どれくらい時が過ぎたのだろう。
何度かチャイムを耳にした様な気もする。
だけど、昭隆様は全くの無反応で……おれにもこの方を突き放す事なんて出来なかった。
結局昼食を食べ損ね、午後の授業も行き損ねてしまった。
そろそろ陽も傾きかけて、肌寒くなりつつある。
「昭隆様、そろそろ戻りませんか。このままでは風邪を引いてしまいます」
「…………」
「昭隆様……?」
「………………ええ。あの……でも、まだ貴方と離れたくない。今日は、貴方の部屋に泊めて下さい」
調子は取り戻せていないらしい。声が掠れている。
「いいですよ。どうぞ、いらして下さい」
「ありがとう……」
どちらからともなく緩やかに腕を解いて手を繋ぎ、おれ達は寮へ戻った。
一瞬だけ教室に起きっぱなしの鞄や今日の宿題が気になったけれど、今はそんな事より昭隆様の方が大切に思えた。
「大丈夫ですか、昭隆様」
「ええ……何が、ですか?」
「ええと…………とても、お辛そうに見えるから……」
正面から尋ねられると、明確に返せない。
何かがとても変だが、はっきりとした言葉にはなってくれなかった。
「お砂糖とミルクはお一つずつですよね」
好みを知らない筈もない。
お返事を伺う前にさっさと入れてしまう。そして、自分のカップにはその倍を。
面倒だからインスタントのコーヒーをまとめて煎れたけれど、本当は苦くてあんまり好きじゃない。これは昭隆様用だ。
部屋に置いてある電動ポットでお湯を注ぐ。
軽く掻き混ぜて、カップの一つを昭隆様に渡す。
昭隆様は目を伏せたまま受け取られた。
「……貴方はいつも優しいですね。何故ですか」
「そんな事聞かれても……」
「僕はこんなに醜く卑しいのに」
「昭隆様?」
本当に変だ。
昭隆様がそんな事を仰るなんて。
いつだって自信に溢れて、自分の価値を十分にご存じで……なのに、どうして?
「聞いてくれますか?」
好奇心が先に立つ。
直ぐに頷いて見せた。
うわぁ……こんな表情でも微笑まれるのか。
見た事もない表情。
ひどく頼りなくて……郁弥様の笑顔を思い出した。
そう……半分は血が繋がっていらっしゃるんだから、少しくらい似ていても当たり前なのだが。
余りにもお顔の造作が似ていらっしゃらないから、意識した事なんてなかった。
昭隆様はらしくなく、ぽつりぽつりと話し始めた。
「兄さんが亡くなった時……僕は正直言ってほっとしたんです。これでもう……あの人の苦しむ姿を見なくても良いのか……と。勿論、生きて、身体を治して……そう心の底から願ってはいたけれど、それと同じくらい、絶望感もあった。貴方も知っている通り、兄さんの身体は年を負う毎に弱って……だから、確かに、僕は兄さんが死んで…………嬉しかったのかも知れない。誰かが、僕の為に…………いえ、兄さんの為に殺してくれたのかも知れない…………兄さんを殺した事を憎む気持ちと同時に、どうしても、感謝をしてしまう。貴方は…………どうでしょうか」
郁弥様を殺した人間に、憎しみを抱きながらも感謝する…………。
分からない……とは言い切れない。
許せないのは勿論だけど……これで、郁弥様はもう苦しまれる事がない…………そう、全く考えなかった訳ではない。
「ひょっとしたら、犯人は誰よりも兄さんの事を想っていたのかも知れない……犯人探しに躍起になればなる程、そう思えて来て……でも、そう考える事で逃げているのだという事は分かるから……だから…………」
お声が詰まる。肩が震えていらした。
どうお声をかければいいのか分からなくて、コーヒーに口を付ける。
「誰かを憎むのは……疲れますね」
「はい……」
お言葉にただ頷く。
仰る通りだ。
だからおれは、昭隆様の事も、憎むより諦めたのだから。
昭隆様はぐっとコーヒーを煽って、床に置かれた。
俯いた額に掌を押し付け、前髪を掴む様にされている。
「貴方がいてくれて良かった……」
そう仰いながらも、安堵からは程遠い様な声音だった。
「……いてくれて良かった……」
