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絵:
ゼネテス  レムオン  セラ

小説:
レムオン  /  ゼネテス        /  ベルゼーヴァ     /  セラ    


   一番大切な存在が、いつから入れ替わっていたのだろう?

「あなた、お茶が入りました。」

 静かで優しげな声に、宰相閣下が視線を上げた。
そこにいたのは、落ち着いた森色の服で身を包んだ日差し色の髪の女。彼女が身にまとっているのは確かに軍服に近いデザインなんだけど、高級仕官だけじゃなく役職者の中に入っても異彩を放つ。
ディンガルの国の制服の色は、深い紫と黒に少しのアクセントの金。宰相閣下ですらそう。
だけど森色の緑が基調の彼女は、いるだけで目立つ存在だった。
「もうそういう時間か…」
 宰相閣下がペンを置いて顔を上げる。
「一服したら査察に出るつもりだが、君はどうする?」
「ご一緒します。」
「やれやれ…君はまるで子どもだな、私という親から離れようとしない。」
「いいえ、好きな人から離れたくないと思うのは子どもというより女そのものでしょう?」
「…言ってくれるな。」
 ここは間違いなく軍事国家の宰相の執務室だというのに、中で交わされる会話は到底それにふさわしいとは思えない。けれど、若き宰相閣下の薄い唇は嬉しそうに笑顔の形にゆるんでいた。

 数年もの間交戦状態にあったディンガル帝国と貴族政治のロストールが停戦条約を結び、程なくディンガルに新しい皇帝が立ち、ほぼ同時にロストールの貴族の子女とディンガルの若き宰相が婚約を結んだ。
対立していたふたつの国のやんごとなきご身分の男女の婚約話はいかにも「和平の象徴」のように祭り上げられて、眉目秀麗な若き宰相と国を傾けかねないとさえ言われた美姫はお互いに収まるべき場所に収まったかのように見えた。
良くある政略結婚らしき影は微塵もなくて、冷酷とすら陰口を叩かれていた宰相閣下が婚約者に、しばしの時を置いて妻になった女性には甘い顔も微笑みも見せるし、笑顔が輝くかのような美しい姫君はたいてい笑っているから彼女が通った後は空気が気持ちの分だけやわらかくなっている。
 今だってそう、妻となって間もない愛する女を伴い市街地の視察を行う宰相閣下は確かに仕事をしている横顔なんだけど、付き従い夫の仕事を支える妻は市民にもよく知られた顔で、人気も高い。
とっつきにくかった宰相閣下がほんの少し身近になったと、兵士たちの影の評判も上々の様子。
「ふむ…魔道アカデミーではなく、一般の学校も必要なところだな。
 シルマリル、君はどう思う?」
「え?」
「学校をひとつ構えるとなると、財源だけではなく職員の問題も出てくる。
 君は以前アカデミーの門戸は開かれているようで敷居が高いといっていたではないか。」
 数人の兵士に護衛されながら、宰相閣下が妻に問いかける。
彼女は美しいだけのお飾りの貴族の子女ではなく、ロストールでは軍の副指令として自らも戦場を駆けずり回り、上官である総司令とともにディンガルの軍勢を幾度となく追いつめるほどの活躍を見せた。
彼女はむしろ軍事行動よりも内政に長けている節があり、そんな有能な人物を要人の妻というだけで眠らせておくような国ではなかった。表舞台に引っ張り出したのは、他でもない夫とその上役、この国の頂点でもある美しい女帝陛下。
「君がアカデミー出身なら誰にも異議など唱えさせずに学長に据える所なのだが、ディンガルにも頭の固い連中がいないわけではなくてな。
 ロストールの箱入り娘を私の妻というだけの後ろ盾で要職に据えると後々うるさくもある。
 …たとえ誰の妻や娘であろうと、無能な者を要職に据えるはずもないのだが。」
「箱入り娘、ですか。」
「表向きはそうなっている。今さら君がミイス村の出身で貴族ではないと暴露しても何の得もないだろう。
 そのようなことは私が知っていればそれでいい。」
 冷酷そうな表情の起伏に乏しい様子を見せながらも、宰相閣下の独占欲は人一倍。
結果重視の彼は結局敵国から愛してしまった姫君を奪い取った、「彼女を自分ならば守り通せる」の意志を貫いて今彼女を妻にし伴い働いている。実力重視のこの国で、姫君が貴族ではない、小さな山村の出自だとこのような誰が聞いているかわからない場で語ろうと、彼女が相当の実力者で実は夫に負けず劣らずの辣腕だという事実には翳りなどない。
ロストールでも何度となく疑惑をかけられながらも、それを吹き飛ばすほどの有能ぶりで頭が固い貴族連中の反論すべてを封じてきた。…上官でもあったかの国の総司令が彼女を手放すのを相当に渋ったんだけど、彼女を国に縛る約束の言葉をどうしても言えなかった彼が部下を止めることは結局出来なかった。
 彼女は有能な人物である以前に女、早々と率直に己の胸のうちを吐露していた宰相閣下の気持ちにこたえた。有能な男がすべてを預け弱い自分を見せる姿は、母性をくすぐられるものでいつからか放っておけなくなっていた。
「君は私の補佐に回ってばかりだな。
 それでは君が有能だとどれだけ私が声高に主張しようと、雑用しか出来ない女と言われたら反論の余地もないではないか。
 あのゼネテスの副官も務めていた君が、ディンガルを何度も追いつめた君が無能なはずはないということ、少し考えればわかろうものを…」
「私は誰かの雑用が一番性に合ってるんですよ。
 それに、忙しくなったらあなたの奥さんでいることが難しくなるじゃないですか。
 私は出世なんてどうでもいいんです、あなたのお手伝いが出来ればそれで充分。」
 苛ついたかのような珍しい宰相閣下の愚痴に、妻はなだめるみたいに笑った。部下たちから見て、そんな若夫婦の姿は微笑ましくすらある。
少々性急な横顔を見せる夫とおっとりのんびり構えている妻は実に好対照で、人間味薄かった男が身近に感じられるようになったのはそのあたりだということ、夫だけが気づいてない。
「学校だってそうですよ、勉強できる人が競い合って才能を磨くアカデミーとは違って、必要なことを勉強するための学校なら少しのんびり構えてるぐらいでちょうどいいんじゃないですか?
 私みたいに、せっつかれると慌てちゃう人ってきっといると思います。」
 彼女ののんびりした物言いに、護衛の兵士がつい吹き出した。そんな部下の様子を夫がじろりと肩越しに視線を移す。
そんな上官の様子に兵士がビクリと姿勢を正したけど、彼は別に怒ることもせずに鼻だけで軽いため息をついた。…事実、彼だって妻はずいぶんのんびりというか気が長いと思っている。
それでも彼女を秘書に、副官に据えて夫の仕事の能率はさらに上がった。彼女は亭主の個人的な都合で、仕事の時だろうとそばにいる奥方とは一線を画している。
名実ともに虚より実を取る男、無駄なことはしないだけはある。
「せっかくだから中をのぞいていく。」
 そう言ってさっさとアカデミーの門をくぐった夫の背中を見ながら、妻はにこにこ笑っている。
「ごめんなさい、難しい人で。
 あんな人だから副官は私でないと多分ダメなんですよね。他の人だったら過労で倒れちゃう。」
「い、いえ、我々は」
「いいんですよ、はっきり言っちゃって。私ならちょっと手を抜いてもにらまれるだけですみますし。
 仕事が出来る男というのも考えものですよねー。」
 少し向こうを振り向かずに歩いている広い背中を見ながら、彼女は笑いながら護衛についている青年士官たちに労いの言葉に近い陰口を叩いた。それは自分の有能さを振りかざすようなものではなくて、叱られるんだったら自分が適任というどこか可愛さらしささえ感じさせる言葉だった。
そんな彼女を、憧れの眼差しで見つめる若い男は数多くいる。
部下たちが上官に向かって言いたくてもいえないことを、その妻がさっさと先に言ってしまうから、部下たちは苦笑いだけでまた仕事に戻れる。

