突然仲矢の重みが消えた。
恐る恐る目を開ける。
横に、仲矢が転がっていた。
しかし、視界の明かりは遮られている。
上目遣いに見上げる。
「大丈夫ですか、寛希」
「……あ……昭隆……様……」
昭隆様が手を伸ばして下さる。
とにかくこの場から逃げたくて、その手を取ろうとした。
と。
全く別の処から手が伸び、それを遮る。
「仲矢……」
「佐藤、そんな手、取るんじゃない」
「そんな、とは言ってくれる」
紅くなった頬を押さえながら仲矢は立ち上がった。
何度か頭を振り、昭隆様とおれの間に立ちはだかる。
……昭隆様が殴ったんだろう。
おれが殴った時とは明らかにダメージが違う様だ。
「寛希に何をした」
「お前だってやってる事だ」
「寛希、こちらへ」
行きたいのは山々だけど、二人の気迫に押されて足が立たない。
「お前の処に戻るのは厭だってよ」
「寛希、いらっしゃい」
声が冷気を帯びる。
気迫より何よりそれが怖くて、這いながら昭隆様の足の陰に入った。
「佐藤!」
……仲矢に咎められても困る。
昭隆様の足に縋り付く。
確かな存在が嬉しくて、昭隆様を見上げた。
昭隆様は満足そうに微笑み、おれの手を放させた。
不安になってお顔を見詰める。
でも、昭隆様の瞳と合った途端、全て氷解してしまった。
ほぼいつも通りの昭隆様。
瞳に自信が満ちている。
「いい子ですね。少し離れていなさい。怪我をしてはいけませんから」
優しく頭に手が触れる。
「……はい」
まだ足は立たない。
そのまま這い続けて離れる。
黒のズボンがどんどん汚れて行ったけど、他に手がない。
「さて、寛希を散々可愛がってくれた礼をしなくてはな」
「何を言ってる。主従関係なんて持ち出して、佐藤をいいようにしてるくせに! その上、自分の取り巻き程度も抑えられない野郎が! お前なんかに佐藤を任せられるかっ!」
「……何の事だ」
仲矢は呆れた様に舌打ちをした。
「何日か前、お前の取り巻きが佐藤に怪我させたのも気付いてねぇのか。……マジでお前、佐藤をどうこういう資格、ねえぜ」
地を這う声音。
昭隆様は一瞬、確かめる様におれを振り返られた。
あの時、昭隆様に嘘を付いたのはおれだ。
そう思うと、身体を縮まらせるしかない。
おれのそんな様子を見て、何かを悟られたらしい。
仲矢を振り返られる。
「佐藤を怯えさせてどーすんだよ。結局お前には、所詮、権威を笠に着る事しか出来ねぇんだろっ!」
「聞き捨てならないな」
昭隆様が軽く指関節を鳴らす。
それを期にか、まず初めに手を出したのは仲矢だった。
それを受け流して昭隆様が拳を繰り出す。
暫く鈍い音が続く。
おれは……情けないが、目で二人を追うのが精一杯だった。
何発かずつは、双方とも食らったのだろう。
しかし、先に床に沈んだのは仲矢だった。
昭隆様もよろよろしていらっしゃる。
ダメージはかなりあったらしい。
それでも、転がった仲矢を無視しておれの処へ来て下さる。
伸べられた手を取り、立ち上がる。
……うん、大丈夫。そろそろ歩ける。
「大丈夫ですね、寛希。帰りますよ」
「はい。……でも、昭隆様こそ、大丈夫ですか?」
「ええ……慣れない事をしたもので」
口の端に血が付いている。
慌ててポケットを探り、ハンカチを当てた。
「無茶をなさらないで下さい」
「貴方がそんなに心配してくれるなんて……偶には怪我もしてみるものですね」
「そんな事仰って……」
「さ、帰りましょう」
「……ちょっと待って下さい」
仲矢をこのままにはしておけない。
「そんなの、放っておきなさい」
「出来ません。クラスメイトですから」
呆れた様な溜息を背で聞きつつ、仲矢に駆け寄る。