まるで、ご自分に言い聞かせていらっしゃる様だ。
おれも、カップを少し離れた床に置く。
そして、おれは……
無意識に昭隆様に腕を回していた。
驚いた様に顔を上げられる。
どうして差し上げれば、昭隆様が楽になれるのか……見当も付かない。
ただ……おれには、こんな行動しか思い浮かばなかった。
「寛希…………」
昭隆様からも抱き返される。
そうして回された手で顎を掬われ、静かに唇を塞がれる。
「ん……」
いつもの様な剥き出しの欲望も、荒々しさもない。
この方に求められているのに、嫌悪感を感じられない。
舌を絡められても、口腔を辿られても、厭じゃなかった。
とても優しい。
偽善なのだろう。
でも……こんな状態の昭隆様に、この他に何もして差し上げられない。
この方は、おれにとって……主であると同時に、弟であり、兄でもある。
櫻本の方々以外に、おれに身内と呼べる人なんていないのだから。
程なくして離れられる。
伝う唾液を舐め取られた。
繰り返し……繰り返し。愛おしむ様に。慈しむ様に。
こんな風にされるのは初めてで、どういう反応を返せば良いのか見当も付かない。
込み上げるのは嫌悪や不快感ではなく、不思議な程優しくて温かい何か。
身体ばかりが高められるのではなく、内側からしっとりと潤んで来る様だ。
性感などとは全く違う、それでも堪らない心地良さに身を委ねる。
気持ちいい…………。
「寛希……ベッドへ」
「はい」
自分でも驚く程素直に頷いてしまう。
緩慢な動作で立ち上がり、二人、崩れる様にベッドへ横になる。
唇が首筋に落ちる。
辿る。
舐める。
気持ちが弧を描いて高まって行く。
「あぁ……」
吐息とも喘ぎともつかない声が洩れる。
ゆっくりと顎を仰け反らせた。
おれ達の間に漂うものより、少しばかり密度の薄い気がする空気を貪る。
辿る順序だけはいつもと同じ。
まるで儀式の様だ。
首筋、耳朶、鎖骨、胸、腹……。
「っ! ひ……ぁ……」
熱いものが股間に触れる。
それが昭隆様の呼気だと気付けく前に、更なる強い刺激に見舞われた。
信じられない。
昭隆様に……銜(くわ)えられるなんて…………それまでの手順に安心して任せ切っていたからか、痛みを感じる程急に張り詰める。
「あっぁ……や……────」
厭だと叫びそうになり、慌てて口元を覆う。
駄目……今の昭隆様を突き放しては……。
恥ずかしさが先に立ち、声を堪えようと指を噛む。
しかし、手首を掴まれて口元から引き剥がされてしまった。
逆らい難い力で。
でも、やっぱり……今までとはまるで違う。
仕方なく何処かへ感覚を発散させたくて、昭隆様の頭に手を遣る。
しかし、緩急を付けて攻められては為す術もない。
強過ぎる刺激が辛くて、やっぱり引き離そうとしてしまう。
でもそれもなかなか上手くは行かなくて、ただ昭隆様の髪に指を絡めるしかない。
急速に昂ぶって行く。
させられる事は多くあっても、されるなんて……。
「だっ、駄目……っ!」
限界が近い。
昭隆様のお口の中でなんて、そんな……そんな事……出来ない。
「放して……」
弱々しく制止する。
きっと聞こえていらっしゃるのだろうが、聞き入れては下さらない。
「あっ、あぁっ……はぁっ!」
ぎりぎりで踏み止まってしまったその時、突然強く吸い上げられた。
余りに急で構えも出来ず達してしまう。
「あぁ…………ふ……」
根本を扱き上げられ、絞り尽くされる。
太腿がびくびくと引き攣る様に震えた。
手が強張ってしまっている。
昭隆様の髪をそれは強く掴んでいた。
こくり、と昭隆様の喉が鳴る。
微かな音の筈なのに、やけに鮮明に聞こえた。
全身が火照る。
羞恥と、それだけではない……まだある筈の続きへの期待に鼓動が跳ね上がっている。
「寛希……」
漸くそこから顔が離れ、汗ばんだおれの額に手が伸びる。
長めの前髪を掻き分ける様にされて、額に口付けられた。
啄む様に繰り返されながら、再び唇に。