「シルマリル、何をしている。私ひとりで眺めても何にもならないだろう。」

「…はいはい。」
「返事は一度。」
「はーい。」
 そして夫は妻が陰口を叩いていることに気づいていて、しかし気にしてないような顔で隣に来るように促す。やりにくいことにうまいところ従順な彼女は特に逆らうそぶりも見せず、にこにこ笑いながら夫の下へと歩き出した。当然彼女を囲むように、若い兵士たちがともに動き出す。
 そんな彼女の様子を見ながら、宰相閣下は失ってしまった親友の顔を、立ち姿を思い出している。
彼を失った代わりに得た宝物、親友は過ぎた力を手にしていたため自ら姿を消し旅立っていった。
けど、彼女も過ぎた力をその小さな体に内包しながら、愛した男のそばにあることを望み封じてしまい、のんきで頭がいいだけの小さな女になってしまった。
 しかし、夫はそんな彼女だからこそ守りたいと望んでいる。
利用される目的で造られた命の自分に、男としての感情を吹き込んでくれた彼女だから、守りたい。
その手で世界の守護者、竜すら、神すら屠る力を、彼女は愛する男のそばにあることだけを望み封じ込めた。
その気持ちの強さが、彼の求めるものの答え。彼女はもう、彼女の象徴でもある金色の弓を引くことはないだろう。
それでも夫は、彼女を守った双剣を腰に下げ続けている。

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