「お前、また屋上か?」
「……うん」
休み時間毎に屋上へ行くのがすっかり習慣になっている。
今も、三限と四限の間だ。
後ろの席から手首を掴まれている。
「もういいんじゃないのか」
「……郁弥様とは関係ないよ。あそこが……好きなだけだから」
「嘘吐き」
仲矢は眉を顰めておれを見詰めている。
「大体、お前にだって関係ないだろう」
「……まあな。でも、そろそろ諦めたっていいじゃないか。ここ数日では、まあ……妙な事調べに奔走しなくなってるみたいだけど」
「……何を」
「郁弥の事だよ。死んだ者は、もう戻って来ないんだぜ」
「分かってるよ」
……戻って来るのなら、それこそ何だってやっている。
神仏に祈れと言うなら躊躇いもないし、悪魔にだって……魂をくれてやる事で済むのなら……。
本当に、今屋上に通い詰めなのは郁弥様の事だけじゃない。
あの猫に会いたいだけなんだ。
「この一週間で何キロ痩せた?」
掴まれたままの手を挙げられる。
仲矢の手は余裕で手首を回り、親指と人差し指が重なっている。
「計ってないから知らないよ」
「かなり窶(やつ)れてるぞ。それに……真面目なお前が、このところの授業態度、何だよ。滅多に来ないわ、来てもずっと眠ってるわ。顔色も悪いし、目の下クマ濃いし。クラスの奴ら、みんなで心配してるんだぜ。何かに憑かれてるんじゃないかって」
「冗談だろ」
手首、痛い……加減もなく握られている。
振り解こうとしても、握力が半端じゃなくて出来ない。
「…………郁弥はこんな事望んでないぜ」
「……あの方は関係ないってば!」
「じゃあ、何で屋上なんだよ!」
その言葉に、心臓の辺りが、射抜かれた様に痛んだ。
猫に会う事で郁弥様への想いを緩和させている訳じゃない。
いつだって、あの方の事は頭の中に浮かんでいる。
……猫と会う事で、それはより一層のものとなる。
屋上という場所に、おれの中で何かしらの意味があるのかも知れない。
あそこはきっと、郁弥様が最期に生きていらっしゃった場所だから……。
「……分かってるんだろ、お前も。……だったら……」
「分からない!」
渾身の力で仲矢の手を振り解く。
余計な痛みが走ったけど、そんな間でもなかった。
「もしそうだったとしても、お前に関係ないだろ」
「関係ない……ね」
仲矢の口元が歪む。
笑みかと思ったけれど、少し違う様だった。
「心配もさせてくれないのか。……郁弥が死んでから、ホント、お前変わったよな」
「変わってなんてない」
「変わったよ。余裕がなくなった。お前……何怖がってんだ?」
表情にそれ以上のさした変化もなく、ただじっと仲矢に見詰められる。
暫くはそれに呑まれていたけれど、そのうちに苦しくなって逃げ出した。
猫に会いに屋上へ……。
新しい心のよりどころになっている。
郁弥様といた頃を思い出せる。
教室にいるより……ずっといい。
なぁ────ん…………
猫の頭を撫でる。猫は甘える様に擦り寄る。
でも、頭の中は、さっき仲矢に言われた事で一杯だった。
痩せたのは、どうしても食欲が湧かないから。
寝不足は夜眠れない所為。
眠れないから、結局授業中に睡魔が来る。
これじゃいけない事は分かってる。
でも、食べたって吐き戻すだけで、うどんくらいしか飲み込めない。
眠れないのだって、不可抗力だ。
病院に……って言ったって、櫻本家に負担して頂くのも気が引けるし、行くとしたって精神科。
外聞がある。
なぁ──────……
「ああ……ごめん」
不思議そうにおれを見上げている茶色の瞳。
毛が付く事を躊躇わず、猫を抱き上げた。
頬にちろちろと舌が触れる。慰めてくれている様だった。
「……ありがとう。優しいね、お前は……」
泣きたくなって、猫を抱き締めた。
人間よりずっと早い鼓動が伝わる。
「…………お前だって、ちゃんと……生きているのにね…………」
猫に顔を寄せる。
甘い、いい匂いが尚更涙腺を緩めた。
……頑張って、なるべく泣かない様にして来たのにな…………。
猫は、どんなに強く抱き締めていても逃げる素振りは見せなかった。
ただ、ざらついた舌で、おれの涙を繰り返し舐めてくれる。
どれくらいそうしていただろう。
ざらざらした舌で舐め続けられて涙さえ肌に染みる様になった頃、気が付くと猫は消えていた。
不思議に、気分も落ち着いて来ている。
猫の所在は気になったけど、これ以上ここにいても仕方がない気がして教室に戻った。
「おい、佐藤」
「はい」
授業が終わった後、教壇の先生に手招きされる。
昭隆様の担任だ。
仕草に従い、教壇の下まで行く。
「何か」
「櫻本を知らないか?」
「……学校へは一緒に来ましたけど」
「SHRからいないんだけどな」
先生は首を傾げている。
おれもつられて首を傾げた。
怒っているのかな……顔が紅い。
おれと目が合って、先生は首を立てて咳払いをした。
「心当たりはないか?」
おれ達が幼馴染みだという認識の下、仲が良いと思われている。
……まあ、当たらずとも遠からず、だが。
「探してみます」
「頼む。三者面談の希望、あとはクラスであいつだけでな」