先程とは味が違う。
何だか生臭い。
それが先程昭隆様に飲まれてしまったものだと気付くには、少し時間がかかった。
あんな不味いの、どうして好き好んで……。
何度も抱かれている筈なのに、慣れない事ばかりで戸惑う。
でも全てがひどく優しくて、いつも以上に拒む事も逃げる事も出来なかった。
すっかり脱力して無防備になる。
昭隆様に足を抱え上げられても、されるがままだ。
体育程度の肌露出なら見えないであろう辺りには、幾つもの紅斑が散らされる。
これも……違う。
昭隆様、おれが困ったり恥ずかしがったりするのがお好きな筈なのに……。
こんなに優しくして下さるのなら……受け入れてもいいかも知れない、なんて思ってしまいそうだ。
おれが何かを差し上げられるのなら。……忘れがちだが、昭隆様だっておれと同い年なんだ。
むしろ、数ヶ月はおれの方が年上なくらい。
自分の事が先立ち過ぎて念頭になかったけれど、昭隆様だっておれと同じ。
最愛の方を亡くされたのだ。
無理をしてまでおれを支えようとして下さって……こんな形でしか、おれには何にもして差し上げられないのなら……。
後の穴で、解す様に舌が蠢いている。
歓喜と期待に全身が震えた。
「昭……隆さ……っぁ……」
自分の若さが残酷だ。
前戯だけで再び勢いを取り戻しつつある。
達したばかりだから直ぐにという訳ではないけれど……だからこそ、螺旋の様に緩く、緩く……追い上げられて行く。
必要以上に感じている。
昭隆様の存在、感情……身体。
苦しくないと言えば嘘になる。
でも……それ以上に、今は昭隆様に抱かれたかった。
おれもまた餓えているのだろう。
優しさと温もりに。
「ぁ……ん……」
昭隆様に足を擦り寄せる。
次々に生み出される甘い波紋に、少しずつ思考が侵されて行く。
いつまでもこんな緩やかな愛撫が続けばいいと何処かで感じると同時に、もどかしくて仕方なかった。
いつの間にか慣らされ過ぎているからなのだろうな……。
「少し力を抜いて下さい。……できますね?」
頑張って言葉に従う。
しかし、そこに指を宛(あてが)われ、分かっていても身体が竦んだ。
股間のものも僅かに萎える。
「寛希……いい子ですから」
子供をあやす様に言われてもやっぱり出来ない。
慣れている筈だし、今は昭隆様を拒むつもりもないのに……でも、どうしても……。
戸惑っていると、再び前に長い指が絡んできた。
「ふぁ……」
「そう……よく出来ましたね」
額や頬に何度も唇が触れる。
余りに優しく温かいもので、緊張が解け始める。
ゆったりと身を任せ、目を閉じる。
大丈夫。大丈夫だ。怖くない。怖く……。
「っや……ぁ……」
つぷり、と指が埋められたのが分かる。
必死で力を抜こうとする。
今日は、きっと大丈夫。
厭じゃない。
怖くない。
何度も自分に言い聞かせる。
そう……心は、ちゃんと昭隆様を欲しがってる。
だったら出来る筈だ。
入り口で抜き差しが繰り返されている。
直ぐに物足りなくなって、促す様に腰が揺れた。
「……昭隆様……もっ……と……」
言った後で、余りに台詞に顔から火を噴きそうになる。
けれど、昭隆様はそれを茶化す訳ではなくおれの顔を見詰め、ひどく複雑な微笑を浮かべた。
純粋には嬉しがっていらっしゃらない。
……何処か悲しそうだ。
埋められたまま、指の動きが止まる。
「貴方から……初めて望んでくれましたね」
……いつもは、「厭です」「やめて下さい」のオンパレードだからな……。
でも、これだけこの行為に慣らされていれば、精神的苦痛の関係ない状況なら求める事だってある。
「ありがとうございます。僕を……ちゃんと受け入れてくれて……」
「ふっ……くぅ……」
二本……はあるか。
指が一気に奥へと押し込まれた。
腕を伸ばし、昭隆様を抱き寄せる。
何度か抽送をした後、中で曲げられた。
「ぁあ…………ん……」
おれのいい処を知り尽くしている筈の指が、微妙にポイントを外す。
「……ぁう」
