自殺なんてあの方にとっては最大の愚。
 あの方にとって、それは通りものでは済まないものだ。
 丈夫でいらっしゃらなかったからこそ、「生きる」という事に対して異常なまでの執着を持っていらっしゃった。
 自殺者のニュースを見て、激怒した事も数多い。
 だから、そんなものが浮かぶ予兆でもあれば分からない筈もない。……おれには尚更だ。

 その前の日にだって、ずっと一緒にいた。
 手を繋いで眠った。
 それが習慣だった。
 おれの愛しい方を誰かが殺した。絶対に許さない。
 確かに、酷い発作を起こされて弱気になってはおられたけど……でも、だからこそ、あの方は生きようとなさっていたんだ。
 郁弥様が亡くなられてから早急に設えられた柵。
 組む様にしてその上に載せた腕に顔を埋めた。強く腕を掴む。
 ただ……たとえ殺人であっても何かの通りものが過ぎただけだと……そう思いたい。
 だからって許せはしないだろうけど、それでも、郁弥様が恨まれていた訳ではない。
 それを確信したい。
 人を殺せる程強い想いなんて抱けるものなのかどうか、おれには分からないけれど……。

「立入禁止ですよ、ここは」
 感傷に浸っていたおれの背後から、急に声がかけられる。
 昭隆様だ。
「あまりここには来ない方が良いと思うのですが」
「……分かっています」
 身体を起こし、そのまま立ち去ろうとする。
 と、すれ違う瞬間、腕を掴まれた。
「何か分かりましたか」
「いいえ。昭隆様こそ……」
「僕もですね。まだ何を言える状態にもない」
 不確かな事は言わない。
 誰の事でも、殺人者として疑うのは気が重いし、もし違っていたらそれは大変な事だ。

 郁弥様が亡くなられてから一週間。
 色々な人に聞き込みをして回っているけど、誰も何も知らないらしかった。

 屋上への階段は一階から七階までの並びとは離れた処にある。
 七階には教室が三つと特別教科の教室が二つ。
 下からの階段は通常教室寄りに、屋上へは特別教科の教室寄りになっている。
 一応エレベーターはあるけど七階止まりだし、生徒は使用禁止だ。

 ……結局、屋上へ上がってる人がいたのかどうかもよく分からない。
 何人かの名前は挙がったけど、全て不在証明(アリバイ)の裏付けが取れてしまった。
 それは怪しい人だっていない訳じゃないけど…………そんなの、確固たる証明が出来る方が却って怪しい。
 階段の場所から、注意して見ている人もいなかったのだろう。
 おれだって、余程気になる人でもいない限り、そんな処注目しない。
 特別教室側にはトイレがある訳でもないのだ。
 かといって、結局廊下なのだし、休み時間には適度に人が広がっているのだから。

 掴まれたまま腕を引っ張られ、その腕の中に抱き込まれる。
 上手く躱(かわ)せはしなかったが、それでも少し身を屈めて抜け出す。
「…………失礼致します。五限の準備がありますので」
「……諦めませんか」
「……貴方が言い出した事でしょう」
 今更何を仰るんだ。
 自殺でも事故でもなく他殺で、だから犯人を捜そう、なんて言い出したのは昭隆様だ。
 それなのに。
「それはそうですが、このままでは……いずれ危険になる様な気がしまして。貴方が危険に晒されるのかと思うと気が気ではなくて。後は僕に任せてくれませんかね」
「それで、おれが了承するとお考えですか」
「いいえ。弟であった僕より、恋人であった貴方の方が、恨みは大きいのかも知れないと思いますから」

 確かに、一週間捜して、何の収穫も得られなかった。
 それで意固地になっているかも知れないという事は認める。
 しかし、そんな抽象的な説明だけで諦めてくれと言われて了解出来る程、諦めがいい質ではない。
「危険だとお考えなのには、何か理由でも?」
 昭隆様は、僅かに目を伏せられた。

「……兄さんが亡くなってから、もう一週間も経つのですね」

 何が仰りたい。
「……貴方を兄さんという呪縛に捉えておきたくないのです」
「呪縛ではありません。おれは、こうして自分の意志で」
「いいえ!……いいえ、貴方は……」
 昭隆様らしくなく、ひどくく歯切れが悪い。俯かれたままだ。
「僕が悪いのですね」
 寂しげな呟きが、何故かおれの心に届いた。
「どうなさったのですか……?」
「貴方がどんどん凝り固まって行くのを傍らで見ているのが辛いのです……」

 凝り固まっている? 誰が?

「貴方と兄さんが愛し合っていたという事は知っていますし、それで、貴方が僕の考えに乗ったという事も分かっています。けれど……僕には自信がなくなって来ています。自分の発言と、貴方に与えた影響、それについて責任を持てるのかどうか。そして……あれが真実事故や自殺だったとしても、それを認められなくなりそうで…………」
「怖い、と……?」
 小さく頷かれる。

 仰りたい事が分からない訳ではない。
 確かに、犯人探しに躍起になり過ぎているかも知れない。
 でも……一度浮かんだ疑問は容易に消えるものではないのだ。

 自殺じゃない。
 事故でもない。
 郁弥様の心の中には常に死と隣り合わせである故の闇があった事は知っているが、あの方が自ら命を絶つなんてあり得ない。

「分かりました。自制します。でも、おれはまだ諦められません。昭隆様だってご存じじゃありませんか。郁弥様が命を粗末にするなんて……」
「はい。あの人程命根性の汚い人間を他には知らない」
「一生懸命だっただけですよ」
 生きる事に……
「そろそろ戻ります。五限が始まりますから」
「あ、待って下さい」
 ついて来る昭隆様を気にしながらも無視をして、そのまま教室に戻る。
 おれ達はどうせ別の教室。
 昭隆様は選抜クラスなんだ。校舎の階も違う。