「はい」
今日は学校に一緒に来た。
昭隆様がいらっしゃるとすれば……今となってはあそこしかない。
屋上への扉を開けると、そこには昭隆様がいらした。
良かった。
読みは間違ってない。
「こちらにいらっしゃったのですか?」
振り向かれた昭隆様は、何処か遠くを見詰めていらっしゃる様だった。
瞳に薄く紗がかかった様にぼんやりとしていらっしゃる。
「どうかなさいましたか……?」
「……寛希……?」
呟かれ、急に頭を強く振られる。
顔を手で撫で、おれに向き直った。
「済みません。……よく分かりましたね、ここにいると」
「……先生が、心配していましたよ」
「ええ……午後からは授業を受けようと思っています」
まだ視線の先が遠い。
「昭隆様……?」
ガシャン……とアルミで出来た柵が鳴る。
昭隆様が身体を預けておられた。
両の腕を柵の上にかけている。
「猫に会いました」
「そう……ですか……」
やっと? おれは頻繁に会っているのに。
「貴方の言う通り、とても綺麗な猫ですね」
「はい」
ただそれだけにしては様子が変でいらっしゃる。
「……あれは…………兄さんなのではないでしょうか」
「えっ?」
そんな事……考えた事もなかった。
しかし、猫を思い浮かべて…………
納得する。
そうか、あの既視感。
あの懐かしさ、温もり、優しさ…………そう、郁弥様にそっくりだったんだ。
欠けていたものが埋まる、あの感じ。
この腕の中に、まるでここにいるのが当然の様な満ち足りたものを与えてくれる。
「そう……かも知れません……郁弥様の生まれ変わりなのかも……」
「いいえ。……僕には……この世のものだとは思えなかった。目を離すと直ぐにでも消えて逝きそうで……」
そう言って掌を見詰められる。
「触れた側から温もりが消えて逝く様で……」
おれには……そこまで儚いものは感じられなかったけどな……。
「貴方には触れ合って欲しくない。あれが……兄さんなら……尚更です」
「おれは連れて行かれたりしません」
「貴方には抗えないでしょう」
……言われて押し黙る。
杞憂だとは言い切れない。
もし、郁弥様がお迎えに来て下さったら…………おれは、付いて行くだろう。
郁弥様に関する事の他、おれに未練なんて何もないのだから。
「仲矢君……といいましたか。先日兄さんに花を供えてくれた……」
「はい。それが何か?」
急に話が変わる。話の脈絡が掴めない。
「……彼に話を聞きました」
そういえば、仲矢と昭隆様が会われたあの時、仲矢の様子が妙だったが。
……何の事だ?
「何の、お話ですか?」
「…………兄さんが死んだ時、他に誰が屋上に上がっていたのか……」
「分かったのですか?」
緊張して尋ねる。
あの時郁弥様と一緒に屋上にいた人。
ずっと探していた。
……どうして今まで分からなかった事が……とも思うけれど……。
「……言えません…………」
「おれに隠さないで下さい!」
「……言えません」
緩やかに首を振られる。
そして顔を覆い、柵に身体を預けられたままずるずると座り込んでしまわれた。
「昭隆様、制服が汚れてしまいます。お立ち下さい」
駆け寄って腕を引っ張り上げる。
でもおれの力ではちゃんと昭隆様を立ち上がらせられない。
ふと、腕を掴んだおれの手に昭隆様のお手が重なった。
「貴方だけは守りたいのに……それさえも、僕には叶わないかも知れない……」
ふわり……おれの中で何かが溶ける。
「僕にはもう、貴方しかいないのに……」
重なる手が微かに震えている。
声も震えている様で、今にも泣き出してしまわれそうだ。
「昭隆様になら、必ず他に良い方が」
「貴方でなくては意味がない」
「……郁弥様の為に、ですか?」
「分からない…………でも、これ以上何も失いたくない……」
昭隆様が余りに頼りなくて……おれは屈み、昭隆様に両腕を絡めた。
そして頭を抱き寄せる。
怖ず怖ずと昭隆様の腕がおれに回された。
いつもの様な熱い抱擁などでは決してない。
ただ、何かを恐れている様だった。
前にここでお話しした時とよく似た状況だ。
昭隆様は……恐れていらっしゃる。
おれを失いそう……?
でも、そんな予感を感じられても、全くそんな予定はないのだが。
だって、おれの方から離れられる筈もないのに。
だから、猫の話を持ち出されたのだろうか。
おれを、この世に釘付けておく為に。
「昭隆様……仲矢達は何を言ったのですか? 昭隆様が、そんな不安になる様な事、言ったんでしょうか」
「……寛希。何処にも行かないで下さいね」
「おれが何処に行けるのですか。櫻本のお家から離れられないという事は、貴方からも離れられないという事でしょうに」
耳元で、必死に泣くのを堪えていらっしゃるのだろう息遣いが聞こえる。
昭隆様が泣かれるなんて初めて見る。
幼い頃だって、この方は殆ど泣かれるなんて事なかったのに。
いつもずっと強がって、陰では、色々とあられただろうに…………もう、そうして隠す事さえなされないのだろう。
「昭隆様…………」
おれ達は、そうして随分長い間抱き合っていた。