指が広げられる。
圧迫感に喘いだ。
そのまま出し入れを…………。
そこでやっと、昭隆様がおれを焦らそうとなさっている訳ではないのだという事に思い至る。
こんなにちゃんと解されるなんて、初めての時以来だから……焦らされるのはいつもの事だけど、久々過ぎて物足りない。
「もっ……来て下さ…………」
こんな行為の最中でも、正気でいられる自信はあった。
昂ぶるのは身体だけ、そう高を括ってもいた。
なのに……。
膝に昭隆様の髪が触れている。
時折、熱く荒い息も触れる。
それだけで苦しくなる。
はやく、もっと……。
もっと深く来て欲しくて、縋る腕に力を込める。
膝を合わせる様に、昭隆様を更に引き寄せる。
「もう一度……イきますか?」
絡んだ指がそこを扱く。
今にも達しそうな程感じ切っていたが、おれは強く頭を振った。
「一緒に……ぉ……ねがっ……」
片腕で昭隆様を引き寄せたまま、もう片方で昭隆様の手をそこから放させる。
触れられ続けると、自分一人が先走ってしまいそうだ。
一緒に昇り詰めたい。
一人だけイかされるのは厭だ。
だって……今、おれ達はちゃんと……愛し合えてる。
その実感を、もっともっと確かなものとして感じたい。
「いいですよ。僕も、もう……限界だ」
そして、ゆっくりと大きな身体が覆い被さる…………。
「うっ……くぅ……っ!」
押し開かれる圧迫感。
しかし、痛みは驚く程少ない。
呼吸はぴったりと合っているし、何より、おれ自身力が入っていないからだろうか。
身体も心も強張る事ない。
「大丈夫ですか」
気遣われる昭隆様の呼吸が荒い。
そうさせているのが自分だと思うと、何故だかひどく嬉しくなった。
昭隆様のお顔に手を這わせる。
そして引き寄せ、口付けた。
「っん…………ぁふ」
合わさった唇の間を縫い、濡れた音が立つ。
昭隆様の呼吸ごと喰らい尽くしてしまいたい衝動に駆られ、尚更深く噛み付いた。
……こんなに誰かを求めた事なんてない。
ただ、この身体という境界線さえもなくしてしまいたい。
この繋がった部分から、触れた皮膚から、全て溶け合って、混ざり合って…………。
そうして一つになってしまえれば、おれの不安も、昭隆様の不安も、全てが消えてしまうだろうに。
後ろで蠢く昭隆様が、尚の事奥を貫かれる。
思わず昭隆様の唇から離れ仰け反る顎に、昭隆様の舌が這う。
晒された喉に強く吸い付かれる。
「あっ……やぁ……」
ぎりぎりまで引き抜かれ、再び穿たれる度、奥へ奥へ…………。
「は……ぁ…………っ!」
激しく求められている。
虚ろにしか開けられなくなった目で、昭隆様を追う。
初めて見る表情。
お顔が上気して、前髪からは汗が滴っていた。
おれが……この方をこんなに感じさせているのか…………。
郁弥様への想いとは全然違う。
でも……それでも、愛しいと思える。
昭隆様の動きに合わせて背を走り抜ける快感。
強い衝動に突き動かされ、頭も心から痺れてくる。
「寛希……寛希……」
譫言(うわごと)の様に名前を呼ばれる。
もっと、と頭を抱き寄せる。
「っつ……」
首筋に歯が立てられる。
獣じみた行動も、今のおれ達らしい。
「貴方は…………」
お声は聞こえるけれど、それは意味を成す前、細波の様に押し寄せる快感に掻き消されて行く。
「たとえ……貴方が兄さんを……」
「ふぁ……あ……」
びりびりと背を駆け抜けて行く感覚に涙が溢れる。
おれを知り尽くしている熱い固まりが、何度も繰り返し、一番感じる処を貫く。
昭隆様は……何を仰っているんだろう。
でも、もう……聞こえない…………。
強く昭隆様を抱き締める。
も……限界…………。
「昭隆様、昭隆様……あきた……か……ぁああ──────……っ!」
寄せる細波が、そのうちに津波となり、おれの思考の全てを押し流して行く。
意識がふわりと宙に浮く。
何処かにそのまま投げ出される。
落ちて行く瞬間、誰かの声を聞いた気がしたけれど、全く認識出来なかった…………。