 放課後。
 やっぱりおれの足は屋上に向いていた。
 夕暮れがまだ早い。西の空が茜色に染まっている。
 クラブ活動の声を聞きながら、遠い空へと思いを馳せた。
 雲の形が次々と変化して行く。
 陽はどんどん傾き、西の空に茜の薄紗を掛けたまま、東には夜の帷を降ろし始めている。。
 陽が沈むと、少し冷えてくるな……。

「寛希……先程申したばかりの筈ですが?」
「あ……済みません……もう、戻ります……」
 扉を丁寧に閉めて昭隆様が寄って来られる。
 開けていたから、お声をかけられるまで気が付かなかったらしい。
「いえ……責めている訳ではありません」
 何だか元気がない。
 ……郁弥様が亡くなられてからもずっと、気丈に振る舞っていらっしゃったのに……。

 もう……限界なのかな…………。

 そう思った途端、何だか、自分の中で熱く凝り固まっていた疑問や想いが、溶け流れ落ちて行く様な感覚に見舞われた。
 身体の芯がすっと冷める。
 一週間は決して短くはなかった。
 でも、何の収穫もないんだ。
 おれ達は、無駄な事をしているのか…………なんて、考えてはいけない、筈、だけど…………。

「貴方は、この場所が怖くはないのですか?」
「それは…………」
 ゆっくりと昭隆様を振り返る。
「兄さんがこの世から消えてしまった、最期の場所が……」
 空気にさえ溶けて行きそうな程淡い微笑。
 今にも足下が崩れてしまいそうな不安感が過ぎる。

「昭隆様……郁弥様は、まだこの辺りにいらっしゃるのでしょうか……」
 弱い風さえ頬を撫でず、髪の一筋も揺らがない。
 それでも振り返った瞬間にかかった髪を手で払う。
 昭隆様は僅かに目を細められた。

「そう思えば、怖くなんて……」
「貴方は強いのですね……」
 それは、昭隆様のお陰なのに。
 側にいて下さるから、おれだって安心していられる。
 なのに…………。
「もう……来てはいけませんよ」
 声が震えている。
 確かに少し冷えるけど、季節がら、そこまで寒い筈はない。
 ……だったら……。

「何を恐れておいでなのです……?」
 微かに昭隆様が息を呑まれたのが分かった。
 顔を背けて俯かれる。
 ……図星だったらしい。
 十年の月日は、だてではなかった様だ。
 暫くして、やっと顔を上げられる。
「貴方が……兄さんに呼ばれてしまうのではないかと……」
 そのままそっと抱き締められる。
 これは……違う。
 昭隆様がしがみついているんだ……。
「僕から離れないで下さい。……貴方まで失ったら、僕は…………」
 らしくもない。
 昭隆様はいつだって不敵に微笑んでいらっしゃる様な方なのに。

 と、急に全てを遮る金属音がして、階下へ続く扉が開いた。

 慌てて昭隆様から離れる。
 扉から、おれにとってはそれなりに知った顔が覗く。
 クラスでおれの後ろの席の……仲矢だ。
 おれや郁弥様とは、クラスで一番親しい奴。

「……何やってんだ? お前ら」
「お前こそ、どうしてここに?」
 内心の動揺を隠しながら尋ね返す。
「兄さんと寛希のクラスメイト、でしたね。それは……花束?」
 仲矢が手にした物に目聡く反応される。
「ああ……お前らもお参りか?ま、こんなに小さいの、直ぐに飛んでっちまうんだろうけどな」
 苦笑しながら、仲矢は花束を上げて見せた。
 花屋で売っている物ではない。
 その辺りに生えている野の花を集めて纏めた物の様だった。
 それでも二十本以上はありそうだ。良く集めたな……。

「郁弥、こういうのが好きだったろ」
 似合うが気障な仕草で片目を瞑り、郁弥様が落ちられたと見られる辺りに置く。
 今日は何故か風がない。飛んで行きはしなかった。
「クラスの有志より。一人一本。……本当のところは花屋が遠過ぎてな。手近過ぎて、あいつ、怒るかもな」
「いいえ……兄さんも喜んでいる事でしょう」
 仲矢は随分長い間手を合わせ、郁弥様の為に祈っていた。

 仲矢はおれ達がどんなに二人だけの世界を作っていても、必ず踏み込んで来る奴だった。
 ……郁弥様の事が好きだったのだろう。

 女性との出会いの場が少ないから、手近で手を打とうとする人間はそう少なくない。
 そうでなくても、郁弥様は本当に人目を惹き付ける方だったから交際を申し込む人は多くいた。
 ……仲矢も背が高くて男らしい精悍な顔立ちをしている。
 本当は、おれより仲矢が側にいた方が絵にはなっただろう。

「何をお祈りしたのですか」

「……なあ、佐藤」

 昭隆様を無視しておれを振り返る。
 顔が真剣だった。
 気圧される。
「……何?」
「お前、この間、郁弥が死んだ時、誰か屋上に上がるのを見なかったか、って言ってたよな」
「何か、思い出したのか?」
 詰め寄ると、少し困った様な顔で見詰め返された。
「お前さぁ……郁弥が死んだ時……」

「だから、何か知ってるのか?」

 おれの問いかけに、仲矢は意外そうな表情をした。
 口を開きかけて止める。
 そして、少し考える様な様子を見せた。

「……いや………………やっぱいいや。邪魔したな」
 仲矢ははぐらかすと踵を返し、軽く手を挙げて去って行った。

「何だったのでしょうね」
「さあ……」
 何か…………本当に微かだけど、黒い靄(もや)の様な不安感が過ぎる。
 結局、あいつは何を言いたかったのだろう。

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