。
 いつもお尋ねするけど、その度戸惑われる。
 しかし、おれの中でその事はそれ程重要ではなかった。

 もう、この猫と離れたくなかった。
 側にいるだけで得られる充足感なんて、きっと、もう……二度と得られない。
 郁弥様が亡くなられた時にそう思った。
 結果として、もう一度手に入れたけれど、今度こそ、もう、最期だと思う。
 依存している。
 分かっていても、それがなくては生きて行くのも困難だった。

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