「ごめん、仲矢」
仲矢は仰向けに寝転がって、おれを見上げる。
「……本当にそいつでいいのかよ」
「うん……多分」
「俺より?」
「……やっぱりどうしてもお前に抱かれたいとは思えない。なぁ……クラスメイトで……友達でいてくれ。抱かれたくないけど、お前の事は好きだから。だから…………」
そう言うおれから顔を背け、目を閉じる。
口から、長い溜息が洩れた。
「ごめん……」
「…………もう行けよ。昭隆が待ってんだろ」
「うん……でも……」
「俺も直ぐに帰るよ」
「……うん……」
振り返り振り返り、昭隆様の処に戻る。
「もういいですね」
「はい。お待たせ致しました」
お腕の中に抱き込まれる。
「……もう二度と、誰かと二人きりになってはいけませんよ」
「申し訳ありません……でも、昭隆様、どうしてあんな処に…………」
「貴方の姿が教室になければ、お手洗いか屋上しかないでしょう」
お叱りが怖くて声と身体が震える。
しかし、昭隆様は口調を荒げられる事もなく、冷たくなさる訳でもなかった。
「……貴方が僕を選んでくれて、心の底から安心しました」
手を引かれ、ゆっくりと階段を下りる。
握り合ったお手が、微かに震えていらした。
そうして、安堵されている事におれ自身、何故かほっとした。
「……おれには、郁弥様と貴方の他、誰を選ぶ事も出来ません……」
自分から絶てる絆なんてない。
「貴方という人は…………分かっていないのでしょうが、凄い殺し文句ですよ」
溜息を吐かれる。
……呆れられたのかな。
「別に……そういう意味で言った訳では……」
「いえ…………嬉しいですよ」
仲矢より昭隆様に抱かれたいとか、そういう事じゃない。
ただ……これ以上、櫻本家との繋がりが希薄になるのが怖かった。
そして、幼い頃からずっと側にあった存在が別の誰かに変わるというのも……受け入れ難い。
……変化は嫌いだ。状況が変化する度、全てが悪化する様な気がするから。
告白と受け取られても仕方がない事を言ったとは思うけど、どうしても他の言葉は浮かばなかった。
ただ、先日昭隆様が仰っていたのと同じ…………おれも、これ以上何も失いたくない。
「貴方の事は、ちゃんと分かっているつもりですから。……貴方が無意識だと言う事も、ちゃんと」
子供にする様に、頭に手が置かれる。
でも、それさえ厭だとは思えない。
昭隆様がいなくては、自分一人の事さえ何も出来ない。
それを痛感させられたばかりだからだろうか。
昨日は……あれだけ、対等でいられたと思ったのに……。
考えに集中したくて、昭隆様から目を反らせ、窓の外に目を遣る。
……あ、あれ?
「あの、昭隆様……?」
気付けば必要以上に階段を下りている。
おれの教室は七階。昭隆様は六階。そして今は四階……。
「何ですか」
「あの、どちらに」
「寮です。……部屋に戻りますよ」
「でも、授業が」
「…………そんな姿で出るつもりですか」
引き千切られたシャツを指される。
あっ……。
昭隆様から手を放し、慌ててシャツの前を掻き合わせる。
「キスマークまで付けて……貴方に興味がない人達まで、誘惑して回るつもりですか」
「そんなっ……つもりでは…………」
顔に血が上る。
耳まで熱い。
「……でも、昭隆様は」
「僕の事はいいでしょう。一度や二度や三度…………ま、まあ、授業なんて出ても出なくても、あまり関係ありませんから」
……う〜〜ん。関係なくはないし、良い事でもない筈だけれど……昭隆様だったらおれと違って大丈夫なのだろうな。
授業を聞いていらっしゃらなかったり、サボったりしていらっしゃっても、成績上位者に名前がなかった事なんてないのだから。